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戦前から戦中にかけての日本史・総集編

 人類の歴史は 強い民族が弱い民族を征服してきた歴史 とも言えます。  白人列強が有色人国家に武力で侵攻し、有無を言わせず植民地支配していた時代、唯一 植民地にならなかった日本は、 列強相手の戦争へ突き進み、 欧米諸国の植民地を次々解放白人列強による植民地支配に終止符を打った 国です。

 白人列強に立ち向かえる有色人国は、世界中でも日本ただ一国だった当時、これ以上の欧米列強の アジア支配拡大を食い止める目的で、 日本はアジアの一角に進出していく道をとらざるを得なかったという当時の事情は、日本人として把握しておくべきでしょう。   日本はアジアを植民地支配していた白人国家を追い払うため戦ったのであり、 けっして現地の人びとを敵としたわけではなかったのです。

 ただ、その過程においては、 白人列強に与する側となった現地の人と対立することは当然ありました。  それも含め、 戦争の背後には当時なりの時代背景があり、 時代が違う過去の出来事を、いまのルールに生きる現代人が、自分の基準で簡単に白黒つけて裁くことはできません。  日本にもそれなりの言い分はあるのです。

 日本は侵略戦争どころか、1919年の パリ講和会議で「人種平等を訴え、 1943年(昭和18年)には、宗主国気取りする米英に対して、 アジア植民地支配からの解放を目指す「大東亜共栄圏 構想を掲げ、東京で近代史上初めて有色人種のみが一堂に会し、アジア地域の民族独立を求める首脳会議 を開催していた国なのです。

 先の戦争を一言でいえば、 生き残るため戦わなければならなかった時代、 日本経済の生殺与奪を握っていた米国が、 邪魔者日本抹殺のため日本を経済封鎖した結果、 日本はやむに已まれず勝ち目のない戦いへと突き進んだもので、決して 《日本が侵略戦争を起こした》などというものではなく、 日本のせいで植民地を失った欧米の復讐劇だったのです。

 その仕掛け人の、邪魔者日本を潰そうとした ルーズベルトは、チャーチルと結託して「即座に日本を粉みじん(チャーチル回顧録)」にする企みを仕掛けますが、日本は アメリカを返り討ちにしたどころか、 白人国家による植民地支配に終止符を打つ、 という偉業を成し遂げたのです。

 ここではそういった当時日本を取り巻いていた出来事を、時系列で述べていきます。  いずれにせよ、当時は白人列強による 激しい植民地化競争 に明け暮れていたわけで、もし、日本が存在していなかったら、21世紀のいまでも《弱い者は強い者に全てを奪われ支配される》 世界が続いていたかもしれません。   その悪夢を打ち壊したのが日本 だったという史実は、日本人として自覚すべきです。

 しかし、欧米は絶対に 自分達は「植民地支配した」 とは言わず、その罪を隠ぺいするため 裁判とは名ばかりの復讐劇・東京裁判で 《日本だけを侵略国家》に仕立てたのです。    そこには、白人列強は何世紀にも亘り、世界中の有色人種を植民地支配し、 奴隷制度と植民地化政策は自分たちの当然の権利であるとして、有色人種を商品のように売買する奴隷制度 に積極的に加担し、荒稼ぎしていた時代の、 《白人至上主義》の思い上がった意識があったのです。(2026.1.6)


   

「日中戦争」は「日米戦争」だったのは知らない日本人

 今も一部の日本人は、《日中戦争は日米戦争》であり、 蒋介石も毛沢東も、米国現地兵の一人 (山正之)だったことは知りません。 例えば支那事変(日中戦争・以降はこちらを使用)はあたかも日本と中国の戦い のように語られますが、その内情は 中国大陸を巡る列強の利権争いでした。

 しかし、巷にあふれる戦前・戦中の出来事を書いた 日本人を騙す「トンデモ近現代史本」は、 《日本は中国に侵略戦争を仕掛けた》という内容のオンパレードで、 《日本は戦争を起こした軍国主義国家》という誤った史実(太平洋戦争史観)に基づいて書かれているものばかりです。    それも当然で真実を書いたら「日本だけ悪者説」 は成り立たず、白人列強の暗黒の所業が明るみに出てしまいます。

 サヨク日本人ではない著者も当然いますが、偏向史観ではないものの、ほとんどが《太平洋戦争において、日本軍はなぜ数々の無謀ともいうべき作戦を強行したのか。    なぜ日本は無残な敗北をしたのか》という観点をベースに 《日本軍の欠陥分析》 にばかり焦点を当て、《列強による植民地支配の弊害》には触れません。  その 偽りの近現代史....戦後日本の歴史は、 21世紀の現在でもさほど認識は変わっていません。

 物事にはすべて「その状態や状況になるまでの経緯や結果」、 いわゆる《事情》があります。  そもそも、当初は日本は 孫文の辛亥革命に尽力し、 中国近代化を推し進めた国であり、 中国も日本を手本にしていたのです。   さらに、白人強国による植民地争奪戦 が東アジアでも繰り広げられていた中、独立国家・日本は 日本抹殺を図る米国 との戦争は避けられない運命でした。

 かくして、日本はやむなく何十倍もの国力差がある アメリカ始めとする白人列強国相手に、 生き残るための戦争への道 へと進まざるを得なかったのです。  この戦いに敗れはしましたが、それまで、武力で有色人国家を侵略し植民地支配して、 現地人を奴隷として牛馬のように使役していた戦勝国側は、 有色人種・日本によって植民地を失ってしまったのです。

 このような白人国家による植民地支配の嵐 が吹き荒れる激動の時代に曝された日本、 という時代背景を抜きにしては《先の戦争の姿を正しく伝えている》とは言えません。  終戦直後の占領下、この忌々しい黄色人種の日本に対し アメリカが新たに作成した新日本国憲法には、 この島国の連中が再び戦いの場にしゃしゃり出て、もう二度と白人国家に逆らえないよう、 武力を行使することはおろか、威嚇すなわち抑止力さえ永久に持つことすら禁じるよう 憲法で周到にブレーキをかけたのも当然なのです。

 かくして、敗戦国・日本は《すべての戦争責任を押し付けられ》、《戦争犯罪国家》の烙印を押され、 《先の戦争における日本の正当性》は一切否定されてしまったのです。  そして現代においても、この 戦勝国が日本に押し付けた歪んだ歴史認識 が日本の世論を支配し、いまだに 「日本悪玉論」が蔓延っています。   歴史は常に勝者のものというわけです。

 ここからは、日本と中国、そしてソ連、米国が、日清戦争から太平洋戦争へと変遷していく時代背景の中で、どのような利害関係にあり、 その間にいったい何が起きていたのか、《日本は最初から中国を侵略するため軍事侵攻した》 とされている近代史のウソを検証するため、真実を見ていきます。(2026.1.14)


  

《日本を悪者》にしておかないと困る中国と韓国

 日本が植民地支配からの解放という偉業を成し遂げたのは歴史の事実であり、いってみれば、 日本は他国の発展に命をかけた国でもあります。    アジア太平洋9ヶ国における好感度ランキングで、日本は断トツのトップ なのも、日本はアジア独立の道筋をつけた国であり、 東アジアから白人列強を追い払った日本の功績が アジアの指導者たちに自信を与えた ことと関係しているのです。

 ところが、アジア太平洋地域の人たちは 日本が果した偉大な功績 を理解しているのに、何故か支那(今の中国)・朝鮮(今の韓国・北朝鮮)だけが、 《日本は戦争加害者で、我々はその被害者》と言い張り、《日本は歴史を認めず、罪を認めない国》などと 筋違いな因縁をつけています。

 中韓の「日本は戦争加害者であり我々はその被害者」説は、 戦後何十年も経ってからでた話で、 そこには、すでに近代国家としての地位を築いた中韓としては、アジアにおけるパワーバランスを維持するためにも、 日本を「侵略国家」 にしておかないと都合が悪い理由があるのです。

 大戦中何もできずにいた中韓 としては、「白人列強による植民地支配に終止符を打ったヒーロー・日本」 の功績が明らかになってしまうと、日本に比べてあまりにかけ離れたあまりにも惨めだった 当時の自分達の不甲斐なさ が浮き彫りになってしまい都合が悪いのです。   だから彼らは、《日本の功績が表ざた》にならないよう、 先の戦争で日本が果たした役割 を徹底的に否定し、声高に《日本悪者説》を言い立て、日本叩きに精を出すのです。

 中韓が持ち出す《歴史認識問題》とは、 自分たちの不甲斐無さが暴露されてしまわないよう、自分たちの都合の良い史実に書き換える企みであり、 自分たちの惨めな黒歴史の隠蔽に懸命なのです。  これは、日本を 「列強の犯罪隠し」のスケープゴート にする必要があった白人列強の思惑とも一致します。

 どちらの勢力も、先の戦争の本当の姿 を知られたくないのです。  戦勝国によって「侵略戦争を仕掛けた戦争犯罪国家」 扱いされている日本人も、もうそろそろこんな戦後史観の「まやかし」 から目覚めてもいい頃です。

 ただ、中韓が「日本は歴史を直視せよ」と声高に唱えるのは、得策ではありません。  なぜなら、 もし歴史を公正な目で振り返れば、欧米列強に半植民地支配されていた中国の近代化に日本が貢献した過去も、 貧困と搾取にあえぎ開発途上国なみの最貧国の韓国が、 日本に併合されたお蔭で発展を遂げた過去も、 すべて表ざたになってしまいます。(2024.7.12)


  

「暗黒の世界史」を塗り替えた日本

 そもそも、「日本がアジアを侵略した」 などと言うのは戯言です。   元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のストークス氏は、 『...確かに日本が欧米諸国が支配していたアジア各地の植民地に軍事進攻したことは事実です。  しかし、 それ以前にアジアに侵略して植民地にしていたのは欧米諸国です... アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。    西洋人は世界史を見直すべきです』と日本を正当に評価しています。   その過程で生じた戦争は、「...白人のアジア侵略を止めるどころか、 帝国主義、 植民地主義さらには 人種差別というものに終止符を打つという、スペクタキュラーな偉業をなしとげた(藤原正彦 日本人の誇り)」戦いだったのです。

 歴史家のトインビーも、「...日本は第二次大戦において、自国でなく大東亜共栄圏の他の国々に思わぬ恩恵をもたらした。(中略)  それまで二百年の長きにわたって アジア・アフリカ を統治してきた西洋人は、無敵で神のような存在と信じられてきたが、 実際はそうでないことを日本人は全人類の面前で証明してしまったのである。   それはまさに歴史的業績であった」と述べています。

 インドネシアも親日国家でオランダの支配下にあえいでいた過酷な生活 から解放した日本に感謝している国の一つです。   フィリピンの中学校教科書には、アジアを植民地支配していた白人列強国を追い払った日本について、 「....日本の勝利はアジア民族に大きな影響を与えた。  その第一はアジア人が西洋人に劣っていないこと、 西洋の大国にも打ち勝てることを証明した。  第二に 西洋の帝国主義に圧倒されていたアジア諸国国民のナショナリズムを掻き立て、フィリピン、インドネシア、 インドなどは 日本をアジア解放のチャンピオンと仰ぎ見た」 と記述されているそうです。

 日本は、アジア諸民族を独立へと導いた国であり、 白人欧米列強国による有色人種国家の植民地支配という「暗黒の世界史」を塗り替え、 植民地支配に終止符を打った、 史上唯一の国だったという歴史の事実は不滅なのです。(2026.1.6)


  

戦後、一方的に「悪者」にされた日本

 敗戦後の日本は、 現代文明への冒涜ともいうべき「東京裁判」により、 「戦争犯罪国家」の汚名を着せられ、 侵略国家だったと一方的に悪者にされています。    日本人は裁判とは名ばかりの復讐劇である東京裁判 に騙され、「GHQ指導による歴史の偏向教育」によって 歪んだ自虐偏向歴史教育の悪影響を受け、 「日本に非がある戦後史観」に完全に支配され、 戦勝国側のウソ話にすっかり騙され 「侵略国家という汚名」を着せられてしまったのです。

 その結果、「歴史問題」などというものは存在もしないのに、日本は ありもしない歴史問題に振り回され、 「100年前の出来事」のためにひざまずけと強要されています。    さらに、教育においても、これから日本を背負っていく学生が目にする進研ゼミの参考書には、アジアにおける白人国家の利権について 「...権益を持っていた」と記され、 日本が手に入れた利権は 「...権益を奪っていった」と、いまだに 歴史を捏造する教育が行われ 日本悪者説が蔓延っているのが現状です。

 1952年(昭和27年)、東京裁判において 「(先の戦争は)日本の一方的侵略とはいえない側面がある...敗者を一方的に断罪したものだ」 と日本を擁護してくれたインドのパル判事が来日した際の講演で、「日本人は、自分たちの子弟に『日本は犯罪を犯した』、 『侵略の暴挙をあえてした』とばかり教えている。  日本の青少年が ゆがめられた罪悪感を背負って卑屈退廃になるのを私は見過ごすことができない」、 と日本の教育事情について深い憂慮を示してくれました。

 歴史の評価は、裏表両面から判断する視点が必要です。  「日本が太平洋戦争を引き起こした」、というコインの表話に対し、 アメリカは「日本側が絶対にのめない条件」を突きつけ、 「日本を無理やり戦いの場に引きずり出した」 というコインの裏話も知っておくべきで、 戦後の「日本悪者説」 に惑わされてはなりません。  GHQが刷り込んだ日本悪者説に、 日本人もそろそろ戦後史観の「まやかし」 から目覚めてもいい時期が来たのではないでしょうか。

 戦後の日本人は裁判とは名ばかりの復讐劇である東京裁判に騙され、 「GHQによる指導」によって 歪んだ自虐偏向歴史教育の悪影響を受け、 「日本に非がある戦後史観」に完全に支配され、 《日本は中韓を軍事侵略した》と思い込まされていますが、 近代中国や韓国の成長への道筋に日本が大いに貢献してきた、という史実は日本人はもっと理解すべきです。(2025.8.26)


  

白人列強は日本のせいで植民地を失った

 近年では欧米の歴史家や学識者の間にも、 「日本がアジアを侵略したというのは、 日本のせいで植民地を失った欧米による 史実を直視しない作為的な論議であり、併合の仕方に鑑みても、戦前から日本が主張していた 《【白人支配からの解放戦】とみる方が妥当である 》」といった論評も出始めています。  先の大東亜戦争(太平洋戦争はその一部)は、日本の 「自衛戦争」であり、「侵略戦争」 ではなかった、ということが認められつつあるわけです。

 「列強による過酷な植民地支配」は、なかなか表ざたにされませんが、 「白人列強が夢中で有色人種の国を植民地支配する競争」 に明け暮れ、「力があるものだけが生き残れた」時代、 植民地にならなかった日本は、西洋国家と正々堂々と渡り合い、 過酷な生存競争を生き抜き、「白人のアジア侵略を止めた国なのです。

 人類の歴史は「戦争の歴史」とされます。  日本もご多分に漏れず、わずか半世紀の間に 「日清戦争・1894年(明治27年)」からはじまり、 「北清事変・1900年(明治33年)」、 「日露戦争・1905年(明治38年)」、 「第一次世界大戦・1914年(大正3年)」、 知られざる戦争だった 「シベリヤ出兵・1918年(大正7年)」、 「満州事変・1931年(昭和6年)」、 「支那事変(日中戦争)・1937年(昭和12年)」、 日本軍とソ連軍の戦闘「張鼓峰(ちょうこほう)事件・1938年(昭和13年)7月29日〜8月11日」、 「ノモンハン事変・1939年(昭和14年)」、 「大東亜戦争(太平洋戦争)・1941年(昭和16年)」 と激動の時代に曝されてきました。

 「歴史にIFは無い」とされますが、もし日本という国が存在しなかったら、または弱小国だったら、21世紀の現代においても、 「白人列強国が有色人国家を植民地支配する」世界が、 いまだに続いていたかもしれません。  ところが、東アジアを植民地支配していた欧米列強を、その地から追い払った日本が、 なぜかいまでは、「日本は武力で東アジアに侵出した」、「日本は戦争を起こした悪い国」 などと謂れのない批判を受けています。

 それどころか、 白人列強による植民地支配に終止符を打ったはずの日本が、 なぜか「侵略国家」の汚名を着せられ、 「戦争犯罪国家」にされるという、 トンデモナイ事態となっています。  一体どうして、こんなおかしな事態になってしまったのでしょうか。

 戦勝国側はそれまで、奴隷制度と植民地化政策は自分たちの当然の権利であるとして、 有色人種を商品のように売買する奴隷制度に積極的に加担していましたが、そこに日本が現れ、 植民地支配破壊という「歴史的偉業」を成し遂げた わけで、日本のせいで東アジアから追い払われ、植民地を失った欧米は、日本を絶対に許せず、 日本を《戦争犯罪国家》にしなければ気が済まないのです。(2026.1.14)


   

「日清戦争」から「日露戦争」で、何が起こったのか

 その昔、支那(現中国・以降はこちらを使用)は、我が国こそ世界の中心(中華思想)と嘘ぶいていましたが、アヘン戦争以後の政治的変化や、 1894年に起きた日清戦争で日本に敗れ 《張り子の虎(見かけ倒しの大国)》であることがバレ、 中国大陸を巡る列強の利権争いが起こり 白人列強により分割支配されたあげく、 半植民地支配される有様となります。

 そんな中国(清朝)に救いの手を差し伸べたのが、 「明治維新」 でアジアでいち早く近代化を成し遂げた日本です。   中国も 「洋務運動」で近代化を目指したものの、 旧態依然の制度や文化をベースにしていたため、開明的な視野が欠落しており、 国民の思想は束縛され産業の発達も促されませんでした。    そのため、日清戦争で日本に敗れた1897年(明治30年)頃には、 列強によって「半植民地状態」にされます。

 そんな中、1904年に勃発した日露戦争において、日本艦隊は ロシアのバルチック艦隊を日本海に屠ったのです。   強国ロシアを相手に勝利した「日露戦争」は、日本の命運をかけた 薄氷を踏む戦いでしたが、 有色人種の小国・日本が、当時の白人列強国の中でも世界最強陸軍国と言われる大国ロシアを相手に勝利したことは 「文明史的大事件」であり、当時の世界の常識からすると天地がひっくり返るほどの大事件でした。

 当時、世界中のほとんどの有色人種国が、白人列強国によって植民地支配されていたとき、日本が、イギリスでさえ 「陸戦において史上最強」と恐れていたロシアに勝利したわけで、北京でも日本人による提灯行列が街を練り歩き、 列強に牛耳られていた支那人も爆竹を慣らし、日本の勝利を祝います。

 日本人と支那人が手を取り合って喜ぶ姿を見た駐支那独大使グレールは、日本の存在に危機感を抱き、 「支那の日本化は、白人列強のアジアにおける権益を危うくする恐れがある」と本国に報告します。    当時の《弱い者は、強い者(白人)にすべてを奪われるのが当たり前》だった世界では、黄色人種・日本が 白人同様に振る舞うことは許されず、日本の運命はこの時から定められていたのです。

 ロシアを打ち負かした日本は、1858年5月28日にロシアと清国(中国)との間で結ばれていた、 国境を決める条約・アイグン条約や、1860年11月14日に清国とイギリス・フランス・ロシア帝国との間で締結した天津条約の追加条約・ 北京条約といった、2つの不平等条約を破棄させたうえ、ロマノフ王朝が満洲に確保していた、 鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものを引き渡されます。    当時の弱肉強食の時代では、強い者が敗れた相手から獲物を奪うのは、当然の権利だったのです。

 また、日本は、ロシアに奪われていた満州を清朝に取り返すなど、清国は日本と友好的な関係を築きます。    このような史実を知れば、「では、一体なぜ日本と中国は争わなければならない事態へ追い込まれたのだろう」という疑問が湧いてきますが、 その理由を見ていきます。(2026.1.14)


   

「辛亥革命」と清朝政府崩壊、「中華民国」建国

 日清戦争で日本に敗れた中国(清朝)は、 日本に学ぼうと科挙を廃止し、日本に大量の留学生を送り、日本の明治維新を手本として、憲法改正、国会開設といった大改革を進めるなど、 新興国日本を近代化の手本にします。

 中国は、近代化を成し遂げた「日本に倣え」と、大量の留学生を日本に送り、最盛期には年間数万人も留学させ、軍事から医学まで、 あらゆる分野にわたり、様々な文化 を吸収させるなど日本を手本にします。   今日の中国は、社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われますが、そこにはこんな歴史背景があったのです。

 このように、日本による中国はじめとする近隣諸国に対する物心両面にわたる近代化支援は、 併合した朝鮮や台湾、満州だけではありません。    中国に対しても数多くの近代的病院が日本人によって建設されるなど、 すでに清朝末期から中国近代化への支援が行われていたのです。

 そんな中、1911年、清朝政府が外国資本を財源に、鉄道国有化政策を打ち出したことに反対する運動(四川暴動)が起こり、10月には中国政府軍兵士も反乱を起こします。     各省の実権を握った蜂起軍は、清朝からの独立と共和政国家樹立を宣言します。  この年が辛亥(しんがい)の年に当たっていたため、 この騒動は辛亥革命と呼ばれます。  この辛亥革命で 「中華民国」が成立したわけです。

 一方、「中国革命の父」とされる孫文は、 1895年(明治28)に日本に亡命し、1905年、東京において漢民族の独立を目指し 「中国同盟会」を結成して、 満州族が支配する清朝を打倒し、 帝国主義列強の圧迫を排除しようと「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」 を革命のスローガンに「三民主義」を提唱します。

 その後、日本を出た孫文は長い亡命生活を送り、アメリカとイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留されますが、その体験を『倫敦被難記』として発表し、 革命家として世界的に有名になり、四川暴動の折にはアメリカ・デンバーに滞在していました。     孫文は、すぐワシントンに、さらにロンドンに飛んで 何としても日本を締め出せと 「英米両政府は協同して日本の中国革命への介入を抑える」約束を取り付けています。  ただ、孫文はその後、 日本から多大な支援を受けていますから、「口先だけの革命浪人」 という辛辣な見方をされたのも当然です。

 1911年12月、帰国した孫文は、革命政府のリーダーに担ぎ上げられ、1912年1月、独立を宣言した各省の革命派代表が南京に集まり、 「中華民国」が建国されます。  この動きに対し、 北京にかろうじて命脈を保っていた清王朝は、この反政府運動(辛亥革命)を鎮圧するため、 実力軍人・袁世凱(えんせいがい)を鎮圧に向かわせます。

 ところが、袁世凱は清王朝を裏切り、孫文に「清王朝の皇帝である宣統帝を退位させ、清王朝を終わらせる代わりに自分を中華民国の大総統にする」 という取引を持ち掛けます。  袁世凱に太刀打ちできる軍事力はない孫文は、 仕方なくこの取引に応じ大総統の座を袁世凱に明け渡します。   袁は約束通り皇帝を退位させ清王朝は滅亡します。

 この頃は、中国各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「軍閥割拠」の状況となっていました。  1917年、孫文は西南の軍閥の力を利用し、 広州で広東軍政府を樹立しますが、権力掌握に失敗したため、孫文は再び日本へ亡命し、 日本人から物心両面で支援を受けています。     日本は、「革命浪人・孫文」の辛亥革命に尽力し、 中国近代化を推し進めた国だったのです。(2026.1.14)


   

日露戦争後、排日政策を推し進める米国

 日本は日露戦争においてロシア海軍を壊滅させ、これで『制海権を握った日本はロシア商船818隻の拿捕、 または撃沈の権利を持った』(ニューヨーク・タイムズ紙)わけです。  一方、米国は「日本には恐るべき連合艦隊があるのに、 われわれにはそれに対抗する艦隊を太平洋に持っていない」事態にありました。   これに米国大統領 セオドア・ルーズベルトは、危機感を抱きます。

 このままでは、日本はシベリアの半分と莫大な賠償金を得るだろうと懸念したセオドア・ルーズベルトは、1905年6月3日、日露の講和仲介を言い出し干渉してきます。    その結果、日本は敗れたロシアから一銭の賠償金も手にすることは出来ませでした。  一方で、日本海海戦に勝利した時点で、 すでに国家予算の8年分もの軍事費を使い切っており、 薄氷を踏むようなギリギリの戦い だったため、何としても講和に持ち込みたい日本政府は、金子堅太郎を通してセオドア・ルーズベルトに講和の仲立ちを依頼した、という説もあります。

 また、ルーズベルトが日本に肩入れした形となった背景には、アメリカはロシアの専制政治に不快感をもっており、 それにくらべ日本は、開国してわずか50年ほどで、積極的に欧米の新しい政治思想をとりいれ、 立憲政治をおこなっており、 ロシア牽制(けんせい)のために日本に期待した、という見方もあります。

 いずれにせよ、米国は、黄色人国家・日本の存在に危機感を抱いたのは確かで、1907年(明治40)の サンフランシスコで発生した反日暴動では、多くの日本人が殺傷される事件も起こっています。  1913年には 日本移民の土地所有を禁ずる「排日土地法」が制定され、さらに1922年には有色人種の帰化権が剥奪されるなど、 アメリカは日露戦争後、次々に排日政策を推し進め るようになります。

 太平洋戦争が勃発した際の、米国大統領フランクリン・ルーズベルト(任期:1933年3月4日〜1945年4月12日)も 日本を毛嫌いした人物でした。   当時のカルフォルニア州の多くのレストランでは「犬とジャップは立ち入るべからず」としています。   のちに、 東京裁判の判事レーニングは 「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」としています。(2026.1.14)


   

第一時世界大戦と日本の働き

 その後の、中国大陸を巡る列強の利権争いは、 激しさを増す一方で、中国はイギリス・フランス・ドイツなど白人国家によって蹂躙されていきますが、そんな最中の1914年7月28日、 第一時世界大戦が勃発します。

 日本は、イギリスと日英同盟を締結していた関係で 連合国側についたわけですが、この際、 満州権益を狙うアメリカは、 日本が参戦を機に中国本土に進出することを警戒し、 日本参戦を妨害します。   アメリカが「喉から手が出るほど」欲しかった満州 に、日本が介入してくることは阻止したかったのです。

 アメリカを敵にまわしたくないイギリスは、 日本への要請を一旦は取り消します。  しかし、日本側は戦闘地域を限定することにして、なんとか参戦の同意を取り付け、 1914年8月23日ドイツに宣戦布告。  イギリス軍と合同で作戦を進め、11月7日には膠州湾の入り口にある青島要塞を陥落させ、 ドイツを降伏させます。

 青島攻略戦では、日本はドイツ兵約4500名を捕虜にし、 国内12か所に開設された俘虜収容所に収容しますが、これはハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例とされています。   この際のドイツ兵捕虜の扱いは賞賛されます。    日本の年末恒例行事のひとつ「第九演奏会」は、徳島県の「板東俘虜収容所」にいたドイツ兵たちが、1918年(大正7年)6月に日本初の第九全曲演奏を行ったのがルーツとされます。

 その後、日本軍は、済南(さいなん・山東省の西部) に至る地域まで手広く占領。   戦争が終結しても ドイツ占領地を中国に還付せず、軍政を敷きちゃっかり居座ります。  これを、 サヨク日本人は《中国に返還すべき》と批判しますが、当時の領土争いに明け暮れていた弱肉強食の恐ろしい時代、 1千5百万人もの犠牲者を出した世界大戦下では、 戦いに勝った方は、 払った犠牲の代償を求めるのは当たり前であり、平時のルールを戦時には当てはめられません。

 そもそも満州を巡るロシア、アメリカの帝国主義的な領土拡張の争いの渦中で、日本が指をくわえて見ていては、 満州は再び白人列強の植民地にされてしまうのは確実です。  そうなってしまえば、日本は孤立化し、 いずれ列強の支配下に置かれてしまうのは時間の問題です。  満州を巡る利権争いを座視するわけにはいかない 日本としては、《バスに乗り遅れない》ためにも、国際競争に参画する絶好の好機としてこの参戦を利用したのです。(2024.7.12)


   

シベリア出兵

 1918年3月、それまで東部戦線でドイツと戦っていたロシアが、突如ドイツ帝国と勝手に講和 (ブレスト・リトフスク条約)するという仰天の出来事が起こります。  これでロシアが単独でドイツ帝国と講和条約を結び戦争から離脱したため、 ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、 フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦します。

 これに慌てたのは連合国側です。 すでに英仏日本などから ロシアに供給した大量の軍需物資がロシア周辺の港に山積みになっており、これが独露勢力に渡り第1次大戦に敗北しようものなら、 中部ヨーロッパから日本海沿岸までユーラシア大陸のほとんどを独露が支配することとなり、それは日本にとっても悪夢となります。

 そこで、社会主義革命が成功したロシア革命政府を打倒するため、1918年から数年にわたり、日本・アメリカ・イギリス・フランスなどの各国がシベリア地域に軍を派遣し、 ロシア革命に干渉します。   これが「対ソ干渉戦争 (シベリア出兵)」です。   ウラジオストクは英仏にとっては地理的に離れているため、軍需品がドイツに渡らないよう日本とアメリカに対して兵力派遣を要請します。

 このシベリア出兵では、アメリカが日本の大陸進出を警戒し、当初日本のシベリア出兵に反対したり、パルチザン部隊や朝鮮人、 中国人らが日本人を惨殺するニコライエフスク事件(尼港事件)が起こったり、日本軍も多くの被害者を出しています。    第一次世界大戦はドイツ帝国で革命が起こり停戦状態となったため、連合国はシベリア介入の目的を失い、 1920年までには相次いで撤兵しますが、 この機会に大陸に足場を築きこうと暴走する日本陸軍は、単独で駐留を続行しています。(2024.7.12)


   

アジアで存在感を発揮し、「人種平等」を訴えた日本

 1904年に勃発した日露戦争は、 日本の命運をかけた 薄氷を踏む戦いでしたが、 日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を日本海に屠ったお蔭で、 強国ロシアを相手に勝利をおさめます。   有色人種の小国・日本が、当時の白人列強国の中でも世界最強陸軍国と言われる大国ロシアを相手に勝利したことは 「文明史的大事件」であり、当時の世界の常識からすると天地がひっくり返るほどの大事件でした。

 当時の列強国の条件は、強い軍隊、植民地をもち、世界の政治を軍事衝突であれ話し合いであれ、 平等な立場で相手とやり取りできる国家というもので、日露戦争」の前まで世界の列強は、「アメリカ」、「イギリス」、 「フランス」、「オランダ」、「ドイツ」、「ロシア」、「イタリア」といった白人国家のみで、アジアには 世界政治に関与できる国は存在していませんでした。

 そこに、アジアで唯一、明治維新を経て近代化に猛進してわずか50年の日本が、仲間入りしたのです。   日本は日露戦争に勝利したことで 世界の「一等国(列強)」の仲間入りを果たし、 アジアの国で初めて白人列挙と肩を並べ 世界政治に関与できる国となったのです。

 1919年、 パリ講和会議で国際連盟の規約について討議された際、日本は「人種平等案」を規約に盛り込む提案を行います。   当時は、白人による人種差別は有色人種の日本人にも被害が及び、 積極的に推進した「海外移民」により、 アメリカに移住していた日本人たちも、酷い差別を受けていたのです。

 当初は、いくつかの白人国家がこれに反対しますが、日本は粘り強く交渉を進め修正案を提出。  こうした努力が実を結び、採決が行われ、 日本案に賛成は11票、 反対は5票というた結果となります。  これで誰もが日本の提案が通ったと思ったのですが、 米国大統領ウィルソンは 「日本の提案は全員が賛成していないので否決された」としたのです。  日本は 「 これまでの会議では多数決で採決してきたではないか」と猛抗議しますが、 ウィルソンは 「このような重要な問題は全員が賛成しなければならない」と押し通し、 日本の画期的な提案を葬り去ったのです。

 後年、日本の敗戦後に、東京裁判の判事レーニングが 「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」としていたように、 当時は黄色人種・日本に対する白人列強の態度は、冷ややかなものでした。  当時の世界は、白人列強国が他国を侵略し 現地人を奴隷のように支配する植民地支配が当たり前であり、 根深い白人至上主義が蔓延り、人種差別は当たり前だったのです。

 ちなみに、第二次世界大戦が始まったとき、アメリカ本土には既に大勢の日本人移民が市民権を得て暮らしていましたが、大戦の勃発により 日本人移民と日系アメリカ人は「敵性外国人」とされ、 約12万人もの日系人が、財産をすべて剥奪され強制収容所に送られています。

 ただ、ハワイにおいては日系人人口が多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されたことから、 一部の日系人のみが強制収容の対象となっています。

 こんな中から生まれたのが、第二次世界大戦中、アメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊、 アメリカ陸軍の日系部隊・第442歩兵連隊です。  この部隊は、 ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘しましたが、我々日本人の血を引いている 「日系人」で編成された部隊だったのです。(2026.1.14)


   

辛亥革命以降、中国独立を支援した日本

 満州族が建てた清朝を転覆させた辛亥革命は、表面的には民生主義を生み出した形でしたが、 しだいに状況は混沌とし始め、もはやひとつの国家とはいえないほど混乱を極めていきます。  その結果、中国は 外国の干渉を受けることになっていくわけです。

 1915(大正4)年、孫文を追い払い、中華民国初代大統領となった袁世凱は皇帝に即位し、首都を 南京から、袁世凱の勢力基盤である北京に移し中央政府を設け、 革命勢力を弾圧して専制政治を始めるようになりますが、激しい反発を招いて3カ月余りで退位、その後中央政府は弱体化します。

 以後、中国は地方軍閥などが覇を争う内乱状態に突入していきます。    その後、北京の中央政府では大統領の馮国璋(ふうこくしょう)らと、国務総理(首相)の 段祺瑞(だんきずい)が派閥争いを繰り広げ、 英米は馮らと、日本は段との関係を深め、孫文はロシア革命後中国共産党と結んで、 ソ連からの支援を受けるという風に、中国国内の勢力争いは、 互いに別々の外国を巻き込み混沌としていきます。

 袁世凱死後の1917年、国務総理として実権を握った段祺瑞は、第一次世界大戦参加を決めますが、 日本は碌な国軍も持たない現状では、時期尚早として思いとどまらせます。  親日派とされた段祺瑞は、 中国での評判は決してよくありませんが、その人格の高潔さは孫文と並び称されています。   一方で、当時の寺内内閣は、この参戦を機に 中国に強固な統一政府が誕生すれば、日本と連携して東亜の安定を図れるとの方針から、 軍備整備の費用 として2000万円に上る借款に応じます。

 この費用供出の背景には、1904〜1911年に袁世凱の軍事顧問だった坂西利八郎の、 「当時の中国にあるのは親分子分の関係でできている私兵だけで、国家の軍隊がない。   世界大戦に参戦しても名目だけになるから、 この際中央政府の軍隊を創設すべきだ」 という意見がありました。(世界から絶賛される日本人・黄文雄)     坂西(ばんざい)は、大総統を継いだ袁世凱から段祺瑞まで7代にわたって、 中国元首の軍事顧問をつとめた日本人です。

 このように、日本は中国への物心両面の援助で正真正銘の国軍を誕生させ、近代的軍隊を誕生させたわけです。  しかし、その後、中国国内の軍閥戦争により、 坂西が手塩にかけ育て上げた世界大戦参戦軍(辺防軍)は解体されてしまいます。  しかし、その過程においては、 多くの優秀で知日的な軍幹部も育てられています。

 坂西は1926年に軍事顧問を辞しますが、満州国創立後に、「満州国民が台湾先住民のようになれば、支那全土では満州を羨むようになる」として、 日本が中国の先輩として大事に指導していけば、やがて排日という中国人の感情問題も解決するだろうとしています。

 清帝国崩壊後、その支配下にあったモンゴルやチベットなどは中華民国と同様に独立を宣言していましたが、 孫文は過去、自国『漢族』も清帝国の支配下にあったにも係わらず、 「五族共和」という事を言い始め、満州、モンゴル、ウイグル、チベットの 各民族の領土すべては『漢族』のものであると言い出します。   こうなっては、 日本がいくら「共に手を結び東亜の安定を」などと唱えても、事態は収拾不可能となり、さらに、 日本を目の敵にする白人列強の「排外運動」も、ますます過激になっていくのです。(2026.1.14)


中韓指導部の半数は日本留学経験者だった

 当時の中韓指導部の半数は、日本留学経験者 でした。    魯迅や周恩来、陳独秀らも日本で学び、そこで彼らは世界を知ったのです。  国民党の指導者として 中国の統一を目指した蒋介石も、 当初は日本に憧れ特別の思いを抱いていた一人でした。  韓国の 朴正煕大統領も日本陸士(陸軍士官学校)の出身者だったという事実は、 これまで日本人に植え付けられてきた《日本はアジア諸国に軍事侵略した》というプロパガンダを真っ向否定するなによりの証拠です。

 中国近現代史のリーダーや重鎮の半数前後は日本留学経験者とされ、日中戦争における中国側実力者 蒋介石は、日本に留学したものの憧れの日本陸士に入れませんでしたが、 新潟の高田連隊に入隊し数年間皇軍の一員となっており、日本陸士6期出身と死ぬまで嘘を突き通したといいます。    「近代中国は日本人が作った」という語り草は決して過言ではないのです。 (日本人こそ知っておくべき 世界を号泣させた日本人 黄文雄)(2024.7.12)


     

日支提携を阻み、邪魔者日本を排除しようとする欧米

 日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を日本海に屠った日、北京では日本人による提灯行列が街を練り歩き、支那人も爆竹を慣らし、 日本の勝利を祝います。  駐支那独大使グレールは日本人と支那人が手を取り合って喜ぶ姿 を本国に報告し「支那の日本化は白人列強のアジアにおける権益を危うくする恐れがある」と付け加えます。

 それは支那に関心を持つ、 日本を毛嫌いしていたF・ルーズベルト大統領 も同じ思いでした。  そこで、義和団の乱 で清から取った賠償金で、北京に精華大学をつくり、日本を目指していた支那人留学生を顎足つきで米国に引っ張り、 日支提携を阻みます。 支那人留学生らは、 米国で学んだあとに戻って蒋介石陣営に入り、以後、親米反日の政策を遂行していきます。

 もともと、日露戦争後からアメリカは、勢力拡大中のアジア唯一の自主独立強国・日本に対し、アメリカ合衆国陸軍が 「カラーコード戦争計画」と呼ばれる一連の戦争シミュレーションプラン、つまり対仮想敵国戦略を策定しています。   この中で最も有名なのが、対日戦争を対象とした「オレンジ計画」です。  この計画は1919年に非公式に策定され、 1924年に正式に承認されています。  ドイツは黒、イギリスは赤、メキシコは緑でした。

 つまり、有色人種のほとんどが白人列強の植民地とされ、 奴隷として牛馬のように使役させられ、弱小国は否応なく強国の支配下に置かれた時代、アメリカは 邪魔者日本を抹殺するため、 早くから入念な計画と準備を着々と行っています。  アメリカは 開戦前から対日戦に踏み切っていたのです。

 戦後は「日本は黙って大人しくアメリカの言うことを聞けば良かったのダ」という声もありますが、 当時の世界情勢はそんな生易しいものではなく、アメリカはとっくの昔から 日本を邪魔者と見なし排除を図っていたのです。     大東亜戦争は独立戦争であり、 邪魔者日本を潰そうとしたアメリカに対抗した自衛戦争だった、という主張は決して的外れではないのです。(2024.7.12)


 

日本を誹謗し孤立化させた支那米ジャーナリズム

 米政府もいい加減な支那人に、排日運動のすべてを任せるほどお人好しではありません。  支那人留学生とは別に、米国は 自前で親米反日工作を行います。  そのひとつが、 支那米ジャーナリズムへの手厚い政府援助です。   ニューヨーク・ヘラルド紙も、その援助で米支友好を謳った「チャイナ・プレス紙」を上海で発刊します。    同紙の記者ジョン・パウエルは後に 『在支25年(祥伝社)』を上梓しますが、 その中でいかに日本と支那を離反させたか、 いかに日本を誹謗し孤立化させたか、事細かく書いています。

 たとえば、パウエルの着任前にあった第一次大戦 の日本軍による青島攻略について、支那外交官の施肇基に 「ドイツ人は建設的だが、日本は破壊的だ」と語らせます。  しかし、日本軍の奮戦で欧米外交官らが救われた 義和団の乱の際、 遅れて駆け付けたドイツ軍は、自国兵士に国家のための略奪を三日間、私的略奪をさらに三日間 認めて北京市街から紫禁城まで荒らしています。  英仏軍も「略奪暴行を加えないと侮られる」とばかりに不法行為の限りを尽くします。

 ロシア軍も同様でしたが、日本軍は国際法を守り規律正しく行動します。 これを見た多くの支那人たちが安全な日本軍管理地域に逃れています。   ロンドン・タイムスは社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない」。   「日本兵の輝かしい武勇と戦術が、 北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と評しています。 これが1902年に日本とイギリスが結んだ 日英同盟へ繋がったとされます。

 日本兵の勇敢さと礼儀正しさは、 米国以外の国では認めていたのです。   パウエルも日本軍が破壊的とはよくも言えたものですが、ちなみに、後に駐米大使になる施肇基は、 案の定米国留学組でした。   反日ムードはこうやって創りましたという典型的な話です。

 パウエルと同じ時期、ニューヨーク・ヘラルド特派員のオーストラリア人、ウィリアム・ドナルドは蒋介石の政治顧問も兼ねています。    蒋介石が西安で張学良に囚われたとき、 ドナルドが蒋介石夫人の宋美齢を伴って西安に飛び、張学良を説得しています。

 反日プロパガンダの心棒「チャイナ・プレス紙」は、やがて「チャイナ・ウィークリー・レビュー」誌に衣替えし、パウエル編集長のもと記者として活躍したのが アメリカ人のエドガー・スノーです。  この人物は『中国の赤い星』で、 毛沢東が本拠地にしていた延安の様子について、「紅軍兵士たちの素晴らしいモラル」、 「八路軍は糸一本、針一本略奪しない」などと、 共産中国にはハエが一匹もいないというまったくのデタラメを世界中に発信しています。

 また、米政府丸抱えの反日誌「アジア」の編集長は、 米宣教師の娘パール・バックが務めています。    当時中国で暗躍していた宣教師は、神の使いどころか米国の手先で、上海の日本租界、虹口公園で白川義則大将や重光葵らを死傷させた朝鮮人テロリスト尹奉吉を、現場まで送り込んだのも 米宣教師ジョージ・フィッチで、彼は後に 南京大虐殺を見たと言い出した人物です。

 写真誌「LIFE」を出したヘンリー・ルースも、米国が志那に派遣した宣教師の息子であり、 「LIFE」誌には 上海爆撃事件の「戦場で泣く赤ん坊」 といった日本を中傷する捏造写真が数多く掲載されています。  また、パウエルは『在支25年』の中で策士は米国だけではなく支那にもいた と書いています。  それが日本人から散々援助を受けておきながら、手のひら返しで日本を裏切り、欧米に寝返った 孫文です。(2025.8.26)


   

詐欺師が唱える「中国革命」を信じた日本人

 そもそも、辛亥革命の折にデンバーにいた孫文はすぐワシントンに、さらにロンドンに飛んで「英米両政府は協同して日本の中国革命への介入を抑える」 約束、つまり何としても日本を締め出してくれという取引を結んでいます。  孫文はパウエルとの会見でも、 米国はなぜ日本を朝鮮から追い出さなかったのかと非難していた人物でもあります。

 日本は半植民地支配されていた中国を、統一国家にして共に手を結び 東亜の安定化を図ろうと、 清王朝を崩壊させた 孫文の「辛亥革命支援」に尽力し、 中国近代化に貢献し多額の軍備整備費用を供出していた国であり、 中国侵略など望んでもいませんでした。

 当初は、漢民族の独立を目指した「中国革命の父・孫文」 が唱える、「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」 を革命のスローガンにした「三民主義」を信じ、この中国の革命家を支援 するため、宮崎滔天や梅屋庄吉ら大勢の日本人が、《日支連携して東アジアの独立》を目指そうと、身代をなげうってまで、 《白人列強に対抗できる中国誕生》を信じて支えたのです。

 孫文を支援したのは、中国利権を狙う欧米も同じでしたが、孫文の革命資金は日本の支援者からのものが一番多かったとされています。 その一人、 「梅屋庄吉」は現在の貨幣価値で1兆円もの資金を提供したといいます。  ところが、その後の1923年6月、 中国共産党第三回全国代表大会において、コミンテルン代表マーリン指導で、国共合作の方針が決まり、 1924年1月20日、 国民党と中国共産党との第一次国共合作が成立します。

 つまり、孫文は日本を裏切り、手のひら返しで共産主義国・ソ連と手を結び、それまで 孫文の「辛亥革命支援」に尽力し、支えた日本人を、 アッサリ袖にしたのです。   こんな孫文のために、宮崎滔天や梅屋庄吉らは身代をなげうってまで支えたわけで、つまり、孫文は日本人の善意を踏みにじった、 トンダ食わせ物・詐欺師なのです。

 そんな孫文に日本は欺かれ、 アメリカに翻弄された結果、 日中戦争から 大東亜戦争へと突き進む運命とされたのです。    孫文に関しては、 「口先だけの革命浪人」という辛辣な見方があります。   たしかに、 孫文がかかわった革命で成功したものはありませんし、生前に彼が中国人同志に期待されたものは、 彼が集める金だったともいわれます。     幣原喜重郎外相などは 「あいつは言うことがコロコロ変わるから相手にしない」とまで言い切っています。

 孫文は、「三民主義」を信じて支援した日本人の善意を踏みにじり、 「長城の中で独立」の約束も反故にしたわけで、 やはり孫文は支那人だったのです。   そんな孫文を 朝日新聞が連載で取り上げ、日本との美しい絆を謳い上げたのです。(山正之「変見自在」)(2026.1.14)


   

中国の共産化を図るコミンテルン

 懸命に中国独立を支援していた日本でしたが、中国はやはり多民族国家の宿命か、国内の状況はしだいに混沌とし始めます。      袁世凱が死んだとき、アメリカの女流作家で歴史家のバーバラ・タックマンの言葉を借りれば、 中国は「もはや後継者には手のつけようが無いところまで事態は悪化し、暴動が起こり始めた」のです。

 当時の中国国内では様々な勢力が権力争いに明け暮れていましたが、中国の共産化を図るコミンテルンは、 内戦状態の中国を革命実現の有望地と看做し、共産勢力を育て、「反日・排日」のスローガンを掲げさせ、 混乱に乗じ革命のチャンスを掴もうとしていました。

 北東アジア制覇を目論むソ連にとって、国民党を支援する日本は、日露戦争で敗北を喫したほどの警戒すべき相手であり、 もし国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、 日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、 それを警戒したソ連は、なんとしても日支共生の動きを阻止する必要があったのです。

 コミンテルン(国際共産党組織)とは「共産主義インターナショナル(第三インターナショナル)」という会議体であり、 世界各国にロシア革命を輸出し、それぞれの国において共産主義革命を起こさせようとした国際機関です。    1922年には日本共産党が 「コミンテルン日本支部」として創設されていますし、 「盧溝橋事件」を仕掛けたのもコミンテルンの陰謀 とされています。   さらにコミンテルンは国民党にまで介入し共産勢力を裏で操り、 国民党内部の保守派と共産勢力の内紛を煽ったことで、中国内部はドロ沼の内輪もめが頻発し、事態はますます混沌としていました。(2024.7.12)


  

中国共産党の創建と 中国国民党との第一次国共合作

 1919年(大正8年)、孫文は中華革命党を改組し中国国民党を創建、成立したばかりのソビエト連邦(1917年建国)の支援を受けるようになり、 1920年代に入ると、それまで支那が列強諸国に奪われていた諸権益の回収運動(国権回復運動)を推進していくようになります。

 1921年、中国国民党は後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立します。   同時期の1921年7月には、毛沢東らが 共産主義の国際的な組織であるコミンテルンの主導により、 支那各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で中国共産党を結成。    両党は誕生から敵対関係にありました。

 さらに、当時の支那は、北の北京政府南の中国国民党南北に分かれ対立を続けていたわけですが、北京政府に接近していた日本は、 「中国国民党との争いを支援するから、満州の日本の権益には口出ししないように」 という外交戦術を採ることで、満州権益を守ることに成功していました。

 蒋介石の中国国民党と、毛沢東率いる共産党ですが、共和制国家を目指す孫文は、 民衆から強い支持を受けているものの軍事力が乏しく、一方、コミンテルンの支援を受け社会主義国家の建設を目指す 毛沢東は、強い軍事力を持つが民衆人気がなかったため、1924年、中国共産党党員がその党籍を保持したままで、国民党への入党を認めるという、いわゆる 第一次国共合作を行います。    互いの良いとこどりで利用し合おうとしたわけです。

 この目的は《打倒日本》というものではなく、孫文の中国国民党としては 「革命の完遂のため、大衆の力によって既存の政治勢力(軍閥)を打ち倒す」。  片やコミンテルンとしては 「社会主義革命の実現のため、大衆の力によって既存の政治勢力(軍閥)を打ち倒す」ということで、 互いの利害が一致したわけです。

 これにより形の上では、中国共産党は中国国民党に吸収されることになり、孫文が掲げる新しいスローガンは、 「連ソ(ソ連と連携)・容共(共産主義容認)・扶助工農(労働者援助)」となります。  しかし、これでは反共産主義・日本の方針と対立するのは当然でした。    この歴史も日中戦争を理解するうえで重要です。(2022.3.26)


   

孤立無援の立場に置かれていく日本

 第一時世界大戦の活躍により、日本は中国における 「ドイツ権益」を継承したわけですが、 これで白人列強はますます日本に対する警戒感を抱きます。  そこで、 日本の権益拡大を阻止せんと、1921年(大正10年)11月、 ワシントン会議日本の利権を奪いにかかります。

 この会議はアメリカによる日本孤立化作戦であり、 表向きは中国を食い物にしている日本を含む列強の縄張り争い制限ですが、実態は日本の東アジア進出に歯止めをかけるものでした。    アメリカはもう有色人国家・日本のこれ以上の台頭は許すつもりはなかったのです。  これにより日英同盟も破棄させられ、 日支が連携し、 中国を半植民地支配 していた列強に対抗しようとした日本は孤立していきます。

 また、肝心の中国も、日本が一刻も早く中国を近代国家として育成し、アジアの盟友として西欧列強に立ち向かおう と奮闘しているのに、日本側の意に反し権力争いが絶えません。  革命後の実権を握った袁世凱としても、孫文などの第二革命を抑えようとして外国の援助を受けたため、 外国の要求に妥協せざるを立場になったりと、中国統一には様々な問題や思惑が入り乱れていたのです。

 しかも、日本に散々世話になったはずの孫文は、中華革命党が国民党に改編された1924年1月、それまでの主義を捨て、ソビエト政府に援助してもらい、 中国共産党との連繋(第1次国共合作)に踏み切り、 共産党員の中国国民党への加入を認めるなど、容共反日へとアッサリ宗旨替えする始末です。   これでは「孫文は詐欺師だった」という評価も仕方ありません。

 いまや中国内では、国民党・蒋介石と、共産主義者・毛沢東が互いに覇を競う内乱状態となり、内戦に明け暮れるようになります。  さらにそこへ、 満州権益を狙うアメリカの横やりが入る有様で、中国の有力者は、欧米か日本か、互いに誰と誰が手を結ぶか、 どちらにつくかの勢力争いが活発化し、中国を巡る白人列強による縄張り争いは激しさを増していきます。

 次々と日本排除の策略を繰り出す アメリカの陰謀が渦巻く、ますます混沌としていく渦中に、お人好し日本が「共に東亜の安定を図ろう」と 中国近代化に尽力し孤軍奮闘していたわけです。    そこに、中国共産化を目論むソ連コミンテルン も絡み、ますます混沌としていきます。(2024.7.12)


  

孫文死去後、後継者となった蒋介石と「北伐」

 1925年、「革命いまだ成らず」の言葉を残して孫文は病により命を落とします。   もともと、 中国国民党内には「共産党とは思想が違うから国共合作には反対だ」とする反対派と、 「軍閥を倒して革命を推進するためにも共産党の力が必要だ」とする賛成派の対立がありましたが、 これが孫文死去により一気に表面化してきます。

 孫文亡き後の1926年、この権力争いを勝ち抜きトップに立ったのが 「蒋介石」で、中国国民党の主導権を握ります。   蒋介石は日中戦争の中国側キーパーソン(鍵を握る人物)であり、日本とは紆余曲折の関係があった人物で、 戦後賠償を一切要求しなかった人物でもあります。

 元々孫文は日本と良好な関係を築いており、その後継者を自負する蒋介石も、 孫文の遺言を遵守し日本の支援を受け、毛沢東率いる共産党と戦っていました。  そんな中、孫文の死により、 北京政府との和平交渉が白紙に戻ったため、蒋介石指揮下の国民革命軍は、1926年7月より、孫文の遺志でもあった 北京軍閥政府を打倒するための軍事行動、いわゆる 「北伐」(第三次北伐)を開始します。

 1926年7月1日、兵力10万という大軍団を編成した国民革命軍は、北京政府を打倒後、中国国民党による中国統一を成し遂げようと、 地方軍閥を蹴散らし糾合しながら北上する 「北伐」を開始。  この中国統一を目指した戦いを、 国民政府は国民革命と称し、共産党も協力し、 さらにソ連の軍事顧問団も加わっていました。

 北伐軍は幾つかの方面軍に分かれて進み、各地で軍閥の軍隊を撃破していきます。 しかし、その過程では中国共産党に食い込んでいた ソ連コミンテルンの思惑によって、北伐軍が外国の支配下にある租界において乱暴狼藉を働くなど、 数々の騒動を起こしています。

 コミンテルンは貧しかった中国大衆に、「貧富の差があり搾取が当たり前の資本主義」よりも、 口当たりのいい、「資本主義を克服した平等で自由な社会」を標榜する社会主義、共産主義を吹き込み、共産勢力を育て、 共通のスローガンとして 「反日・排日」を掲げさせ、混乱に乗じ共産革命のチャンスを掴もうとしたのです。

 これにより、北伐に呼応して各地で民衆が立ち上がり、都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主を襲撃したり、 租界の返還を要求して襲撃するなどするなど、革命機運が燃え広がっていきます。      1927年(昭和2年)1月には、支那革命運動のターゲットとされた武漢や九江の租界において、イギリスの居留民が虐殺され焼き討ちに遭い、 条約によって認められていたイギリス租界が、支那軍によって武力接収される事件も起きています。    まさにコミンテルンの狙い通りの情勢となっていました。(2026.1.18)


   

共産勢力の暴走と「南京事件」

 「中国国民党」と「中国共産党」の覇権争いは根深く、 中国共産党にとって、共産主義嫌いで、国共合作反対派の蒋介石が権力を持っていることは厄介なことであり、この状況を打破する必要があり、 中国国民党の内部闘争は激しさを増し、次第に共産勢力が台頭していきます。

 これに党を取り仕切るのは困難とみた蒋介石は、汪兆銘にフランスからの帰国を要請しますが、 帰国した汪による蒋介石が期待した共産党との調停は不成功に終わり、 国共合作解消の要求にも応じず、 もはや汪兆銘は当てにならないと判断した蒋介石は、自力で共産党排除へ動きます。

  1927年、国民革命軍(北伐軍)は、南京を占拠します。  当初は平和裏の南京占拠でしたが、同年3月24日、 「ソ連と中国は一家」とするソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下の中国共産党の扇動により、 「日英帝国主義打倒」 を叫ぶ軍人や民衆の一部が、日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃し 暴行・掠奪・破壊行為を起こします。

 これにより、外国民間人側には6名の死者を含む死傷者が出たほか、略奪・破壊により多大な物的損害が生じます。 また、その救出に来た米英の軍艦と、 国民革命軍の一部部隊が衝突、さらにこれら米英艦船が暴徒鎮圧のために南京市内に砲撃を行います。  この事件は 「南京事件」と呼ばれます。 《 1937年(昭和12年)の 「南京事件」とは別物》。

 この「南京事件」では襲撃された日本側にも死者が発生し、日本領事夫人が服を脱がされるなどの凌辱を受けます。 イギリスは軍隊動員を列国に求めますが、 平和主義者・幣原喜重郎外相はこれを拒否。  英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本は戦闘行動は自重。   全く何の威嚇も砲撃対処もしていません。  この日本の軟弱姿勢は支那人の侮日感情を高めてしまい、 日本を舐めてかかってくる原因にもなり、これ以降日本人に対する暴行事件が相次ぐようになるのです。

 そして、1927年(昭和2年)4月3日、漢口で日本領事館や居留民が襲撃される漢口事件が起こりますが、さすがに、 このときは日本軍は暴徒の大群に向って威嚇射撃し追い払っています。  租界の権利などをもつイギリス、アメリカ、日本などは、 北伐軍に租界が接収されたことに対し強く警戒するようになり、蒋介石に抗議。   蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えます。(2026.1.18)


   

「上海クーデター」によって共産勢力と決別する蒋介石

 そんな最中、中国革命を図る中国共産党は、周恩来などの指導のもと、共産主義革命の大事な拠点として、 資本家に虐げられている労働者が多くいる上海に目をつけ武装暴動を計画。     労働者ストライキに合わせて大規模なデモを決行します。

 中国共産党は1926年10月と1927年2月にも、主導した武装暴動を主導したものの失敗に帰していましたが、今度は上海に共産主義政府を立ち上げ、 蒋介石・中国国民党を牽制する行動に出たのです。  これに対し、蒋介石は国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じますが、 応じなかったため、1927年4月12日、デモを行った労働者・市民に対し発砲・虐殺する反共クーデター、 いわゆる上海クーデターが起こります。

 北伐軍に紛れ込んだ共産党員が、上海でも南京事件と同様の武装暴動を起こしたことで、列強もこのような革命情勢の高まりに対して警戒を強めますが、 それより困ったのが上海の浙江財閥などの民族資本です。 共産党が裏で操る大衆暴動に大きな衝撃を受け、 危機感をもった彼らは、 国共合作の解消と共産党の排除を、 秘かに蒋介石など国民党右派に働きかけます。

 さらに、上海の欧米資本家らによる共産党排除の要求もあり、これら一連の事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになり、 中国共産党と蒋介石の対立は決定的なものとなり、国民政府内で自分の影響力を確保するため、共産党勢力や労働組合の粛清を決意。     各地方で共産党を掃討する運動を行います。

 この中国共産党排除に動いた蒋介石の上海クーデターによって、 中国国民党と中国共産党の協力関係は破綻し国共合作は解消。  清党(共産党員の粛清)が開始され、共産党の有力者が次々に処刑されます。(白色テロ)    さらに上海クーデターが失敗に終わり敗北した中国共産党は、 大きなダメージを受けます。 この時点では、 国民党の敵は日本ではなく 「中国共産党」だったのです。(2026.1.14)

 
   

国民政府統一と、北伐再開

 1927年4月当時は、もともとの中国国民党の本拠地は武漢(武漢国民政府)にありましたが、 汪兆銘等の「武漢国民政府」は共産党寄りの思想を持っていたため、蒋介石は「武漢政府」から独立し、1927年4月18日、 南京に共産党を排除した新たな政府・「南京国民政府」を樹立します。   これにより、国民政府は蒋介石の「南京国民政府」と、 共産党を容認する「武漢国民政府」に分裂します。

  しかし、当初は中国共産党への対応をめぐって対立していた「南京国民政府」と「武漢国民政府」でしたが、 1927年7月、劣勢となった「武漢国民政府」は反共方針を明確化し、「中国共産党反対」の立場を採るようになり「南京国民政府」に合流します。    これにより 国民政府は完全に中国共産党と分離し、やっと一つになり、 蒋介石の権力はより一層強固なものとなり、共産党勢力を弾圧。   これで第一次国共合作は崩壊します。(国共分裂)

 その後も蒋介石の北伐軍は進軍を続けますが、山東省で張作霖軍に敗北し撤退。 1927(昭和2)年9月、田中義一首相と蒋介石が会談し、 日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、 蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。

 1928年(昭和3年)4月8日、蒋介石は一時停滞していた北伐を再開。  当時支那の北伐軍進軍ルートにある街は、北伐軍とそれを迎撃する(北軍) と戦いによる騒動が多発していました。  商業都市・済南は北京政府の勢力下にあり約2千人の日本人と多数の外国人が居留しており、 日本側も「南京事件」や「漢口事件」のような日本人が中国人や兵士による略奪、暴行騒ぎに巻き込まれないよう、 日本人保護を理由に軍隊を配備していました。

  5月1日、山東省の済南が国民革命軍(南軍)の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付、囚人の解放などで市内は騒然となり、日本側も警戒を強めます。   そこに蒋介石から、 治安は中国側が行うから日本軍は控えて欲しいとの要望がなされ、日本軍は防御設備をすべて撤去させます。

 そんな中、5月3日、日本人の店で中国軍兵が略奪行為を起こし、制圧しようとした日本軍との間で発砲騒ぎとなり、それをきっかけに 中国兵による乱射掠奪が一挙に市中に拡大します。    日本軍は停戦を呼びかけ、白旗を掲げた日本軍使を差し向けますが、中国軍はこれを射殺する暴挙に出ます。

 その後、日本軍は応援部隊(第二次山東出兵)を済南に派遣。  5月7日、12時間の期限付きで、中国軍に暴虐関係者の処罰、 抗争に関わった部隊の武装解除など要求します。   が、中国軍はこれを拒否したため、日本軍は済南周囲を掃討し、済南城を砲撃。    これにより中国軍は夜陰に乗じて城外へ脱出。  11日、日本軍は抵抗なく済南城を占領しています。  この一連の事件は「済南事件」と呼ばれます。     ただ、この事件は北伐軍(国民革命軍)内部に巣食う共産主義派による、蒋介石の影響力を阻害しようとした陰謀と言う説もあります。

 「済南事件」の後、蒋介石は日本側に、 万里の長城の一部を構成する要塞山海関以東の満洲には侵攻しないと日本側に伝えてきます。   日本の満州における権益を認めた蒋介石 としても、せっかく日本とナアナアでいこうとした矢先に起きた事件だったわけで、これはマズイと考えたのでしょう。

 日本軍の到着は、内戦に明け暮れていた支那各地で一般中国人に安心感を与え、上流階級のものはひそかに日本軍を歓迎したといいます。   この事件について外国報道も、「日本軍がいなければ済南外人はことごとく殺戮されたに違いなく、 この点大いに日本軍に感謝すべきだ。 日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再発を防止すべし」と論じ、 その他の報道もほぼ同様の論調です。(Wikipedia)

 欧米列強としても、自分たちの居留区が中国軍に襲われ虐殺されることを警戒していたわけです。  しかし、反日からするとこの事件は、 「...日本軍の暴虐ぶりは世界に有名になったし、何よりも中国民の排日は、これによって拍車をかけられた」 と捻じ曲げられ、相変わらずの、 「全て悪いのは日本」自虐史観で語られています。(2026.1.18)


   

北伐の完成

 当時、北京政府には軍閥の派閥争いに勝利した張作霖(ちょう さくりん)が政権を握っていましたが、軍閥軍に北伐軍を迎え撃つ戦闘意欲はなく、 1928年6月、張作霖も北伐軍の入城の前に北京を脱出したため、北京に無血入城。

 ここにおいて、南京国民政府樹立によって一応の全国統一を果たし、南京を首都とする、中国国民党(国民政府)が正式に成立し、これで国民革命軍の北伐は完了し、 建国以来続く内紛はようやく終結します。  ただ、支那は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えており、共産党勢力を完全に壊滅するまでには至りませんでした。

 戦後、北伐軍の行く手を日本軍が邪魔した、などと書いているトンデモ本も見受けられますが、 日本軍は傍観の構えを取っており、1927年の南京事件で見られたように、 自国民に危害が及ばないよう自衛しただけです。

 まだ日中戦争にまではたどり着いていませんが、ここまでの日本と蒋介石の関係、国際関係を辿れば、少なくとも 《日本軍がいきなり中国大陸に軍事侵攻し、中国正規軍とバチバチの戦争を繰り広げる侵略戦争を行った》 という説は正しくないことが判るはずで、《侵略戦争を行った》というのも《ホントかいな》 と疑問符が付くはずです。(2026.1.14)


生き延びた毛沢東

 「三民主義」を掲げ、「民生主義」いわゆるデモクラシー社会を目指す蒋介石・国民党にとって、 中国共産党は抹殺すべき政敵です。   当時、共産党は「中華ソビエト共和国」と称する支配地域を各地に築いていましたが、国民党は共産党に対し、 「囲剿(悪者を囲み滅ぼすの意)」と称し、1930年代には攻勢を強めていました。

 当時、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の彼我差(ひ-が-さ・敵軍と自軍の戦力の差)は60:1ともいわれ、 毛沢東とすれば国民党と共闘して日本軍を追い払っても、 その後に大きな存在感を示すことはできないと考え、 国民党の勢力を削ぐ目的で、情報を日本軍に横流していた ともされています。   ちなみに、日中戦争期間、共産党軍は日本軍とせいぜい小規模なゲリラ戦をやっただけで、まともに戦っていません。

 毛沢東はソビエト連邦の支援の下、農村を中心として中国共産党の支配領域を広げ、 1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大します。  それに対し 蒋介石率いる国民党政府(中華民国)は、共産党に対し1930年12月から5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開。    1934年初頭からは紅軍(共産党軍)は国民党軍135万の攻勢に耐えられず、1934年10月には壊滅寸前の状態にまで追い込まれます。

 国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)は、 「中華ソビエト共和国」の中心地であった江西省瑞金を放棄、国民党軍と交戦しつつ、1934年から1936年にかけ、1万2500kmを徒歩で移動する (長征)を開始。  この過程で8万を越えていた共産党兵力が国民党との戦いで死亡・脱落し、数千人にまで減少するなど大きな打撃を受けます。

 毛沢東は長征の合間に通過した各農村に、紅軍兵士や共産党員を居残らせ、農民たちに革命教育を行い、 共産党への支持を確立しながら進みます。  これが後の毛沢東の指導権確立へつながったとされます。    中国共産党を追い払った国民党でしたが、蒋介石は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ませんでした。(2021.3.24)


  

日本を除く三つ巴の内戦だった日中戦争

 北伐完了により、中国の建国以来続く内紛は、ひとまず終結した形となったわけですが、一方、共産党勢力を完全に壊滅するまでには至らず、 北京政府の実権を握っていた満州の有力な軍閥「奉天軍閥」の指導者・張作霖 も北京から逃亡しています。   一説では、捕まって処刑されるところを、日本陸軍将校の田中義一に救われたことで恩に感じ、以降関東軍協力していたともされます。

 さらに、コミンテルンが仕掛けた抗日運動の突き上げが激しさを増しており、蒋介石としても、ヘタにこれを抑えようとすれば自分の身が危なくなるわけで、 止む無く日本軍との間で成り行きの要素の強いの戦闘を続けながら、共産党との国共内戦も継続しています。

その後の支那は、毛沢東率いる共産党と、共産主義に反対する蒋介石率いる国民党、 さらに共産党にも国民党にも属さない軍閥との三つ巴の内戦となっていきます。  後に日中戦争が起こるわけですが、 中国戦線は蒋介石や毛沢東が基本的に日本軍との直接の戦闘を避け持久戦略を取ったため、一部を除いて比較的落ち着いたものだったとされます。

 塩川正十郎元財務大臣の 中国戦線回顧によると、 「...八路軍(パーロ・共産党軍)と新四軍−これは毛沢東系とはちょっと違うやつ−と、 重慶軍(国民党)と、日本軍とが四つ巴になっとった。  ですから、私が巡察で回りますと、 重慶軍から税金を取りに来るわけです。   その後、すぐまたパーロからも税金を取りが来る。 どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。  日本軍はそんな税金は取ってませんから、 わりと歓迎されましたよ」という実態だったのです。(2021.3.24)


   

明治維新以後、急激に増大した日本の人口

 日本の人口は江戸時代(〜1800年)まで3000万人ほどだったのが、明治維新(1868年)以後急激に増大し、 1次世界大戦(1914年)時点で5000万人、1920年代末には6000万人を越えました。    この急激な人口増加によって、 工業国でもなかった日本は就職先がなく失業者があふれ、農村部を中心に余剰労働力を生み、 家庭経済の貧困化という大きな社会問題を生みます。

 さらに、第1次世界大戦の好景気以降は、 相次ぐ天災や、世界恐慌から派生した 昭和金融恐慌なども相次ぎ、 そのうえ東北北陸地域の冷害による大凶作という負の連鎖により、農家でありながら食物を欠くという大規模な飢饉が発生し、 不景気と凶作に見舞われた農家経済が破綻、 政府には早急な対策が求められます。

 そこで日本政府は国内社会問題の解決策の一つとして 海外移民を積極的に推進。   特にハワイでは日系人は最大の民族集団となります。     日本民族移民の歴史は古く、1868年には、 横浜在住アメリカ商人ユージン・バンリードが、ハワイの砂糖プランテーションやグアムへ200人ほどの日本人労働者を送り出します。

 しかし、やがて従順に働く日本人移民の急激な増加は白人の人種的恐怖心を煽り、周囲からの反感を買い、日本人移民排斥問題をめぐって日米関係が緊張。      日露戦争(1905年)の頃までに、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の日本人排斥運動が起こるようになっていきます。

 1924年7月1日、アメリカは各国からの移民の年間受け入れ上限数を決め、アジアや東ヨーロッパ出身者の移民を厳しく制限するようになります。     特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられたのです。  このため、当時ハワイでは 移民の大半は日本人が占めていましたが、移民制限によって日本人の移民は全面禁止となり、日本に大きな衝撃を与えます。

 これを日本では「排日移民法」と呼びますが、日本人のみが対象というより、白人以外は全て移民禁止とされたのです。    その4年後には、カナダも日本人入国を極度に制限します。 1921年から移民数は純減に転じていたとされますが、いずれにせよ、 日本人を1人も移民させないという排日移民法は、 当時の日本人の反米感情を産み出したのは疑いないところで、 このような根深い白人至上主義も太平洋戦争へと突き進む要因の一つだったのです。

 敗戦後、昭和天皇も日米開戦の遠因として、 「....加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは 日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、 軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない」 (『昭和天皇独白録』より)と述べています。(2026.1.14)


   

「日本人移民禁止」と「満州国建国」の関係

 一人も移民を認めないという排日移民法により、日本は大きな移民先を失いますが、その代替の 移民先として期待されたのが、 日露戦争に勝利した日本がロシアから譲り受けた、遼東半島を中心とした南満州地域でした。  以降、日本は 満州を重視せざるを得なくなっていきます。

 その後、日本国内では、ますます「満州進出で領土を確保すれば、不景気から脱却できる」という声が高まります。     当時の日本は相次ぐ天災や、 昭和恐慌のために、 不景気と凶作に見舞われた農家経済が破綻 し、特に東北地方や中部地方の零細農家は、食べるために娘を身売りするなど、崖っぷちの窮状に追い込まれていました。

 一方、中国を統一した蒋介石の国民党政府は、列強に奪われた満州を含む利権を取り戻すべく、 さまざまな回復運動をとっていました。  それに対し、日本の軍部、 特に現地の関東軍には、このままでは 「満州」の利権が奪われるという危惧を抱き、満州全域を日本の領土とする満州国建国を目論みます。   このような事情が、後の 満州事変につながっていくわけです。

 1932年(昭和7年)3月1日「満州国」が成立し、 満州全域が日本の支配下に置かれると、「満州への移住」が 国家の主要政策の一つになります。   不景気のどん底にあった東北地方や中部地方の零細農家を募り、 家族、村単位で、「定住移民」を送るという事業が始まったのです。   このような強力な移民送り出し政策によって、 農業移住だけでなく、商売目的や日本旅館の芸者、中には娼館で働く娼婦まで、我も我もと大挙して「満州」へ向かったわけです。(2026.1.14)


   

どうしても満州利権が欲しかったアメリカ

 日本が半植民地状態の中国に介入し独立を支援したのも、満州権益を確実なものにする、 という目的がありました。  すでに満州には大勢の日本人居留民が入植しており、資源と経済的利益の確保が国家使命だったのです。  当時は 『塀も柵もない原野を野盗の群れが走り回っている(西尾幹二)』弱肉強食の時代であり、 白人列強は早い者勝ちの植民地支配合戦 を世界中で繰り広げており、力のある者だけがその権利を手にできたのです。

 そこで、日本はいち早く満州の実権を握ろうとしたわけです。 アメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズは、当時の 日本の行動について 『...日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、 ロシアの南進政策に対抗して 朝鮮半島と満州を治め、イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利 を確保するということであり、 その後弱冠の変化はあっても 当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して決して過度なもの ではなかった』と正当に評価しています。

 しかし、満州権益が欲しかったのはアメリカも同様で、 満州が「喉から手が出るほど」欲しかった のです。  中国利権争い競争に出遅れ、なんとしても 満州利権が欲しかったアメリカにとって、 中国に権益を拡大していく日本は邪魔者であり 排除に動いたのは当然でした。    1921年の「ワシントン会議」で、中国への今以上の内政干渉を原則禁止する「九カ国条約」を提案したのもその一環です。

 実際日本が敗戦を受け入れた1945年8月14日、ニューヨーク・タイムズは 「我々は初めてペリー以来の願望を達した。 もはや太平洋に邪魔者はいない。  これで中国マーケットは我々のものになるのだ」と書いています。 日本としても満州までアメリカに支配されてしまえば、中国大陸は列強に完全支配され、 その次に列強の矛先が日本に向けられるのは時間の問題でした。

 「日本は戦争を仕掛けた犯罪国家」と洗脳された日本人に欠落しているのは、 当時は白人列強が有色人種を 根こそぎ植民地支配し、 奴隷扱いするのが当たり前の時代であり、白人列強にとって 世界の一等国入りを果たし、 世界政治に関与できる国となった 有色人種国家・日本が、 万が一中国と提携して自分たちに立ち向かってきたら 「白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」 と危惧した、という知識です。

 この白人国家がムキになって日本排除に動いた背景が見えていないから、その後の日中関係が 時の流れと共に変遷していったのも、 食うか食われるかの激動の時代に曝された日本が、 無謀な米国相手の戦争へ突き進んだ理由も分からないのです。


  

日本の満州権益を容認していた蒋介石

 この時点までの中国における日本としては、もとより《中国に干渉する》という気はなく、日本の狙いはあくまで《満州権益の確保》でした。    しかも、日本軍の存在は《内戦に明け暮れていた支那各地で一般中国人に安心感を与え、 上流階級のものはひそかに歓迎》したとされ、必ずしも「反日一色」というものではありませんでした。

 もともと、蒋介石の北伐軍は山東省で張作霖軍に敗北し撤退した後の1927(昭和2)年9月、田中義一首相と蒋介石が会談し、 日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、 蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。    蒋介石は上海での記者会見で、「...日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文) もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語っています。(Wikipedia)

 当時の満州には、清朝の権威が衰えた19世紀中ごろから、漢民族、蒙古族、朝鮮族、ロシア人など、 飢饉や自然災害に見舞われ故郷を捨てた者や、 犯罪者や逃亡者などが次々に満州に侵入し定着していきます。 日本も例外ではなく、当時すでに20万ともいわれる 日本人が満州の地で生活していました。

 しかし、軍閥による過酷な税金徴収や、中国兵士たちによる略奪、暴行、殺人、強盗などにより、満州住民は一日も早く 軍閥の支配から解放されることを願っていました。     中国人(漢民族)にとって「化外の地」だった満州は、いまや新しい開拓地となっていたのです。(2021.3.24)


 

「南満州鉄道」を巡る綱引き

 北伐完了によって北京を脱出した張作霖ですが、支那に広がる排日運動の高まりや、 共産党と国民党の対立騒動をきっかけにアメリカになびき、 次第に日本の干渉を疎むようになり、1920年代になると、海外資本の提供を受け 満鉄と並行する鉄道線を建設し始めるなど、 日本と対決姿勢を取るようになります。

 日本は日露戦争で勝利した後の1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約により、 ロシアから満州・関東州(遼東半島)と東清鉄道の利権の一部(南満州鉄道)を譲渡されていましたが、 日本が手にしたものは、ロシアが満州に築いた鉄道の南半分を借りる権利に過ぎず、ある意味脆弱ともいうべきものでした。

 日本側は、張作霖と息子の張学良に、1905年(明治38年)に南満洲鉄道に併行する鉄道建設の禁止などを定めた 「満洲ニ關スル条約」を遵守するよう求めますが、同条約を否認して併行鉄道の建設を推進していきます。     その後も、日中関係悪化により次第に排日運動が激化し、条約を無視したりテロ行為が相次ぎます。

 日本がそれら未解決事件に対する厳重抗議として提出した抗議文は4千件近くにも達したといいます。    もはや張親子に利用価値がないどころか、日本が手にした満州利権の弱小化を図る敵とみなした関東軍は、 張作霖排除を図ります。  「南満州鉄道」は満州事変の火種とされ、 満洲事変の遠因となっていきます。

 南北統一を果たした蒋介石が、山海関以東には侵攻しないと言っても、中国の政情は相変わらず不安定でしたし、そのうえ当時の満州は統一されておらず、 張作霖のような小軍閥や匪賊の頭たちが、 それぞれの地域で群雄割拠していたのです。  日本はポーツマス条約の追加事項で、 鉄道の管理地域に守備兵を置く権利を認めさせていました。

 この守備兵部隊が「関東軍」でした。  欧米諸国も中国権益を狙って、 有力者が組織する私兵集団・軍閥とそれぞれ通じていた時代で、当時の満州は次に何がを起こるか分からない不安定な状況であり、 関東軍は張作霖の処遇を含め「満州政策の見直し」を迫られます。(2021.3.24)


   

陰謀によって暴走していった「関東軍」と満洲事変

 満州に進出していた日本陸軍大将・田中義一は、自らが張作霖との外交交渉に臨みますが、交渉は思うような進展は得られず、 これを弱腰外交と見た過激青年将校たちはいきり立ちます。  その頃は 日本の政治を支配する軍派閥 の動きが強まっていました。

 また、北京政府の政権を握っていた張作霖が、北伐軍に敗退し逃げ出した今、 関東軍とすれば、 北伐軍がさらに北上することによって、せっかく手にした満州の特殊権益も、相手に渡ってしまう危惧を抱きます。     日本としては中国に散々世話してやったのに、手のひら返しで日本を邪魔もの扱いする中国に対する反発という背景も、満州事変につながった要因にあったわけです。

 そんなときの1928年6月4日、現在の瀋陽にある奉天駅近くで起きた 鉄道爆破により張作霖は死亡します。  これはいままで関東軍の仕業とされてきましたが、 今のロシアにおいては、張作霖爆殺事件の犯人はソ連諜報部説は、 専門家の間で定説になっています。

 その後1931年(昭和6年)9月18日、満鉄の線路が何者かに爆破される事件 (柳条湖事件)が起こりますが、 関東軍は、爆破事件は 中国軍によるものと主張。   一気に満州南部奉天を制圧し、 周辺主要都市を次々に占拠していきます。

 満州事変後、張学良は北京に逃れますが、たいした抵抗もせずに満洲地域から撤退した張学良は、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれます。    これに対し、張学良は後に、「(この出来事は)日本にとって国際的な非難を浴びるなど、好ましくない結果をもたらすだろうと考えた」と述べています。

 その後の関東軍は、不拡大方針を進めようとする若槻内閣や日本陸軍の決定を無視し、 全満州への軍事展開を主張し戦線を拡大。   柳条湖事件は「満州事変」へと拡大し、1931年(昭和6年)11月から翌年2月までに、 チチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領します。  この関東軍の行動は中国の排日感情に火をつけ、 中国における日中共生という流れを断ち切って、やがて 日本とアメリカの戦争へ突き進む遠因となっていくわけです。

 ただ、《柳条湖事件》も、中国人民解放軍政治部が発行した『戦士政治読本』によると、この事件は劉少奇(後に中共国家主席) の指令で実施されたものであり、 国民党軍と日本軍を戦わせ消耗戦に追いやる陰謀だったと誇らしげに書かれ、 毛沢東もこれを認める発言をしていたといいます。   この陰謀に関東軍がまんまと踊らされ、事態はとうとう 満州事変 へと拡大していくわけで、関東軍の暴走とされたこれら一連の騒動の背後には、共産党とコミンテルンの策略があったのです。(2021.3.24)


   

「第一次上海事変」の勃発

 そんな混乱の最中の1932年(昭和7年)、外国人居留地の上海共同租界周辺で、 日本人が多数の中国人に襲撃され死者まで出る事件が発生。 この際に日本側は上海市長に対し賠償や 抗日組織の即時解散を要求し受諾させます。  しかし、要求に屈したことに怒った中国人と、 この程度の処置では怒りの収まらない日本人居留民との対立はますますエスカレート。  市庁舎が中国人に襲撃されるなど、上海市内は騒然としていきます。

 1月28日、中国軍が発砲する騒ぎを起こし、これに日本軍陸戦隊が応戦。  最初の日中両軍の軍事衝突が発生します。    日本海軍は巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、実戦に初めて参加する航空母艦2隻(加賀・鳳翔)、及び陸戦隊約7000人を上海に派遣、 さらに金沢第9師団、混成第24旅団の派遣も決定します。

 日本側は更なる軍事衝突を避けるため、2月18日、中国側に対し列国租界からの撤退を要求しますが、中国軍が拒否したため、 2月20日に日本軍は総攻撃を開始します。  その後、3月1日、第11師団が国民党軍の背後に上陸したことで、中国軍は退却を開始します。

 この戦いは「第一次上海事変」と呼ばれ、 最初の日中両軍の本格軍事衝突でした。   日本側の戦死者は769名、負傷2322名。  中国軍の戦死者4086名、負傷9484名、行方不明は756名とされます。   その他中国側住民も多数の死傷者が出ます。     このとき、中国側パイロットとして参戦していたアメリカ人中尉が、加賀航空隊に撃墜されています。    日本側は中立関係の米国が日本軍と戦闘を行ったことについて、アメリカ総領事に抗議を行っています。

 米国は1937年頃から、国民党軍の支援として戦闘機と米国人パイロットを中国現地に派遣しています。  ただ、その当時日米は中立関係にあったため、 パイロットは義勇兵という形で参戦するため、米軍を一旦退役しています。  この部隊名は「フライングタイガース」 の名称で知られます。(Wikipediaより)。(2022.3.22)


国際連盟からの脱退

 満州国建国前、蒋介石の国民党政府は「満州事変(柳条湖事件)は日本の侵略行為である」と国際連盟に訴え、 1931年9月18日に起きた柳条湖事件の事実関係調査を求めます。    それを受け、当初はあまり乗り気でなかった国際連盟でしたが、その後「国際連盟日支紛争調査委員会」いわゆる (リットン調査団)を設置。 日本・満州・支那へ派遣し、 聞き取り調査を行おうとします。  国際連盟から日本が脱退したのはこの調査結果に不満だったから、などというものもあります。

 これについてリットン調査団は「侵略」と断じていない が、国際連盟が満州国建国は不承認としたことで、日本は1933年(昭和8年)3月27日、 国際連盟から脱退し、孤立路線を歩むことになります。    この背景には何としても満州権益を得たいアメリカの日本排除の策略があったわけで、日本は好き好んで脱退したわけではなかったのです。     日本の行動について、「罪は満州侵略ではなく、国際連盟を蔑視したという事実である」 (コロンビア大学教授のF.Rエルドリッヂ氏)という指摘もあります。

 そもそも、蒋介石は1927(昭和2)年9月、田中義一首相と会談し、日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。     その後上海での記者会見で蒋介石は、「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし 、満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」と語っています。(Wikipediaより)(2021.3.24)


  

満州国の建国と日本・支那停戦協定

 満州事変の翌年の1932年(昭和7年)3月1日、関東軍の後押しで清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)を元首とする、 独立国家・満州国が建国され、斎藤実内閣は満州国と日満議定書をとりかわし、 日本政府は正式に満州国を国家と認め、国交を樹立します。    「満州」は不景気脱出の受け皿 として期待されていたのです。

 満州事変の翌年、1932年(昭和7年)3月1日、清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)を元首とする、 独立国家・満州国が建国され、斎藤実内閣は満州国と日満議定書をとりかわし、 日本政府は正式に満州国を国家と認め、国交を樹立します。    「満州」は不景気脱出の受け皿 として期待されていたのです。

 1933年(昭和8年)5月には、日本と蒋介石の国民党政府は、中国と満州との間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那停戦協定・「塘沽(とうこ)停戦協定」を結びます。 これにより、中華民国としては 満州地域が分離した新たな国であることを認め、満州国を黙認する格好となりました。

 この時点では、日本と蒋介石の関係は剣呑とまではなっていなかったのです。      この協定により、関東軍は基本的に万里の長城から南に攻め込まないこと。    一方、中華民国軍も、決められたラインから満州国の方向に進軍しないこと。   さらに、 河北省の一部に非武装地域を設けることが取り決められます。

 蒋介石が頼りにしたのが、関東軍参謀副長・岡村寧次陸軍大将でした。  蒋介石の 国民党が中国共産党軍に惨敗していた原因に、政府高官の汚職があまりにひどく、 人民に見捨てられたこと以外に、部下たちが次々に寝返ったことがありました。 新潟の高田連隊に入隊し皇軍となった経験のある蒋介石は、 規律正しい日本軍の強さを知っており、なんとしても国民党軍を再建させたかった蒋介石は、日本人軍人の強さと誠実さに期待したわけです。

 これにより、中華民国としては満州地域が分離した新たな国であることを認め、満州国の存在を認め黙認する格好となります。    日本との関係を大事にする蒋介石は、『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』としてとりあえず 「満州事変は一応の終結を見たわけです。  そもそも、満州族の国である満州を、漢民族の蒋介石が決める権利はもともとなく、 日本に恩義のある蒋介石がとやかく言える立場ではないのです。

 中国は満州国の法的承認はしませんでしたが、列車の乗り入れや電信・電話の開通、税関業務などの実務協定を結んでいます。  戦後、 満州事変と日中戦争を一つの流れとしてとらえる向きもありますが、 満州はあくまで日本が権益を持って おり、当時の中国のものではありません。  満州事変は日本と満州の問題 であり、両者で終結しているのです。(2021.3.24)


 

「西安事件」で変わる蒋介石の対日姿勢

 1936年(昭和11年)、西安で蒋介石が張学良に拉致され監禁される (西安事件)が起きます。  このとき、 張学良は実質的に国民党No.2の陸軍一級上将にまで登りつめていましたが、過去自身も満州から追い出されたことで日本をよく思っておらず、 以前から蒋介石に「抗日戦」の要求を行っていました。

 蒋介石は共産党討伐を優先していたのですが、拉致された蒋介石は張学良の説得に折れたか、互いに協力して抗日するという約束がなされ、 数日後、中国共産党の周恩来の調停などにより蒋介石は解放されます。  このとき蒋介石と張学良の間に入ったのが米ニューヨーク・ヘラルドの特派員で 張学良の顧問でもあったウィリアム・ドナルドで、蒋介石夫人の宋美齢とも出来ていたとされます。

 彼は蒋介石夫人の宋美齢を伴い、 西安に飛んで張学良を説き伏せたとされます。 これにより親日派の蒋介石も、 親米・反日に「転んだ」わけで、これ以降、本格的に対日戦に踏み切っていくことになります。    中国共産党も、この事件を契機に勢力を復活させるべく、解放された蒋介石と国民党との連携をはかります。  しかし、 蒋介石は共産党への不信感が強かったこともあり、なかなか交渉はまとまりません。

 ここまで駆け足で中国を巡る当時の日本と列強の関わりを見てきましたが、この時点では《日本は中国に侵略戦争を仕掛けた》どころか、 列強と比較しても決して横暴な振る舞いはしておらず、蒋介石とも上手くやっていたわけです。

 しかし、中国の政情は相変わらず、「中国国民党」と「中国共産党」の覇権争いに加え、共産革命のチャンスを窺うコミンテルン、 満州利権を狙うアメリカやドイツといった勢力の思惑が入り乱れ、事態はますます混沌とし、「西安事件」以降、日中の運命の歯車は大きく変わっていきます。(2025.3.22)


   

盧溝橋事件はコミンテルンの陰謀だった

 その後、日中関係はしばらく平穏を保っていましたが、1937年(昭和12年)7月7日、北京市郊外に架かる盧溝橋(ろこうきょう)付近で、 日本軍第八中隊が夜間演習を行っていたところ、突如数発の実弾が発射される事件が起きます。    これが支那事変(日中戦争)の引き金とされる 盧溝橋事件で、 日本軍と中国軍の間で発生した小規模な衝突から始まったものです。

 しかし、いまでは「盧溝橋事件」を仕掛けたのはコミンテルンの陰謀 とされます。   コミンテルンは中国を共産化する目的のため、 国民党と内戦状態の中国共産党を支援しており、 盧溝橋事件は、日本と国民党を対立させ、国民党弱体化を狙う コミンテルンの陰謀だったのです。

 日本軍は日本政府の事態不拡大政策に基づき事態の沈静化に努めますが、この事件以降、中国各地で中国軍の交戦準備が進められます。   一方、蒋介石は対日徹底抗戦を主張しますが、それに対し汪兆銘(おう ちょうめい)は 「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となっていきます。

 日本は、盧溝橋事件勃発直後から、北支(北支那:華北地方)周辺へと広がった戦いを北支事変と呼んでいました。  その後、第二次上海事変以降は、 戦火が中支にまで広がったため、その後は支那事変としています。     日本政府は、中国に対し宣戦布告していないため「〇〇戦争」と言う表現ではなく「〇〇事変」としていたのです。(2022.3.22)


   

支那軍に日本人を襲わせた米国の手口

 「盧溝橋事件」をきっかけに、日中の対立は決定的となり、中国側が日本人居留民や日本軍兵士人をたびたび襲う暴挙に出たため、 日本軍は軍事行動を拡大していき、とうとう1937年7月28日には日中両軍は華北において衝突状態に入ります。

 中国人暴徒の「日本人襲撃」 はますますエスカレート。  7月29日には、 中国人部隊と支那人学生が 日本人居留民を襲撃し、 猟奇的な殺害、処刑方法で、女性・子供まで含む全員を殺戮するという 通州事件が起こり、 日本国内には中国の暴虐を許すなとする声が高まります。

 「満州事変」は日中戦争の引き金 とされていますが、満州権益確保のため動いた関東軍でさえ、それ以上の軍事行動は考えていませんでした。   日中戦争は日清・日露戦争から満州事変へと続く過程の中で生じた 様々な出来事の結果であり、 その背後には 日中戦争の黒幕・コミンテルン の陰謀があったのです。

 その日中離反陰謀に輪をかけたのが、中国利権争いに出遅れていたアメリカです。  アメリカは 少しは日本に未練があった蒋介石を日本と対立させるため、 第二次上海事変で行ったように、支那軍に武器とタップリのカネを与え裏切らせ日本人居留区を襲わせ支那人の残虐極まる民族性を見せつけ、 これが日本軍を怒らせ戦線を拡大させていきます。

 この自分の手は汚さないアメリカのやり方は、 先住民であるインディアンやフィリピン人を殺しまくって領土を手に入れてきたのと同じ、 アメリカの常套手段です。   つまり、日中戦争は大東亜戦争有色人種による白人列強からの 独立戦争であったように、 日本の侵略戦争 どころか、「日米戦争」だったのです。(2024.7.12)


   

第二次上海事変

 1932年(昭和7年)に起きた「第一次上海事変」の5年後、 中国に駐在していたドイツの軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンは、蒋介石に対して、「中華民国にとって脅威なのは、 共産党よりも日本である」とたびたび対日開戦を提案します。  当時、 ドイツは対中国武器輸出を精力的に推進していました。

 また、列強の中で太平洋地域進出に出遅れていた帝国主義国家・アメリカも、自分達を出し抜いて満州国を打ち建てた日本の、 これ以上の中国進出に歯止めをかける必要から、蒋介石を日本と対立させるため、タップリの武器とカネを与え、手なづけ裏切らせていました。

 蒋介石はこれを受け入れ、日本軍と戦える兵力を準備するため、ドイツからゼークト元国防軍総司令官を招き、ドイツ軍事顧問団の訓練を受け ドイツ製兵器を装備した、国民党軍精鋭部隊約20万人を整備。  日本との対決姿勢を取ります。  ただ、これについては 戦闘を躊躇う蒋介石に対し、 張治中(ちょう じちゅう)という人物が執拗に日本租界への攻撃要請し、これにシブシブ蒋介石が同意 したという説があります。

 いずれにせよ、1937年(昭和12年)8月12日、中国軍部隊が上海まで前進して、「第一次上海事変」後の停戦協定で非武装地帯とされていた上海西方に、 日本租界(在留日本人の居住地)を包囲する 「ヒンデンブルク・ライン」と呼ばれる最新鋭の塹壕陣地を構築。  13日早朝、作戦指導のため 70名以上のドイツ人が中国軍の各部隊と同行し、中国軍部隊は日本海軍陸戦隊へ攻撃をかけてきます。     この戦いは「第二次上海事変」と呼ばれます。

 当時上海にいた日本軍は、陸戦隊の約4000人でしたが、日本租界を守るため、最新鋭の塹壕陣地に苦戦しつつ、押し寄せる10倍以上の国民党軍相手に、 多大な損害を出しながらも奮闘。   その後、 救援の上海派遣軍や日本海軍などが続々と駆け付け、 反撃に打って出ます。

 14日には、中国国民党軍機による爆撃により、上海のイギリス資本のホテルが空爆され、数十人の欧米人が死傷し、 さらに娯楽施設も爆撃され3000人以上の民間人が死傷する 「上海爆撃事件」が起きます。  ところが、 中国メディアは「日本軍機による爆撃」との偽報道を流します。   このウソ報道で国際社会の日本に対するイメージはますます悪化していきます。

 こうして、日中対立は もはや歯止め が利かなくなっていきます。  蒋介石は日本と軍事的に対抗するため、内戦状態にあった共産党と手を結び日本に対抗 することを決意。  1937年9月、1924年の第一次国共合作に続き、抗日民族統一戦線(第二次国共合作)を結びます。

 1937年(昭和12年)10月26日、日本軍はやっと上海を制圧することに成功。 11月5日、国民党軍は180個師団のうち 精鋭部隊の大部分、73個師団が壊滅。  空軍もほぼ壊滅、艦艇も大部分が失われ4万人ともされる死傷者を出し大損害を受け敗走します。


  

第二次上海事変も、アメリカの策略

 この第二次上海事変では、あの義和団事件 と同様、粗暴で残忍な中国人が5万人、米独から渡された最新鋭の武器を手に日本人租界を襲います。  すぐ隣には アメリカ、フランスの租界が広がっていましたが、 彼らは屋上から日本人と中国人の戦争を見下して酒盛りをしていたともされます。

 欧米人は凶暴な中国人が絶対に彼らの領域に侵攻しないことを確信していました。  なぜなら、日本軍と戦っている中国軍は 米国に金で雇われ日本を裏切った蒋介石が指揮を執る軍隊であることを、彼らは承知していたのです。      蒋介石は、米国にすがりながら抗日戦争を続けたのです。

 第二次上海事変の正体は、 支那軍に日本人居留区を襲わせ日本軍を怒らせ蒋介石と仲違いさせ、中国国民を怒らせ、 さらに排日機運を高めて日本軍を中国大陸から追い払おうとした、自分の手は汚さない アメリカの策略だったのです。    この第二次上海事変は、 その後の日中全面戦争へと発展した重要な軍事衝突でした。

 こうして日本と南京国民政府(中国国民党軍)は、 宣戦布告を行わないまま 日中戦争へと突き進むわけです。   このように、 米国は日中戦争のすべての局面で決定的な役割を果たし、 戦後は日本が中国に軍事侵攻した ことにされてしまったのです。       ここまで見てきたように、日中戦争とは蒋介石も毛沢東も米国の手先となり 米国現地兵の一人として戦った《日米戦争》だったのです。

 しかも、「人道主義国家」の米国は、自分の策謀術数(けんぼうじゅっすう)は隠し、 《日中の戦いはきっと性悪の共産主義者、コミンテルンが争わせたのでしょう》、とすべてソ連の画策のように思わせたのです。   日本抹殺を狙うアメリカは、「ABCD包囲網」で日本を追い込む前に、 まず中国大陸において邪魔者・日本を追い払おうとしたのです。  このように、 日本はいつもアメリカに翻弄されてきたのです。(2026.1.14)


  

たった3日で終わった「南京攻略戦」

 「第二次上海事変」で敗れた中国軍は、中華民国の首都・南京まで撤退。     ここで日本軍に抗戦するため、南京を中心とした防衛線(複郭陣地)を構築して日本軍を待ち構えます。     一方、日本軍は南京へ退却していく支那軍を追って進軍の途上、迎撃する中国軍の防衛線を次々に突破。  まず北支(中国北部地域)の河北、山西地域を制圧。   上海方面の海軍・空軍も徐々に戦線を押し上げ、ついに1937年11月に上海地域を完全に手中に収めつつ南京城に迫ります。

 1937年(昭和12年)12月9日、日本軍は南京城を包囲し投降勧告を行います。  これに中国軍が応じなかったため、 12月10日より南京攻略 の総攻撃を開始。 12日には南門から攻撃をかけ、13日の昼過ぎ以降に戦闘はほぼ終息を迎えます。  この際中国軍はトーチカの床に 兵士の足を鎖で縛りつけ、勝手に戦場から逃げ出さないようにしていたとされます。  蒋介石は、 期待していたソ連の支援が延長されたことを受け、12月7日にはサッさと南京を脱出しています。

 毛沢東は、 南京攻略戦における南京陥落のニュースを聞き、 大喜びし祝杯をあげたとされます。  また、戦後、訪中した社会党(当時)の佐々木更三らを前に、 「皇軍(天皇が統率する軍隊・日本の陸海軍)が中国の大半を侵略しなかったら、 中国人民は団結できなかった。  皇軍はわれわれにとってすばらしい教師だった」 と述べたそうです。    毛沢東は自らの政治目的のために国民党軍と日本軍を戦わせ、対日戦を利用し自分の敵になる国民党の勢力を削ごうと策略していたとされ、 かなりの戦略家だったといわれるのもうなづけます。

 日本軍は立て籠もる支那軍を3日で壊滅(南京攻略戦)させたあと、敗走する支那軍を追い漢口へと進出します。    後年、このたった正味一日二日の戦闘だった南京攻略戦 で起こったとされるのが、日本軍が中国人30万人を殺害したとされる 「荒唐無稽のホラ話」、 「南京大虐殺」です。

 このデッチあげの新たな日中間の火種 となった「南京大虐殺話」は、いまでは 「南京市の南京大虐殺記念館」 という日本叩きの施設までつくられ、 「朝日新聞の本多勝一」を始め、 筑紫哲也、久米宏など多くのサヨク日本人が訪れています。(2024.7.12)


  

ドロ沼の膠着戦...日中戦争の本当の姿

 敗走を続ける蒋介石・国民政府は、途中「黄河決壊事件」 などの「長沙焦土戦術」を起こしつつ、11月20日には、南京から奥深い四川省重慶へ遷都しますが、蒋介石の長沙焦土戦術に批判の立場の汪兆銘は、 蒋介石との決別を決意し、重慶からの脱出を決行。   上海に移った汪兆銘はただちに日本を訪れ、 平沼騏一郎内閣のもとで新政府樹立の内諾を取り付けます。

 戦後になり、日本への憎悪を育ませることを目的として造られた南京市の反日施設「南京大虐殺記念館」をノコノコ訪れ、 「もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と言い放った日本の反日首相 福田康夫の父である福田赳夫は、 この汪兆銘政権の財政顧問でした。

 一方、蒋介石軍は重慶に立て籠もり膠着状態 となり、終戦まで欧米の支援を受けつつ持久戦となります。  日本軍は重慶に逃れた蒋介石政権に対して、 広大な中国大陸の農村部に、点と線を確保し対峙したわけですが、 蒋介石や毛沢東も基本的に日本軍との直接の戦闘を避け持久戦略を取ります。

 中国共産党軍も「百団大戦」を除いては、散発的な遊撃戦を繰り返すのみで、 中国戦線の実態は一部を除いて比較的落ち着いたものだったとされます。    この間、日本軍は 蒋介石政権への支援ルートを遮断するため、 「世界戦史上空前の長期かつ大規模な都市無差別爆撃」と大袈裟に批判されることになる 「重慶爆撃」を行っています。

 当時の日本は、コミンテルンやアメリカの陰謀も掴めず、現状打開の手立ても思い浮かばず、 単に「横暴な支那を懲らしめる」として、 泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのです。  「盧溝橋事件」から日中戦争へと拡大していった1940年2月、帝国議会に置いて民政党の代議士が 「何のためにこんな戦争を続けるのか。 この戦争の目的は何か」と質問しますが、当時の米内内閣の大臣は 誰一人この質問に答えられなかったといいます。  あまりの混沌とした中国情勢に、もはや誰もついていけず、 戦争の目的が判らなくなった日本は、 ただ惰性で戦っていたのです。

 かくして日本は泥沼の支那事変(日中戦争) へと巻き込まれていったわけです。  内情が複雑怪奇に入り乱れた「日中戦争」の中身を理解するのは大変ですが、 塩川正十郎元財務大臣の 中国戦線回顧が、当時の「日中戦争」全体図を簡潔に表しています。(2026.1.14)


     

「日中戦争はコミンテルンが画策」説を唱える朝日新聞

 北東アジア制覇を目論むソ連にとって、日本が支援する国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、 日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、それを警戒したソ連は、なんとしても日支共生の動きを阻止する必要がありました。   そこでコミンテルンは民衆を扇動して「抗日運動」を広め、「日本との戦いのため共闘しよう」という大義名分を創り出し、 国民党と日本の協力関係を阻害するよう様々な謀略を仕掛けたわけです。

 戦後、朝日新聞は、「日中戦争はコミンテルンが画策」説を忠実に守っています。  その背景には、 GHQからの廃刊の脅しに屈し、自説を変えた朝日新聞のトラウマがありました。   サヨク新聞・朝日は、戦時中はバリバリの「軍部御用達新聞」であり、 終戦後の1945年9月17日にも、「太平洋戦争末期に フィリピン・ルソン島に連合国軍が上陸し 「マニラ市街戦」が起こり、 「日本軍の常軌を逸した残虐行為の数々を仕出かした」とされた「マニラ大虐殺」について、朝日新聞は 「ほとんど全部の日本人が異口同音にいっている事は、かかる暴挙は信じられないという言葉である」と、 GHQの言い分に真正面から反論します。

 この時の朝日新聞は、いまのサヨク朝日からは想像もできない まっとうな信念を持つ報道姿勢の新聞だったのです。    しかし、当然ながら プレス・コードで報道機関を厳しく統制したGHQ は激怒し、翌18日から二日間新聞休刊を命じ、 幹部を呼びつけて「次はない」、 つまり二度と日本を擁護する記事はまかりならんと恫喝します。  この廃刊の脅しに、朝日新聞は背に腹は代えられず 「転んだ」のです。

 以降、朝日新聞は米国とその手先のGHQの忠実なポチとなり、日本が行ったとするウソ塗れの戦争犯罪 をセッセと宣伝するアカ新聞となり下がっていくのです。  そのひとつが、朝日新聞記者だった尾崎秀美を コミンテルンの先兵 に見立てたことです。

 ソ連スパイだった尾崎秀美は、ソ連共産主義に傾倒し、ゾルゲ事件に連座して処刑されましたが、 朝日はその尾崎を大いに紙面で評価することで、「大東亜戦争は米国が裏で糸を引いていた」 ことを隠す片棒を担いだわけです。   朝日新聞はGHQを激怒させたトラウマ から、米国に対し「揺るぎない忠誠を示した」と山正之氏はしています。(2026.1.18)


   

日米対立を演出した日本人スパイ

 太平洋戦争開戦前、粘り強く日中和平工作を図っていた日本には、 皇室から霞が関中枢、軍隊、大学まで、 驚くほど多方面にわたり大勢のソ連スパイの手先たちが入り込み、ソ連とではなく英米と戦わせようと暗躍していました。    そのスパイたちが対ソ連戦の矛先を、日米対立へと向けさせた 結果、日米全面対決の遠因である 日本軍の南部仏印進駐が決定されたのです。

 スパイの一人「尾崎秀美(おざきほつみ)」は、1937年(昭和12年)7月、近衛政権の中枢に入り込みます。  尾崎の最大の害は、 単なるスパイとしてソ連に情報を流しただけではなく、近衛首相の側近として日中戦争拡大を図り、陸軍の戦略を対ソ連戦(北進論)ではなく、 英米と戦わせる方向(南進論)に誘導したことです。

 東条英機や石原莞爾らも所属していた、陸軍統制派も、 相当ソ連の影響を受けていたとされ、2.26事件決行の1週間前に、将校の一人がソ連大使館の人間と会っていた盗聴記録があるとか、反乱軍にコミンテルン資金が流れていたという説もあり、 当時の日本にソ連がかなりの影響を及ぼしていたのは間違いなさそうで、その背後には 日本人スパイの暗躍があったのです。

  1940年(昭和15年)頃から、日本は大政翼賛運動と大東亜共栄圏思想や、 同年9月27日の「日独伊三国同盟」など、 軍人が政治を支配する動きが加速。    もともと、日本は1932年(昭和7年)3月1日に、 アメリカが「喉から手が出るほど」欲しかった満州 を手にしていましたが、これが中国に利権を持つアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの大きな反発を招き、 日米関係はますます悪化。  列強各国は、 当時重慶に拠点を構えていた中華民国の蒋介石に、 様々な支援輸送路(援蒋ルート)を使い、武器や食料の支援を行い、 日本と中国の全面戦争は膠着状態となります。(2024.7.12)


   

戦争を先に仕掛けたのはアメリカだった

 太平洋戦争については、《アメリカは戦争する気はなかったが、侵略国日本の方から仕掛けた》かのような、 誤った史観が膾炙していますが、アメリカは日中戦争時点から介入し 「日本人排日運動」に勤しみ、 蒋介石も毛沢東も、米国現地兵の一人でした。    アメリカは開戦前から対日戦に踏み切っており、 「戦争のボタン」を押したのもアメリカなのです。

 日本を邪魔者と見なし排除を図るアメリカは、 到底日本側が受け入れられる内容ではなかった 「ハル・ノート」と呼ばれる、最終提案を日本に突き付けます。     この日米交渉妥結を破壊した 「ハル・ノートについて、 イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートは、「いかなる国にも、このような要求を受けいれることは不可能だった」、と述べているほどの 外交上の暴挙であり、 日本に最初の一弾を撃たせる ためアメリカが仕掛けた謀略でした。   先に仕掛けていたのはアメリカだったのです。

 かくして、霞が関中枢まで入り込んでいたソ連スパイの暗躍と、 日本を開戦に追い込んだ米国の謀略により、 日本はやむに已まれず、勝ち目のない戦争へと追い込まれていったわけですが、戦後になり、ハル・ノート作成の背後には、 日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の策略があったことが 米国内のスパイ網を炙り出した「VENONA によって明らかになっています。

 この「ヴェノナ文書」によれば、 ソ連は1930年代から1940年代にかけて、 アメリカ政府機関、アメリカ国内の民間シンクタンク、民間平和団体、宗教関連団体、出版社などが、 事実上ソ連に乗っ取られていたといいます。  次のトルーマン政権も含め 1933年から1952年まで20年近くアメリカ政権中枢はソ連の手の内にあったのです。


  

邪魔者・日本の抹殺を決意していたアメリカ

 当時の日本では、 日中戦争から太平洋戦争へと続いた戦いを 《大東亜戦争》としていましたが、 アメリカとの戦いは、太平洋戦争の前の日中戦争の時点からすでに起きていたのです。

 1894年(明治27年)7月25日に開戦した 日清戦争勝利した日本は、 清国から正式に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲され、さらに 朝鮮を清国から独立させ日本の影響下に置くことに成功します。   しかし、 満州進出を目論むロシアは、フランスを誘いドイツを巻き込んだ 1895年(明治28年)4月23日の三国干渉で、 日本が日清戦争の勝利で手にした遼東半島を清国に返すよう、日本に要求します。

 日本はイギリスに仲介してもらい断念させるよう期待しますが、イギリスにその意思がないと知り、 泣く泣くその要求に従わざるをえませんでした。  その後、 中国は中国大陸を巡る列強の利権争い の狩場となりますが、そこに遅れて割り込んできたのが 「列強によるアジア植民地支配合戦」に後れを取っていたアメリカです。

 資源豊かな満州が喉から手が出るほど欲しかった アメリカは、いかにも自分の手は汚さないアメリカらしいやり方で、 少しは日本に未練があった蒋介石 を手なづけ、日本と対立させるためタップリの武器とカネを与え裏切らせたのです。    「日中戦争は、実は日米戦争」 だったのです。

 日露戦争後、邪魔者・日本の排除を決めたアメリカは、日中戦の前から、 義和団の乱で清から取った賠償金で北京に精華大学をつくり、 そこから日本を目指していた支那人留学生を、顎足つきで米国に引っ張っていました。   彼らは米国で学んだあと、祖国に戻って蒋介石陣営に入り、以後、米国の意向に沿った親米反日の政策を遂行していきます。

 米国で学んだ孔祥熙(こうしょうき)や胡適(こてき)がその代表格で、とくに胡適は「米国を引き込め」と盛んに蒋介石に吹き込んだ人物ですが、 こうした歴史は、「日本悪玉一色」の近現代史だけ見ていても分かりません。(2024.7.12)


   

米国によって生命線を断ち切られた日本

 アメリカは太平洋戦争開戦前から、ABCD包囲網によって 日本を兵糧攻めにします。  この「ABCD包囲網」について、 戦後は「日本の侵略戦争を正当化する為のキャッチフレーズ」、「日本政府が対外危機感をあおるための宣伝」といった なんでも 「日本悪玉論」につなげる声もありますが、 もともと日本本土には天然資源はほとんどなく、産業に必要な資源はすべて輸入に頼らなければならなかったわけで、死活問題でした。

 占領軍の指揮官だったマッカーサーでさえ、1951年(昭和26年)5月3日、米国議会上院において、『日本は(中略)....その他実に多くの原料が欠如している。   そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら 、一千万から一千二百万の失業者が発生する であろうことを彼らは恐れていました。 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、 大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです』と証言しています。

 アメリカとの外交交渉の甲斐もなく、 米国は和平を模索する日本を抹殺、 さらに日本政府中枢に入り込み、ソ連とではなく英米と戦わせよう としたスパイに騙された近衛文麿の判断ミスで、 北進論から南進論へ方針を変えたため 米国を怒らせる政策を選択した結果、 米国によって生命線を断ち切られた日本は、これが決定打となり、 「生き残るための戦い」だった 太平洋戦争を決意します。   これは安全保障の必要に迫られた戦争でもあったのです。

 1941年12月8日、とうとう「スネーク・アタック」にされてしまった 「真珠湾攻撃」開始と同時に、 南方戦線でも戦端が開かれます。  「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、 大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と、戦後米国占領軍の指揮官を務めた マッカーサーでさえ認めた、 「死中活路を見出した戦いに打って出たのです。

 そもそも、当時の軍人も 長期戦では日本に勝ち目はない のは皆判っていました。   1941年(昭和16年)初秋、近衛首相は山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官に対し、日本海軍が英米と戦争して勝算があるかと問うた際、 『...一年間なら十分暴れて見せましょう。 それから先は保障できません』と答えたとされます。  山本も「長期戦では日本の勝ち目はない」ことは自覚していたのです。

 開戦からの半年間は米国を凌駕する勢い でしたが、日本軍には 「敵を知るための情報収集」という観念が乏しく、 最後はおろかな兵力の逐次投入や、 圧倒的な鉄量の差で負け戦が続き、最後は 原爆を使うため日本を降伏させたくなかった米国 が投下した2発の原爆により敗戦へと追い込まれたのです。

 ただ、日本はこの戦いで東アジアから白人列強を追い払い、 白人列強による植民地支配に終止符を打った 国であり、中国や韓国の妄言に惑わされず、 先の戦争で日本が果たした功績激動の昭和時代・孤軍奮闘した日本の姿を、 我々日本人が正しく伝えていかなければなりません。

 このような背景もあったことを理解しつつ、そろそろ我々日本人はいつまでも戦いに勝利した側の言い分ばかりを鵜呑みにせず、 戦後の「日本悪者説」になど惑わされず、 「軍部が悪かった、天皇制が悪かった」などという枝葉の部分だけ見るのではなく、 なぜ日本が戦争への道を突き進むことになったのか、 「先の戦争の本当の姿」を知るべきです。(2026.1.14)




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(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



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