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主な戦国大名(せんごくだいみょう)について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【戦国大名時代(せんごくじだい)について】

 1467年〜1477年にかけて、10年あまり続いた応仁の乱(おうにんのらん)ののち、織田信長(おだのぶなが)
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が登場し、国内のみだれをしずめ、天下を統一する1590年までの約100年を戦国時代(せんごくじだい)という。

 この時代は、室町幕府(むろまちばくふ)や将軍の力はまったくおとろえ、天下をおさめることができなくなっていた。一方、各地で誕生(たんじょう)した戦国大名(せんごくだいみょう)は、お互いに争い、相手を倒し、力の強い戦国大名(せんごくだいみょう)はどんどん領国をふやし、勢力をのばしていった。そのため、各地で次々に戦いが行われた。

 
【主な戦国大名(せんごくだいみょう)について】

 1560年代には、下剋上(げこくじょう)によって、日本の各地に戦国大名(せんごくだいみょう)が誕生(たんじょう)した。主な戦国大名(せんごくだいみょう)を下にあげる。

【北条早雲(ほうじょうそううん)】
 北条早雲(ほうじょうそううん)は、伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)という浪人(ろうにん)で、出家してから早雲(そううん)と名前を変えた。はじめは駿河(するが 静岡県)の今川義忠(いまがわよしただ)に仕え、あとつぎ争いで今川氏親(いまがわうじちか)を助けて争いを平定すると、その功績から興国寺城(こうこくじじょう)を与えられた。1495年に大森藤頼(おおもりふじより)をたおして小田原城(おだわらじょう)にうつった。関東に北条氏の支配の基礎を築いた。



【毛利元就(もうりもとなり)】
 毛利元就(もうりもとなり)は、安芸(あき 広島県)の国人で、1525年それまで属していた尼子氏からはなれ、大内氏に属した。1551年に守護大名の大内義隆(おおうちよしたか)が守護代の陶晴賢(すえはるかた)に滅(ほろ)ぼされると、毛利元就(もりもとなり)は、陶晴賢(すえはるかた)をやぶって大内氏の領国を支配した。また、尼子晴久(あまこはるひさ)をやぶり、中国地方の大半を支配する戦国大名となった。


【武田信玄(たけだしんげん)】
 甲斐(かい 山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)は1541年に守護大名の父 武田信虎(たけだのぶとら)を追放(ついほう)して実権(じっけん)をにぎった。信濃(しなの 長野県)へ兵を出して諏訪氏(すわし)をほろぼし、小笠原氏(おがさわらし)や村上氏(むらかみし)をやぶった。村上氏(むらかみし)は越後(えちご 新潟県)の守護代の上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼ったため、武田信玄(たけだしんげん)と上杉謙信(うえすぎけんしん)は川中島(かわなかじま)で5回にわたって対決をすることになった。


【上杉謙信(うえすぎけんしん)】
 越後(えちご 新潟県)はもともとは、守護の山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)の領国であったが、上杉氏のおとろえに乗じて、守護代の長尾為景(ながおためかげ)が国内を支配していった。子の長尾景虎(ながおかげとら)の時に勢力を大きく拡大した。この長尾景虎(ながおかげとら)が上杉謙信(うえすぎけんしん)である。関東の北条氏から追われてきた上杉憲政(うえすぎのりまさ)を助けて、しばしば関東の北条氏と争った。上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領(かんとうかれい)の職をゆずられ、それ以後、長尾(ながお)から上杉(うえすぎ)を名のるようになった。村上氏(むらかみし)を助けて、川中島(かわなかじま)で武田信玄(たけだしんげん)と5度にわたって対決した。


【斎藤道三(さいとうどうさん)】
 京都の近くに住む浪人(ろうにん)の松波基宗(まつなみもとむね)の子として生まれた。1521年に美濃(みの 岐阜県)の守護(しゅご)の土岐氏(ときし)の家臣となり、
斎藤道三(さいとうどうさん)を名のる。1542年に主君の土岐頼芸(ときよりなり)を追い出し、自分が主君となり、美濃(みの 岐阜県)を支配するようになる。娘の濃姫(のうひめ)を織田信長(おだのぶなが)と結婚させ、織田氏と同盟(どうめい)するが、息子の斎藤義竜(さいとうよしたつ)にやぶれ、戦死する。



 
以上が主な戦国大名(せんごくだいみょう)である。この他にも戦国大名(せんごくだいみょう)は存在するが、20年後の1580年のころには、下の図のように、その数がしぼられてくる。
上にあげた戦国大名(せんごくだいみょう)の多くも、その子の代にうつっている。織田信長(おだのぶなが)の急成長ぶりがよく分かる。