二俣(ふたまた)城の戦い:その2

元亀3年(1572)12月、遠江国の二俣城は西上作戦を開始した甲斐国の武田信玄の軍勢によって攻略されて武田氏の属城となり、以後は守将として入れ置かれた依田信守信蕃父子が固く守っていた。
しかし天正3年(1575)5月の長篠(設楽ヶ原)の合戦において大敗を喫した武田氏の退勢は明らかとなり、この機に乗じて遠江国浜松城主・徳川家康は遠江国の諸城の奪還を企図する。

反撃に転じるにあたって家康が最初に念頭に置いたのは、犬居谷と称される天竜川沿いの地域の掌握であろう。この地域は家康の本拠である浜松城に近く、武田勢が信濃国の伊那地方より徳川領へ軍勢を送るにあたっての経路でもあり、家康にとっては喉元に突きつけられた刃も同然だったからである。
長篠での戦勝の余韻も未だ冷めやらぬ天正3年6月に徳川勢は犬居谷へと向かって進撃、まずは二俣城の周辺に毘沙門堂砦・鳥羽山砦・蜷原砦・和田ヶ島砦を築き、とくに蜷原砦には大久保忠世を籠め置いて二俣城の攻撃と監視にあたらせて、その軍事行動を封殺した。
そのうえで家康は軍勢を進めて光明城への攻撃を開始し、本多忠勝榊原康政らの軍勢を正面から、自らは旗本衆を背後より攻め込ませて6月下旬頃に開城させた(光明城の戦い)。この光明城の陥落によって二俣城は武田領からの連絡や補給を絶たれることとなり、孤立の度合いを高めることになったのである。
その後、徳川勢の主力は東進して駿河・遠江国境に近い諏訪原城をも8月24日に攻めて降し(諏訪原城の戦い)、さらには小山城をも圧迫した。家康は、武田勢が長篠での敗戦による損耗から未だ立ち直れず、容易に後詰の軍勢を派遣できないことを見越して遠江国の武田方諸城の各個撃破策に出たのである。
この間の6月19日(29日とも)には二俣城主の依田信守が病死しているが、子の信蕃がその遺志を受け継いで抵抗を続けていた。『依田記』によれば、主君・武田勝頼より「開城してもよい」旨の書状を得るも、それが勝頼の直書ではなかったため、信蕃は二俣城に踏み止まったという。
武田勢は9月に至ってようやく遠江国へ軍勢を派遣したが、それは二俣城ではなく、要衝・高天神城を支える小山城への後詰であった(小山城の戦い)。潮時と見た信蕃は徳川勢との和睦交渉に応じ、12月23日に開城と決まった。しかしこの日は雨模様となり、城兵が「雨降りに蓑笠で城を出るのは見苦しい。晴れた日まで延期してほしい」と申し出ると家康はこれを認め、翌24日が晴れたので城の明け渡しが行われたという。
接収された二俣城の城将には大久保忠世が据えられ、下城した信蕃は城兵とともに高天神城に入って徳川勢への抵抗を続けている。