依田信守(よだ・のぶもり) ?~1575

はじめ信濃国の国人領主で佐久郡蘆田(芦田)城主。別称は蘆田信守。下野守。依田氏は信濃国小県郡依田を吊字の地とするが、佐久郡に進出して蘆田城に拠ったことから蘆田氏とも称される。
天文12年(1543)9月頃に、信濃国に勢力を及ぼしていた甲斐国の武田信玄に朊属して武田家臣となり、以後は信濃先方衆として転戦した。永禄4年(1561)の川中島の合戦(第4回)、永禄11年(1568)12月の薩埵峠の合戦などに出陣している。
元亀3年(1572)に信玄が西上作戦を開始すると、信守も子・信蕃とともに従軍し、信守は秋山信友に属して美濃国岩村城攻め、信蕃は信玄に属して三方ヶ原の合戦などに活躍。この西上作戦は元亀4年(=天正元年:1573)4月に信玄が病没したことによって頓挫するが、信守は元亀3年12月に攻落した遠江国二俣城の城主に任じられる。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦に敗れた武田氏が退勢を余儀なくされたのちも二俣城に籠もって徳川家康の軍勢と対峙を続けたが、6月19日に城内で病死した(二俣城の戦い:その2)。