小笠原貞慶(おがさわら・さだよし) 1546〜1595

信濃国府中小笠原氏・小笠原長時の三男。幼名は小僧丸。通称は喜三郎。従五位下・右近大夫。
父・長時が武田信玄との戦いに敗れて天文21年(1552)頃に信濃国から没落すると、長時とともに上京して三好長慶の庇護を受けたが、永禄11年(1568)頃に織田信長に属した。
天正7年(1579)、陸奥国会津の蘆名盛氏の庇護を受けていた長時のもとに赴き、家督を相続する。
天正10年(1582)3月に武田氏が織田氏によって滅ぼされると、小笠原氏の旧領であった信濃国の安曇・筑摩郡は木曾義昌が知行することとなり、旧領の回復は成らなかった。しかし同年6月の本能寺の変で織田氏が瓦解して信濃国が乱れると、それに乗じて叔父(長時の弟)にあたる小笠原貞種が信濃国深志城を奪ったが、貞慶は徳川家康の支援を得て同年7月頃に貞種を退去させて信濃国への復帰を果たして小笠原氏を再興し、このときに深志を松本に改め、松本城主となった。
天正11年(1583)には嫡子の秀政を人質として差し出して徳川氏との結びつきを強め、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも徳川方として出陣しているが、天正13年(1585)11月に徳川氏重臣・石川数正が秀政を連れて羽柴秀吉のもとへ出奔したため、貞慶も秀吉に仕えることとなったが、天正14年(1586)に秀吉と家康の和睦が成ると、再び家康に属した。
天正17年(1589)、家督を子・秀政に譲る。
天正18年(1590)の小田原征伐には前田利家の軍勢に属して奮戦、その功により讃岐半国を与えられたが、秀吉に追放された尾藤知宣を庇護したため、改易された。しかし徳川氏の関東移封に伴って子・秀政が下総国古河に3万石の所領を与えられたので、秀政を頼って古河へと移った。
文禄4年(1595)5月10日、同地にて死去した。享年50。法名は以清宗得大隆寺。