上御霊社(かみごりょうしゃ)の戦い

文安5年(1448)11月、室町幕府の有力大名で河内・紀伊・越中国などの守護を兼ねる畠山氏に惣領の家督相続をめぐる内訌が勃発した。
当時の畠山氏の惣領は畠山持国であったが、持国は長らく男児に恵まれなかったために異母弟の畠山持富を養子としていた。しかし、のちに実子・畠山義就が生まれると持国は義就を継嗣に指名したため、家中でも持国・義就派と持富派に割れて対立することとなったのである。
持富は宝徳4年(=享徳元年:1452)に没したとされ、その後には持富の子・義富が擁立されたが、この対立が享徳3年(1454)になると武力衝突に至り、義富は管領・細川勝元に支援を求めた。分裂抗争を煽ることで畠山氏の弱体化を企図する勝元がこれに応じたため、畠山氏の家督問題は勝元の、延いては幕府の介入を招くこととなる。
享徳4年(=康正元年:1455)3月に持国が没したのち、畠山氏惣領の家督は義就が継承した。一方の義富が長禄3年(1459)の秋頃に没したため、義富派ではその後継者として義富の弟・畠山政長が立てられ、この政長が翌長禄4年(=寛正元年:1460)9月に勝元や伊勢貞親らの政治工作によって将軍・足利義政から畠山氏当主として認められるに至り、ここに両派の対立は頂点を極めた。
罷免された義就は京を退いて河内国に下り、政長の軍勢との攻防を続けていた。政長は寛正5年(1464)9月に管領に任じられて勢いを得たことに対し、義就は勝元と反目する山陰地方の大大名・山名宗全と結んだ。この勝元と宗全は畠山氏のみならず、時をほぼ同じくして起こっていた足利義尚足利義視による将軍継嗣をめぐる内訌や、斯波義廉斯波義敏による斯波氏の家督相続争いにも介入しており、それぞれが自身の勢力拡張を目論んで暗躍を重ねていたのである。宗全にとって、政長との抗戦において勇名を馳せた義就は恰好の手駒と映ったのである。
文正元年(1466)になると、今度は宗全の政治工作が功を奏し、将軍の命によって政長の罷免と義就の赦免の内意が伝えられ、この年の暮れには義就が軍勢を率いて上洛する。

明けて文正2年(=応仁元年:1467)1月初旬、義就の惣領復帰と政長の罷免が決定された。この報せに憤慨した政長は、15日に細川勝元・京極持清・赤松政則らとともに軍勢を率いて将軍御所に押し寄せて義政から義就の討伐令を引き出すことを計画した。しかしこれは宗全の養女である勝元夫人を経て山名方の知るところとなっており、宗全・義就・義廉らが警固と称して御所を占拠したため、政長は失脚して下国するかと思われた。
しかし政長は1月17日の真夜中に万里小路の邸宅を焼き払い、翌18日の払暁には御所の北東に位置する上御霊社(上御霊神社)の森に布陣し、細川晴元は御所の西に、京極持清は南から御所を包囲するという挙に出たのである。
その兵数は2千ほどという。対する義就は3千の兵を3隊に分けて森を包囲し、申の刻(午後4時)に戦闘が開始された。
前年の暮れに義就が上洛した時点で義就と政長の武力衝突は予測されており、義政はあくまで畠山氏の内訌による私闘とし、戦渦の拡大を憂慮して宗全・勝元らには合力の禁止を命じていた。しかし戦闘が始まると山名勢が義就に加担、義就・山名連合が政長を激しく攻め立てた。一方の勝元はといえば、政長の援兵の要請にも一筋の鏑矢を贈るだけで、最後まで軍勢を送らなかったのである。義政の命令を重んじたのか、戦況を見極めたうえでの不参戦なのかは不詳であるが、静観を守り通した勝元の行動は京の町衆から非難を浴びせられたという。
雪霰吹き荒ぶ寒風の中での戦闘は夜半にまで及んだが、数に勝る義就勢に圧された政長は支えきれなくなり、ついには翌19日未明に自ら上御霊社の森に火を放って遁走したのである。

この後しばらくは宗全・義就派が京都を制圧することになるが、この軍事衝突がきっかけとなって宗全・勝元の対立が激化、またこの両陣営に誼を通じる者たちも互いに反目しあうようになった。この合戦が応仁の乱の幕開けの合戦とされる所以である。