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 第1幕.『なんのために剣を』 (約二万二千文字) 

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 第2幕.『時の征服者はそうして消えた』 (約二万三千文字)

 第3幕.『初めての友達』 (約一万六千文字)

 第4幕.『魂の穢された日』 (約二万四千文字)

 第5幕.『瞳の奥の夜叉』(約二万千文字)

 第6幕.『その記憶の残滓は願う』(約二万四千文字)

 第7幕.『魔人達の宴』(約二万三千文字)

 第8幕.『諦めぬ人間は愚者か否か』(約二万五千文字)

 第9幕.『王都決戦』(約二万四千文字)

 第10幕.『世界の終わりのはじまり』(約四万ニ千文字)
















 第4幕.『魂の穢された日』











*******************





 「まだあの男は見つからないのか?」

 重々しい雰囲気の漂う魔力の光に照らされた一室で、玉座の男はそう辺りに尋ねた。
 問うたのは、この国シルドリアの王だった。
 とても温和そうには見えない老人は、かつて王となる前には戦で先陣を切り戦っていたこともある猛者であり、王には今もなおそれを感じさせる程の戦士としての凄味というものがあった。
 豪奢なローブの下に隠された肉体も、まだそう衰えてはいない。
 その王が怒っていた――いや、焦っていたのだ。 
 そんな王の機嫌をさらに損ねるようなことをしてしまえば、自身の位さえ危ぶまれると皆一様に考えているのか、王の問いに易々と答えられる者はいない。
 王の厳しさは、国に仕える者ならば誰もが知っていた。その王が激しく苛立ちを露わにし、焦っているのだ。
 一体、誰が答えられよう――そう皆が思っていたところに、彼らにとっては救いの声が響いた。

 「王」

 「おお、セウロか。見つかったのか『時の賢者』は?」

 現れたのは『闇の賢者』セウロ・フォレストだった。
 美しい装飾、絵画、壁画のある玉座の部屋にとてもよく映える人物で、闇の賢者の存在そのものを絵画の世界の何かと錯覚する者も周りにいるほどであった。
 セウロは恭しく頭を下げ、美しい長い黒髪がはらりとすべり落ち、シルドリア王はそれに「うむ」と笑顔で応える。

 「ジルフはやはり『後ろ向き橋』の下にはいませんでした。我がこの目で確認してまいりました」

 「『後ろ向き橋』か……俗称は好まんな」

 王の苦い顔に、セウロは軽い笑顔で「これは失礼」と頭を下げ、王は特に不機嫌になることもなく話の続きを促した。
 二人の間に流れる空気は柔らかく穏やかなもので、王は先程までの苛立った気持ちがいくらか鎮まるのを感じていた。
 その王の期待に応えて気持ちを晴らすことができたセウロに、周りに控える数十人の家来、将軍、大臣のほとんどが、内心良く思ってはおらず、それどころかセウロという存在自体を疎ましく思っている者も多かった。

 ――ふん。化け物が腹では何を考えているか分らぬ――

 その場にいた大臣の心の声が、セウロの頭に直接、その膨大過ぎる魔力にのって流れ込んでくる。

 「……」

 「セウロ。どうした?」

 「いえ。……なんでも、ありません」

 セウロは思念を向けてきた大臣をその眼光で鋭く射抜き、それだけで大臣は顔を蒼白に変えて震えながら視線を落とした。
 王はコホンと咳を一つこぼしてセウロに尋ねる。 

 「して――ジルフの足取りは掴めたのか?」

 「奴がどこへ行ったのかは依然不明です。その姿を見た者はおらず、いなくなったと思われる日には我も王都にいましたが、異常は察知できませんでした」

 「ふむ。……同じ賢者として、今回の件をどう思うセウロ?」

 シルドリア王は溜息混じりに困ったように言った。
 今回のこの『時の賢者』の失踪は、単なる失踪事件では済まない。それはその場にいた重役の誰もが感じていた。
 それもそのはず、消えた者が世界の理を守ってきた三大賢者の一人。しかも、よりによって『一番失ってははならない』とされている『時の賢者』なのだ。
 このことが他国に知られてしまえば、シルドリアは集中的に非難を浴びることになるだろう。
 セウロは希望的観測と知り、それでもある可能性を述べた。

 「王も知っておられるでしょうが、時の賢者ジルフはとにかく変わり者で有名です。奴はこれまでも何度か、勝手に旅に出たことがありました。……今回もその可能性はあります」

 「しかし、これ程見つからぬのは初めてであろう? 誰にも行き先を告げずに出て行ったこともなかったはずだ。……奴は、ジルフは確かに何を考えているのかよく分らぬ奴であったが、自分の存在がいかに大切であるかは理解していた」

 (そう。だからこそ、ジルフは王城の裏の橋の下で、自分と周りに最も安全な、あの様な隠れ方をしていた)

 セウロは奥歯を噛み、ジルフがいなくなった時に自分が何も感じれなかったことを悔やんだ。
 王はそんなセウロの様子を見て、最悪の事態を聞くしかなかった。

 「もし、ジルフが『時の賢者』の知識や秘密を暴こうとする何者かによって殺されていたら、どうなる?」

 どうなる――?
 王の問いに、セウロは敢えて考えていなかったその最悪の先に思考を集中させた。

 「まず一つの懸念は、ジルフから何かしらの重大な知識が引き出され、悪人にそれを利用されることです。もう一つは『時の賢者』がこの世から消えてしまうこと……こうなると世界にどれ程の影響が出るのかは我にも……」

 「なんということだ……」

 はぁ、と息を吐いた王は憂いの表情でチッと舌を鳴らした。
 セウロは頭を巡らせ、そんな王の心をいくらか慰める言葉を探した。

 「……しかし、継承者がいれば話は別です」

 「継承者?」

 「はい。……もし、ジルフが死ぬ前に、誰かに『時の賢者』を継承させることができれば、『時の賢者』のすべてが引き継がれます。……我が先代から闇の称号を受け継いだように」

 「もし継承が行なわれたならば、それは他の賢者に伝わるのか? 光のアラトラスと、闇のお前には?」

 セウロは王の言葉に首を振り、言う。

 「継承は我らには分りません。……ただ、賢者を受け継いだ者を見れば、すぐに分るはずです。まず、魔力の大きな波を我は感じることができるでしょう。……それと」

 珍しく言葉を詰まらせたセウロは、呑んだくれていたジルフの姿を思い出しながら言う。

 「時の賢者になったものは正常ではいられません」

 そのセウロの言葉に王と、周りの者達が賢者の壮絶さを感じ取った。
 そこに突然――賢者セウロの後ろから一人の老人のしわがれた声が響いた。

 「時の賢者は、我々の知らぬこの世界の成り立ちの頃からの記憶と、知識を受け継いでおります。故に、時の賢者はそのあまりにも膨大な知識量に苦しみ、自我を失うこともある。自身の知らぬ経験を自身のものと混同し、精神に異常をきたすのじゃな」

 「ジンジャライ」

 そう王に呼ばれた老人は盲目の魔術師だった。
 深く被った麻のローブに俯いた瞳には何も映してはおらず、持った杖で手慣れた風に床を探って、王の前、セウロの隣へ歩を進めた。

 (このジジイ……。相変わらず気配が読めねぇな)

 あまりの気配の無さと突然の声に、この国最強とも言われる闇の賢者でさえ、一瞬、体をビクつかせていた。
 それを知ってか知らずか、ジンジャライの口の周りの長い白髭がもそりと動き、言葉が漏れた。

 「時の賢者は絶対に失ってはならぬ世界の遺産ですぞ王」

 「分っておるジンジャライ。だが、今回の件が起こるなど誰が予見できた? この私に先見の眼を期待されたお前にすら分らなかったではないか」

 ジンジャライは、ほっほと軽く笑うと持っている杖をカッと床に打ちつけて、王を見えぬ目で睨みつけるように見て言う。

 「王。時の賢者は必ず引き継がれます。あれは、そういうものなのです。賢者は必ず次の継承者を見つけるのです」

 「必ず?」

 隣のセウロの言葉に頷き、ジンジャライは続けた。

 「そう。継承は……この世界の意思なのです。それは必ず行われる」

 「……」

 確かに――。
 ジンジャライの言葉を聞いて、セウロは過去を思い出していた。

 (賢者は必ず引き継がれる。確かに……あれはそういうものだ。)

 先代の闇の賢者は人知れない山奥で暮らし、独り静かにその生涯を終わろうとしていた。
 そんな時、セウロ・フォレストはとてつもない偶然の積み重なりにより、先代の闇の賢者の前に現れ、ひょんなことから彼からすべてを引き継ぐことができた。
 それをセウロは偶然だと、そう思っていた。だが、ジンジャライから言わせれば、それは世界の意思だったのだという。
 ジンジャライの言葉に、王は気に入らない様子で口を開いた。

 「では、ジルフの継承者は生まれるから、この私に落ち着け、焦るな……そう言いたいのかジンジャライよ」

 王の言葉に僅かな怒気が含まれていたのを周りの大臣達は感じ、皆一歩後ずさり、王を恐れた。
 だが、ジンジャライはまた軽く笑うと王に告げる。

 「問題なのは生死でも継承でもないと、わしは言いたいのですよ。まだジルフが賢者をしていようが、他の誰かに継承されてようが、誰かに知識を悪用されていようが……そんなことは、どうでもいいのです。――問題なのは他の国や悪人に『時の賢者』を連れ去られてはならない。一刻も早くシルドリアが見つけ、保護し、我らが管理しなければならない。再度、言いますがアレは世界の遺産なのですぞ王」

 (この……ジジイ)

 セウロ・フォレストは抑えられる程度であったが、僅かに自身の黒い感情がジンジャライへと向けられたのを感じていた。
 ジンジャライの言葉には、賢者を人として扱わずジルフの生命よりも、国の利を優先するような捉え方が汲んで取れたからだ。
 隣に同じ賢者がいるというのに、臆面もなくそう言えるジンジャライに殺意を覚えたセウロだったが、それはすぐに鎮まった。
 
 (いや……だからこそか。……感情に囚われず国と王を思いやることができ、常に冷静に判断を下せるからこそ、この盲目の魔術師ジンジャライは王の助言役を任されているのだ)

 『時の賢者』を保有していることで、このシルドリア大陸、王都ラクフォリアが五大国の中でも突出した知識と武力を有していたのは確かなのだから。ここ最近のジルフは、国に非協力的で役にたってはいなかったが、ただ『時の賢者』がいるというだけで、どれだけ他国に先手をとれるかは言うまでもない。

 どんな感情にも流されず、時の賢者を確保する――確かに、今はそれが先決だ。

 そう思い直したセウロは、いかに自分がまだ子供であるか思い知らされ、軽く鼻で笑ってから、ふぅと息を吐いて気持ちを落ち着けた。
 そして、冷静な口調で王に言う。
 
 「では、今すぐにでもジルフ……いえ、時の賢者の捜索を開始することにしましょう」

 「うむ。賢者を見つけるのは同じ賢者であるお前が適任だ。治安騎士の指揮権をお前に一任する」

 「はっ!」

 勢い良く王に答えたセウロは、すぐに「あ」と声をあげた。

 「どうしたセウロ? 他に何かあるのか?」

 「あ、いえ……できれば治安騎士ではなく、王直属の騎士団をお貸しいただけないでしょうか?」

 セウロはできることならば、あの喧しい髭の騎士バラン・ガラノフ・ド・ピエールと仕事をしたくはなかった。

 (バランだけなら、ともかく……)

 バランの部下である大男のレオドルフ・セントフィードというのも、また厄介で、どれだけ位の高い人物から命令を受けても、絶対にバランの命令を最優先にし、とんでもなく頭が固い上に無口で何を考えているのか分からない様な男だ。心が読めるセウロにも何故か彼の心が読み難く、苦手な相手の一人である。

 「ふむ。お前も知っているだろうが治安騎士の隊長バランと副隊長レオドルフは、この国一番と二番の剣士だぞ? 不服なのか?」

 不思議そうにそう尋ねる王に、セウロは目を泳がせながら、しどろもどろに言う。

 「あ、いえ。なんというか相性というか、性格の不一致と申しますか。とにかく我と奴らでは、水と油、月とすっぽん。相容れないのです。仕事に二倍手間がかかる恐れがあります」

 「お前がそこまで言うのなら仕方がない。では、私の騎士団をお前に貸し与え――」

 バンと突然、玉座の間の大扉が開かれた。

 「ふぅはっはっはー! つれないねセウロ殿っ! 王っ! その任務この我輩達、治安騎士が責任を持って引き受けましょうぞぉ!!」

 「げ……」

 露骨に嫌そうな顔をしたセウロは、入ってきた髭の騎士をジト目で見た。そして見なかったことにした。

 噂をすればなんとやらで、王と重役達の静かな会議に突然扉を開け放ち乱入してきたのは、治安騎士隊長のバランだった。
 そして、その後ろには金色の鎧に身を包んだ大男レオドルフ・セントフィードが佇んでいた。
 副隊長という肩書きのレオドルフは何故だか、隊長のバランよりも目立った装いをしていて落ち着きに溢れているために、どちらが隊長なのか一般市民は時として困惑する。
 ただ問題なのは、レオドルフは確かに落ち着きに溢れているが、彼はバランに心底、心酔しているためにバランの奇行の抑止力には全く効果を期待できない。
 今がまさに、その良い例であった。

 「王の御前だぞ! 無礼であろう!」

 突然の二人の乱入に大声を張り上げたのは、ゼネ将軍で、二人の治安騎士よりも実質、一つ上の位となる人物。
 バランは自ら将軍の位を辞退して、今の治安騎士隊長を勤めているため、ゼネ将軍は実のところバランのことが気に入らなかった。が、しかし当のバランはゼネを心の許せる友人だと思っている。思い込んでいる――それが、バランという人物の凄さである。
 王もそれを理解していたし、なによりバランが国にとって何人もの将軍よりも代え難く、重要な人材であるのは理解していた。

 故に――。

 「よいのだゼネ将軍。……バラン。会議に出たければ将軍になればよいと前々から言っておるだろう。お前にはその器が十分にある」

 ぐっ、とゼネ将軍の呻きが聞こえた。

 「勿体無きお言葉っ! ですがっ! 我輩は治安騎士でいることが市民との距離を一番近くに感じることができるのです!」

 「ならば、市民の安全を守るべく街へ戻るがいい!」

 ゼネ将軍の怒号が割ってはいるが、バランは怯まずに王に頭を下げて言う。

 「しかし、今回ばかりは我輩達、治安騎士を使っていただかないことにはっ」

 「ほう、何故だ?」

 問う王に、真っ直ぐにバランは笑顔のまま大声で答えた。

 「ジルフ殿とはよく一緒に飲み明かした仲! そんな友の窮地を我輩達が! 治安騎士が救いだしたいのです! 彼も大切な市民の一人ではないですかっ」

 「――」

 闇の賢者は面食らって、目を見開いてその男、『雷神のバラン』を見た。
 嘘偽りのない、そして曇りのない眼。
 この男は一度でも嘘をついたことなどあるのだろうか――バランの進言は明瞭で、清々しい程にとても単純で豪快な理由だった。
 だからこそ、セウロは意表を突かれ茫然自失で固まったのだ。
 国のために――それこそが最も重要で、最優先事項のはずで、感情に蓋をして『時の賢者』を探すことに徹しようしていたところに――。そんな風に心を冷たくしていたところに、バランの真っ直ぐな言葉は、セウロの心の氷を容易に砕いてしまった。

 生死など分からない。いや、もうおそらくジルフは死んでいる。
 なのに、この男はなんと言った?

 救いだしたい?
 おそらく、飲み明かしたといっても人嫌いで付き合いの悪いジルフに、無理矢理バランがついていただけで、それもたった一晩だけのことだろう。
 しかし、バランは大袈裟に言うでもなく、本心からジルフを友と言った。

 「く、くくくっ……」

 突然、セウロは吹き出し、大きな声で笑いだした。

 「ははははっ。……分かったよ。貴様を連れていってやる。……王、申し訳ございません。先程の話はなかったことに。我は治安騎士を従え、『時の賢者ジルフの救出』に向かいます」

 「……ふふ。うむ。期待しておるぞセウロ」

 王も少し面白そうに目を細めてセウロを見て、そう許しをだした。

 「ありがとうございます」

 深々と礼をして、すぐに「オラ、いくぞ」とバランの尻を蹴って退出を急かし促した闇の賢者。

 彼はバランの言葉で目が覚め、強く思った。
 時の賢者は、必ず見つけなければならない。
 そして、それが願わくばジルフであれば、これまでと同じように世の平安が保たれていくのだ。

 いや、ジルフでなければならない。
 でなければ、代わりに誰か一人の人間が『時の賢者』として『壊れて』しまうのだから。

 ジルフを見つける――そう心に留め、闇の賢者は治安騎士の二人を連れて、玉座の間を後にした。

 






*******************







 特別授業と称し、王都の中で最強の攻撃魔法をぶっ放した闇の賢者セウロ・フォレストは、その賢者らしからぬ常識のない行動が咎められる事は何故かなく、あれから二週間、また王都とヴェイン・アズベルシアには平穏な時が流れていた。
 そう。何事もなく、今まで通りの変わらない日常だった。
 治安騎士団団長バランを師として、勇者ルーウィン・リーシェンとは共に剣の訓練を毎日続けているし、時が経つにつれて二人は初めの険悪さが嘘の様に仲が良くなっていた。
 本当に誰が見ても、仲睦まじい兄弟の様に見えたが、時にヴェインは一方的な恋愛感情を抑えるのに必死になることもあった。が、それは若者らしい幸せな悩みと言えるだろう。
 仲が良くなったのはルーウィンとだけではない。ヴェインは、クラスメイト達とも完全に打ち解けることができ、過去の口が悪い愛想のない彼はどこかへとなりを潜めてしまった。
 自分を変えたのはバランかルーウィンか、それとも二人に引き合わせたイザナだろうか、そんな風にヴェインは考えたことがあった。
 答えはでなかった。なぜなら彼は素直に、すべてに感謝することができたからだ。

 今、こうして笑顔でいられることは、皆のおかげなんだ――それ程の心境の変化をヴェインは生まれて初めて感じていた。

 アカデミーの校舎に、次の授業を知らせる予鈴の鐘の音が鳴り響いた。

 「次は僕は医療ですがヴェインもそうですよね?」

 話しかけてきたのは勿論、ルーウィンだった。
 ヴェインは彼が自分の席に近づいてくるのに気がつきながらも、そっぽを向いて声をかけられるまで待っていた。このへんの素直でないところは以前の彼のままである。
 なんともない様子で声をかけたルーウィンへと振り向いて、感情を押し殺しながらヴェインは席を立って言う。

 「ああ、そうだけど。じゃ、一緒に行くか」

 「ええ、そうしましょう」

 二人並んで歩きだして、他の生徒数人と話しながら教室を出て、次の授業へと向かう。
 王都アカデミーは授業科目の振り分けを生徒達に任せる自由選択制度をとっているので、同じ剣術科に在籍していても、他の教室で別の科目を受講する生徒もいる。その分け方はランダム的なもので、学期の最初に決められてから変わることはない。
 ヴェインが剣術の授業以外でルーウィンと一緒になるのは、医療の授業だけで、いつの間にか彼は剣術の次に医療を好きになっていた。勿論、ヴェインは医療には全く興味がなく、課題をこなすのも一苦労だ。

 「僕、医療の課題で今回、自信のないところがあったんですが……ヴェインは課題は済ませましたか?」

 「ん。イザナに手伝ってもらったからな。ばっちりだぜ」

 ルーウィンもそう医療は得意と言い難く、だいたいいつも試験では平均的な成績を残している。
 ヴェインは、そんなルーウィンに頼りにされたくて、毎回課題をイザナに教わっていた。

 頼りにしてくるルーウィンの視線を満足に浴びつつ、ヴェインは得意気に言う。

 「良かったら授業前に確認ながら復習しようか」

 「はいっ。助かりますヴェインっ」

 やったぁーとばかりに、腕にしがみついてきたルーウィンに、瞬時に石化したヴェインの足と思考。

 「おっ。ヴェイン課題完璧なのかよ。俺達にも見せてくれよぉー」

 そして後ろのクラスメイト達の声がヴェインの石化を解き、彼はぎこちなく首を後ろに回した。

 「お前らちゃんとやってきたんだろうな? 写すのは許さん」

  以前、まる写ししようとした前科のある男子生徒をジト目で見ながら言った。 

 「や、やってきてるさ……ちょっと分からないところがだな………あ、はははは」

 「前もそんなこと言って、ちょっとだけしかやってなかったじゃないか」

 「あっはっはっは。ヴェインはルーウィン以外には厳しいなぁ」

 笑って誤魔化そうとする男子生徒に溜息をついて、ヴェインはそれ以上は何も言わなかった。

 (どうせ俺もイザナがいなきゃ難しい医療の課題は、ほとんど済ませられなかっただろうしな)

 そう思ったのもあるが、ルーウィンだけを贔屓していると、クラスメイトにからかわれるのもヴェインには面倒だった。
 その後も、教室に向かう途中で色々と絡んでくる男子にヴェインは、ルーウィンと話したかったために投げやりに言葉を返していた。
 そんな様子を見たルーウィンは笑顔でヴェインに言った。

 「ヴェインは人気者ですね」

 「……」

 いつもの笑顔で、なんともない言葉だったが、どこかそんなルーウィンに妙なものを感じた。

 「そんなんじゃないさ。ただ、こいつらは馬鹿にしたいだけだ」

 ヴェインの言葉に、「ひでぇなー」とケラケラと笑う数人のクラスメイト達。
 先程のルーウィンの言葉に感じたものが勘違いでなければ、それはヴェインにとって、とてつもなく嬉しいことだった。
 だから彼は、『人気者ですね』――その言葉の裏に隠されたものを探ろうと頭を巡らして、本心でこんなことを言う。

 「俺はルーウィンとゆっくり話したいんだけな」

 「あは……。あはは。そう……たまには、ゆっくり話したいですね」

 なんとなく照れ笑いをしてルーウィンは視線を下げた。
 その仕草が、どこか嬉しそうに見えたヴェインは――。

 (ひょっとして……いや、やっぱり、さっきのルーウィンのって)

 先程のことを振り返り思い出す。自分がクラスメイト数人にからかわれ、笑い合っていた。その横でルーウィンはどうしていただろう?

 (何も言わなかった。黙っていた)

 そう。黙っていた。そして言った『ヴェインは人気者ですね』という言葉。
 それを自分の都合の良いように解釈するとどうなるだろう?

 まず、ヴェインの人気を妬むことなどルーウィンには、ありえない。
 ならば、他のクラスメイト達ばかりと話していて、そのことに対して、ルーウィンが構ってもらっていないと感じていたなら、それは。
 他の生徒達と話さないで、もっと自分と話してほしい。そう言い変えれないだろうか?
 都合の良すぎる解釈をしているような気もするが、ヴェインは先程のルーウィンの言動を『嫉妬』という風に捉えて、堪らない気持ちになっていた。
 実質、ルーウィンには似たような気持ちが、僅かながらあるのは確かだった。まだ、本人すら気がつかない程度の微小な気持ちの揺れではあったが。
 舞い上がって踊りだしたい気持ちの高ぶりを隠しながら、いつもの冷静な自分でいられるように努めて見せた。そして、周りのクラスメイト達がお喋りに夢中で聴こえていないのを確認して、ヴェインは言う。

 「じゃあ、良かったら今日、夜の練習まで少し話さないか?」

 そんな誘いの言葉を簡単に言えてしまうなんて、なんて自分は成長したのだろう。もう、ヴェインは自分を褒めたくて堪らなかった。完全に舞い上がっていた。

 「いいですねっ。それでは、街に新しくできたお店にでも行きませんか? 前々から気になっていたんです」

 嬉しそうに賛同してくれるルーウィンに、ヴェインはますます調子がのってくる。

 「お、いいな。あんまり、お洒落なお店は落ち着かないんだけど、どんな店なんだ?」

 「それなら大丈夫。とっても、落ち着きますから」

 そう言ったルーウィンの少女の様な笑みと、赤らむ頬から――ヴェインは見惚れて目が離せなかった。
 





 



 授業が終わり、そのままヴェインとルーウィンは教室を出た所の廊下で落ち合い、アカデミーを後にした。
 先程までは、あんなに話したいことが溢れて、二人とも止まらないくらいに話せていたのに、おかしな事にアカデミーを出た途端、急に二人の間で会話が少なくなっていた。
 自分がどこか緊張しているのは分かる。なにせ、ルーウィンと約束して二人で遊びに行くんだから。だけど、ルーウィンまでも緊張しているように見えるのは何故だ。
 ヴェインの頭は少し混乱していたが、それはルーウィンも同じ様に見えた。

 二人は橋を渡って街に入り、大通りを迎えても「こっちの通りなんです」という案内をルーウィンが言うまで、言葉は全くなかった。
 何を緊張しているんだ。話さないと勿体無いぞ――そうヴェインは自分に言い聞かせて、なんとか口が開けたのは、ルーウィンの勧めていた店に到着して、テーブルについた後だった。
 
 「い、いい店だ、な」

 キョロキョロと辺りを見回しながら言ったヴェイン。場を取り繕うだけの言葉で、ろくに周りも見えてはいなかったヴェインだったが、ルーウィンの勧めた店は、その通り、確かにいい店で落ち着きのある喫茶店だった。
 程よく色の落ちたテーブルの色と合わせた椅子は少し洒落た形をしているし、窓辺や壁にあしらった植物や絵画は店に上手く映え、たくさん置かれた小物はどれも、興味を引くようなものだったり可愛かったりした。

 「……」

 ただ、二人の学生が来るには、どこか少し大人びた雰囲気があり、ルーウィンとヴェイン以外の客といえば、貴族の大人や、身なりのいい男女のカップルばかりであった。
 店は静かで、雰囲気も確かに落ち着きがあったが、他の客層を見たヴェインは元々、緊張していたのもあり、今ではもう正常に頭を働かせるのが困難な程に緊張していた。

 「前に、セウロから教えてもらって僕も来たことがなくて……やっぱり、いい雰囲気で良かったです」

 そう言うルーウィンも、やはり先程から緊張していた。それは極度にあがっているヴェインにさえ見て取れて、その相手の緊張が分かるからこそ彼はなおさら緊張の度合いを増していくのだった。

 (どうしてルーウィンは緊張しているのだろう?)

 ヴェインには、それがどうしても分からず、遠まわしに尋ねてみる。

 「あ、あはは。なんか……あれだな。お、俺ってさ、こういう店は初めてだしさ……結構、柄にもなく緊張しちまってるよ。……ル、ルーウィンは平気なん、だよな? こういう店来るの慣れてるんだろ?」

 声を上擦らせながらもなんとか言い終える。ルーウィンの返事を待つ僅かな時間さえ今のヴェインには永久に等しい。
 いつもの笑顔ではない、どこかぎこちない笑顔のルーウィンは笑う。

 「僕だって慣れているというわけでは……。あはは、僕もなんだか緊張しちゃってます……」

 「そ、そうなのか? やっぱり俺達には、まだこういう店は早かったかな?」

 「あ、いえ……そういうわけではないんですけど……」

 そう言って、ルーウィンは珍しく視線を外して俯いた。
 
 そういうわけではない。ならば、なんで緊張しているというのだ。
 ヴェインの脳内は今まさに壊れ始めていた。

 緊張している。ルーウィンが緊張している。
 俺と二人でいるのを――緊張している。
 それは、俺を意識している、ということになるのではないか。またも、自分の中に現れた都合の良い解釈を頭を振って消し去ろうとして、ヴェインはルーウィンを見た。
 すると、ルーウィンもそんなヴェインを見ていたようで視線が、がっちりと合わさった。今度は、二人共が視線を外さなかった。外すことができなかった。
 ただ、その赤い瞳に釘付けになったヴェインは、少しだけ落ち着きを取り戻して思った。
 まただ――初めてルーウィンのことが気になりだした時も同じ様に、この赤い瞳に縛り付けられるように目が離せなかったんだ。
 綺麗で、それでもどこか激しく燃える炎の様な色――俺はこれを、どこかで見ているような――そんな気がする。
 どうして、ここまで、この『赤』が気になるんだろう。ずっと、求めてきたような、そんな気さえした。

 二人見つめあったまま視線が外せなかった。
 こんなことが前もあった気がする。いつだっただろうか。思い出せなかったヴェインは、吸い寄せられるようにその赤を見続けて、先程までの緊張が解けていくのを感じていた。
 そして、妙に落ち着いたその心で、彼はありままの想いを伝えようと思った。

 「俺さ。ルーウィンには感謝してるんだ」

 「え……」

 薄く淡い桃色の唇が動き、ヴェインは目からそれに視線を移して言葉を続ける。

 「ルーウィンのおかげで、強くなれた。バランにも会えたし、クラスの連中とも話せるようになった。……ほら、前までの俺って嫌われてたろ?」

 「そ、そんなこと……ただ、皆ヴェインのことを知らなかっただけです。本当のヴェインを知れば……皆だって好きになれるのに」

 皆だって好きになれるのに。その言葉にまた都合の良い解釈が生まれ始める。
 
 (『皆だって』ならば、ルーウィンは俺のことを? 馬鹿な、俺は何を言おうとしている? やめろ。きっと後悔するぞ)

 ヴェインの心は落ち着いていた。
 そして、言いたい事はもう止まることを知らなかった。

 「だったら、その俺のことを皆に伝えてくれたのはルーウィンだよ。……ありがとう。感謝してる」

 「あはは。どうしたんですかヴェイン……。急にそんなこと言われたら……その、照れますよ」

 本当に照れているルーウィンの様子にヴェインの逸る気持ちが言葉を急かし、まだだと、なんとか押し止める。

 「でも、俺はルーウィンとだけ話せていたらいいんだ」

 「僕とだけ……?」

 ああ、とヴェインは頷いた。

 「それは、どうしてですか?」

 そう問うルーウィンがどこか、俺の言葉を期待して待っているように感じるのは、またしても都合の良い解釈のはずで、どうしてこう自分は――しかし、ヴェインはもう止まれない。
 唇から、また赤い瞳を見つめて、どこか泣きそうにも見えるその瞳にヴェインは言った。

 「お、俺さ――ルーウィンのこ」

 「やあ。ヴェインじゃないですかっ。あれ? 勇者様も」

 お約束のように現れたのはヴェインの保護者イザナで、分厚い本を胸に抱えていつの間にかルーウィンの隣に佇んでいた。
 
 ぎょっと固まったヴェインは、どくんと心臓が口から出そうな程に、飛び跳ねて、たった今言おうとしていた言葉をすべて飲み込んだ。

 「いやぁ、二人もこのお店知っていたんですね。私も前々から気に入っていてね。よっこいしょ、と……」

 重たい何冊もの本を隣の空いていたテーブルに置き、席について隣の二人に目をやったイザナは、ヴェインの血走った目と真っ赤な顔を見て凍りついた。
 焦り口を開くイザナ。

 「あ、あれ……ちょ、ちょっと、お邪魔でしたか? あは、あははは……」

 絶叫してイザナに飛び掛りたい衝動に駆られ、脳で出来事を処理しきれていないヴェインは、ふるふると震え、そんな様子を見て、さらに引いたイザナに突然ルーウィンが声をかける。

 「だっ、大丈夫ですっ。ど、どうかイザナ先生もここでっ……!」

 真っ赤な顔で懇願するように言ったルーウィンのセリフに、ヴェインは心を鈍器で殴られたようなショックを受けた。『イザナ先生もここで』――それは、俺と二人きりでいたくないということでは――がくり、と脳内で膝を折って倒れ込んだ自分がいた。
 それにイザナは驚いた風にしてから、優しく微笑んでから答える。

 「そうですか。良かった……。では、お言葉に甘えて」

 そう言いながら、椅子だけをヴェイン達の席へと移動させて、重たい本を二人のテーブルに置く。

 「三人でお茶しましょうか」

 ほがらかに言ったイザナに、今度こそヴェインは殺意が芽生え始め、ギロリと睨みを利かる。
 しかし、イザナはそれを物ともせずに、くすりと笑うとヴェインに耳打ちするように顔を近づけた。

 「大丈夫ですヴェイン。脈ありですよ。良かったですね」

 「――」

 イザナのすべてを見通したかの様なその言葉に、堪らず吃驚したヴェインは、本当かと目で尋ねるとイザナは頼もしげに頷いた。

 「どうしたんですか?」

 赤い顔で尋ねる勇者に、イザナは軽やかに笑う。
 
 「いえいえ、ヴェインがお手洗いに行きたいらしいです。ヴェイン、お手洗いはあちらですよ」

 「あ、ああ」

 そう促すイザナの目は、顔でも洗って落ち着きなさいと物語っていて、なにもかも見透かされていたヴェインは恥ずかしかったが、なんとか落ち着きを取り戻すことができた。
 極度の緊張と、急なイザナの出現による驚きで力が抜けて、まともに歩けずに頼りない足取りで、ヴェインはふらふらと席を立った。
 そんな様子を吹きだしそうに眺めたイザナは、どこか彼の勇気を称えてやりたい気持ちになった。
 それだけに、先程、自分がとんでもないタイミングで現れてしまったことを申し訳なくも思うが――。

 (いえ、今は一度、間を置いた方が得策かもしれませんよヴェイン)

 そんな親心を抱いていた。
 そんな彼に、ルーウィンは聞いておかねばなるまいと、意を決して口を開く。

 「あの……イザナ先生……先程、ヴェインは僕になんて言おうとしていたか? き、聞いていましたか?」

 「ふふ……。ルーウィン様には彼が何を言おうとしたかは想像がつきますか?」

 「ぼ、僕にはっ……」

 かー、と一気に耳まで真っ赤にしたルーウィンにイザナは、どこか心の中が綺麗なもので満たされ癒されていく様な感覚を感じていた。
 純真で美しい想いというのは、時に傍にいる人間でにさえ気持ちが良いもので、イザナにとってヴェインとルーウィンのこの関係は忘れかけていた誠実さや純粋さを感じさせてくれた。
 だから、彼は二人を応援したくなったのだ。

 「そうですか。きっと、近いうちにまたヴェインから言われると思います。ですから、その時はしっかり応えてあげてくださいね」

 優しい笑顔でそう言ったイザナに、ルーウィンは自分はなんてことをしてしまったんだろうと、先程の行動を悔やんだ。自分がイザナにここにいて欲しいと頼み、ヴェインの言葉と緊張の波から抜け出そうとしたこと――あまりの緊張が故に、堪らずルーウィンは逃げだそうとしてしまった。
 俯いた勇者にイザナは言う。

 「大丈夫ですよ。きっと、またヴェインは言ってくれますから。……もし、機会がなければ私に相談してください」

 「……ありがとうございます」

 やはり、ルーウィンもすべてを見透かしたイザナにとんでもなく死にたい程の恥ずかしさに襲われ、真っ赤な顔で俯いて、そう答えることしかできなかった。

 それからしばらくして、まだ頼りない足取りで席へと戻ってきたヴェインを交えて、ほとんどイザナが一人で話し続けるというお茶会が開かれた。
 それでも、ヴェインとルーウィンは、たまに目を合わせ笑うことができた。

 確かに、二人にとってはこの方が自然だったのだろう。
 若者らしく急いてしまうことは、きっと二人にとって良いことにはならない――イザナの懸念は正しかった。
 だが、本当にそれが良かったことなのだと、そう言えるのかは結局、後になってみないことには誰も分からない。
 何に対しても言えることだが、最善の行動というのは結果で決まることで、その場で決められることではないのだから。
 

 その夜に、世界が終わってしまうかもしれない。
 世界が終わってしまうとする――ならば、イザナのしたことはヴェイン達にとって、とても酷なことだった。

 それは、そう。単なる『かもしれない』だ。

 その程度の話なのだ。
 





 



 「……」

 妙な――。
 妙な感覚だった。
 空の向こう茜色の空の奥の奥から、自分の叫び声が聞こえてきたような――何故だがそんな気がして、ふと剣の振りを止め、ただ遠くを眺めていた。

 「どうかしたのですかヴェイン?」

 そんな彼のおかしな様子に、どうしたのかと尋ねてきたルーウィン・リーシェンは、ヴェインの見ている方角を眺め、また視線を彼に戻した。
 いつもの彼ではない。
 先程、剣の手合わせをした時にもルーウィンは感じていたが、お茶会の後のヴェインはどこか上の空で、練習に全く身が入っていない様子だった。

 「おーい、どうしたのかね?」
 
 素振りの数を数えていたバランも二人が剣を止めたのを見て、何事かとこちらに歩み寄ってくる。

 ヴェインは何かを考えているわけでもなく、ただ心を無に支配されていた。

 目も眩むような美しい茜色の空。
 ヴェインはわけもなく、ただ、それに見惚れて動けなくなっていた。
 いつもの剣の鍛錬――のはずだった。
 ただ、今日はバランが何か特別な任務があるからということで、珍しく日の落ちる前から剣の鍛錬をしていたが、本当にそれ以外は何の変哲もないいつもの剣の鍛錬のはずだった。
 しかし、ヴェインはいつもと違っていた。
 どこか胸の奥が、ざわつき鎮まらない。
 あの遠くの夕焼けの向こうの空から呼ばれている様な妙な感覚が、彼の胸を締め付けていた。

 「ヴェイン?」

 「あ、いや……なんでもないんだルーウィン」

 頭を振ったヴェインは、笑顔で自分の初めての友人に言った。
 こんなことは、ただの気のせいだ――そう、思うことにした。
 なのに、何故だか、その夕焼けを眺めているとヴェインは堪らない様な、寂しい様な気持ちになった。

 この、三人での鍛錬は、もう、きっと――。
 ――『できなくなる』
 もう、できなくなってしまう。

 なんの理由もなく、ヴェインは目の前の初めての友達との別れを感じていた。
 笑顔でこちらを見ている初めての師バラン・ガラノフ・ド・ピエール。そんな彼を師として慕うのも、きっと今日で最後になる。
 何故だろう。何故、自分はこんな寂しいことを予感しているのだろう。
 闇の賢者に課せられた試練とでも言うべき、理不尽な言いがかりを乗り越え、やっと手に入れた友達を、どうして理由もなく失うと思っているのか。ヴェイン自身、理由など分からなかった。
 ただ、この茜色の夕焼けの中にいると、彼らとはもう一緒にいることができないのだと、そう思い知らされ、ただ失うことに対しての恐怖が胸を締めつけていくのだ。
 彼に、ヴェイン・アズベルシアに、何かがあったわけではない。
 彼は感じていたのだ。どうしようもない程に唐突で、意味不明な、それでいて確実な別れの予感を。
 
 (『予感』なんかじゃない。これは)

 確信――。

 そう思ったヴェインは、堪らずルーウィンから視線を逸らした。

 「ヴェイン? 本当に様子が変ですよ? ……そういえば、最近目の下のくまが気になりますが……しっかりと眠れていますか?」

 「大丈夫だって。……ちょっと夜更かしが続いていたんだ。イザナから借りた読み物が面白くてな」

 反射的に嘘をついたヴェインは、少し自身で驚いていた。
 彼は自分で嘘が上手い方だとは思っていなかったし、こういう場を取り繕うような言葉を簡単に言える人間ではなかったはずだった。
 そんな彼の嘘には気がつかずにバランは豪快に笑いながら、ヴェインの肩を叩いて言う。

 「ふぅはっはっはっ。ヴェイン。睡眠というのはとても大事なものなのだよ? そんなことだから、素振り中にボーっとしてしまうのだ。さあ二人ともっ! あの夕日に向かって剣の素振りを続けるのだ!」

 確かにここ数日、ほとんど眠ることができていないヴェインの目の下にはくっきりとした黒い淵のくまができていた。
 バランもルーウィンもそれには気がついていたが、ヴェインの変調には全く気がつくことができなかった。
 いや、当のヴェイン本人も今はまだ気がついていなかった。
 やがて、バランによる鍛錬は彼の号令で終わりを告げ、ヴェインとルーウィンはいつものように途中の、『後ろ向き橋』まで一緒に帰ることになった。
 ルーウィンの住まいは王城なので、ヴェインにとってみれば毎日、橋の終わりまでルーウィンに送られている形になってしまっていて、ひたすら悪い気がしていたが、なんとなく少しの間だけの会話が楽しくて、いつも何も言わずに送られていた。
 
 「ルーウィンさ。……あの、さ」

 堪らない焦燥感と恐怖をひた隠したまま、ヴェインはそれでも何か言わなければと、後ろ向き橋の真ん中にさしかかった所で歯切れ悪くルーウィンに声をかけた。

 「なんですか? ヴェイン」

 そして彼に向けられたのは、やはりルーウィンらしい優しい太陽の様な笑顔で、どうしてだか今のヴェインにはそれが堪らなく眩しく、目が眩み――彼は、また目を逸らして俯いてしまった。
 そんなヴェインの葛藤を知らずに、不思議そうに赤眼を向けて勇者は微笑んでいた。

 「……」

 「……」

 (いつもなら、簡単に軽口を言い合えるのに。どうして)

 そう、そんな軽口を言い合える仲にはとうになっていたはずだったが、ヴェインの口は彫刻の様に動かなかった。
 気まずい沈黙に心臓が早鐘を打ち鳴らし、彼はひたすら焦りだした。もっとも、その気まずさはヴェインが一方的に感じているだけで、天然であるルーウィンは、今だ笑顔のままであった。
 話さなければとは思ったが、声をかけ終わる瞬間まで何を話すのか決めていないことに、ヴェインは今さら己の浅慮さを呪った。

 (何か言わないと。何か、言わないと。話さないと。でなければ――終わってしまう)

 いつの間にか震えだした足と、からからに乾いた喉。
 自分は今、とんでなく混乱しているのだと客観的に自身を感じる冷静さはあるのに、ただ言葉だけが蓋をされた様に出てこない。

 「ヴェイン、今日の夕飯はなんですか?」

 「――え?」

 唐突に放たれたルーウィンの言葉にヴェインは橋の上で足を止めた。丁度、以前セウロに川へと蹴り落とされた辺りだった。

 (今、ルーウィンはなんて言ったんだ?)

 今日の夕飯はなんですか?
 そう……言ったのか?

 そう、勇者の呟いた言葉が、パニック状態を引き起こしかけている脳内にこだました。
 
 「僕は今日、セウロとの食事ではないんです。お父様……王と食事をしなければいけなくて」

 「そ……そうなのか」

 なんとか、止めていた足を動かして、歩いていくルーウィンについていくヴェイン。

 「王との食事は嫌いではないのですが……やはり、食事中のお話は禁じられていますから……」

 「……」

 口をパクパクと開閉させ、いつもならば出るはずの言葉を飲み込み、ヴェインはただ木偶の様にルーウィンの話に耳を傾けることしかできない。

 「ですから、この間のヴェインの家での食事はとても楽しくって。僕も話すの好きですから。きょ、今日のお茶も楽しかったですけどねっ……」

 ヴェインの手前でくるりと振り返り、にこりと言ったそのルーウィンの仕草に、今日ばかりは胸を締め付けられただ悲しくなった彼は、足を止めた。

 「……」

 「ヴェイン?」

 (駄目だ――名を、呼ばない、で、く、れ。)

 「……先程から様子がおかしいようですが……」

 (もう――耐えられない)

 そして、俯いた顔を覗き込む様にしてルーウィンは尋ね――

 「大丈夫ですか?」

 なんでもないんだ。そう笑って誤魔化すのは、もう無理だった。
 ヴェインの頬を冷たい雫がすぅと線を描く。ただ、止め処ない涙が地面へと次々に滴り落ちていた。

 「ヴェ……イン?」

 初めて見るヴェインの泣き顔に、さすがのルーウィンもぎょっとして、ただ事ではないと察知することができた。

 「僕、今日ヴェインに……ひどいことを、してしまったでしょうか……?」

 ルーウィンの頭の中にあるのは今日の喫茶店での出来事で、きっと、その時の自分の態度のせいだろうと、そんな事に考えを巡らせていたが、ヴェインの心にあるのは、それではなく、単純な『恐怖』――理由はない。説明のしようがない。

 そして、言葉を発することができない。

 「あ……」

 彼はルーウィンを追い越して、気がつけばその場から駆けだしていた。
 脇目も振らずに、ただ、わけもなく止まらない涙を見せたくなくて、そして、自分がどうしたいのか、どうするべきなのかさえ分からなくて、ただヴェインは逃げた。

 取り残されたルーウィンの頭の中で、イザナの『きっと、またヴェインは言ってくれますから』という言葉が虚しく鳴り響いていた。

 







*******************

 






 時は――止められる。
 どんな災厄も、幸福も、それが起こる前に彼は止めることができた。

 だが、それは意味のないことだった。
 制止した世界に干渉できるものは存在しないのだから。

 結局は、変わらない世界がまた動きだす。

 そう。彼にとって、人間にとって、それはとてつもなく無意味なことだった。

 時を止めるということは、そういうことだ。
 例え、止めた世界を自由に動き回れる存在がいたとしても――その世界に干渉することは絶対にできない。

 事象の地平線の彼方、ただそれを眺めているしかないのだ。

 世界を止めるということは、そういうことだ。
 それは、事象を止めてしまうことと同義であり、故に彼は制止した世界を眺める傍観者にはなれても、壊れていく世界を救う英雄にはなれなかった。

 木の枝から腐り落ちていく果実が砕け、潰れ、形を成さなくなる、その様を。

 ただ、見続け――そして、彼は壊れていった。
 

 これは、そんな男の魂の慟哭。

 この世界で、その男の声が届いたのは、たった一人の少年だけだ。

 彼、だけなのだ。








 何かに呼ばれたような気がしたんだ。
 ただの何もない『日常』の中で、それは確かに俺を呼んでいた。
 
 シトシトと降る雨の夜、ヴェイン・アズベルシアは眠れずに部屋から窓の外を眺めていた。
 隣では静かな寝息をたてているシフィが、気持ち良さそうに眠っている。
 ヴェインは横になり、寝返りをうち、腰を浮かして窓の外を眺め、また横になるという行動を何度も何度も繰り返していた。
 眠れない夜――これは、そんなただの夜の『日常』にしか過ぎないはずである。ヴェインはそう思っていた。
 数日前までは、の話だが。
 彼が眠れない夜を過ごしたのは、今日をいれてこれで四日目となる。
 初めは単なる体の不調、もしくはここ最近の色んな出来事によって起こった心境の変化による心の問題なのではないかと思っていた。
 だが、ヴェインはそれを単なる体や心の不調などとは、もう思えなくなっていた。

 (確かに、聞いた。――聞こえた)

 ヴェインは、もう一度体を起こしてシトシトと雨の降る暗い夜の街を窓から眺めた。
 夜気に混じる様に、自分の元に伸びてくる何かの気配を察知したのは四日前――丁度、夜が眠れなくなった時と重なっていた。
 イザナに相談しようかとも考えた。だが、彼は悩みを親しい者に打ち明けるタイプではなかったし、何よりも何と言っていいのか分からなかった。

 ただ、心がざわついて何かを『聞いた』気になって眠れない。説明のしようがない。
 いや、とヴェインは頭を振り思った。
 これは『話してはならない』。俺の俺だけの問題だ。俺にしか聞こえない声は、この俺だけの問題で、そして他人がどうこう言えるものではない。



 わけもわからず、何故かヴェインはそんな確信が持てた。
 
 異常だ。この自分の妙な思考も、この声にならない声が、耳へ、いや心の奥に届き、反響して内側から俺をかき鳴らしている。

 ヴェインは確かに何かを感じていた。
 確証は何もない。だが、この眠れない状態も声も、きっと自分に関係のあることで、自分以外の誰かにはきっと理解できない。
 このまま、また昨日や前の日のように、ただ眠りに入ることができるのを待つか、それとも――それとも?
 眠ること以外に、できることがあるのか。ヴェインは心のままに思考した。

 呼ばれている。呼ばれているんだ。
 声に呼ばれればいいんだ。
 そう、そうだ。

 何を思ったかヴェインは迷いのない動作でベッドからシフィを起こさぬように脱けだして、傍にたてかけていた模擬用の剣を腰にかけた。
 
 「……」

 そして、すぐにそれを元の場所に戻して、しゃがんでベッドの下から鞘に包まれた真剣を取り出し、腰のベルトの留め金に装着した。
 足音をたてぬように、部屋から出て、扉の所でシフィの方へと視線を向けて、その寝顔に微笑みかけたヴェインは、雨の降る夜の街へと誘われる様に足を向けた。

 どくんと鼓動以外の何かが脈打つ。
 それは自身の行動に対する警笛か、それとも肯定の合図なのか。
 彼の足は止まらなかった。

 冷たい雨の降る静まり返った夜の街に、人気はない。
 いつもは、夜警の兵なんかを大通りに出れば目にするはずだが、今日は不思議と誰の姿も見なかった。
 
 (ああ、おかしいぞ。おかしい。やめておけよヴェイン・アズベルシア)

 彼は自身に言い聞かせた。足は止まらない。

 (これは、駄目だ。きっと、駄目なんだ。あの日と同じだ。『日常』のふりをして忍び寄って、俺とシフィから家族を奪い、シフィの幸せを奪っていったアレと同じだ。……今なら、まだ引き返せる)

 止まらない。足は止まらない。

 鼓動が速く鳴り響き、また、どくんと鼓動以外の何かが辺りに反響する。

 体が震えていた。
 雨に濡れ、冷たくなった体。震えはそれによるものではない。怖ろしいのでもない。
 ただ、忘れたいあの日と、再びまみえ邂逅することが『嬉しくてたまらないのだ』。
 ヴェインの表情に笑みがこぼれた。

 これは、あの日と同じ感覚だ。
 『緋色髪の男』に、すべてを奪われた――あの夜と。
 これと同じ異常を――あの夜も、俺は感じていたんだ。
 何故、今の今まで忘れていた?

 (俺はずっと、これを望んできたんじゃないか。俺とシフィからすべてを奪ったあの男に復讐するために、俺はもう一度、この異常を……望んでいたはずだ)

 そうだ、この先に――奴が、いる。
 可笑しい。笑いがこぼれ、夜の街に響いた。
 そうやって、彼は、ヴェイン・アズベルシアは幻を追い、呼ばれてしまった。
 次第に足は速度を増し、いつの間にか駆け足になり、すぐに全速で駆けて街から出ることができる唯一の大門をくぐり、外の世界へと飛び出していた。
 正常な思考を欠いたヴェインは、ただ笑みを張りつかせて抜き放った真剣を右手に持ち、雨の中を走っていた。
 何故、夜には固く閉ざされているはずの大門が開けられていたのか?
 何故、兵達が一人もいなかったのか?
 そんな、当たり前の疑問も浮かばず、ただ自分を呼ぶ声に虜にされた様に、その先に倒さねばならぬ相手がいるのだと、そう頑なに信じて憎しみに心を支配されていた。

 「はぁっ……! はぁ! 殺して、やる。殺して……やる!」

 叫んだヴェインは頭の中で何かが弾け、今まで自分の中に仕舞い込んでいたすべての思いを解き放った。
 良識や、守りたい者のために表面に出すことができなかった人としてさらけ出してはいけない薄暗い感情――それを、ありったけ、すべてを夜の空へと向けて吐きだした。

 「殺してやる! ああ、殺してやるさ! そう思って何が悪い! 殺したい程に憎んで何が悪い! それが、俺の生きる目的で何が悪い! それで俺が剣を修めて何が悪いってんだ!」

 楽になった。楽になってしまった。
 いつも、そう思わないようにしてきた。いや、そう思っても、表には出さぬようにしてきた。
 それを吐き出せば、こんなに楽になれたことに彼は体を震わせて、雨に打たれながら笑った。

 そして、気がついた。辺りの景色が変わり、いつの間にか薄暗い森の中にいたこと、雨の夜なのに空には霞のかかった月が見えていたことに、夢から覚めた様に急に気がついた。

 「俺は――なに、を……」

 右手で光るものに気がついた。抜き身の刀身を持ち上げて、ヴェインは頭を振って後ずさる。
 こんな時間に、わけの分からないことを喚きながら、真剣を携えて森の中で佇んでいた自分に、今の今まで気がつけなかった。
 
 (何を、しているんだ俺は)

 また頭を振って彼は辺りを見渡し――そして。
 視界の端に見慣れたものを捉えた。

 「あ」

 心臓が飛び跳ね、目の前の現実を否定しつつ、これは夢なのではないかと疑い始めたヴェインは、それでもその見慣れたものに足を向けた。

 「……っ」

 雨に濡れていた『それ』は、周りの地面と共に真っ赤に染まっていた。
 言葉が出ないヴェインは、ただ口をパクパクとさせてそれに見入っていた。

 そして、ぴくりと『それ』が動き、ヴェインも驚きから大きく体をビクつかせた。

 「がっはっ……!」

 真っ赤な池が波打ち、その中心で男は血の噴水を口から吐きだした。

 「お……おっちゃん」

 『それ』はヴェインのよく見慣れた橋の下の浮浪者だった。
 何故か、呼ばれる様にやってきた夜の森の中で、血の池の中で倒れていたのは、よく知る浮浪者の男。
 そして、彼はどう見ても瀕死の状態だった。
 これだけの血が人間の中に存在しているのだろうかと疑いたくなる様な量の血を、土の地面に染み込ませ、弱い雨がそれを流していく。
 男の腹部にはより大きな赤があり、そこから雨雲から覗いている月明かりに照らされた腸がぬらぬらと光っていた。

 「はっはぁ……! やっと……来たかっ……! はぁっ……ぐっ……」

 大きな血の塊を、ぼこっと口を鳴らし溢れさせ、浮浪者の男はヴェインを睨みつける。
 いつも見ていたあの気の抜けた様な酔っ払いとは思えぬ顔つきに、一瞬別人ではないかとすら思えた。
 
 「いいか。……よく聞けニイちゃん。ニイちゃんをここへ呼んだのは俺だ……。よく効いたか……い? 求めるモノの『幻術』は?」

 「え」

 「がふっ……はぁ……悪い、長くはもたん。……じ、時間を止めて待って……いたが、俺はあと少しで死ぬ……だ、だから聞け……」

 呼んだ――幻術――時間を止めて――ヴェインの頭は何も理解できない。
 ただ息も絶え絶えに話す男を、雨に濡れながら見ている他はない。

 「はぁ……はぁ……。今からニイちゃんには渡すものがある。ニイ……ちゃんにしか渡せない……すまない、な。悪いが……ごほっ……こいつぁ断れないんだ。だから……受け取ってくれな、ニイちゃん」

 ビクビクと浮浪者の男の体が痙攣を始め、口からはさらに血が溢れ、地面の血溜まりへと流れていく。
 ビチャビチャと溢れさせるものを地面に撒き散らしながら、浮浪者の男は仰向けの体を起こし、這い蹲り、自分の腹から出ている贓物にすべり血の海へと倒れ込んだ。

 「あの……野郎っ! ちくしょ……ま、まだっ……! 死ぬわけには……頼む。ニイちゃん、こ、こっち……に。俺の体に……触れてく、れ!」

 顔を血液で真っ赤にして男は叫んだ。その目には、もうヴェインの姿は映っていない。
 浮浪者の死を間際にした凄まじい形相を見て腰が抜け、へたりこんだヴェインは足首を男に掴まれていることに気がついた。

 「ひっ……」

 どうして、この男がここで血塗れで倒れているのか――そして何故、自分がここにいるのか。ヴェインには何も分からない。分かるのは、この男がもう、助からないということ、そして何かを伝えようとしているということ。
 ヴェインはそう頭で理解し、それでも助けを呼ばなければと立ち上がろうとたが、力が抜けて立つことができない。
 
 「まっ……待てっ……ニイちゃんにはこれから……きっと……苦しい……だ、がっは……。だが、」

 瀕死の男は命の限りを振り絞り、何かを伝えようと言葉を発し、その度に血を撒き散らした。

 「な、何を……言ってるんだ、おっちゃんっ。もう話さないで……今っ……助けを」

 困惑して、助けを呼ぶよりも――この目の前の惨状から、ただ逃げだしたくなったヴェインは、今度こそ足に力を入れて立ち上がった。
 しかし、浮浪者の男はヴェインの足首を掴んだまま放さない。

 「……ぐっ……待ってくれっ。……け、継承……せ、世界の……理」

 そして、必死な様子で何かを伝えようと話続ける。
 掴まれた足首が強烈な力で締め上げられ、堪らずその場にしゃがみ込んだヴェインは、とても場違いなモノを見た。

 男の、曇りのない、笑顔。

 「人間を。人間を……――嫌いにならないでくれ」

 「な、なに?」

 「……キツくなったら忘れちま……え。酒だ……さ、けをの……め」

 「さ……け?」

 ばしゃ、と音をたてて足首を掴んでいた手が赤い池に落ちた。
 それから、しばし次の言葉を待っていたヴェインは、もう男が動かないということに気がついた。

 「お……おっちゃ……」
 
 命を賭して口を動かしていた者はもう、何も語ることはなかった。

 一体、どうして――?

 そう、雨の降る月夜を見上げて問いかけ、ヴェインはその赤い池の中で倒れている男の前で放心した。
 いくつもの不可解な事象――決してこんな風に森の中で血塗れで倒れているはずのない男。そして、その者の歪な繋がりのない言動。ヴェインの頭の中は完全に混乱の極地にあった。

 考えても思い出そうとしても何故、自分がこんな時間にここにいて、死にかけの浮浪者の男と話していたのか分からない。
 右手の抜き身の刀身を見ても、何をするために抜いたのかさえヴェインには思い出せなかった。

 (……帰らきゃ。……シフィが起きたら心配する……)

 麻痺した思考は考えることを拒絶し、彼は帰るべき場所へと足を向ける。
 今ここで起こったこと、それをまるで夢であったかの様に記憶の奥の奥へと閉ざし、封印し、時を止めた。

 (時を――止め?)

 ばちっと自分の中の何かの回路とでもいうべき、自分を作りあげる頭の中の『線』が弾けた。
 高速で頭の中に何かが流れていく感覚。

 「あ?」

 途端、眩暈。

 何かとんでもない大波の様なモノが、音をたててヴェインの中へと押し寄せてくる――そして同時に、頭に固い鈍器で殴られた様な痛みが奔った。

 「ぐっ! あ、あ、ああ、あっ」

 (なんだこれっ。なんだこれっ……?)

 感じたことのない感覚に、今自分が正常ではないことを理解した。
 頭を割る様な強烈な痛みが突然襲い、体をくの字にして両の手で抱きしめ、ヴェインは叫んだ。
 とてつもない何か――とにかく正体の分からない痛みの波が突然、頭の中に押し寄せていた。
 そうとしか表現のしようのない正体不明の奔流は、激痛となってヴェインの中を縦横無尽に駆け巡った。
 もがき苦しみ、堪らずヴェイン助けを呼ぶ。

 「だ、誰かっ……!」

 しかし、ヴェインの声は森の奥へと吸い込まれ、離れた街に届くはずもなく、ただよく知った男の亡骸だけが何も語らずヴェインの叫びを聞いていた。

 「ぐっ」

 そして。

 「あああああああああああああああああっっっ!!!」

 






*******************

 






 「お兄ちゃん?」

 激しさを増した雨の音でシフィは目を覚ました。
 扉が開かれていて、そこにずぶ濡れの兄の姿があった。その背景は漆黒の闇、まだ夜の遅い時間だと、寝起きの悪いシフィにしては理解が早かった。
 理解の早かった理由は、至極簡単、開かれた扉の前で立っている兄の姿に異常を察し、目が覚めたからであった。
 明らかに異常――いつもの兄ではない。いや、本当に兄なのか。そう、疑わしく感じたシフィは再度、兄を呼んだ。

 「お兄ちゃん……? どうしたの?」

 その声に、今始めて気がついたかの様に、物凄い勢いで振り返った兄の顔は、強烈な怯えが張り付いていた。

 「……っ」

 びくり、と体を震わせて、こんなことあるわけがないとシフィは思った。
 兄が夜に外を出るなんてありえないし、何より自分をあんな顔で見たことなどなかった。

 これは悪い夢――?

 「シ、フィ」

 ギッ、と床が音を鳴らし『兄』が近づいた。『妹』は体を起こし、怯えた様子で毛布をぎゅっと握り、『兄』にもう一度言う。

 「……どうしたの? ……濡れて、るよ」

 「川……に落ちたんだよ。落とされたんだ。ひどいことするよな」

 目が何も映してはいなかった。歩く度に、ぐしゅりという靴の音が今は、何か虫でも踏み潰したかの様に聴こえて、シフィはその度に体を震わせた。

 「どうしたんだ? 何をそんなに怖がってる?」

 『兄』の笑顔は、いつもの笑顔ではない。
 幼き『妹』にさえ、それは狂想を宿したものであり、『兄』が『兄』でないのを理解できた。

 近づいた『兄』がベッドに腰を下ろし、優しくシフィの頬を指で撫で上げる。

 「暖かい……。でも、こんなに暖かいものでも、いずれは冷たくなるのを知っているか?」

 「お、お兄ちゃぁん……」

 シフィは泣きだし、しゃくりあげながら震えて目の前のものに怯えた。
 『兄』の悪ふざけであるなら、きっとここで、今までの『兄』に戻るはずだと、そう思って『妹』は――。

 ――つまらないモノを見るような『兄』の目を見た。

 ギシッとベッドが音を鳴らす。ギュッと毛布を強く握っていた両手が『兄』の手で押さえつけられ、ゆっくりと体を倒された。
 『妹』はこれが夢でないことを、その両手にぎしぎしと食い込んでいく『兄』の爪の痛さで思い知らされた。
 
 「い、痛いっ……」

 震えが止まらない『妹』を見て、また『兄』は笑顔を張りつかせる。
 それは笑顔の仮面。
 ボタボタと『兄』の体から垂れる水が『妹』を濡らし、顔についた水と『妹』が恐怖から流した涙を同時に拭ってやる。

 「どっちも、ただの水さ」

 『兄』は『妹』を。





 





第5幕へ



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