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歴史は常に勝者のもの

 白人列強による植民地支配に終止符を打ったはずの日本は、 戦後は戦勝国側のウソ話に完全に騙され、 政治家からして一方的な反日歴史観を持つ国となり、 「戦争犯罪国家」にされ、他国から「日本は昔、アジアの国々でたいそう悪いことをしたな」と迫られると、何も言い返せず下を向くことしかできず、 戦勝国側の都合のいい主張に、一切反論できない民族となってしまいました。

 「歴史の中身」は表面からでは単純に評価できません。  三島由紀夫は 「歴史とは常に勝者のものである」としています。 「日本は中国支配を目論み侵略した」とされてしまった理由についても 支那事変(日中戦争)だけ見ていてはわかりません。  そこには 日中戦争は「日米戦争」だった背景があったのです。

 ところが、戦後日本には勝者側、もしくは勝者の意思に沿った近代史本が巷に溢れ、ページを開けば 「いかに日本軍が中国で残虐行為を行ったか」、「いかに日本軍が朝鮮人女性を慰安婦にして残虐行為をやったか」といった、 日本人を騙す「トンデモ近現代史本」のオンパレードとなっているのが現実です。    日本人は「本当の歴史を知らされていない」のです。

 しかし、我々日本人の「先祖」たちは、本当に他国に軍事侵攻しそのような残虐行為を行ったのでしょうか。    戦後も80年も経つと、敗戦国となった昭和20年代の《天皇が、軍隊が、日本人が全部悪いとして、「日本人罵倒論」 が社会的ヒステリー症状を呈し、おおはやりだった(平川祐弘)》熱気も多少は落ち着いて、 日本の悪口をメシのタネにする 反日的日本人も大分少なくなっています。  ただ、 一方的な反日歴史観を持つ政治家が首相になる国なので、まだまだ油断できません。

 そのためか、近年はやっと「慰安婦問題は教科書誤報事件から始まった」ものであり、 「慰安婦問題は捏造話である」という真実も認知されつつあります。  日本軍が中国人30万人を虐殺したなどとされる 「南京事件」にしても、 「教科書誤報事件」をきっかけとして 日中韓の対立構図が生み出された際に、 中国が日本バッシングの道具として騒ぎ出したもので、物的証拠も何一つない捏造話です。

 人類の歴史は「戦争の歴史」とされます。 日本もご多分に漏れず、わずか半世紀の間に、
日清戦争・1894年(明治27年)」からはじまり、 「北清事変・1900年(明治33年)」、 「日露戦争・1905年(明治38年)」、 「第一次世界大戦・1914年(大正3年)」、 知られざる戦争だった 「シベリヤ出兵・1918年(大正7年)」、 「満州事変・1931年(昭和6年)」、 「支那事変・1937年(昭和12年)」、 日本軍とソ連軍の戦闘「張鼓峰(ちょうこほう)事件・1938年(昭和13年)7月29日〜8月11日」、 「ノモンハン事変・1939年(昭和14年)」、 「大東亜戦争(太平洋戦争)・1941年(昭和16年)」 と激動の時代に曝されてきました。

 当時、世界中の有色人国家を植民地支配していた白人列強は、日清戦争で勝利し 中国近代化を支援する日本を見て、 「支那の日本化は自分たちのアジアにおける権益を危うくする恐れがある」として、日本を潰さないと自分たちが持つ アジア利権が危うくなると危惧します。

 日本は「力があるものだけが生き残れた」時代、西洋国家と正々堂々と渡り合い、過酷な生存競争を生き抜き、 一歩も引かなかった国です。   その過程で生じた戦争によって、日本は「白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、 植民地主義さらには人種差別というものに終止符を打つという、 スペクタキュラー(目を見張る)な偉業をなしとげた(藤原正彦 日本人の誇り)」のです。

 人間同士が殺し合うのが戦争であり、人道的な戦争などあり得ません。  数えきれない戦争に巻き込まれた日本軍が、人道的で非の打ちどころのない戦いを行ったなどとは誰も思わないハズで、 現地の人々に大変な迷惑を与えたのも事実でしょう。  また「捕虜」に対する扱いの非道さは他の軍隊と比べても際立っているとされます。  ただ、それはあくまで展開地域の情勢、指揮官の資質によって生じたものであり、 全ての日本軍が非道な行いをしたわけではなく、日本軍人にも正義を貫いた日本人は大勢いました。

 たしかに戦争末期の悲惨な負け戦が続いた頃は、日本軍という組織の欠陥が露呈し、 日本軍兵士には武器どころか糧食さえまともに支給されず軍規など守れない状態に置かれましたが、勝ち戦が続いていた時は 日本軍の勇敢さと礼儀正しさは世界が認めていました。  どの国も尻込みしていた中、 ポーランド孤児を救出したのも日本ですし、 多くのユダヤ難民の命も救っています。  中国戦線においても敗走する志那軍が 黄河を決壊させ流域の100万人が犠牲になった際、日本軍は進撃を中止しイカダや舟艇で救助を開始し、 余分な糧食はない中、自分達の食料を提供し10万人以上を助けています。  ちなみに中国戦線においては、負け戦ではなかったため最後まで軍規は守られています。

 日本軍が品行方正な軍隊だったなどと言うつもりはありませんが、「日本だけ残虐国家扱いして一方的に悪者」 にするなら、アメリカは、木と紙で造られた東京の家屋に焼夷爆弾で無差別絨毯爆撃を行い一晩で死者約10万、罹災者百万以上という被害を与え、 究極の殺戮兵器である原爆を2発も投下し何の罪のない何十万人という一般市民の命を一瞬で奪っています。   日本軍を非道と批判するなら、アメリカはナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に匹敵する、日本軍以上の残虐国家です。

 ここでは歴史を勝者側のものだけにせず、いったい日清・日露戦争から、 日中戦争・ 大東亜戦争(太平洋戦争)と続いた戦争の歴史の舞台裏では、いったい誰が何を考え、どう実行に移していったのか、 その裏側にスポットをあてていきます。(2025.7.21)


 

★★ なんでも「悪者」にされる日本 ★★

 先の戦争における日本の評価は、21世紀においても「軍国主義国家・日本がアジアに侵略戦争を仕掛けた」という論調で語られますが、 「歴史の中身」は表面からでは単純に評価できません。     元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のストークス氏は、『...確かに日本が欧米諸国が支配していたアジア各地の植民地に軍事進攻したことは事実です。  しかし、 それ以前にアジアに侵略して植民地にしていたのは欧米諸国です...アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。  西洋人は世界史を見直すべきです』、と日本を正当に評価しています。

 「日露戦争」に勝利した日本は世界の「一等国(列強)」の仲間入りを果たし、 世界政治に関与できる国となり、東京で近代史上初めて有色人種のみが参加する アジア地域の首脳会議(大東亜会議)を開催、さらに1919年のパリ講和会議では 人種差別撤廃を主張した国なのですが、 戦後は戦勝国側のウソ話にすっかり騙され、「侵略戦争を起こした残虐国家」扱いされています。

 現在の日本で出版されている近現代史本の中身は「邪魔者日本を潰そうとしたアメリカ」の謀略には一言も触れず、 「日本だけ悪者に仕立てた」内容のものがほとんどで、これでは日本人に本当の歴史が根付くことは未来永劫無理です。   日本は第一次世界大戦に参戦し、膠州湾の入り口にあるドイツの青島要塞を陥落させ、その後もドイツ艦隊を追跡した日本海軍は ドイツ領だった北太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンを占領します。

 この背景には、1902年に日本はイギリスと日英同盟を結んでおり、 イギリスがドイツ・イタリア・オーストリアからなる同盟国連合との戦いに参戦したため、日本も条約に従いイギリスを助けるという名目で参戦をしたわけです。  これについても、例によって日本の近現代史本は 「日本はヨーロッパで列強が戦っている間に、アジアでの勢力を強めたかった」といった調子でこの背景を語ります。

 戦争は負けることもあり、また自国の大勢の兵士の命を犠牲にして戦うわけで、一国の軍隊がボランティアで戦争するはずはありません。  日本がドイツが握っていた 中国利権を手にしようという見返りを期待して戦ったのは当然であり、当時の世界では自分たちの血を流し手にした権利は自分のものにするのが流儀で、 日本軍も当時の列強の流儀に従って権利を手にしたまでです。

 ちなみに、日本はこのドイツとの戦いでドイツ兵約4500名を捕虜にし、国内12か所に開設された俘虜収容所に収容しますが、これはハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例とされています。    日本の年末恒例行事のひとつ「第九演奏会」は、徳島県の「板東俘虜収容所」にいたドイツ兵たちが、1918年(大正7年)6月に日本初の第九全曲演奏を行ったのがルーツとされます。    この収容所内にはレストランも完備され、売店もあり捕虜たちは自由に買い物ができ、アルコール類も入手可能だったといいます。

 板東収容所所長の陸軍中佐・松江豊壽(まつえとよひさ)は、ボウリング場、サッカー場、テニスコート、菜園などを設け、レクリエーションも積極的に行い、あまりの優遇ぶりに軍部から苦情が来たそうですが、 松江は自分の信念を覆さずドイツ兵から信頼を得ます。  捕虜たちは後に「世界のどこにバンドーのような収容所があっただろうか」と称したとされます。  後年、 日本軍の捕虜の扱いは最低とされることになりますが、この時代の日本は世界の一流国と認めてもらうため、捕虜の扱いには気を遣っていたわけで、日本軍は残虐非道な軍隊などではないのです。

 そもそも当時の白人列強は武力で他国を強引に植民地支配していたのに近現代史本はそこにはゼッタイ文句はつけないのに日本だけ悪者にしているのです。    それもこれも、 日本を悪く言う元凶は米国であり、それに 米国に恫喝され転んだ朝日が追随している構図のせいなのです。    そして、今も朝日は米国のご機嫌を損ねないよう、一生懸命FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)がこしらえた 「日本は朝鮮を奴隷にした」という嘘を守っているのです。(2025.7.24)


 

維新前後にも奴隷を利用していた欧米

 1852年(咸豊2年)、中国からアメリカへ送られる労働者たちを乗せたアメリカの貿易船ロバート・バウン号で、非人道的な扱いを受けた400人の中国人苦力が、耐えかねて暴動を起こします。  暴動の原因は、 洋上に出たところで支那人を裸にし、辮髪(べんぱつ)を切り落とし、キューバやペルーなど売り払い先毎にCやPの焼き鏝を胸に押し当て、売り物にならない病気持ちは、海に突き落として鮫に喰わせたことです。

 季節労務の募集と思っていた支那人たちは、奴隷にされたことを知って暴動を起こします。   苦力は米国人船長と船員を殺して船を操縦しますが、2月19日に石垣島の崎枝村沖合で座礁したため、 約400人の中国人苦力が石垣島に上陸します。   事情を知らない八重山の役人たちは、監視しやすいよう富崎に収容します。

 その後イギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に富崎の収容所を砲撃し、さらに武装した兵士200人以上が上陸して、逃走した苦力を射殺・捕縛して、白人に抵抗した見せしめにその場で百人近くを吊るしています。 これは「ロバート・バウン号事件」や「石垣島唐人墓事件」と呼ばれます。

 その後、アメリカも浦賀に来る前のペリーが戦艦サラトガを差し向けて苦力を狩りだし、白人に抵抗した見せしめに吊るします。 捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護され、翌年9月29日に中国に送還された生存者は172名で、 この間に病死、自殺、あるいは行方不明になった者は128名に上ったとされます。 この顛末はパーカー米公使が 石垣島から連れ戻された苦力を船員殺しの実行犯として告訴したときの厦門(アモイ)の裁判記録によります。(山正之 変見自在)

 明治前後でも、日本の周辺にうごめく欧米列強は、有色人種を家畜扱いし人身売買を行い、利用価値が無くなればゴミのように処分していたのです。  その時の日本は国を開いて近代化を果たし、 支那・朝鮮の目覚めも促していたのです。   そんな日本を、加藤登紀子は 謝罪補償論者・大江健三郎を真似たか、1970年代週刊朝日に寄稿したエッセーで 「日本と聞くと腐臭がする」と言いました。  加藤は欧米列強からはどんな臭いを感じるのでしょうか。(2025.8.29)


 

「何が何でも日本を悪者にしたい」戦勝国

 日本は第一次世界大戦においてドイツに勝利したことで、勝者の権利として中国大陸進出の足がかりを得ます。 その際、 日本は中国の袁世凱政府に対し山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなど 二十一カ条の要求を突きつけ、中国政府もこれを受け入れます。 これについて後年「二十一か条の要求」は 「中国にとって到底受け入れられる内容ではなかった」などと、いかに日本が中国に過酷な介入を行ったかの代名詞のように大袈裟に語られ 「中国の屈辱であり日本と対立する端緒」、「中国は被害者」というネタにされます。

 そういわれても日本の要求はザックリ言えばドイツが中国に得ていた権益をドイツに勝利した日本が受け継ごうとしたもので、 もし日本が遠慮して手を出さなければ、代わりにハイエナのような列強が奪い去るだけの話です。  もしドイツに勝利したのが列強だったら、中国は「ケツの毛まで抜かれて」います。     それを悪意に捻じ曲げ「なんでも日本を悪者にして書く」のもどうか、という話です。

 現に中国側の当事者である孫文にしても、 「二十一か条の要求」以降の1923年に日本人軍人・佐々木到一を軍事顧問としていますし、1924年10月には日本の神戸で 「日本は西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と、欧米の帝国主義に対抗する東洋の王道・平和の思想を説き、日本に日中友好の必要性を訴えています。    孫文は日本と対立どころか、この時点では日本と手を組み帝国主義打倒を目指していたし、 日本もそのために中国近代化を推し進めていたのです。    中国近現代史のリーダーや重鎮の半数前後は日本留学経験者とされます。    「二十一か条の要求」で日中関係が悪化したなどというプロパガンダに騙されてはなりません。

 ところが、これについても日本の近現代史本は、ヤレ「日本はドイツが持つ山東半島の権益を強引に奪った」、「列強国は、こうした日本の行動を冷ややかな目で見ており、 特にアメリカは日本に対して強い警戒感を抱くようになった」などと、日本をまるで極悪非道な強盗のように仕立てるのです。

 そもそも、日本が進出する前から中国に侵攻して 中国を半植民地にしていたのは白人列強です。    その仲間でもない日本に対し「権益を強引に奪った」と決めつけるくだりは、 「何が何でも日本を悪者にするゾ」というイタイタしい意図がミエミエで逆に笑えますが、当時の白人列強は 「夢中で有色人種の国を植民地支配する競争」に明け暮れ、 武力で有色人国家を侵略し植民地支配して、現地人を奴隷として牛馬のように使役していたのです。    アメリカなどはフィリピンを支配するため「サマール島とレイテ島の島民10万人を皆殺し」にした国です。

 白人列強が「日本の行動を冷ややかな目で見た」のも、有色人・日本に獲物を奪われた悔しさ・嫉妬からであって、同情心ではアリマセン。    アメリカに至っては「満州が喉から手が出るほど欲しかった」国であり、日本に強い警戒感を抱くのは当然です。    列強は隙あらば獲物を横取りしようとするハイエナ国家であり、当時の白人列強による植民地化の実情を知っていれば 「なにバカなことを書いてんダヨ」で終わる話です。  このような「日本だけが中国を侵略したことにしている戦後史観」 に騙されてはいけません。

 近現代史本は、白人列強の日本のやったことなど比較にならない残虐行為には一言も文句を付けないクセに、正当な戦争でドイツに勝利し、 ドイツが手にしていた権利を受け継いだ日本に対して、まるで悪魔の所業であるかのように責めるのです。  とにかく、 全編のこの調子でひたすら日本の行動を徹底的に否定する内容に仕立て、「白人は権利を得たが、日本は権利を奪った」 と歴史を捻じ曲げ歪曲させているのが、戦勝国側の立場で書かれた近現代史の正体であり、反日的日本人 でもない限り、恥ずかしくてこんなシロモノは書けません。(2025.7.24)


 

アメリカに翻弄されてきた日本

 日中戦争に関する本の中身は、ほぼ「日本軍が中国を支配するため武力侵攻した」、 「蒋介石は期待していたソ連やドイツの支援が全く来ないことを理由に南京から成都という中国の東側にある地域に逃亡した」という調子のものがほとんどです。

 しかし、日中戦争は日本と中国だけの戦争ではありません。 駐支那独大使グレールは 日本人と支那人が手を取り合って喜ぶ姿を本国に報告し 「支那の日本化は白人列強のアジアにおける権益を危うくする恐れがある」としています。

 「チャイナ・ウィークリー・レビュー」誌、編集長のパウエルは、『在支25年』の中で、策士は米国だけではなく支那にもいたと書いています。  それが、 辛亥革命の折にデンバーにいた孫文で、何としても日本を締め出せと 「英米両政府は協同して日本の中国革命への介入を抑える」約束を取り付けていました。

 そうとも知らず、列強による植民地支配の嵐が吹き荒れていた時代、「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」を革命のスローガンに「三民主義」を提唱する 孫文に期待した大勢の日本人は、半植民地支配されていた中国を統一国家にして、 共に手を結び東亜の安定化を図ろうと、 孫文の「辛亥革命支援」に尽力します。  当時の日本人たちは、孫文も自分たちと同じ 信義誠実の民族と考えたのです。

 しかし、やはり孫文は目先の利を優先する自由・平等とは無縁の支那人でした。 中国利権を狙うアメリはじめとする白人列強の思惑に嵌まり、日本人を騙し裏切ったのです。  この 詐欺師のような人物は、 三民主義を信じ、中国の革命家たちを支援するため、身代をなげうってまで支え物心両面で多大な支援をしてきた、宮崎滔天や梅屋庄吉ら日本人の善意を踏みにじり、日本との 「長城の中で独立」の約束も反故にした男なのです。

 当時は世界中で植民地支配合戦の嵐が吹き荒れ、 有色人種国家は日本を含む数ヶ国以外、皆白人列強に奴隷として支配され牛馬のように使役させられていた暗黒の時代が続いていました。

 隣国・中国も列強によって半植民地支配されていたのです。  そんな中、 日本は中国を一刻も早く近代国家へ脱皮させ、日支連携し東亜の安定化を図るため 「物心両面で中国に介入」していた国であり、そもそも 日中戦争は侵略戦争などとは別物です。     中国進攻を正当化はできませんが、その背景は悪意に誤解されているのです。

 日中戦争の中身をザックリ言えば、中国権益が欲しかったアメリカの横やりによる日本潰しです。  そこに中国に共産主義を植え付けたい コミンテルンやドイツも加わり、 日中関係の分断・日本排斥運動を仕掛けたのです。  そもそも米国大統領・ルーズベルトは、 親戚が支那のアヘン貿易で大儲けしたせいか、中国に親しみを持つ一方で、中国利権がノドから手が出るほど欲しかった人物です。

 そのルーズベルトは中国利権争いに出遅れたこともあり、 有色人種・日本を毛嫌いしていました。  そこでルーズベルトは満州に勢力を拡大する日本を 中国大陸から追い払うことを目論み、 日本の満州における権益を認めていた蒋介石タップリの武器とカネを与え裏切らせ、 戦闘を躊躇う蒋介石をスパイ張治中が説き伏せ、支那軍に 日本人居留区を襲わせて(第二次上海事変)日本軍を一気に壊滅させようとします。

 しかし、最新鋭の武器を装備していた支那軍大部隊による攻撃を、かろうじて跳ね返した日本軍は、逃げる支那軍を追って 南京へ進軍(南京攻略戦)、立て籠もる支那軍を3日で壊滅させ、 敗走する支那軍を追い漢口へと進出します。

 逃げる支那軍は日本軍の進軍を妨害するため、各地で建物のみならず田畑や民家まで、すべて焼却する 焦土化作戦により自国民百万人を犠牲にしています。 1938年6月には、堤防を決壊させ農地を破壊する 黄河決壊事件を起こしますが、このとき日本軍は、進撃を中止しイカダや舟艇で救助を開始、このとき救助された避難民は10万人以上とされます。    このとき日本軍は自分達の糧食を提供しています。

 最終的に蒋介石の国民党政府(支那軍)は山深い四川省・重慶に逃れ 援蒋ルートで米英の支援を受け籠城戦となります。 これでアメリカの狙い通り日本軍は 泥沼の膠着戦へと誘い込まれたのです。 日本軍の精鋭部隊のほとんどは 昭和20年の敗戦まで中国戦線に縛り付けられ、アメリカとの戦いだった太平洋戦線には十分な兵力を回せなかったのです。

 第二次上海事変後の日本は、日本・満洲・支那三国の融和を図る、という大義にもとづき中国派遣軍の規模を拡大していきましたが、もし扇動者・張治中がいなかったら日本軍は増派する必要もなく、 日中戦争への拡大も阻止できたわけで、そうなれば「日本軍が中国に軍事侵攻した」などというあらぬ疑いがかけられることもなかったかもしれません。

 蒋介石を裏切らせ、支那軍に日本人居留区を襲わせて日本軍を怒らせ泥沼の膠着戦へと誘導するという このアメリカの手口は、 先住民であるインディアンやフィリピン人を殺しまくって領土を手に入れたのと同じです。  アメリカはインディアンを亡ぼすときも、まず最初にワンバノアグ族を手なずけ、 別の部族と争わせ亡ぼすというやり方を繰り返し、リンカーンの時代にはスー族が残るだけとなっていました。

 蒋介石は、自分では手を出さず「互いに争わせて」最後残ったものを亡ぼすというアメリカの常套手段に騙され、 愚かにもアメリカの手先となり、日支連携して中国大陸から白人列強を追い出そうとした日本 を裏切ったのです。  そして戦後は案の定、アメリカに利用されるだけ利用された蒋介石は用済みとされ、 アメリカの援助を打ち切られ中国共産党との内戦に敗れ台湾に逃げています。

 こうして日本の中国における勢力拡大に歯止めをかけたルーズベルトは、次に邪魔者日本の本格的抹殺にとりかかります。  当時は第二次世界大戦真っ盛りで、 欧州ではナチス・ドイツによる電撃作戦で各国が蹂躙され、イギリスも劣勢に追い込まれていたため、チャーチルはルーズベルトに一刻も早く第二次大戦に参戦してもらおうとしていました。

 しかし、当時は米国民の85%が参戦反対でした。   そこでルーズベルトは米国市民を戦争へ駆り立てる手段として、 「アラモの戦い」でも使った「敵に先に手を出させ、少々の自国民を犠牲にし、自国民を奮い立たせる」 手法を用いて参戦反対だった米国市民を怒らせ、米国参戦を決定づけようとします。(2025.7.21)


 

アメリカを返り討ちにした日本

 ルーズベルトは、チャーチルと結託して「即座に日本を粉みじん(チャーチル回顧録)」にする企みを仕掛けます。  まず 「ABCD包囲網」で日本を兵糧攻めにしつつ、 米国が仕掛けた外交上の暴挙ともいうべき、 「日本を開戦に追い込んだハル・ノート」を突き付け挑発し、しぶる日本を戦争へ誘い込み、 日本に最初の一発を撃たせ、アメリカとの戦争へ誘い込んだのです。    ちなみに、「ハル・ノートの存在は米国でも秘密」でした。  表ざたになれば自分たちの悪だくみがバレバレとなると考えたわけで、 サスガに無茶苦茶な要求であることは米側も判っていたのです。

 日本を舐め切っていたルーズベルトは、わざわざ米西海岸ロングビーチにある米太平洋艦隊の戦艦を日本軍の手が届く真珠湾に移動させ、「動けぬアヒルのように(山正之・変見自在)」停泊させ、 日本海軍の真珠湾奇襲作戦を誘います。  日本海軍の暗号は とっくに解読されていました。  あとは日本軍に真珠湾を襲わせ返り討ちした後は、 米英の強力戦艦群と日本機では絶対落とせない爆撃機B-17を使って有色人種の邪魔者・日本を「直ちに抹殺」するだけです。

 むしろ、ルーズベルトは日本海軍の真珠湾攻撃で死傷者が出ないことのほうを心配していました。  そもそも水深14mという浅い真珠湾では魚雷攻撃は不可能であり、 チビで近眼の日本人パイロットに正確な爆弾投下攻撃などできるハズはないと高をくくっていたのです。     「空飛ぶ要塞」B-17にしても、当時欧州戦線でドイツ戦闘機と渡り合い、撃墜されないどころか逆に相手を叩き落すほどの強力な爆撃機でした。

 ところが、日本の攻撃部隊は魚雷を改造し猛訓練を積んでおり、湾内の米戦艦に面白いように命中弾を浴びせ、戦艦6隻をアッというまに沈めます。 さらに、太平洋に向かっていたイギリス戦艦2隻も、 陸上から飛び立った日本軍爆撃機の攻撃によってアッという間に撃沈してしまいます。  航空機による戦艦撃沈は史上初でした。

 日本陸軍も負けていません。  真珠湾攻撃直後の1941年12月22日にルソン島に上陸し、翌年1月2日には首都マニラを占領。  さらに、 1942年4月から5月にかけてバターン半島とコレヒドール島に立て篭もっていた アメリカ軍を降伏させます。   これにより、フィリピンは欧米からの支配下を逃れられたのです。    この際に日本軍の捕虜となったアメリカ軍やフィリピン軍が、 約83kmの距離を3日間歩かせられる「バターン死の行進」が起こったとされます。    また、フィリピン人を皆殺しにしようとしたアーサー・マッカーサーの息子で、アメリカ極東陸軍部隊・司令官ダグラス・マッカーサーは、このときフィリピンからかろうじて脱出しています。

 その後も、頼みの綱だったB-17は、日本軍の最新鋭戦闘機ゼロ戦によってバタバタ落とされます。  また米英の戦闘機も性能、 パイロットの技量いずれも日本軍に歯が立ちません。  ゼロ戦のあまりの強さに連合国側は「ゼロ戦に単機で挑むこと」を禁止していたほどです。  かくして、 ジャップに高性能の戦闘機など製造出来るハズなど無い、 と甘く考えていたルーズベルトの思惑は無残に外れ、「直ちに」倒せなかった日本は、半年間の短い期間ではありましたが、 その後アジア各地における連合国軍との戦いで連戦連勝を続け、アジアに広がる欧米諸国の植民地を次々に解放し、独立の後押しをしていったのです。   (2025.7.21)


 

真実を書いたら成り立たなくなる「日本だけ悪者説」

 かくして、植民地支配合戦の嵐が吹き荒れていた時代、 植民地喪失という大損害を被った欧州は、戦後は大航海前の貧乏国に戻されてしまったわけで、この責任はひとえに、「ハル・ノート」で 日本を無理やり「生き残るための戦い」へと追い込んだ米国にあります。    ある意味アメリカは「白人列強による植民地支配の世界を潰してしまった」 張本人とも言えます。

 ルーズベルトは日本によって「白人列強による植民地支配に終止符を打たせた」わけで、 その点でルーズベルトは「リッパな政治を行った」のです。  その腹いせか、ルーズベルトは1942年8月から原爆開発計画(マンハッタン計画)を進め日本抹殺に邁進します。   ルーズベルトは1945年4月に死去したため、日本に原爆投下を命令したのはトルーマン大統領ですが、そのトルーマンにしても 原爆を使うためわざと日本を降伏させなかった人物です。    ルーズベルトが原爆を使った大量殺戮の首謀者であったのは間違いありませんが、米国歴代大統領は有色人種の命など歯牙にもかけない恐ろしい虐殺者たちなのです。

 日本を毛嫌いするルーズベルトは、 排日政策を推し進め、カルフォルニア州の多くのレストランでは 「犬とジャップは立ち入るべからず」としていたほど、有色人種を人間扱いしていなかった人種差別者です。    東京裁判の判事レーニングは 「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」としています。

 戦後、「日本のせいで植民地を失った戦勝国」は、米国以外は鳴かず飛ばずの国となってしまった恨みで 日本に怨み骨髄となったのは当然です。   だから日本を「列強の犯罪隠し」のスケープゴートにして、 「先の戦争は全て日本が悪かった」と責任転嫁しているのです。  これが日中戦争から大東亜戦争に至る、アメリカが日本に仕掛けたリアルな「日本潰しのウラ話」なのです。  ここを 「本当の歴史は知らされない」日本人が理解していないから、「日本悪玉説」にいまだに騙されているのです。

 有色人種が白人に植民地支配され牛馬のように使役されていた時代、東洋の島国・日本が 獅子奮迅の働きで 「白人国家による植民地支配の世界をブッ壊した」という歴史の痛快物語は、不思議なことに近現代史に堂々と載ることはありません。  それどころか、 日中戦争や大東亜戦争を語る本にも、なぜかこの部分はスッポリ外されています。  その理由は、 「書いてしまったら、日本だけ悪者説が成り立たなくなってしまう」からです。

 書く側からして戦勝国側に立っているのですから、日中戦争も真珠湾攻撃も、そのウラにはアメリカによる日本潰しがあったなどという背景は、トウゼン書けるはずはありません。   イヤ、もしかしたら、そんな御大層な理由ではなく、あまりに「日本悪者説」ばかり見聞きし「真実の追及」など怠ってきたため、単に 「そんな背景など知らない」のかもしれません。

 しかし、もういい加減日本人は、何も知らぬまま戦勝国の手先となって「植民地支配という悪行に歯止めをかけた祖国・日本」を批判しているバカバカしさに気付いてもいい頃です。    もし日本が、大国アメリカの「中国・東南アジアから手を引け」という脅しに屈し大人しくしていたら、 いまでも日本は白人列強の支配下に置かれたままでしょうし、今の繁栄も無かったでしょう。     それどころか白人国家による有色人国家の植民地支配という歴史は途切れることはなく、いまでも続いていたかもしれません。     大東亜戦争(太平洋戦争)は横暴な白人列強に対する独立戦争でもあったのです。    そろそろ戦勝国が押し付けた「日本悪玉論のまやかし」の呪縛から目覚めるべきです。(2025.7.21)


 

「戦勝国の歴史」を押し付けられたままの日本

 いままで日本人は、戦勝国側の視点でみた「日本は悪者という戦後史観」を散々吹き込まれてきたわけですが、今回は「山正之・変見自在」を参考にして、 日本側の目線で、「先の戦争は日本が仕掛けた侵略戦争」 とされた要因でもある「日中戦争」と「真珠湾攻撃」の裏側を見てきました。  おそらく 反日的日本人ではない普通の日本人にとって、 「目から鱗が落ちる(新たな事実や視点に出会い、それまでの認識が大きく変わる)」ような内容もあったのではないでしょうか。

 日本側の立場で書かれた近現代史本でも、なかなかこのような舞台裏を覗くような視点で書かれ、なおかつ正鵠を射る(せいこくをいる・物事の要点を正しく捉える) ものはあまり見かけません。   巷に山正之氏のような視点で語る本が増えてくれば、これまで見えなかったものも見え、「先の戦争は全て日本が悪い」 という戦後史観も随分覆せるハズです。  反日的日本人以外の物書きの皆さんには頑張ってもらいたいものです。

 先の大戦が巻き起こした歴史問題の中身については、いまだに 中韓の怨念がドス黒く渦巻く現状においては、 どっちが正しいとか、 侵略戦争か否かという議論を戦わせても正しい答えは出ません。   それは中韓の頭が冷え、冷静な歴史考察が可能となる100年後の歴史観察で日本の評価が判定されるものなのでしょうが、 だからといって戦勝国側の言い分だけ蔓延らせ、日本だけ一方的に悪者にされたままで良い、というわけにはいきません。   そもそも「歴史問題」なるものは存在しませんし、 中韓の反日がなくなることもあり得ないのです。

 とくに、いまだに日本批判を止めようとしない中国・韓国は、大戦中は白人列強に翻弄され文句ひとつ言えず、いいように牛耳られ 大戦中何もできず逃げまどっていた国ですが、戦後は 「日本は侵略国家で我々はその被害者」などと、日本だけ一方的に悪者に仕立てるキラーフレーズを振りかざし、 なんとしても日本を戦争犯罪国家の立場に追いやり発言力を抑え込もうと、日本叩きに精を出すことをやめません。  そんな、 「自己正当化のプロパガンダ」対して、 日本がいつまでも100年前の時代に起きた食うか食われるかの弱肉強食の不幸な出来事について、 中韓にネチネチ文句を言われ続けなければならない理由はありません。

 しかし、残念ながら戦後日本は中韓が「自分たちの都合のいい史書」をタテに「歴史を直視せよ」と執拗な謝罪要求を繰り返してきたため、 これに根負けした弱腰政治家たちによって、 再び敗戦国の立場へと突き落とされました。 結果、いまだに日本社会には、 戦勝国が刷り込んだ偏った贖罪意識に支配された世代の「良心的日本人」が大量に居座り、中韓に対し対立姿勢を示すことは控え、 「大戦中に迷惑をかけた」という態度で接しています。

 近年クマが人を襲う事件が多発していますが、駆除しようものなら「クマの生活圏を奪ったのは人間」、「クマは被害者」などと 片方に一方的に寄り添い批判する層も一定数いるようで、該当市町村にはそんな苦情の電話が殺到し、仕事にならないといいます。

 その昔、どんな殺人鬼にでも死刑判決は出さない判事が、自分の娘が殺されたらその後は強固な死刑推進派に変貌 したといいます。  「モノの見方」は立場や個人によって千差万別です。  もし自分が住んでいる場所でクマ事件が起こったら、もし自分の家族がクマの被害に遭ったら、 苦情を言い立てる人たちは、はたして同じセリフを言うでしょうか。 99.9%の人はまず言わないはずです。  なぜなら、その人たちは 「現実を直視しない(出来ない)ヒト」であり同じ立場になり同じ経験をしないと 「物事の本質に気づかないヒト」だからです。

 「コトの正否」を正しく判断できる人間などいません。  クマ被害にしても、クマも可哀想なのは事実ですが、人間側にも事情や言い分はあります。  先の大戦にしても 日本側の言い分はあるのです。  寺田寅彦氏は 「疑いは知の基である。 よく疑う者はよく知る人である」とします。    兵庫県知事選でも、中身カラッポだろうがウソ八百並べようが、やり方一つでヒトは 「他人の意見に左右され」、「話を鵜呑みにしてしまう」イキモノであることを見せつけられました。 そしてヒトラーに騙されたように、 自分が痛い目に遭って初めてアヤマチに気付くのです。

 今の日本は戦後も100年になろうかというのに、戦勝国がかけた「日本憎しの呪縛」が解けぬまま、また先祖たちもその呪縛を解こうともせず抗うことなく唯々諾々と従ってきたため、 もう戦争に何の責任もない世代の日本人たちも、相も変らぬ中韓の「戦争犯罪国家日本は我々に永遠に謝罪せよ」という、 なんら根拠のない誹謗中傷に曝されています。

 戦後日本は、日本が侵略者でないと困る中国と韓国によって、ありとあらゆる日本貶め話がデッチ上げられ、 アジアを蹂躙した侵略国家にされ、性奴隷を作った国にされ、 中国人数百万人を殺戮した残虐民族にされてきました。  はたして、この現状を覆し、 日本は「白人列強によって有色人種が植民地支配されていた世界をブッ壊し」、 「人種差別の無い世界の礎を築いた国である」と、「先の戦争で日本が果たした役割」 を堂々と主張できる本物の政治指導者が出現して日本が生まれ変わる時代がくるでしょうか。(2025.7.23)


 

「ワシントン会議」でも発揮した米国の横暴

 1921年11月、「四カ国条約(太平洋における米英仏日の権益を保障)」、「九カ国条約(中国の領土の保全、開戸解放)」、 「ワシントン海軍軍縮条約」を枠組みとする 「ワシントン会議」が開催されます。  この会議は東アジアの国際秩序を形成する という名目ではありましたが、その実態は何としても中国利権を手にしたかったアメリカが日本の中国における勢力拡大に歯止めをかけるためのものでした。

 これにより日本は大勢の兵士の血と引き換えに手に入れた山東省権益を中国に返還させられたのです。  当時の国力の弱かった日本は、アメリカとの関係悪化を避けるため 、涙を呑んでこの不利な条約を受け入れざるを得なかったのです。  これにより日本にはアメリカに対する不満が高揚していったのは当然で、またアメリカも邪魔な有色人種・日本の抹殺に向けひた走ることになります。   日米対決は避けられない運命だったのです。

 「九カ国条約」はあからさまに、中国への今以上の内政干渉を原則禁止させるものでしたが、例によって近現代史本は、 「日本は九カ国条約に従い、中国の主権尊重・領土保全を認めたことで、その勢いは停滞せざるを得なくなると同時に、軍事行動の口実を権益の自衛と居留民の保護に置くこととなった」などと、戦勝国側に寄り添い、 あくまで「日本の中国に対する軍事侵攻説」をベースにして書くわけです。

 戦勝国側の立場で見るか、敗れた日本側の目で見るかで捉え方は180度違います。 「九カ国条約」を戦勝国側の立場で見れば「中国に進出したナマイキな日本に歯止めをかけてやったゾ」となり、 日本側からすれば「自分たちだけ散々植民地支配しておきながら、日本にはストップを掛けるのカイ」となるわけです。

 近現代史本が日中戦争を語る場合、「中国は戦勝国側によって半植民地支配されていた」事実や、 「中国大陸を巡る列強の利権争いの中身」、 「中国を植民地支配していたのは列強」といった史実はソックリ抜け落ちているのが通常であり、 いきなり中国に軍事侵攻した日本は...というところから語られるのがお約束で、 列強が横槍を入れるまで中国が頼ったのは日本だったことは触れず、その後は 日本軍がいかに中国大陸で残虐非道な行いをしたかのオンパレードとなるのが定番です。    もっとも、列強が先に中国を半植民地支配していたことを書いてしまったら「日本だけ悪者説ストーリーは破綻」するわけですが。

 このように、日本だけ悪者にする「支那事変(日中戦争)」関連本が多すぎますが、 これに輪をかけたのが戦後日本に続々登場した「日本悪者史観」に忠実な進歩的日本人たちでした。    この日本の悪口をメシのタネにする日本人たちが、 戦後の出版界やメディアに蔓延り「日本人罵倒論」をぶち上げ、 「皆様のNHK」が率先して「朝鮮人虐待労働説」をデッチあげる国となったのです。

 さすがに近年では共産主義という神通力にも陰りが出てきたようで、 「イデオロギーの宣伝屋」と化し、 日本の悪事が書かれているものは全て真実として捉える「進歩的文化人」が、 せっせと中韓に「日本叩き」の外交カードを提供してきた動きも、だいぶ衰退しています。   ただ近現代史本にはいまだに「日本悪者説」が花盛りであり油断はできません。(2025.7.21)

  
 

国際連盟を脱退した舞台裏も米国の横やり

 日本は国際連盟を脱退したわけですが、これについてなぜ大人しく連盟の決定に従わなかったのかという声もあります。  歴史にイフはないといいますが、 もしあの時連盟の言いなりになっていたら、日本が最後まで「独立自尊(他者に依存せずに自らの実力で物事をこなす)」の国家として存続していたかはなはだ疑問ですし、 もし日本がアメリカの要求に唯々諾々と従っていたら、今の日本の繁栄は無かったかもしれません。

 日本が米国の言いなりにならなかったからこそ、結果的に白人国家による有色人国家の植民地支配という世界がブッ壊されたし、 有色人種が白人国家と対等に接する世界が実現できたのです。  他国に支配されたことが無い日本人は忘れがちですが、 我々は植民地主義さらには人種差別に終止符を打つという人類史に残る偉業を成し遂げた国の子孫なのです。

 日本が国際連盟を脱退した端緒は、蒋介石の国民党政府が「満州事変 (柳条湖事件)は日本の侵略行為である」と国際連盟に訴えたことから始まったわけですが、国際連盟は「国際連盟日支紛争調査委員会 (リットン調査団)」 を日本・満州・支那へ派遣し、 聞き取り調査を行います。 結果、リットン調査団は 「日本の侵略」とは断じず日本と中国の妥協を促す報告書を提出します。

 それもある意味当然で、そもそも、国際連盟のメンバーであるイギリス自身、世界各地に植民地や権益を持つ国であり、他の白人列強も同様に世界中の有色人国家を植民地支配しており、 列強国が日本の満州支配を批判することは、自分達がやっている利権搾取行為の否定することであり、強盗が泥棒を非難することなど出来ないわけです。

 しかし、報告書の結論は、日本と支那から満州を取り上げ満州を非武装地帯とし、満州の中立化を図るため国際連盟が管理する、というものでした。    国際連盟が管理するというと聞こえがいいですが、これはアメリカが主導して管理するというもので、アメリカが労せずして満州利権を手中に収めるということです。     これでは到底日本が納得できるはずもなく、この案を飲めない日本の国際連盟を舞台とする交渉は完全に行き詰まります。

 国際連盟は日本の満州国建国は不承認としたわけですが、そもそも、白人至上主義に凝り固まる白人列強で構成される国際連盟が、 生意気な有色人国家・日本の傀儡国家・満州国を容認するはずはありません。    彼ら白人国家が、日本の中国におけるこれ以上の勢力拡大を認めることなど、絶対に無かったのです。  これで日本は 国際連盟を脱退する道しか残されなくなったのであり、好き好んで脱退したわけではありません。

 ここにもなんとしても中国利権を手にしたかったアメリカの横やりがあったのです。  いずれにせよ、もともとアメリカは日本抹殺を企てており、むしろ「腹を立たせておいて、向かってきたら叩き潰してやる」 くらいの気持ちであり、妥協する気などサラサラ無いのです。  2025年、米国トランプ大統領は、日本の基幹産業である自動車の関税を突然25%にすると言い出し、 日本の主要貿易輸出産業を潰しかねない要求を平気で日本に突き付け、大慌てさせます。   相手の事情などお構いなしで恫喝し相手の譲歩を引き出す、もし逆らったら相手をつぶす、これがアメリカの変わらぬやり口なのです。

 当時の日本はもうすでに猛烈な勢いで植民地を拡大させていた 遅れてきた帝国・アメリカと対峙せざるを得ない運命が定められていたのです。    アメリカは日本が国際連盟から脱退せざるをえない立場に追いやり、日本を孤立化させるのが狙いで、それが後にアメリカが日本に 「ハル・ノート」を突き付け「真珠湾攻撃」へと誘い込んだ手口につながるのです。(2025.7.21)


 

アメリカが「喉から手が出るほど」欲しかった満州

 「有色人種・日本を毛嫌いしていたルーズベルト大統領」は、親戚が支那のアヘン貿易で大儲けしたせいか、 中国に親しみを持つ一方で、満州利権がノドから手が出るほど欲しかった人物です。  ところが、 満州は「有色人種・日本がまんまと満州権益を手にして」いたわけで、 ルーズベルトはなんとしても中国大陸から日本を追い払い、その中国権益を奪おうと執念を燃やします。

 中国の権益争いに出遅れたアメリカは、東アジアにおける植民地はスペインとの密約で手に入れたフィリピンしかなかったため、 なんとしても満州権益を巡る植民地支配合戦に割り込もうとします。  とくに、自国の中西部に似た 資源豊かな満州は魅力であり米国も満州が欲しかったのです。

 しかし、もともと、孫文の側近だった中華民国(中国国民党)・ 蒋介石にしても、 日本が日露戦争の勝利で手にした 満州における権益について、「...日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。   孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」としています。  つまり、中国は日本の満州占有は了解していたわけで 「満州事変」は日中戦争の引き金ではないのです。

 ところが、侵略国家・アメリカはなんとしても日本を中国大陸から追い払うため、あの手この手の 日支提携を阻む日本追い払い作戦を試みます。 日中戦争の中身をザックリ言えば、 中国権益が欲しかったアメリカによる日本潰しなのです。

 中国の領土を語るときについて廻るのが「万里の長城」です。  周代には犬戎(けんじゅう)といわれる北方民族の異民族が侵攻してくるのを迎撃するため、「万里の長城」の原型のような防壁が築かれており、 もともと、漢族(現中国の支配民族)は「万里の長城」の外側にある満州は化外の地としていました。
つまり、そもそも中国の領土というものは長城の内側だったという歴史があります。

ところが、いまの中国(漢民族)は、満州も自国領土と言い張っています。

これに当時のフルシチョフ書記長は「万里の長城を越えたことがない中国が、理不尽な主張を続けるなら宣戦布告とみなす」と警告しています。

 もともと満洲の所有権は、盗ったもの勝ちの世界が入り乱れていたとも言えます。    1900年には義和団の乱に乗じて清王朝(満州族)を屈服させたロシアが軍事占領していましたが、 その後1904年に勃発した日露戦争に勝利した日本が、ポーツマス条約によって、 ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち、 南満洲に属するものを手にしています。

 もともと満洲の支配民族は「満州族」であり、「清王朝」のルーツは1616年に満洲において「満州族」により建国され、明朝の滅亡に乗じて万里の長城を突破し 支那に入り支那全土を統一(清王朝)したもので、現在の中国を支配している「漢民族」とは違います。

 当時の満州は、小軍閥や匪賊の頭たちがそれぞれの地域で群雄割拠していました。  満州事変の二年前には、満州人と蒙古人自身が漢民族やロシアから独立した自由な大帝国をつくろうという機運が高まり、 溥儀から資金の協力まで得ていたとされます。

 「清王朝」最後の皇帝・溥儀は、1911〜12年の辛亥革命により 皇帝の座を奪われた後、北京に軟禁状態に置かれます。 清朝を築いた満州族(女真族)にとって満州は故郷であり、 溥儀も故郷の満州に帰りたかったでしょうが、漢族・新政府は、清の元皇帝を支配下に置けば、清王朝の版図であるチベットもウイグルも満州も、 そのまま漢族政府が相続したように世界に印象付けられることを狙ったわけです。

 しかし、溥儀はその後用済みとされ、身に迫る危険を感じた溥儀は監視の目を盗み脱出。 命からがら日本の公使館に転がり込みます。 これについて単に 『1924年に北京の紫禁城から追放された』とする見方もありますが、いずれにしろ、溥儀はその後北京に近い日本租界で日本の庇護(弱者を守り支える)を受けながら、満州国復活の日を夢見ていたのです。

 当時の日本は急激な人口増加対策として「海外移民」を積極的に推進していましたが、 アメリカはアジア出身者を移民禁止としたため満州はその受け皿として期待されていました。   こうした情勢の中、日本は満州事変の翌年、1932年(昭和7年)3月1日、清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)を元首とする、 独立国家・ 満州国を建国、斎藤実内閣は満州国と日満議定書をとりかわし、 日本政府は正式に満州国を国家と認め国交を樹立します。 日本が満州国を建国したわけです。

 満州国樹立に対して、ローマ教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧、東欧諸国など世界18ヶ国が承認しています。  溥儀が満州に戻ると、 それぞれの地域で独立宣言していた満州族の小軍閥や匪賊の頭たちは、満州族の皇帝が戻ったと歓迎し、満州は1つにまとまったといいます。

 「満州」は不景気脱出の受け皿として日本が期待していた土地であり、蒋介石も 日本の満州における権益を認めています。   1933年(昭和8年)5月、日本と蒋介石の国民党政府は、 中国と満州との間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那停戦協定・いわゆる「塘沽(とうこ)停戦協定」を結びます。  この時点では、 日本と蒋介石の関係は良好であり、この関係をブチ壊したのはアメリカなのです。

 この協定により、関東軍は基本的に万里の長城から南に攻め込まないこと。    一方、中華民国軍も、決められたラインから満州国の方向に進軍しないこと。  さらに、 河北省の一部に非武装地域を設けることが取り決められます。      これにより、中華民国としては満州地域が分離した新たな国であることを認め、満州国を黙認する格好となりました。

 蒋介石は日本との関係を大事にし、『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』としてとりあえず満州国の存在は認め、 これにより 満州事変は一応の終結を見ます。  そもそも、 日本に恩義のある蒋介石としては、 ロシアから日本が受け継いだ満州権益をとやかく言える立場ではないし、また満州族の国である満州を漢民族の蒋介石が決める権利はもともとないのです。

 これを戦勝国側は満州国は『傀儡政権』と非難します。  しかし、日本にそれをいうなら、日本非難の急先鋒アメリカからして、ラテン・アメリカやカリブ海沿岸の諸共和国を武力制圧し、 傀儡体制を築きまくっていた国です。  他の白人列強も、さんざん有色人種の国を植民地支配しまくっていたわけで、当時は白人列強の傀儡国家が世界中に溢れていたのです。 そんな侵略国家が、 満州国を誕生させた日本だけ非難するのは強盗が泥棒を非難するようなものです。  近現代史本も日本の悪口だけ書かず、そこのところもキチンと書くべきです。

 ちなみに、山本夏彦氏によれば、昭和6年の満州事変から敗戦までの15年真っ暗だったという「戦前まっ暗史観」は、 左翼の言いふらしたウソだと断定しています。 『...満州事変はこれで好景気になると国民は期待し歓迎したのである。 はたして軍需景気で失業者は激減した』 とその時代を生きた氏は書いています。 そして、真っ暗だったのは昭和19年第一回の空襲からの(わずか)一年だとしています。(2025.7.21)


固定概念を打ち砕く

 その昔、ジョン・F・ケネディ大統領が就任の際に「日本で最も尊敬する政治家はだれか」質問され答えたのが、倒産寸前の米沢藩の藩主となり藩政改革によって一代で財政を立て直した 「上杉鷹山(うえすぎ ようざん)」です。  しかし、 その時日本人記者は誰一人その名を知らなかったといいます。

 いくら「博覧強記(知識が豊富なこと)」の人でも、自分が見聞きしていなければ知らないことはあります。 ましてや、その時代に生きていない人間は、当時の出来事は書かれているものでしか知識は得られません。    その際問題となるのが、はたしてその中身は事実なのかという点です。

 その点で、戦勝国側の視点で書かれ、「先の戦争は日本が起こした」という論調で埋め尽くされる近現代史は、これまで見てきたように、日本だけ一方的に悪者にして、 日本より先に東南アジアを荒らし回っていた列強については一言も触れておらず、まったく信用ならないのです。  そんなシロモノを日本人はズッと信じ込まされてきたわけです。

 鳥は自分が生まれて最初に見るものを親と認識するとされ、これは「刷り込み(Imprinting)」といわれます。  ヒトもまた見聞きしたものによって、 己の固定概念(定着して変わらない考え方)が形作られます。  これも刷り込みの一種であり、まさに日本人は「日本悪玉説」を刷り込まれてきたと言えます。

 刷り込みが怖いのは、一度形成されてしまうと、変更することが困難なことです。  オウム真理教騒動でも、一旦その宗教(邪教)にのめり込んでしまうと、なかなか洗脳が解けない実態を見せつけられ、 兵庫県の出直し選挙でも「人はいかに簡単に他人に操られる生き物であるか」改めて実感させられました。   「先の戦争は全て日本が悪いという刷り込み」を長いこと受けてきた我々日本人の中にも、この洗脳を解くのが困難となってしまった者は大勢います。

 そういう刷り込み例の一つに、「キリスト教徒迫害」があります。 これは日本がキリスト教を禁止し逆らう信者を虐殺した、という論調で語られるのが一般的です。  しかし、 これも背後にあった事情を知れば日本だけが責められるような話では無かったことが判ります。 現に、日本事情をよく知る欧米の学者の中には、 日本のキリスト教に対する禁教令は当然の事だったと評価する者もいます。

 もともと、日本はキリスト教に寛容だったとされます。  しかし、豊臣秀吉はキリシタン大名・大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進してしまったことを知り、 さらに宣教師たちが日本人の奴隷貿易に関わっていることまで判明したため、1587年にバテレン追放令を出し、布教を禁止させキリスト教宣教師に国外退去を命じます。    ただ南蛮貿易が盛んだったこともあり、あくまで形式的なものとしたため、それ以降も布教活動は続けられ洗礼者は激増していきます。

 ちなみにバテレン(伴天連)とは、ポルトガル語の「padre=神父」を指す言葉です。  当時、日本にやってきた宣教師はカトリックで、スペイン人やポルトガル人が大多数でした。    ほぼ同時期にはスペインやポルトガルは南米のマヤ・インカといった帝国を植民地にしており、宣教師たちはいわば 侵略の先兵として白人による南米侵略のお先棒を担いでいたのです。  それはいまでも 「スペインの悪口を言ってる奴、そいつはスペイン人だ」という詩句として残っています。    そのやり口で、日本人全員をカトリックに改宗させヨーロッパ王が日本を収めることを夢見て、布教活動に勤しんでいたわけです。

 そんな中の1596年、土佐に「サン=フェリペ号」という船が漂着し、その船員から「スペイン国王が、キリスト教布教により他国を征服する為、宣教師を送り込んでいる」という話が広がります。   これに、一向に止まない布教活動に業を煮やしていた秀吉は、危機感から再び禁教令を出し、京都にいたフランシスコ会などの教徒を捕らえ長崎に連行して磔にします。 この中には日本人もおり、 後にローマ法王によって日本二十六聖人に列せられています。

 その後、徳川の時代となった1609年、長崎で沈没したポルトガル船の事後処理で収賄事件が発覚した際、当事者の岡本大八(岡本大八事件)と有馬晴信が共にキリシタンであり、 さらに家康家臣にも隠れキリシタンが多くいることが判明したため、事態の深刻さに驚愕した家康は禁教令を発令します。 そしていよいよ1612年、幕府は直轄地に対して 教会の破壊と布教の禁止を厳命。 これが江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令となり、いよいよ禁教に本気を出したのです。   家臣もキリスト教徒に該当すれば改易処分となりました。

 さらに、翌1613年には、この禁教令(慶長の禁教令)を全国へ広げます。 これにより長崎や京都の教会は破壊され、宣教師はマカオやマニラに追放されます。 ただ、公的にはキリスト教は禁止とされましたが いまだ南蛮貿易は活発でありこの影響もあってか、信徒の処刑などの徹底的な対策は、まだこの時点では行われず、依然として宣教師達の活動は続いていたようです。

 しかし、その後もキリスト教布教による様々な不都合な出来事が明るみになり、流石に幕府も堪忍袋の緒が切れ、信徒の発見や改宗に本気で乗り出します。   京都のデウス町というところには多くキリシタンが住んでいましたが、厳しい禁教令が出たため、お目こぼしを得ようとキリシタンを牢屋にいれますが、これが将軍に知られ1619年、52名が処刑(京都の大殉教)されています。    この中には子供や妊婦も含まれていました。

 1620年、日本への潜入を企てていた宣教師が見つかると、とうとう幕府は大弾圧へと踏み切りキリスト教徒の大量捕縛を開始。 1622年、捕えていた宣教師ら55名を長崎西坂にて処刑するなど、 徹底的な弾圧を促進していきます。  一方、これは逆に殉教熱をあおる効果となったか、以後宣教師の決死的潜入が続出することにもつながったといいます。

 このように、物事は表から見るのと裏から見るのとでは、それぞれの事情もあり、一概にアッチが悪い、コッチが正しいとは必ずしも言えないことがあります。 戦後に書かれた近現代史本には 日本がやったことは全て悪いとされる一方で、中国大陸を半植民地支配していた西洋列強には寛容という悪しき戦後史観がまかり通っているのは、 戦勝国側によって作られたプロパガンダに騙された結果なのです。

 これまで日本人は、戦勝国側の一方的な戦後史観をベースとした、 日本だけ悪者にする一方で、自分たちの行いを隠蔽・正当化する近現代史本にすっかり騙され、 「日本は戦争を起こした悪い国」と刷り込まれてきました。  戦勝国側にしてもいまさら「本当の史実」が書かれた近現代史本が出回ってしまうと、日本の正当性が浮き彫りになってしまい困ります。     これが「歴史は常に勝者のもの」の正体であり、日本人はそこに気付いていないのです。(2025.7.26)


 

「神国・日本」からの脱却

 戦前・戦中の日本は、天皇を神格化し国家の基盤と位置づけ、「万世一系の天皇による超国家主義的な国家統治」をしてきた国といえます。     日本共産党に言わせると《...日本の領土拡張政策を正当化する論拠として機能した「皇国史観」は、時を追うごとに帝国日本の精神的支柱としての役割が強まっていった...》わけです。   当時の皇国史観とは「戦争の時代に国民を動員するための強引な仕掛け」とも言うべきものでもありました。

 つまり、軍部が《これは天皇の御命令である》と一言いっただけで、もう誰も逆らうことが出来なかった世界が、当時の日本だったのです。    これが日本を悲惨な戦争へ追い込んだ要因の一つではあったのです。

 天皇を神格化していた当時の日本は、皇国史観は強力無比であり、これを逆手に取った連合国側は、戦争末期に日本に降伏勧告文書を突き付けた際、ワザと 「天皇の地位保全」を約束した箇所を削除した内容に細工した文書を日本に突きつけます。     何が何でも日本を原爆の実験場にしたかったアメリカは、日本がやすやすと降伏してしまわないよう「天皇の地位保全」について触れなかったのです。

 案の定、「天皇絶対主義」体制の日本側は、この降伏勧告文書を承服できず無視してしまいます。  それをアメリカは待ってましたとばかりに、我々の勧告を拒否したという言いがかりをつけ、 問答無用で日本に対し非人道殺戮兵器・原爆を2発も投下し、何十万人という民間人の命を一瞬で奪ったのです。  この行為は絶対に許せない殺戮行為ですが、 ある意味天皇神格化のツケが廻ったとも言えます。

 敗戦国となり連合国の占領下に置かれた日本は、「神国・日本」から脱却させられ、天皇絶対社会から民主国家へと大転換を遂げ、 政治・社会上の諸々の「戦後体制」が新たに構築され、それまでは 皇国史観という歪んだレンズでしか物事を眺められなかった日本人も、やっと白いものは白いと言える時代が訪れたのですから、「天皇絶対の呪縛」から逃れられて、 民主国家へと舵を切らされたことは歓迎すべきことではありました。

 敗戦国となった日本に対し連合国は、日本側に戦争責任の明確化を求める一方で、天皇を戦犯として起訴しませんでした。 戦争責任の総てが天皇にあるわけではないでしょうが、 これは天皇を日本の支配体制に取り込むことで秩序を早期に安定させる狙いがあったわけです。

 敗戦直後の日本国内にも、日本社会に深刻な分裂を引き起こしかねないとの懸念もあり「天皇の戦争責任」の議論はタブーとされてきました。  戦後も100年近く経ちましたが、 現在でも「天皇の戦争責任」を問う声はほとんど上がりませんし、いまさら過去史を引っ張り出し混乱を招く必要もないでしょう。

 日本の天皇制度は、武士が権力を握っていた江戸末期までは、「実権」は武士が握り天皇はあくまで「お飾り」に過ぎませんでした。 それが明治維新を経て天皇は「元首」となり、 帝国日本の精神的支柱となったわけです。  明治時代の終わりから大正時代にかけて、日本はようやく憲法を持つ近代国家としての体裁を整えていきます。   この間、日清・日露戦争といった国運をかけた戦いでは天皇中心に、明治維新の切った張ったの世界を生きてきた優秀な英傑(才知と勇気に非常に優れている人)も揃っていたため、世界の一流国と認められる行動を取ってきたわけです。

 しかし、昭和に入り中国利権を狙うアメリカが日本に立ちふさがるようになってからは、次第に軍部が台頭するようになり、軍部が天皇の権威を利用するようになっていき、やがて、 軍部の影響力が強まるにつれ、「天皇の神格化」を強く求める世論や政治勢力が台頭していきます。  「天皇は国家そのものと同一視」されるようになっていくのです。

 当時の日本が抱えていた課題は「専制政治からの脱却」と「立憲政治の確立」がありました。  こんなとき、美濃部達吉が「天皇は国家を構成する機関の一つである」とする天皇機関説を唱えます。     「国家は法人としての一つの団体であり、その中で天皇はあくまで最高機関として位置づけられる存在である」というわけです。  これはイメージとしては「天皇は国の中の重要な役割を担っているトップの機関」であるが、 「すべてを自分の意思で決める絶対的な存在ではない」という点が大きな特徴です。

 これは「天皇主権説」の天皇そのものが国家と同一視され、統治権の全てを持つとする、とは真逆の考え方であり、天皇機関説は、すべての人に受け入れられたわけではなく、天皇を神格化する立場の人々や、 天皇の権威に依存したい勢力からは強い反発を受け、次第に「不敬」「反逆的」「国体を否定するもの」だと非難されるようになります。

 戦後は日本国憲法の制定によって、天皇の立場は「象徴」へと大きく変化しました。  これにより、天皇は政治から完全に切り離された存在となり、国事行為は内閣の助言と承認を必要とするようになります。    このように、天皇はそれぞれの時代背景や社会の要請によって、「宗教的存在」から「名目的権威者」、そして「元首」となり、現在では「象徴」というように、天皇の役割は事態の要請に合わせ変化してきたわけです。(2025.7.27)


アメリカが押し付けた「平和憲法」

 1945年(昭和20年)8月15日、日本は敗戦国となり連合国軍の占領下に置かれますが、1952年(昭和27年)4月28日の平和条約 (サンフランシスコ講和条約)発効により、日本の主権が回復します。  ちなみに、この4月28日は2013年(平成25年)に第2次安倍内閣が定めた「主権回復の日」と呼ばれます。 ただ、沖縄が本土復帰するのは1972年5月15日まで待たされます。

 また、米国は太平洋で覇を競った強国・日本に対して、未来永劫自分たちの脅威とならないよう、ローマ帝国とカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争(ポエニ戦争)において、 ローマが行った戦後処理と同様の、日本を骨抜き国家とする施策を取ります。 ローマはカルタゴに対し「海外植民地の没収」、 「例え自衛戦争であっても抗戦連は認めない」、「占領軍の維持費負担」させ、「賠償金の50年間分割払い」を課し、 さらに「毎年カルタゴの指定を100人ずつローマに送りこみ自分たちの子飼いとする教育」を行いました。

 アメリカは大東亜戦争で自分たちに立ち向かい、手こずらせ、挙句には欧米諸国の植民地を次々に解放し、独立の後押した憎っくき日本に対し、これと全く同じ戦後処理を行います。  まず台湾、満州といった 海外領土を全て取り上げ、武力を持てない丸腰の 「平和憲法」を押し付け、 賠償金を支払わせ自分たちが支配していた旧植民地に振る舞います。  また「フルブライト奨学金制度」を設け、 優先的に新聞記者を留学させ親米派に育て服従させる教育を施し、自分たちを批判する記事は書かせないようにします。

 また、GHQ(占領軍)の経費を負担させましたが、主権回復した後の日本からも「用心棒代」として日米安保条約の中に「思いやり予算」とやらを紛れ込ませ、 駐留費用を負担させ続けています。 さらに、米軍新基地建設費なども背負わされており、2024年度だけでも年間で1兆円超の財政負担を強いられているのです。    日本はいまだに占領軍の維持費負担を負わされているのです。

 2016年、アメリカ・バイデン副大統領は「日本が核を持てないように米国が憲法に書き込んだ」と発言しています。 ただ、日本はこの押し付け憲法を逆手にとり、 アメリカをギャフンと言わせたエピソードがあります。  「朝鮮戦争」勃発の際、アメリカは「国際秩序を脅かす勢力を力で倒すことが日本人の責務」などとヌケヌケと言い放ち、 急ぎ再軍備して朝鮮戦争を戦えと命令します。

 しかし、硬骨漢・吉田茂は、「ヘンな憲法を押し付けておいて、今さら何を言う」とソッポを向き無視し、 現在の陸上自衛隊の前身に当たる保安隊を発足させただけでお茶を濁しています。  この際のウラ話として、 当時在日朝鮮人が連合国人になり、日本国内でやりたい放題の無法をやっていたため、 吉田茂は思い余ってマッカーサーに「全朝鮮人の強制送還」を頼みますが拒否されます。  それで吉田も反発したわけです。

 これにはアメリカも平和憲法を押し付けたことをさぞ後悔したはずです。 その証拠に、 その後アメリカ副大統領のニクソンも、ベナム戦争の直前、「日本の非武装化を強いたのは米国だった。 過ちを素直に認める」と マッカーサー憲法の破棄を求めています。 この時も日本は拒否しています。

 「軍隊を持たせられず」、「戦争は放棄させられ」、「交戦権も放棄」した憲法を押し付けられた日本は、 幸いなことにこれまでは米国の手先としてにいいように扱われもせず(湾岸戦争では130億円分捕られましたが)、中国との武力衝突もナントカ避けられてきました。

 近年中国は「時代錯誤の超侵略国家」の本性を隠しもせず、日本と一触即発の事態が続いています。    日本人全員が平和憲法の空虚さを実感する日が来ないことを願うばかりですが、ただ、もう、ここまできたら、意地でもアメリカ様お仕着せの平和憲法は手放さないことです。     そうしておけばアメリカの片棒をかつがせられ、 どこかの戦争へ引きずり込まれることは、取りあえずは回避できるのですから。

 また、かつて大国・アメリカ相手に半年間は連戦連勝を続けた日本人はバカではありません。  丸腰の国にされている現実を放置するはずはなく、日本的なレトリック(弁論説得術)で 「自衛隊は軍隊ではない」としておき、 その一方では着々と軍備増強に努め、万が一中国や北朝鮮が日本侵略を企てた際には、返り討ちする程度の軍事力は備えているのです。  そして、イザという事態を招かないように、 高い金を出して用心棒として米軍を国内に待機させています。  日本は軟弱に見せかけておいて、ナカナカ、強かなのです。(2025.7.30)





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コトバ学
(*1)....WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。

(*2).....





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