平野長泰(ひらの・ながやす) 1559〜1628

尾張国の出身。平野長治の子。通称は権平。長勝とも称す。従五位下・遠江守。
天正7年(1579)に羽柴秀吉に仕えた。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では奮戦し、『賤ヶ岳の七本槍』のひとりに数えられ、3千石の知行と感状を与えられた。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも出陣し、豊臣秀次が敗走したときにも奮戦して、敵の首級を挙げるなどの戦功があった。
文禄4年(1595)に2千石を加増され、大和国十市郡田原本に5千石を領す。
慶長3年(1598)3月15日に豊臣の姓を授けられ、従五位下・遠江守に叙任。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属し、その後は2代将軍・徳川秀忠に近侍した。慶長17年(1612)より山城国二条城の普請を勤める。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては、豊臣秀頼(大坂)方に参陣することを徳川家康に請うたが許されず、冬の陣・夏の陣の両度とも江戸城の留守居役を命じられたという。
寛永5年(1628)5月7日死去。70歳。