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原爆を使うため日本を降伏させたくなかった米国

 アメリカが日本に対し、恐ろしい殺戮兵器である原爆を2発も投下した非人道行為について、 「日本が降伏しなかったから投下された」、「上陸作戦を行えば米軍犠牲者が百万人を超えるためやむを得ず投下した」などと、 これまでアメリカの都合のいい理由を一方的に押し付けられてきました。

 沖縄戦で日本軍の暗号が解読でき、日本上陸作戦では日本側がかなりの兵力を集中させていることが判明したから原爆で一気に殲滅しようとした、 などという話もありますが、そもそも、ルーズベルトはそんな理由付けをされる、はるか前の1942年8月から原爆開発計画(マンハッタン計画)を進め日本抹殺に邁進しています。   どんな言い訳を並べ立てようが、アメリカは日本を原爆の実験場にしたのは事実なのです。

 そもそも天皇は原爆が投下される前の1945年(昭和20年)6月22日、非公式ながら鈴木貫太郎首相らに「時局収拾を求めていた」とされます。 つまり、日本は原爆は投下されず悲惨な犠牲は出さずに もっと早く降伏していた可能性があったのです。  原爆を開発した米国科学者たちからも、 原爆投下が決定される前にアメリカ陸軍長官あてに、日本への原爆投下を思いとどまるべきという進言が書かれた 「フランク・レポート」 と呼ばれるレポートが提出されています。  しかし、トルーマン大統領の唯一の相談相手で強烈な対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官は、ソ連をけん制する意味でも、 何としても日本に原爆を投下するつもりでいたのです。

 アメリカは、ごく一握りの白人列強が世界中の有色人種を武力で植民地支配し我が世の春を謳歌していたとき、 自分たちを半年間とはいえ圧倒的強さで叩きのめし、 極東アジアの地から追い払った憎っくき有色人種・日本を、 見せしめのためにも何としても原爆の実験場にしたかったのです。     そして、その目的を達成するため、日本が大人しく対日宣言案(ポツダム宣言)を受け入れ降伏してしまわないよう、 「天皇の地位保全」を約束した箇所を削除したのです。

 これでは「神国」日本は降伏勧告をやすやすと受け入れるわけにはいきません。  アメリカはこれを見越してポツダム宣言の中の「天皇の地位保全」部分をワザワザ削除しておいたのです。   かくして、 アメリカの狙い通り日本は黙殺して受ける気はないというこじつけによって、正式な原爆投下の理由を得たとして、日本に2発もの大量殺戮兵器を落とし、 何の罪もない20万人もの日本人を一瞬で虐殺したのです。  米国はなんとしても、 原爆を使うため日本を降伏させたくなかった、 恐ろしい国なのです。

 東京裁判判事のレーリンクは、やむを得ない選択と言いながら、 実験を兼ねて長崎にも広島型とは別タイプのプルトニウム原子爆弾を落としたこの嘘つき大統領について、 「彼は25世紀に宛てたタイムカプセルに『広島市民には投下前に三度も避難勧告をした』という大嘘を入れさせた。  米国の残虐さを隠すために」と著書で告発しています。   25世紀の日本人は決して騙されてはなりません。

 幕末混乱期、幕府軍・軍事総裁の勝海舟は「江戸城無血開城」を実現させた人物です。 大政奉還を受け江戸に迫る官軍は、 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜を備前藩に「お預け」とせよ、と幕臣たちが到底受け入れることはできない条件を突き付けます。    この危機に海舟は官軍側に「この条件では江戸は火の海となる」として条件を変えるよう申し入れ、もし変えなければ「皇国の崩壊に繋がる」と脅し、 これに西郷隆盛は妥協し慶喜に対する厳しい処置を緩和したという史実があります。

 海舟の「抵抗せず、政権も返す、城も明け渡す」という現実を見据えた判断によって江戸は火の海にはならず、慶喜も穏やかな老後を送ったのです。    このかけひきは、日本人同士だから成功したとも言えますが、とはいえ、米国が降伏要請文を突き付けてきたとき、 天皇神格化の呪縛に囚われず、この降伏勧告を無視せず、もっと別な対応を考えられた人材がいれば、 その後の原爆投下という惨劇は避けられたのでは、とつい考えてしまうのは自分だけではないはずです。(2025.7.15)

  
 

邪魔者日本を潰そうとしたアメリカ

 戦後は「日本は黙って大人しくアメリカの言うことを聞けば良かったのダ」という声もありますが、当時の世界情勢はそんな生易しいものではなく、有色人種のほとんどが白人列強の植民地とされ、 奴隷として牛馬のように使役させられ、弱小国は否応なく強国の支配下に置かれた時代でした。

 もし日本が大国アメリカの「中国・東南アジアから手を引け」という脅しに屈していたら、いまでも日本は白人列強の支配下に置かれたでしょうし、 今の繁栄も無かったでしょう。  それどころか白人国家による有色人国家の植民地支配という歴史は途切れることはなく、いまでも続いていたかもしれません。    日本は敗戦国となったからなんでも「悪者」にされる国にされたのです。

 当時の日本もアメリカとの長期戦になれば勝ち目は無いことはわきまえており、 初期の電撃作戦を成功させアメリカとの講和に持ち込むというかすかな希望で、国力差何十倍という、まさにアリが像に挑むような戦いをやむなく挑んだのであり、 好き好んで戦争に突き進んだわけではありません。  1941年(昭和16年)初秋、近衛首相は山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官に対し、日本海軍が英米と戦争して勝算があるかと問うた際、 『...一年間なら十分暴れて見せましょう。 それから先は保障できません』と答えたとされます。  山本も「長期戦では日本の勝ち目はない」ことは自覚していたのです。

 日中戦争も大東亜戦争も、そこには満州が喉から手が出るほど欲しかったアメリカの思惑がありました。    アメリカは「物心両面で中国に介入」していた日本を中国大陸から追い出すため、蒋介石を使って 「支那軍に日本人居留区を襲わせ」日中対立構図をつくり、 日本を抹殺するため「ABCD包囲網によって、日本軍を 真珠湾奇襲作戦に誘い込み、 最初の一発を撃たせたのです。

 大東亜戦争は独立戦争であり、邪魔者日本を潰そうとしたアメリカに対抗した自衛戦争です。  世界中の有色人国家を植民地支配していた白人列強と対立するハメとなった日本が、 生き残るために立ち上がった戦争でした。  そして日本の奮闘によって欧米に植民地喪失という大損害を与え、 「欧米諸国の植民地を次々解放」するという歴史に残る快挙を成し遂げたのです。

 ルーズベルトの側近ウィリアム・レーヒは「日本は欧米植民地に縛られてきたアジアの民衆を反白人に変えるだろう」として、 欧州の国々が国家財政の要にしてきた植民地は米国のせいでなくなったとつぶやきます。    事実、真珠湾攻撃から半年の間に日本軍は 破竹の勢いで勝ち進み、英領ビルマも 米領フィリピンも蘭領インド(インドネシア)も白人は皆追い出され、 日本の指導の下でそれぞれ自治政府が誕生しています。  日本は 植民地支配破壊という「歴史的偉業」を成し遂げた国なのです。

 しかし、敗戦国となった日本は日本人に罪悪感を刷り込む「WGIP」によって 「自分たちの国はかつて侵略戦争をした」と刷り込まれ、 「列強の犯罪隠し」のスケープゴートにされてしまいました。  そのため、東洋の島国・日本が 有色人種が白人に植民地支配され牛馬のように使役されていた時代獅子奮迅の働きで 「白人国家による植民地支配の世界をブッ壊した」 という歴史の痛快物語は、近現代史本に堂々と載ることはありません。  日中戦争や大東亜戦争を語る本にもなぜかこの部分はスッポリ外されているのです。

 その理由は戦勝国側にとって「書いてしまったら、日本だけ悪者説が成り立たなくなってしまう 」からです。  ここを知らされていない戦後の日本人は先の戦争の本当の姿を知らされず、 事実でない話に騙され、 「日本軍残虐説」にすっかり毒されているのです。

 これに輪をかけてきたのが、勝者側につき祖国を喜んで悪者にした 反日的日本人たちです。 この勢力は「教科書誤報事件」以降も 「日本は侵略戦争を起こした軍国主義国家」と国民を扇動し、 「先の戦争は全て日本が悪いから起こった」論を言い続けています。(2025.7.18)


 

これがアメリカの「手口」

 フィリピンはアメリカの植民地にされましたが、その際のアメリカのやり方はいかにも「残虐な米国流」でした。 当初、アメリカは「スペインがキューバを植民地支配している」 として米西戦争でスペインと一戦を交えます。 そんな中の1898年2月、ハバナ港に入った米国戦艦メインが謎の爆沈をします。 これには 米国による自作自演説もあり当時スペインとの開戦を要求するアメリカ国内の強硬派によって 開戦の口実に利用され、アメリカはスペインに宣戦布告します。  ところが、なんと米艦隊はキューバではなくマニラ湾のスペイン艦隊に襲い掛かったのです。  なんのことはない、 アメリカの狙いは、本心はスペインに植民地支配されていたフィリピンが欲しかった、というわけです。

 その際、アメリカはフィリピンに対し「強力したら独立させてやる」と約束し、米軍に協力させて攻撃に参加させています。  しかし、そのウラでは、米国マッキンリー大統領はスペインと 「フィリピンとグアムを2000万ドルで買い取る」という交渉に入っていたのです。  結果、キューバの民を助けるはずが、いつの間にか太平洋の要衝、フィリピンとグアムの領有話に化けたのです。    キューバも米保護領にされてしまいます。

 そして、スペインの手を離れたフィリピン側に、突然「ここは米国の植民地にする。 独立はなしだ」と宣言します。  裏切られたフィリピン側は、当然抗議しますが、それを待ってましたとばかりに、 米軍は即座に優秀な兵器を駆使し大攻勢をかけます。  これでフィリピン人民兵の三分の一が殲滅されてしまったのです。

 たまらずフィリピン軍は山中に逃げ込みますが、米軍司令官アーサー・マッカーサーは「山に逃げたらもう正規軍ではない」と一方的にゲリラ認定します。    相手がゲリラなら彼らを拷問しようが殺そうが国際公法は関係なくなりお構いなしとなります。    かくしてフィリピン全土が戦場と化し、街中でも公然と拷問や処刑が行われます。  また、ルソン島の東、サマール島で米軍に損害がでると、報復としてアーサーは 「サマール島とレイテ島の島民10万人を皆殺しにしろ」と命じます。(高山正之)

 その際、部下が「10歳以下は除け」という命令に要約します。  掃討戦が終わった後に報告にきた部下は「10歳以下の子供は一人もいなかった」と伝えたといいます。    当時、その様子を報道した米国フィラデルフィアの新聞には、「...アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の10歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、すべて殺している。 手を挙げて投降してきたゲリラ達も、 1時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れていく」という記事にしています。

 恐ろしいのは、この記事は米軍の残虐行為を非難しているわけではないということです。 それどころか、文明人が非文明人に対する正当な行為であるという、 アメリカ側の論理で書かれたのです。  当時の有色人種に対する偏見と 根深い白人至上主義の思想では、この恐ろしい行為も全く問題視などされなかったわけです。

 さすが、先住民インディアンをほぼ皆殺しにし、日本に対し 「犬とジャップは立ち入るべからず」とあからさまな人種差別を仕掛け、大戦前には 「日本の人種平等案を葬り」、 日本の抹殺を図ったアメリカらしい民族性であり、アメリカ人の人種差別意識は筋金入りなのです。    このフィリピンとアメリカ戦争(米比戦争)は1899年2月から始まり、フィリピンは1902年に敗北しアメリカの統治下に置かれ、のちにフィリピン軍は日本と戦う運命となります。

 フィリピンを植民地支配したアメリカは、将来のフィリピン独立を視野に入れ 高級官僚に大量のフィリピン人を登用し教育に力を入れた、などともされますが、しかし、インフラを整備するなどという政策はとりませんでした。  フィリピンは自治権は得られましたが、 資源を搾取されただけで経済発展することはなかったのです。  将来アメリカの支配から離れるフィリピンに、わざわざ投資するはずはないのです。(教科書が教えない歴史)(2025.7.15)


 

自分の手は汚さないアメリカ

 日本の敗戦後、厚木に降り立った占領軍の親玉・ダグラス・マッカーサーは、「日本人の戦犯として39人を捕まえろ」と命令します。  この39人と言う数は、アメリカ開拓時代、 先住民インディアンを皆殺しにしていたとき、降伏してきた酋長39人全員を絞首刑にしたときの数字と同じです。

 開拓者アメリカは、公然と先住民であるインディアンを殺しまくり、リンカーンの時代には最後スー族が残るだけとなります。  そして、スー族の土地をすべて奪い「食料・衣料品は支給する」 としておきながら、 実際は約束は守らず、それに怒ったスー族が白人を殺すと、リンカーンは待ってましたとミネソタのスー族絶滅を命令し、例の39名処刑となったのです。     1926年土地返還を求めて武装蜂起したアメリカインディアンのヤキ族を2万の兵と空爆で制圧しこれが最後の虐殺となります。

 マッカーサーはリンカーンに倣い、日本民族をかつて亡ぼしたインディアンと同じに見立て、同じ数の処刑者を揃えようとしたわけです。  戦後は日本軍の 数々の日本軍残虐説ばかりが言い立てられますが、必ずしも正確ではありませんし、 アメリカも原爆投下や東京大空襲といった無差別殺戮を行っているのです。

 先の対日戦争についても、アメリカは日本に対してインディアン処分と同様の手段を用います。  それは自分では手を出さず「互いに争わせる」方法です。  たとえば、ワンバノアグ族を手なずけ、 別の部族と争わせ亡ぼすというやり方を繰り返し、リンカーンの時代にはスー族が残るだけとなっていました。  アメリカのこのやり方は、 日中戦争でも存分に発揮しています。   アメリカは、少しは日本に未練があった蒋介石を手なづけようと、 武器とタップリのカネを与え裏切らせ日本の足を引っ張ります。    そして支那軍に日本人居留区を襲わせて日本軍を怒らせます。

 この戦いで支那を返り討ちにした日本軍は、逃げる支那軍を追って南京へ進軍(南京攻略戦)、支那軍を3日で壊滅させ、 逃げる支那軍を追い漢口へと進出しますが、蒋介石の国民党政府(支那軍)は四川省・重慶に逃れ、 これでアメリカの狙い通り日本軍は泥沼の膠着戦へと誘い込まれたのです。

 逃げる支那軍は日本軍の進軍を妨害するため、各地で建物のみならず田畑や民家まで、すべて焼却する 焦土化作戦により自国民百万人を犠牲にしています。 1938年6月には、堤防を決壊させ農地を破壊する 黄河決壊事件を起こしますが、このとき日本軍は、進撃を中止しイカダや舟艇で救助を開始、このとき救助された避難民は10万人以上とされます。    このとき日本軍は自分達の糧食を提供しています。

 戦後の日本は、「教科書誤報事件」によって日中韓の対立構図が生み出され、日本を戦争犯罪国家に仕立てるため 様々な日本貶め話が生み出されました。  この騒動で韓国が手にしたのが 「慰安婦問題」であり、中国の最強日本叩きツールとなったのが、 1937年(昭和12年)に起きたこの「南京攻略戦(南京事件)」です。 いまでこそ 「南京事件」とややトーンダウンした呼び名になりましたが、 1980年代の日本の高校の歴史教科書には『南京大虐殺』などという血なまぐさい言葉で表記され、 世界中に 根も葉もない日本軍の残虐性が拡散されていったのです。

 その後、日本はアメリカの兵糧攻め(ABC包囲網)に遭い、やむなく資源確保のため南部仏印に進駐したことで、 米国は待ってましたと例の「ハルノート」を日本に突き付け、米国との戦争へ引きずり込み、結果日本は敗戦国となったわけです。   すべてアメリカの思惑通りにコトは進んだわけですが、 アメリカはもはや用済みとなった蒋介石も放置などしません。  武器弾薬は一切与えず、 対立相手の毛沢東と戦わせ、かくして蒋介石はソ連から豊富な武器を与えられた毛沢東に押され、 命からがら台湾に逃れていきます。   アメリカは決して温厚な人道主義国家などという国ではないことを、日本人は肝に銘じておくべきです。

 こうして、例の「39人」が「公平な東京裁判」によって戦犯に仕立てられます。     A級戦犯が何人いたか明確ではありませんが、東京裁判で起訴されたのは28名とされます。  そのうち軍人7名に対し1948年12月に刑が執行されます。 この7名全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっています。    その後、サンフランシスコ講和条約によりA級戦犯の釈放が進められ、未だBC級戦犯の収監者が残る中、1956年3月にA級戦犯全て出所が完了したとされます。(2025.7.15)

  
 

「アラモの戦い」に見る米国の狡猾さ

 メキシコは1821年にスペインから独立しますが、当時、テキサスはメキシコの一部でした。 1820年代、米国はメキシコ領テキサスへの入植をメキシコ政府に要望します。 肥沃な土地を頬っておくのは勿体ないと訴えたのです。     当時、そこに住むアパッチ、チェロキー、コンンチなどの先住民に手を焼いていたメキシコ側としても、渡りに船で入植を歓迎します。  ただ、メキシコは奴隷を禁止しており、米国側に 「奴隷は入れないこと」を約束させます。

 それに対し米国は「我が国の独立宣言に人は等しく創られ、生命、自由、幸福追求の権利は侵されないとある。 約束は守る」と返します。   しかし、10年後に調べたら、入植者3万人のうち5千人が黒人奴隷でした。   当然メキシコ側はこれに抗議します。  ところが、米国は開き直り「そこまで干渉するなら住民にメキシコからの独立を問う民主的な住民投票で決める」と言い出したのです。  とんだペテン師ぶりです。

 そのころには、米国入植者の数は在住メキシコ人の10倍にもなっていました。 そして、実際住民投票を行って、1836年3月、一方的にテキサス共和国の独立を宣言します。   民主的を逆手に取り、それでテキサスを分捕ろうとしたのです。 当然、メキシコ側は怒ります。 大統領サンタ・アナは、独立を唱える入植者250人が立て籠もる「アラモの砦」 に軍を出して攻撃し陥落させます。 その際、中にいた婦人と子供24人と、2人の黒人奴隷の命は救っています。  メキシコはアメリカなどよりよほど人道的なのです。

 そこを、米国は待ってましたと「リメンバー・アラモ」を叫び、正規軍を動員してメキシコ軍を倒し、まんまとメキシコを手中に収めたわけです。 相変わらずの「アメリカの狡猾さ」であり、 実に見事な国盗り物語、と言うわけです。

 表向きは「民主的」を訴え敵に先に手を出させ少々の自国民を犠牲にし自国民を奮い立たせ、 その後に正義の報復と主張し力づくで獲物を奪い取る、という手段は「スペインとの米西戦争」でも「日本を誘い込んだ真珠湾奇襲攻撃」 でも発揮しています。

 アラモの30年後、保護貿易を望む北部と、自由貿易を主張する南部が戦った1861年からの米南北戦争では、アメリカは別な狡猾さを見せます。  一進一退の戦局に苛立ったリンカーンは、開戦2年目に「奴隷解放宣言」を出します。   南部は奴隷を使っており、そんなところと貿易するのかと言う欧州向けのメッセージだったわけで、結果、南部は大きな経済制裁を受け戦局は北軍に傾きます。

 ただ、北軍20州の中でケンタッキーやミズーリなど5州は奴隷州のままであり、リンカーンの宣言は南部に対するネガティブ・キャンペーンだったのです。  また、北軍のウィリアム・シャーマン将軍は、 アトランタを陥落させ全てを破壊し焼き尽くした後、「南軍の側についた民間人をどうにかしなければ、勝利したことにはならない」として、アトランタから400キロの大西洋岸まで50キロ幅ですべて焼き払います。    世にいう「海への進軍」です。(山正之・変見自在)

 アメリカは日本に対しても「東京大空襲」や「原爆投下」など、民間人を虐殺する数々の作戦を実施しています。   平気で大勢の民間人を巻き込み虐殺していくアメリカの戦争スタイルは、昔から変わらないのです。(2025.7.15)


 

フィリピンを巡る日本とアメリカの戦い

 ダグラス・マッカーサーは、フィリピン人を皆殺しにしようとしたアーサー・マッカーサーの息子ですが、マッカーサー家は父親の代よりフィリピンに多大な利権を握り、マッカーサー王国などと揶揄されていたといいます。    そのダグラスは一度は日本軍によってフィリピンから追い出されましたが、その後米軍の反転攻勢が始まり1944年10月20日、フィリピンに再上陸した際、 上陸地点にレイテ島を選んでいます。   「土人どもは日本軍と過ごしてすっかり日本人に懐いている」と考えるダグラスは、 米軍に楯突けば「レイテのように皆殺しにする」と恫喝したのです。  血は争えないようです。

 フィリピンの人たちは、レイテと聞いて40年前の殺戮事件を思い出し、恐れ戦(おのの)き日本から離れていきます。 フィリピン人の対日感情は悪化する一方なのも当然で、 ダグラスの父アーサーが行った恐ろしい残虐行為は、それほどまでにフィリピン人に恐怖を植え付けていたのです。

 米比戦争では日本に関するエピソードがあります。  1899年6月、フィリピンは日本に武器の調達支援を求めたため、陸軍参謀本部は援助を了承します。 その後、その武器を積んだ船はフィリピンに向かいますが、 中国の寧波沖合で暴風雨にあって沈没しています。 これをヤレ「提供したのは、日本では使用しなくなっていた村田銃などの旧式武器だけだ」などと難癖付ける向きもいますが、当時の貧乏国・日本が、 ガンバッてフィリピン独立の支援を行ったのは事実なのです。

 現代においてもフィリピンは南シナ海の領有権を巡って中国と睨み合っていますが、2020年代から日本が円借款で供与した多目的船が、 フィリピンの海洋安全保障を支えています。  多目的船の特徴は他国の同型船よりも重心が低く、荒天でも安定した航行が可能とされます。  日本は昔から今に至るまで、アジアの安定に貢献している国なのです。

 「日本憎し」のルーズベルトは、大戦への参加口実を作るため、 ハルノートで日本に戦争を決意させ、日本に真珠湾を奇襲させて、 85%が参戦反対だった米国市民を怒らせ、米国参戦を決定づけたわけですが、日本軍は真珠湾攻撃直後の1941年12月22日にルソン島に上陸し、翌年1月2日には首都マニラを占領。  さらに、 1942年4月から5月にかけてバターン半島とコレヒドール島に立て篭もっていたアメリカ軍を降伏させます。  開戦直後の日本軍は強かったのです。  これにより、フィリピンは欧米からの支配下を逃れられたのです。 この際に日本軍の捕虜となったアメリカ軍やフィリピン軍が、 約83kmの距離を3日間歩かせられる「バターン死の行進」が起こったとされます。

 日本軍による占領の結果、アメリカへの経済依存度が高かったフィリピンは困窮し、また日本軍の軍政府はコモンウェルス政権が発行した紙幣の一部を無効とした上で軍票を乱発したためインフレーションを発生させ、物資不足を悪化させた、 といったマイナスの見方もされますが、平和の時代でもあるまいしあの悲惨な戦争が続いていた時代、すべてが満足のいく結果になるはずはありません。

 フィリピンの中学校教科書には、アジアを植民地支配していた白人列強国を追い払い 白人支配を断ち切った日本について、「...日本の勝利はアジア民族に大きな影響を与えた。  その第一はアジア人が西洋人に劣っていないこと、 西洋の大国にも打ち勝てることを証明した。  第二に 西洋の帝国主義に圧倒されていたアジア諸国国民のナショナリズムを掻き立て、フィリピン、インドネシア、 インドなどは日本をアジア解放のチャンピオンと仰ぎ見た」 と記述されているそうです。

 日本軍による軍政の失敗もあって、フィリピン人の対日感情は悪化する一方だったなどとされますが、それなら教科書で日本を讃えるはずはありません。  不都合な事態も発生したのは事実だったでしょうが、 それをもって日本を全否定するのはどうかと言う話です。  戦後日本はいまだに当時の日本軍の行為について、批判的なトーンで語られる のが一般的ですが、それを言うなら同時に米比戦争におけるアメリカの蛮行にも触れるべきです。

 日本は宗主国面して極東アジアの地に居座っていた白人列強を追い払い、現地の人たちを解放し、アジア独立の道筋をつけた国 というのは歴史の事実です。  反日的日本人は、一部の日本軍の失態を針小棒大(大げさに誇張)して、 いかにも「日本軍がアジアに侵略戦争を仕掛け現地住民を虐殺した」かのように騒ぎますが、 そんな妄言に惑わされてはなりません。  目糞鼻糞を笑うではありませんが、アメリカの例でみるように有色人国家を武力で植民地支配した白人列強は日本よりはるかに残虐国家なのです。(2025.7.15)


 

思惑がミゴトに外れたルーズベルト

 ルーズベルトの思惑は、日本を「ハルノート」で挑発し真珠湾を襲わせ、あとは米英の艦隊と日本機では絶対落とせない爆撃機B-17で、「即座に日本を粉みじん(チャーチル回顧録)」にして、 有色人種の邪魔者・日本を「直ちに」抹殺することでした。    そのため米国が仕掛けた外交上の暴挙ともいうべき「ハルノート」を突き付け 日本を戦争へ追い込んだわけです。

 日本を舐め切っていたルーズベルトは、 日本軍の手が届く真珠湾に、わざわざ米西海岸ロングビーチにある米太平洋艦隊の戦艦を 「動けぬアヒルのように(山正之・変見自在)」停泊させ、日本軍の奇襲を誘います。    日本軍の暗号はとっくに解読されていたのです。   水深14mという浅い真珠湾では魚雷攻撃は不可能であり、 チビで近眼の日本人パイロットに正確な爆弾投下攻撃などできるハズはないと高をくくっていたのです。 むしろ、死傷者が出ないことのほうを心配していたのです。 「空飛ぶ要塞」B-17にしても、当時欧州戦線でドイツ戦闘機と渡り合い、 撃墜されないどころか逆に相手を叩き落すほどの強力な爆撃機でした。

 ところが、日本の攻撃部隊は魚雷を改造し猛訓練を積んでおり、湾内の米戦艦に面白いように命中弾を浴びせ、戦艦6隻をアッというまに沈めます。 さらに、開戦に間に合うようシンガポールに向っていた イギリス戦艦2隻も、 陸上から飛び立った日本軍爆撃機の攻撃によって、2隻ともアッという間に撃沈させられたのです。  航空機による戦艦撃沈は史上初でした。

 その後も、頼みの綱だったはずのB-17は、日本軍の最新鋭戦闘機ゼロ戦によってバタバタ落とされます。    ゼロ戦の余りの高性能とパイロットの技量に恐れた連合国側は「ゼロ戦に単機で挑むこと」を禁止していたほどです。  かくして、 ジャップに高性能の戦闘機など製造出来るハズなど無い、 と考えていたルーズベルトの思惑は無残に外れ、「直ちに」倒せなかった日本は、アジアに広がる欧米諸国の植民地を次々に解放し、 独立の後押しをしていったのです。  植民地支配合戦の嵐が吹き荒れた時代、 植民地という大切な財産を失った欧州は大航海前の貧乏国に戻されたわけで、いまだに一部の欧米人には日本に怨み骨髄の者もいるわけです。

 欧州に植民地喪失という大損害を与え貧乏国に戻した責任は、ひとえに「ハルノート」で日本を 「生き残るための戦い」へと追い込んだ米国にあり、 アメリカは「日本のせいで植民地を失ったわけで、 「白人による植民地支配の世界を自ら潰してしまった」のです。    ルーズベルトは日本に「白人列強による植民地支配に終止符を打たせた」とも言えます。     その点でルーズベルトは「リッパな政治を行った」のですが、その逆恨みか、欧米は戦後も次々に日本にイジワルを仕掛けてくるのです。    1970年代、米国は鯨油に変わる凍らない潤滑油の合成に成功すると、捕鯨をやめ、鯨は人間の友とか言って、日本に嫌がらせします。 ところが同じ白人捕鯨国ノルウェーには何も言わないのです。

 ルーズベルトは日本の戦後処理を決める際、「アジア人の男は去勢し、女は白人と交配させ、文明化を図る」としておきながら、日本については 「日本人は混血させてもよくはならないから隔離しておく」と、駐米英公使ロナルド・キャンベルに披瀝したといいます。    それにしても、ルーズベルトは彼の母方の祖父(デラノ家)が支那のアヘン貿易で大儲けしたせいか、中国に親しみを持つ一方で、相当な「日本人嫌い」だったようです。    これが日米戦争の遠因ともされており、原爆投下も日本を毛嫌いするルーズベルトならば、さもありなんということなのでしょうか。(2025.7.15)

  
 

マッカーサー憲法の破棄を求めたアメリカ

 もし「朝鮮戦争」が勃発しなかったら、日本の戦犯処刑の人数はもっと増えていたかもしれません。  1950年(昭和25年)6月25日、ソ連のヨシフ・スターリンと中国の毛沢東の同意と支援を取り付けた金日成率いる北朝鮮が、 朝鮮半島における東西陣営の事実上の国境線と化していた38度線を越えて、南の韓国に侵略戦争を仕掛けます。  いわゆる「朝鮮戦争」が起きたのです。

 これで困ったのがアメリカです。  本来ならアジアの紛争は敗戦国日本に指図して介入させ解決させれば良かったのですが、アメリカは日本を二度と自分たちに歯向かえない国にするため、 戦争放棄の平和憲法を押し付け、丸腰にしてアジアの片隅に隔離していました。  つまり、 日本軍を潰すのが早すぎたため「戦争に使えなかった」のです。

 これでアメリカは自分達だけでこの騒動の後始末をつけなければならなくなったのです。  なにせ、日本軍を解体して丸腰にしてしまったのですから。   結果、 韓国を救うため北朝鮮軍と戦う米軍の犠牲者は増えるばかりです。  アメリカは「なんで俺たち白人がアジアの原住民と戦って殺されなければならないか」と思ったわけです。

 アメリカが押し付けた「平和憲法」(マッカーサー憲法)で日本を丸腰にしたはずのマッカーサーは、 自分が日本の力を奪っておきながら、1951年1月の年頭所感で「国際秩序を脅かす勢力を力で倒すことが日本人の責務」とヌケヌケと言い放ちます。    これに吉田茂は「ヘンな憲法を押し付けておいて、今さら何を言う」とソッポを向き無視します。  米政府はジョン・ダレスを派遣し、急ぎ再軍備して朝鮮戦争を戦えと命令しますが、 吉田は再度拒絶します。  昔の政治家はハラが座っていたのです。

 結局、日本は動かず、米国は3万6千の戦死者を出し、1953年7月27日に北朝鮮軍と国連軍が休戦協定に調印して「朝鮮戦争」はやっと休戦となります。  その時にはすでにベトナム戦争の影が忍び寄っていました。     同じ年、仏印(フランス領インドシナ・現在のベトナム・ラオス・カンボジア・中国広東省湛江市に相当する地域で構成)を訪問したアメリカ副大統領のニクソンは、その足で日本に立ち寄り 「日本の非武装化を強いたのは米国だった。 過ちを素直に認める」とマッカーサー憲法の破棄を公式に認めます。  マッカーサーは1951年4月に解任されていました。

 そのときは米国の仏印介入は決まっていました。  ニクソンの発言は間もなく始まるだろうベトナム戦争に、今度こそ日本軍を投入しようという思いが滲んでいたのです。  しかし、同じころフィリピンの華僑系大統領キリノは、 対日賠償交渉の脅しに日本人BC級戦犯を14人も一度に処刑しています。  他のアジア諸国も 独立解放の恩人・日本に感謝の心もなく、 法外な賠償を請求します。(山正之)

 これには、さすがに温厚な日本人も怒ります。  白人だけでなくアジア人にも強い不信感を持った日本は、ニクソンの話に乗りませんでした。  いまは反日勢力が「憲法改正反対」、「非武装中立」 などとお花畑説をタレ流していますが、当時の日本は米国の押し付け憲法で丸腰にされたのを逆手にとって、ガンとして米国の脅しに屈しなかったわけです。

 昨今の日本は北朝鮮の核ミサイルや侵略国家・中国によって、「戦争反対」一本やりでは危うい立場になっています。     平和憲法もいい面はあったのですが、憲法と乖離している現状では、 そろそろ日本人も自分の国はしっかり守りたいという思いを抱かなければならない時がきたのかもしれません。(2025.7.16)

  



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関連サイト


コトバ学
(*1)....WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。

(*2).....





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