畠山氏の家督をめぐって畠山政長と畠山義就が戦った文正2年(=応仁元:1467)1月の上御霊社の戦いは、事前に将軍・足利義政より合力を禁止することが通達されていた。政長の後ろ盾となっていた細川勝元はこれに従って静観を保ったが、義就と結ぶ山名宗全や斯波義廉は加勢し、義就が勝利した。
この抗争に勝利を得たことで義就と彼を支援する宗全の威勢は増し、政長を援助しなかった勝元は声望を下げることになったが、面子を潰されたかたちの勝元や勝元派の大名は山名方への反感を募らせ、汚名を雪ぐべく山名征討に意を決し、軍議を重ねた。
戦備を整えた細川方が行動を起こしたのは、5月になってからであった。5月10日に細川方の赤松政則が、かつての守護領国であり、当時は山名氏が守護職を得ていた播磨国へと侵攻したのである。また、畠山氏と同様に家督問題で内訌を起こしていた斯波義敏も越前国で蜂起し、山名方であった斯波義廉を脅かせた。
京都では、5月26日の夜明け前には細川方の武田信賢と(成身院)光宣が、将軍御所と山名宗全邸の中間に位置する実相院と正実坊をそれぞれ占拠し、ついで武田隊と細川成之隊が将軍御所に近接する一色義直邸を襲撃したことで、上京一帯での戦闘が開始された。一色義直は事前にこの襲撃を察知して山名宗全邸に退避したようであるが、一色邸は火が放たれて焼き払われている。
この急襲に山名方は応戦に追われたが、その中に在って優れた活躍で武名を高めたのが朝倉敏景であった。とくに激戦となったのが細川勝久邸のある一条大宮の周辺で、この勝久邸攻撃の主力は斯波義廉勢の甲斐・朝倉・織田らであったが、この山名方の猛攻に苦慮しているのを知った京極勢が駆けつけるも朝倉隊に押し返され、細川成之邸に退こうと一条戻橋を渡ろうとしたが、橋の幅が狭いためにその多くが橋から落ち、川は人馬で埋もれてしまったという。
これを聞いた赤松政則勢が来援するに及んで斯波勢の一角が崩され、この隙に勝久は細川成之邸に逃れることができたが、勝久邸にも火がかけられた。ついで山名勢は成之邸に押し寄せ、近隣の雲の寺や百万遍(知恩寺)、革堂(行願寺)などの仏殿や僧坊に火を放って激しく攻めたてたという。
この上京一帯での戦いは26日早朝から27日の夕刻まで続けられたのちに休戦となり、28日には大きな衝突はなかったようである。しかし先述した他にも窪寺、誓願寺の奥堂や小堂などの堂宇やその近辺、細川教春・細川成春・山名成清らの邸宅が焼失し、北は船岡山から南は二条あたりまでが戦禍に晒されたのである。