引揚げ情報


 


時期 内容
昭和20年8月15日 終戦 天皇陛下の終戦の詔勅放送
昭和20年8月24日
鳴沢集落の引き揚げ
昭和20年9月 北枯丹集落の引き揚げ
昭和20年11月14日 泊皿集落の引き揚げ 160人脱出
昭和23年  

 

 

鴎沢襲来の引き揚げ

  • 8月15日の終戦の知らせで海馬島の島民も混乱していた。鴎沢の部落会長は早くに老人、婦人や子供達を日本に
    送り返そうと立ち上がり、島にあった漁船3隻で8月24日に出発した。
    その後稚内からチャーターした漁船は、数日後鴎沢沖に碇泊した。その晩は番屋で最後の酒盛りを十人で一夜を明かした。
    ところが朝になって「ソ連軍が中央に入ってきた!」との電話が入り、何も持たずに漁船に飛び乗った。
    前日浜に下げ置いた食料や衣類も持たずに。稚内埠頭の大きな倉庫には、行き場のない引き揚げ者が
    大勢詰め掛けていた。先着していた家族は、食料や衣類を待ち望んでいたが、手ぶらの姿を見て
    落胆した。着の身着のまま無一文となり、稚内で再出発となった。
    結局鴎沢の部落民だけでなく、ほとんどの島民は、命かながら無一文で引き揚げとなった。
  • 引用:遥かなる海馬島 吉田礼三さん 小林与一郎さんの父野手記より

 

北古丹集落の引き揚げ

  • 8月15日の終戦の知らせを聞いた翌日から通信は途切れた。
    海馬島は大きく3区に分かれていたが北古丹では島田旅館に陸海軍、警察、村長、村会議員などが集まり、
    一日も早く脱出することを決めた。しかし陸海軍の中尉と軍曹の2名は反対し、
    命令に従わなければ殺すと言い出した。8月18日高木政雄村長は陸軍に、漁業組合の金を使い込んだとの理由で逮捕され、
    崖の壕にロープで結んで放り出された。何とかロープを解いて逃げた。村民は村長を探し出し、
    逆に兵隊どもを撃ち殺してやると殺気立つ。8月14日に稚内から海軍の引き揚げ船が来たが、
    海馬島を死守するんだという。やむを得ず少量の荷物を積んで船は出て行った。海馬島は1000人ほどが住んでおり、
    2年分の食料は備蓄されている。利尻島からも一刻も早く食料を持って引き揚げるようにと船が来て女子供100人が乗っていった。
    陸軍はまだがんばっている。すでにソ連軍は海馬島の沖合いで停泊していたが、9月4日稚内からの発動汽船4船のうち
    1艘は船入潤に入ったところでつかまった。
    ソ連軍は、港の上の高台にあった村役場に陣取り、島に残っている島民を毎日監視していた。
    9月5日夕食をとっていたソ連軍に冬眠は兵士に酒を振舞い、深夜寝静まったのを見計らい、港近くの小島の裏に停泊していた漁船へ
    乗り込み、70kmはなれた利尻島に向かった。宗谷海峡にはソ連軍の軍艦や潜水艦がいたらしい。
    翌日には稚内港に無事到着した。9月には結局全員無事に引き揚げ、残りは灯台管理人だけであった。

    引用:昭和44年1月1日 樺太新聞”恐怖の海馬島 竹田正雄”より
    引用:平成10年8月9日 北海道新聞 "'98ナツ消せない記憶 中 生命線の残骸”より
  •  

泊皿集落の引き揚げ

  • 終戦を終えこの島もソ連兵による監視下に置かれていた。
    その時、海馬島の泊皿には35戸160名が、まだそっくり残っていた。島の西側北東の集落で、いつも強い風が吹いていた。
    多くは親類、親戚でなす部落であった。
    大きな港はなく、磯舟でしか脱出は出来ない地域である。
    ソ連軍(ロスケ)25名ほどが駐屯し、部落には朝から夕方までいる。
    泊皿で小さな日用品の雑貨屋であった我が家には、よく土足でロスケが家に上がりこんでいた。
    味噌や米びつを床に隠し、父は仕入れで本斗へ行っているので不在がちであった。
    島のことを地図を持ってきて聞きに来ていた。もちろん母は怖がって近寄らない。
    ただ私たち子供にはとてもやさしく接してきた。
    ある日、妹を連れて畑に芋を採りに行った。その芋を持ってロスケの駐屯場所に恐る恐る持っていった。
    もちろん言葉は通じない。ロスケは芋をわざわざ持ってきてくれたこと非常に喜んでいる。、
    入り口のテーブルに私たち2人を座らせて、何か一生懸命しゃべっている。驚いたことに湯気が立っている黒い飲み物を持ってきた。
    毒が入っているのではないかと、飲むのをためらった。妹も同じ。ロスケも気持ちを察したのか、
    自分で一口飲み込み、大丈夫だから飲みなさいとやさしく言っているようだ。
    今から思うと生まれて初めてのコーヒーであった。その時は初めて飲む味で、苦さより甘かった記憶がある。
    家に帰ると母からずいぶん遅かったとしかられたが、まさかロスケの駐屯地に行ったとは言えなかった。

    昭和20年11月といえば、天皇の詔勅放送の終戦より3ヶ月も過ぎている。
    すでに海馬島の各集落の人たちも引き揚げ、残る最後の部落であった。
    一冬を越える程度の食料だけで、春まで持つのかと不安な毎日だった。
    島の西側北東の集落で風が強く、海もしけている。11月だ。雪が降る日もあった。ソ連軍の監視は泊皿の反対側であったが、
    監視が厳しく非常に脱出は難しい状況にあった。
    すでに本斗で旅館を経営して終戦後天塩に引き揚げていた親戚には、島の状況を報告されていた。
    島の食料営団の白米百俵をチャーター量として稚内から30トンの手繰り漁船2艘で11月14日午後一時に叔父が出向したとのことでだった。
    その日も海は時化ていた。ソ連兵が船潤に帰った後の夜七時頃に1艘がは着いた。叔父はさそっく泊皿に上陸してきた。

    その頃、臨時村長の官舎にソ連軍からの電話があったようだ。
    大人たちは脱出に向けソ連の警備について相談していた。結局電話線を切断し、青年八人が橋の警備につくことになった。
    隣で大人たちの話にどきどきして聞いていた。
    そして、部落民は総出で米大豆百俵と各家族荷物5個に制限し、泊皿の西側の通称若松の浜まで運び出した磯舟に積み込んだ。
    11月14日午後11時に泊皿の部落長を務めていた叔父らは、鎌形臨時村長(国民学校の校長)の官舎へ迎いに行った。
    「村長としての責任があるから脱出しない」と言い出したらしいが、説得され家族も含め脱出することになった。

    海はすでに大時化で雪混じりの雪が降っている。本当なら樺太庁国境警備の船長の操縦する
    もう一艘がくる予定だったそうだが、まだきていない。この時化で引き返したか。
    とにかく磯舟で危険を冒してでも米など船倉に積み込み、その上に私たち子供は乗せられた。
    普段は漁船として使われていた発動汽船の小さな船だ。一艘では各家庭の荷物は積めない。
    浜まで運んだが荷物はそのままにし、11月15日午前5時、みぞれ交じりの雪と波をかぶってのおお時化の海峡に向かった。
    海上は靄が覆って何も見えなかった。脱出には絶好の条件だが、稚内まで操縦すること自体が難しい状況だったようだ。
    昼を少し過ぎた頃、礼文島のトド島が見えてきた。急遽礼文島の船泊へ入港。
    近くの国民学校の体育館に筵を引いてもらい、避難させていただいた。
    11月17日時化も収まり稚内には18日午後2時に到着した。命がけの壮絶な引き揚げであった。

    それから長い月日が流れた。一度でいいから懐かしい海馬島へ行きたい。
    その引き揚げたときに家族で唯一持ってきた小さな鞄ひとつが今でも残っている。

    参考文献:海馬等脱出の秘話 樺太連盟新聞 昭和38年11月1日 若松市郎さんの手記より
    参考文献:海馬島泊皿出身の親族からの引き揚げ秘話より