樺太年表

樺太の動き 関連事項
1941年
昭和16年


ソ連貨物船、二丈岩で座礁、乗組員33名を救助 7.25 

樺太銀行、北海道拓殖銀行と合併 11.15
NHK豊原放送局開局 12.26
日ソ中立条約、モスクワで調印(※1) 4.13 
独ソ戦始まる 6.22

太平洋憲章(※2) 8月
太平洋戦争始まる 12.8
1942
昭和17年
樺太庁庁本館消失 2.15
樺太の青年学校、義務制になる 4.11
樺太漁業(株)設立 12.5
企業整備公布令 5.13
拓務省廃止、大東亜省設立 11.1
これにより樺太庁は内務省所管になる 
1943
昭和18年
樺太拝殿(株)設立 3.23
 全党の配送電事業の一元的経営
樺太の内地編入 4.1
樺太医学専門学校を豊原に開校 4.15


樺太商工経済会設立 10.1
樺太農業会設立 12.1




アッツ島の日本軍全滅 5.29
キスカ島の日本軍撤退 7.29
イタリア降伏 9.3
カイロ宣言(※3) 11.27
学徒出陣 12.1
テヘラン会議 12月
1944
昭和19年
樺太水産業会設立 2.19
 全党の水産業の統制整備


樺太セメント工業(株)設立 7.8






東条内閣総辞職 7.18
決戦非常措置要綱により国民学校高等科 
自動の継続動員決まる  7.19
1945
昭和20年
樺太庁、航空燃料林産油の緊急生産決定 1.15
第88師団編成、師団長峰木中将着任 3.18




海豹島、潜水艦の砲撃を受ける 6.1
拓銀豊原支店に日銀未発行券を常備、緊急事態に
対処することを決定 6.13
樺太国民義勇隊編成 6.13





ソ連軍、国境武意伽野派出所、日の丸軍監視攻撃 8.9
ソ連軍、古屯に進出、安別上陸 8.12
住民の緊急疎開始まる 8.13
樺太国民義勇隊を戦闘隊として発令 8.14
古屯完全占領される 8.15
ソ連軍、塔路上陸、恵須取に振興 8.16
ソ連、真岡上陸 8.20
落合空襲  8.21
豊原空襲  8.22
緊急疎開の三船 釧路沖で沈没 8.22

各地でソ連軍の進駐、武装解除 8.23~


ヤルタ会談(※4) 2.11

米軍、沖縄本島に上陸 4.1
ソ連、日ソ中立条約を延期しないと通告 4.5
ドイツ降伏 5.7
義勇兵法施行 6.1




沖縄全滅し日本敗北決定的 6.23
ポツダム宣言(※5) 7.26
 米英華 全面降伏を要求 
広島に原爆投下 8.6
ソ連、対日宣戦布告(※6) 8.9



天皇陛下、終戦の詔勅放送 8.15(※7)






日本、降伏文書に調印 9.2
GHQ,東条英機ら39人の戦犯の逮捕 9.11
1946
昭和21年
函館引揚援護局開局 6.15
樺太からの邦人引揚げ開始
12.5 ソ連、樺太・千島の領有宣言 2.20
1950年
昭和25年
函館引揚援護局閉鎖 1.1
引揚者総数 311,452名
 
1951年
昭和26年
  サンフランシスコ平和条約(※8)
 (対日平和条約) 9.8
     
     
     

 

参考文献 : 樺太一九四五年夏 樺太終戦記録 著者:金子俊男

 

  • (※1) 日ソ中立条約  昭和16年4月13日

     モスクワで松岡外相とモロトフ外相間で調印された。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵をうたった声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。
    ソ連はこの条約を守らず4年後、宣戦布告し樺太へと侵攻した。

    (※2) 太平洋憲章 昭和16年8月

     米英は第二次大戦に向けて、[領土その他の増大を求めない」と宣言。 ソ連を含む26カ国が署名した。

    (※3)カイロ宣言 昭和18年11月27日

    ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の3名は対日戦争で領土拡張はしないと宣言

    (※4) ヤルタ会談(極東密約)  昭和20年2月11日 主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。ルーズベルトは満州国に対し日本の統治から主権を中国に返還するため、ソ連の参戦を要請。千島列島ソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。
     ソ連は参戦の条件として、ドイツ降伏の2~3ヵ月後に日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州国の大連港湾と鉄道におけるソ連の権益確保などが決められた。ルーズベルトは過度なソ連からの要求に困惑したが、最終的に認めてしまった。

    戦後アメリカ国内でもロシアへの要求を認めたヤルタ会談について、ルーズベルト似たいし、批判、政治的失敗、アメリカを裏切ったなど批判を浴びた。アイゼンハワーは一般教書で「ヤルタ協定破棄」を要請していた。


    (※5)ポツダム宣言 昭和20年7月26日

     日米との戦いで沖縄が全滅し、日本の敗北は決定的になった。そこで米・英・中が日本に対し無条件降伏を要求した共同宣言。13項目からなり、日本軍国主義の一掃、戦犯の処罰、侵略した領土の放棄、基本的人権の尊重など平和的、民主的な日本の建設を要求した。また、日本の戦争が侵略戦争だったことを明確にしています。この時、米国のトルーマン大統領は原子爆弾の成功を発表している。
     ソ連は日ソ中立条約の立場上、中立の立場をとったが表向きだけの話。ヤルタ会談の密約もあり、日本への宣戦布告後に、宣言に加わる。

     このとき首相であった鈴木首相がもし戦況と日本の状況を的確に判断し、ポツダム宣言を受け入れていたら、第二次大戦で獲得した外地、つまり満州国返還だけで済んだ可能性もあり、南樺太、千島列島のソ連侵略はなかったかもしれない。
    この時、日本は7月30日ソ連に条件付和平仲介を依頼したが無視される。ヤルタ対談でソ連は米連合国側に密約があることはまったく知らずに。ポツダム宣言から帰還したソ連外相に会見を8月6日に申し込んだが、8月8日に延期される。そして8日に宣戦布告を返答される。なんとお粗末な日本外交であったか。


    (※6)ソ連 対日宣戦布告 昭和20年8月9日

     ドイツに勝利したソ連は、ヤルタ会談後に日ソ中立条約の継続をしないことを日本に通告(昭和20年4月5日)。ソ連軍を極東に移し、参戦の機会を窺がう。ポツダム宣言の時点で日本は敗北が決定的になったと知った上で、日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告とともに満州・南樺太・千島への攻撃を開始する。
     広島・長崎への原爆投下され、天皇陛下の終戦の詔勅により敗北を宣言したにもかかわらず、ソ連は攻撃を継続し、南樺太全土を制圧するまで攻撃・虐殺は継続した。今だロシアとなっても旧ソ連諸国に対し侵攻している国なのだ。

    (※7)天皇陛下の終戦の詔勅放送 (口語訳全文)

     私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。 

     私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

     私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。 

    私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

     

    (※8)サンフランシスコ平和条約(対日平和条約)

     日本を含めた52カ国が参加し,、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3国を除く49カ国が平和条約に調印した。この中で、条約第二条(領土権の放棄)で北方関連は下記の通り記載されている。

      日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月のポーツマス条約の結果主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利・権限及び請求権を放棄する。

     この平和条約文では千島・南樺太をソ連に与えるとは規定されておらず、またソ連は同条約に署名していないため、同条約の根拠としてこの地域を時刻と主張は出来ない。然るにソ連は終戦後も占拠し続けている。しかもその地域を勝手に拡大し、残留日本人をシベリアに送って酷使し、土地・公共事業・大小の企業などを没収して国有化した。


    第二次世界大戦では、太平洋憲章やカイロ宣言で「戦争によって領土を奪い自国の領土を拡大することはない」と明示しており、日本はサンフランシスコ条約で満州などの外地領土を放棄をさせられている。また、ソ連は日本の敗戦が決定的な状況になって、日ソ中立条約の期間中であるのにかかわらず、対日参戦し領土・利権を奪取し、手の届く限り占領し続けていた。今だロシアとなって日本との平和条約が結ばれていないのは、このような歴史背景があったからではないか。

                         参考文献:樺太防衛の思い出 元樺太師団参謀長 鈴木康生