小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ) 1569〜1615

徳川家臣。信濃国松本城主・小笠原貞慶の嫡男。永禄12年(1569)3月21日に生まれる。幼名は幸松丸。初名を貞政。従五位下・信濃守・上野介・兵部大輔。
天正11年(1583)に人質として徳川家康のもとに赴いたが、天正13年(1585)11月に徳川氏重臣・石川数正羽柴秀吉に引き抜かれるに際して秀政も同行させられたため、父・貞慶とともに秀吉に仕えることとなったが、翌年に秀吉と家康の和睦が成ると貞慶とともに家康に帰順し、のちには家康の孫娘(故・松平信康の娘)を正室に迎えた。
天正17年(1589)、貞慶から家督を譲られて信濃国松本城主となる。
天正18年(1590)の小田原征伐には家康の軍勢に属して戦功を挙げ、戦後に徳川氏が関東へ移封となると下総国古河城主となり、3万石の所領を与えられた。
文禄の役に際しては肥前国名護屋城に在陣。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には東軍(徳川方)に属し、翌年にその戦功として5万石で信濃国飯田城主となり、慶長18年(1613)には3万石を加増されて、故地である松本城に戻った。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には長男の忠脩を出陣させて自らは留守居を務め、慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣には自身も出陣したが、5月7日の天王寺口での戦いで真田幸村隊との激戦で重傷を負い、その日の夕刻に没した。享年47。法号は義叟宗玄両選院。
この戦いでともに出陣した忠脩も討死を遂げたが、その忠功を認められて秀政二男の小笠原忠真が元和3年(1617)に播磨国明石10万石の藩主となった。