*改行ありVer*
******************* わははは、と男達の笑いざわめく声が、墨を垂らした様な漆黒の夜空へと吸い込まれた。 大きな真ん丸い月の真下には、激しく燃える焚き火の炎がぼぅと柱の様に浮かび上がり、それを数十人の男達が囲んでいた。 辺りは見通しの良い草原で、視界を遮るものは近くにはない。 この、だだっ広い平原へ街から来るには、森を一つと山一つ越えなければならず、身を隠す必要がある彼らにとっては、まあ悪くはない場所であった。 たまには山や森の中以外の開けた場所で、皆でご馳走でも食おうじゃないか――そう言ったのは、焚き火の前で一際大きな体を揺らして笑った髭面の男であった。 誰が見ても、一目で山賊か何かだと判断できる容姿。その男が、すねにきず持つ身であるのは一目瞭然で、彼の周りで談笑する数十人もだいたい同じ様な種類の人間なのがうかがえた。 近頃、シルドリア大陸では行商や旅人を狙った山賊による被害が後を絶たない。 そのほとんどが、この場にいる彼らの仕業であり、今彼らがありついている酒や食物もすべてが行商から強奪した物や、近隣の村々を脅して手に入れたものだ。 陽気に笑う今の彼らは悪人には見えないが、その所業はまさに極悪非道と言えただろう。 昼に襲った行商の一団は、警備の兵だけではなく、すべてが皆殺しにあっていた。 どっと、また一際大きな笑い声が辺りに響いた。 男達は皆、酒を片手に地面にこれでもかと並べられているご馳走を口に運んでいく。 その中にただ一人、食事にもありつかず談笑するわけでもなく辺りをうかがっている異質な男がいた。 異質といえば、その男の見目そのものが異質であった。 逆立った白髪は炎の明かりに反射して、ゆらゆらと輝いて、その男の顔にあるいくつもの古傷を顕わに照らしていた。 不吉の象徴である死神の様な雰囲気を纏った男だった。 いささか躊躇いがちに盗賊達の頭である髭の男は、その死神に歩み寄り、そして声をかけた。 「ディールさん。今宵の宴があるのは、行商の進路を教えてくれたあんたのおかげだ。遠慮せずに、好きにやってくれていいんだぜ?」 ディールと呼ばれた白髪の死神は、微動だにせずに答えた。 「あの馬車の積荷はなんだ?」 ディールの指した先には馬の繋がれた馬車が一台あり、こちら側からでは何を乗せているのかが分からなかった。 「ああ……あれですかい? へへ、さすがディールさん。目ざといねぇ。……あれは売りモノでさぁ」 褒め言葉のつもりで言った全く褒め言葉になっていない盗賊の言葉に、特に気を悪くした風もなくディールは馬車を見て言う。 「人間か。……女か?」 「えっへっへっ! ディールさんはそちらの食事の方が良かったですかい? 今日のは、あらかた殺しちまいましたからねぇ。メスガキが一匹だけなんですが……どうです? 今日の報酬代わりと言ってはなんですが。俺らには後でまわしてくれりゃあ、いいんで」 下卑た笑いをして自分を見る盗賊を一瞥してから、ディールは馬車へと歩きだす。 そして、背を向けたまま静かに告げた。 「報酬はこの馬車一台と積荷だ。約束の金はいらん」 「ええっ……いいんですかい? ガキは、たいして見た目もよくありませんぜ?」 「構わん」 そう言ったディールの言葉に、盗賊の男は飛び上がって喜んだ。 馬車と積荷を換金したとしても、ディールにあらかじめ告げられていた報酬の三分の一にも満たず、これは大儲けだと盗賊の頭は他の男達に杯を向けて嬉しそうに叫んだ。 「てめえぇらディールさんのご厚意に乾杯だぁ!!」 背後の男達のどよめきを背負いながら、ディールは微かに鼻で笑い、呟いた。 「クズが」 馬車の荷台の後ろへと近づいたディールは一つの気配を感じた。 するりと滑らせていく様な歩みで、僅かな寝息の音に近づいていく。 それは、暗殺者としての業。恐ろしい程に足音をたてないで歩くことができるディールに気がつくはずもなく、積荷の少女は彼が荷台に上がっても静かに眠ったままだった。 「……」 すぅすぅと寝息をたてる度に動く肩は、寒さで少し震えている。 盗賊の男は、たいして見た目がよくないと言ったが、それは成熟した大人の女性と比べてのことであり、少女は綺麗な顔立ちに均整のとれた良い体つきをしていた。 年の頃は十二、三程であろうか――細い首筋に軽く手を這わせてディールは癖の様に、少女の脈をとった。 その行動に意味はなく、横たわっている者には自然とそうしてしまう彼の所作であった。 無表情で少しの時間、少女を眺めていたディールは、その頬に指で軽く触れて言う。 「起きろ」 「……ん」 眠りが浅かったのか少女はすぐに目を覚まし、そして目の前の夜空に浮かんだ白い髪がまず目に入った。 まるで、満月の様に白く怪しく光るそれから少し視線を下げると、自分を見ている鋭い眼光――血に飢えた獣の様な瞳孔が覗いていた。 「ひっ……!」 すぐに自分が囚われの身であることに気がつき、声をあげて逃げようとするが、足に鎖で繋がれていた重りがそうはさせなかった。 「逃げるな。殺すぞ」 何の感情も感じさせずに言ったディールは懐から短刀を出し、それを少女に向ける。 少女はいやいやと首を振って命乞いをした。 「やめて……お願い……します。……殺さないで……」 おそらく親兄弟を皆殺されたであろう少女は、それでも生にすがりつこうと懸命にそう言った。 殺すつもりは無く、単に鎖を切ろうとしていたディールは、その少女の姿を見て、何故か途端に動きを止めた。 目の前の現実が、彼の記憶の中の大きな扉をゴンゴンと打ちつけ、乱暴にそれを開こうとする。 この光景を、俺はどこかで――そう思ったディールは記憶のフラッシュバックに襲われ、かつて自分のいた村が焼き滅ぼされ、家族や知り合いが皆殺しにされた境遇を思い出していた。 (それが、どうしたというのだ。こんなことは今まで……途中から数えるのが億劫になる程、何度もあった) 殺し屋である彼は、同じ様な境遇の者を殺めるのに躊躇したことなどない。今は殺すつもりがなくとも、用がなくなればこの少女も勿論、殺すつもりであった。 だが、彼は――ディールはどこか今までにしたことがない妙な行動に移っていた。 「親や兄弟は殺されただろう。独りになってまで生きたいのか?」 いずれ殺すであろう人間に言葉をかけたのだ。 彼の記憶の限り、それは初めてのことであり、言葉をかけたディール自身が一番、驚いていた。 (何をしているんだ俺は……) そんな彼の困惑を知らずに、少女はおずおずと震えながら言った。 「私に……親や兄弟はいません。……孤児だったので……」 「元より独りか。……ならば、生きてどうする。お前はこのままでは盗賊達の慰み者になるだけだ」 問うディールを怖れながら、しかし、それでもその目を覗き込むようにして少女は懇願した。 「お願いしますっ。私を……逃がしてください……私を…………」 叶うわけがない願いと知りつつ少女は言ったのか、最後は小さく掻き消えていった。 「助けてやらんこともない。俺の言う通りにすればな」 ディールの手が少女の小さな胸をなぞって腹までスゥゥと滑り、それをまた上に撫で上げる様にして、やがて首で止まった。 「役にたたないと分かれば殺す。いいな?」 「は……はいっ。……な、なんでも……なんでもいたします……」 僅かに灯った希望の光を、極寒の中で見つけた暖かい炎を見る様に、少女は有難く手を合わせて祈った。 「ありがとうございます……。ラクフォリア様――」 「偶像など拝むな。お前、名はなんという?」 問われた少女はすぐに顔をあげて言う。 「私はニア……。ただのニア……です。……あなた……あなた様はなんと……」 問う少女を目で突き殺せるのではないかという程の眼光で射抜いたディールは言う。 「D……ディーと呼べ」 「は、はい。……ディー……様」 「……ニアお前には、やってもらうことがある。その働き次第では、自由の身にしてやってもいい」 少女はコクコクと頷いて、またも有難がって手を合わせる。 「次、神に祈ったら殺す。俺は神が嫌いだ」 「はっ……はいっ……」 慌てて両手を背中へと回したニアを見て、ディールはどこか苛だっている自分を知る。 だからか、珍しく言葉多く語った。 「いいか、神はお前を助けなどしない。不幸なお前を見てもいない。もし、神がいるとするならば――奴は今そ知らぬ顔で、成すべきことを成している。それはこの世界に存在するすべての人間と同じこと。奴らはただ生きている。ニア、お前の不幸なんて気にもとめずにな。いいか? 神は皆平等に誰にさえも、決して手を差し伸べない。だから奴は平等なのだ」 「……で、でも……神様は……」 教会の教えを説いて反論しようとした少女は、凄まじい威圧感を宿した殺気に言葉を止めた。 そして、今自分がどういう状況におかれているのかを思い出していた。 (私は今――ワニの巣の中にいるんだ) 以前、村に来た行商の一団から、異国でワニという湖や池に住む獣を見たという話を聞いた。 ワニはトカゲを大きくした生き物だとかで、水の中以外では俊敏さはないものの、一度その牙に捉えられてしまえば大の大人でも抜け出すことは難しいとか。 そして、ワニは捕らえた獲物をその場では食べずに、水の底の自分の巣へと運ぶらしい、そして浮き上がらないように獲物を何かに引っ掛けて、それが食べやすく柔らかくなるまで『保存しておく』ことがあるという。 つまり、少女は今、Dという獣の巣へと迷い込んだ『餌』であった。 ワニはすべての獲物を巣へと運ぶわけではない。勿論、その場で殺し、食べることもある。 それは彼らの気分次第なのだろうか――少女にそれは分からなかったが、それでも自分の命が目の前の男にすべて握られているのは間違いが無く、生かすも殺すもすべては彼次第なのだ。 「なに、難しいことではない。お前の様な、小娘にもできることだ」 「私にも……できること?」 「ああ」 そう言うと、ディールは手に持っていた短刀を一閃させ、夜の闇へと光を走らせた。 高い良い音が響いて、少女を、ニアを繋いでいた鎖は恐ろしいほどに綺麗な切り口で断ち切られていた。 「お前には、これから王都へと行ってもらう」 「王都へ?」 頷いてディールは少女の手を取り、立ち上がらせた。 ギシリと鳴った馬車の荷台で、死神の様な男は少女を誘う様に手をとっている。 絶対的に逆らえぬ存在として、すでに理解している少女は、ディールにすべてを委ねていた。 ニアの瞳を覗き込むように見つめ、彼は命を下した。 「王都で闇の賢者セウロ・フォレストを探せ。そして、奴が手に杖を持っているかを俺に知らせろ」 「杖を……?」 「そうだ。事情があって俺は王都には入れんが、お前を送り届けることはできる」 ディールは『時の賢者』ジルフとの戦いに勝利し、『時の賢者』をその手で殺めていた。 彼にとって、それはすべての第一歩に過ぎなかったが、実はその手始めに誤算が生じていた。 斬首者D。ディールは『時の賢者』の保有しているある情報が欲しかった。 『時の賢者』さえ仕留めることができれば、彼は彼の知りたい『知識』をジルフから引き出せると思っていたのだが――いや、実質その『知識』を引き出せはしたのだが、厄介なことにそれは彼の知りたい『答え』ではなかった。 その知りたい情報を完全な『答え』とするには、闇の賢者の持っている『杖』が鍵となっている。 ジルフから引き出せた『知識』はそこまでであった。そこにディールの知りたい『答え』はなかった。 そして、その目的のために、単身で王都に潜り込もうとしていたディールであったが、『時の賢者』が行方不明になったせいだろう。今や王都の警備や軍備は尋常なものではなかった。 さらにディールは、ジルフに手傷を負わされており、それ故に王都への潜入は困難であると判断していた。 手傷――それは普通の傷ではなく、魔術的な呪いであった。 彼にかけられたのは『ヤミノキズ』という呪術。 (あの男……また厄介な呪いをかけてくれたものだ。『略奪の魂(システマイト)』の魔術をもってしても、かけられた呪いが解けぬとは……) 対象に施されたすべての術を解呪する魔術を使用できるディールであったが、それは強力な独自魔法の前には意味を成さなかった。 奥歯を噛んだディールは、迂闊にもジルフの魔法を受けたことを悔やんだ。 呪術『ヤミノキズ』――それを受けた者は王都に入ると、街に張られた結界がそれを感知して、国中の魔術師に知らせるのだ。 魔術師だけではない。あの闇の賢者と、ジンジャライもそれを感知するだろう。そうなれば、いくら暗殺者として一流の腕を持つディールとて、分が悪いと言わざるを得なかった。 ジルフがディールにかけた呪いは、王都の結界に触れると、侵入を知らせる所謂、警報の様な魔法であった。 王都の張り巡らされた微弱な結界は、侵入者を拒むものではなく、単に魔物の持つ魔力や、前科者などにかけられた魔術に反応する様に構成されている。 この王都ラクフォリアでは、捕えられた犯罪者達は魔術師達により、街の結界に触れると魔術部隊に探知され、すべての行動を把握される様な仕掛けになっているのだ。それがこの国の前科者の再犯を防ぐ抑止力になっていた。 まさしく、それは闇の傷。 普通に平穏を愛し暮らす者達には、決して無縁のものであった。 魔術師達から『ヤミノキズ』と呼ばれている呪術――ジルフは命をとして、最後にディールにそれを放っていたのだ。 「いいかニア。俺は街へは入れない。お前が賢者を見つけて杖を視認しろ」 「は、はいっ。……見るだけで良いのですか?」 「お前の目と耳の情報を俺に届ける術を施す。指を貸せ」 言うと同時に答えを待たずに、少女の手を取って、ディールはその白く細い人差し指を口にくわえた。 ぼーっと見ていたニアの体が突然びくりと跳ねた。 「痛っ」 じくりと熱を帯びた人差し指の先から、熱いものが流れ出ていく感覚。 指を解放し、手を離したディールの口元に流れる赤い一筋の血液。 ディールは腕で口元を拭うと、すぐに目を閉じて、すぅと息を吸って吐いて精神統一を図る。 しばらくしてから目を開けて、術を行使するための呪文を詠唱する。 「『血を分け血を与え……塵と灰と臓物から、すべてを捧げた生贄より……我に恵みをもたらせり……血の眷属よ伝えたまえ、我にその生を死を』!」 小さく印を結んで、それは完成した。 「『捧戟福音(ラバンセディアッジュ)』」 ニアの体が一瞬、白く輝いてそれに呼応し、共鳴するかのようにディールの体も同じ色に包まれた。 暗い夜に、二人の体は眩しさを感じる程に白く明滅する。 「お前の血を少しいただいた。俺の知っている唯一の古代の禁呪でな。お前の生は、これで俺のものだ」 「ディー様の……もの?」 「ああ。お前の見たもの、聞いたすべてが俺へと伝わり、俺の声も届くようになる。一心同体とまではいかぬが……心の内以外のすべての感覚を共有するのだ。まさか、こんなところでこの術を使うことになるとはな……」 禁呪である『捧戟福音(ラバンセディアッジュ)』は、古の時代に奴隷に施された魔術である。 簡単な術に思えるが、この術をかけるにはある条件を満たしておかねばならない。 この術だけではない。禁呪と呼ばれる術のほとんどは、その強力な威力に比例して、発動前に満たさなければならない条件がいくつかある。 この『捧戟福音(ラバンセディアッジュ)』の発動条件は一つ。 かけられる対象は術者に対し、服従心や逆らえない意思を持っていなければならない。でなければ、この術にかかることはない――が、それ故にその条件を満たしてこの術にかかった場合は、さすが禁呪。 一生、その呪いの様な効果が解けることはない。 「お前のすべてを見ている。聞いている。逃げられると思うな? 期日は三日だ。それを過ぎれば、俺は街に入ることをいとわずお前を殺しにゆくだろう」 「はい……仰せのままに」 それは事実であった。 ディールはこのニアという少女が失敗すれば、強行策へでてでも賢者の杖を求めようと決めていた。 賢者の杖を求め、その先の夢を果たす――それが彼の、すべてであったからだ。 「俺は……なんとしても、すべてを知るために……手に入れなければならないのだ」 白髪の鬼は静かに目を閉じた。 目の前の少女はどこかその、男の仕草に胸を高鳴らせて息を飲んだ。 自分の生と死すべてを握っている男。その男の悲痛な顔に少女は何を感じたのか。 ただ、絶対的な恐怖と絶対的な羨望は紙一重で、ニアという少女がこれから、このディールという男に惹かれていくのは――それは、初めから決まっていたことなのかもしれない。 少女と暗殺者は夜の星空を背に乗せて、馬車を走らせて行った。 ******************* 酒がなみなみに注がれたコップを取ろうと、震える手がふらふらとテーブルへと伸ばされ、それはコップを掴むことなく主の口元を抑えた。 「うっ」 せり上がってきたものを喉元に感じ、ヴェイン・アズベルシアは席を立って、酒場の奥にある便所へと駆け込んだ。 そして胃の中のすべてをあらかた、ぶちまける。何度目になるのか分からぬ、その行為を自分でもどうかしていると思っていたが、止められはしなかった。 いくつかのランプに照らされだけの薄暗いが陽気な雰囲気の漂う酒場に戻ってきたヴェインは、とり憑かれた様に言った。 「酒だ。金なら、ある」 虚ろな瞳に、濃く滲んだ目の下のくまは、少年がまともに睡眠を得ていないことを示し、数日前の彼の健やかさは完全に失われたいた。 その暗い輝きのない少年の目に正気を見いだせない酒場の主人は、何度目になるかも分からぬ忠告を再度した。 「やめときな。ニイちゃんは、どう見ても下戸だ。呑めやしないさ」 「酒だ。早くもってこい」 「……」 虚ろな目で言うヴェインを見て、酒場の主人と他の客は絶句していた。 ヴェインはここ最近、ほぼ毎日この酒場にやって来ては酒場の夕刻の開店から、閉店の深夜までずっと呑み続け――そして、吐き続けているのだ。 おそらく、まともに酔うことすらできぬ酒の合わぬ体質であるのは明白であった――にも関わらず、ヴェインはただ呑み続けていた。 『……キツくなったら忘れちま……え。酒だ……さ、けをの……め』 浮浪者の男の最期の言葉の通りにヴェインは、正気と狂気の狭間で酒に溺れようとしていた。 ヴェインには、あれから何日過ぎたのかは分からない。 そして、あの夜に何があったのか、実のところヴェインはよく覚えていなかった。 (シフィが俺を見なくなった。まるで俺なんかいないように……接してくれなくなった。俺に声をかけてくれなくなった。……一体、どうして……?) いや、一度だけあの夜の後、何日かしてから、目が合ったじゃないか。 「……っ」 それを思い出し、大きく体を震わせたヴェインは、コップ一杯に注がれた酒を飲み干して、その時の記憶をかき消そうとした。 しかし、どうやっても頭から焼きついて離れることはなかった。 シフィのあの汚いゴミでも見るような目は――。 「ううぅ……」 思い出すたびに眩暈を起こす頭と、瞳の奥から熱い何かが湧いて溢れ出てきた。 ヴェインにとっては、とても長い時間の感覚があったが、実際は『あの夜』から五日目の夜のことであった。 暗殺者ディールがニアという少女と出合った同時刻。 ヴェインは酒場でわけの分からぬ衝動とシフィとの絆の消失に怯え、酒を浴びていた。 (俺はシフィに何をした? あんな目で見られるようなことをしたというのか?) 記憶は無い――ただ、曖昧で妙な瞬間的な絵だけが時折、頭をかすめていく。 真っ白なシフィの肌。暗い部屋、ベッドの上で浮き立ったその『白』を無理矢理に押さえつけ、泣き叫ぶ『妹』――それを俺の腕が。 「ぐっ……」 またも、せり上がってきた熱い液体。席を立とうとしたヴェインに、背後から罵声が飛んだ。 「いい加減にしろガキ!! てめぇのせいで、上手い酒が不味くなるだろうがっ!」 「……」 口元を抑えたままヴェインは、その怒鳴った男を睨んだ。 ヴェインを他の客が怒鳴りつける。そんな光景はもはや、ここ数日この酒場ではお馴染みの光景だった。 「やめろっ!」 酒場にいた他の客がヴェインを怒鳴りつけた男を黙らせようと肩を掴むが、男はそれを振りほどいて叫ぶ。 「もう我慢ならねぇ! ここは俺に馴染みの店なんだ! それをずっと隣でオエオエされてちゃ、呑めるもんも呑めねぇよ!」 体をくの字に曲げて吐き気に耐えながらヴェインは薄ら笑いを浮かべて言う。 「……だったら、どうする……?」 「つまみ出してやるんだよ!!」 言うやいなや男はヴェインを取り押さえようと掴みかかり、ふっと目の前の少年の姿がいきなり消え、目をしばたかせた。 「なっ!?」 瞬間すでに男の意識はなく、彼が次にヴェインを見るのは随分と先の話になる。 男は横合いから顎に、強烈な一発をいれられていた。勿論、ヴェインによって。 男の体が大きく傾いで、やがて大きな音をたててテーブルとグラスを巻き込んで倒れこんだ。 その男を、すぐさま踏みつけてヴェインは言った。 「つまみ出す? はぁ?」 ふっ、と笑ったヴェインは辺りを見渡して不敵に言い放った。 「なんだよ……今日はこんなのに続いて、殴りかかってくる奴は他にいないのか? ほら、どうしたっ? 昨日みたいに何度でも、何人でも相手にしてやるよっ。かかってこいよ!」 大人数での乱闘になったのは二日前のことだったが、今のヴェインには判断のつかぬことであった。 そんな彼に溜息混じりに声をかける者がいた。酒場の主人だった。 「坊主よぉ。もう、やめてくんねぇかな? あんたが喧嘩強いのも、酒が弱いのもこっちは十分分かったからよ」 「……」 拍子抜けする態度でこられてヴェインは、じっとその主人を睨んだ。 「治安騎士を呼ぼうと何度も思ったんだがな……」 「呼べよ」 挑発的に言ったヴェインは、駆けつけた治安騎士とさえ、やり合う気でいる。 「……あんたさ……勇者様のお友達だろ?」 「……っ」 体がビクりと反応を示した。 小さな悪事が母親にバレてしまっ子供の様に、ヴェインは落ち着きなく顔を背けていた。 「前に一度、勇者様とあんたが一緒に街を歩いているのを見たよ。だから、今日まで大目に見てやってきたんだ」 「……」 頭にちらついたルーウィンの笑顔が何故だか、とても懐かしい気がした。 最後にルーウィンの笑顔を見たのはいつのことだろう? 今のヴェインには時間の感覚が曖昧で、昼も夜も、時に自分が何をしていたのかさえ、思い出せないことがあった。 そんな困惑しているヴェインに、主人は申し訳なさそうに、言った 「だが、これ以上、騒ぎを起こすなら別だ。……出て行ってくれ」 「……なら酒だけ持って帰る」 そう言い、てこでも動きそうになかったヴェインに、主人は諦めたように酒を渡した。 そんな光景を酒場の一番奥から眺めている、怪しい目つきをした男がいた。 頭に目深に被ったフードから覗くその目が、店を出て行こうとするヴェインを追い、口元は卑しくつり上がっていた。 ヴェインがふらふらと店を出て行くと、そのフードの男もそれに続いて出て行った。 「――……」 星の瞬きが空を覆う雲に隠され、黒く塗られた世界――ほとんどの住民が寝静まった深夜の時間帯だった。 そんな時間を少年、年の頃は十四、五の彼が酒を持ち、ふらふらと歩いていることは異常ではあったが、十五から酒が飲めるこのシルドリアでは、法で彼を止めることはできなかったし、それよりも今のヴェインは誰の言葉にも耳を傾けることはなかっただろう。 だが、怪しい誘惑の声は別であった。 「やあ……そんなに、ふらふらの足でどこに行かれるのかな?」 声をかけてきたのは勿論、酒場から続いて出てきた怪しいフードの男だった。 「……」 座った目で男を見ると、ヴェインは酒瓶の蓋を開け、当然の様に飲み始めた。 「私には、キミが何かを忘れたがっている様に見えるのだが、それは勘違いだろうか?」 「なんだよ、あんた」 胡散臭そうに睨みつけるヴェインに、男は慌てて手をバタバタと振って、精一杯の笑顔で敵意がないことを示した。 「いや、私はキミに良いものを渡そうと思ってね。ほら、これなんだが、どうかな?」 そう言って渡されたのは小さな布袋で、しゃりしゃりとした砂の感触があった。 「これは?」 「ふふ、これはね。こうやって……」 男は楽しいことでも始めるかの様に得意気に話して、ヴェインは流されるままに酒をやりながら耳を傾けていた。 布袋を開けると中には薄い黄色の粉末があり、フードの男はそれを指に取り、ぺろりと口へと放り込んだ。 「舐めてみてください。勿論、お代はいただきませんから……へへへ」 「……」 言われるがまま男と同じ様に指で粉末を取り、それを口に入れてヴェインは舌で味わった。 特に味も変化もない――そう、思っていた矢先、頭に妙な違和感を感じた。 「……っ?」 ずん、と何か重りの様なものが体全体に押し寄せてくる。 だが、どこか心地の良い重み。 そして、重みを感じているはずなのに、同時に酒を飲んで酔った時以上の浮遊感にも似た感覚があった。 なによりも、足の先から頭の天辺までを這う暖かい快感のうねりが駆け巡ったことに、ヴェインは堪らず身をよじり、酒をあおった。 「こ、これはっ?」 急きたてる様に問うヴェインに、フードの男は嫌らしく笑い言う。 「なに、合法の漢方の類です。その粉末には人間の喜びを一気に呼びだす効能がございますのです。はい」 「喜び……?」 訝しげに問い、渡された布袋をまじまじと見つめてヴェインは思う。 (今の瞬間、堪らなく心地良い感覚に支配されて、なにかどうでも良くなってしまって……何も考えられなくなっていた) 嫌なこと、忘れたいことが完全に頭から消え失せていた。 (これが……あれば……) ヴェインは魅入られた様にその粉末を眺め、それを見た男はさらに嬉しそうに下卑た笑いを漏らして話す。 「忘れたいことを忘れるには、他の感情で上書きすれば良いだけのこと。良薬口に苦しとは、そういう類の薬を世間に出回らせないためのデマでございます。……ふふふ」 「……そうなのか。なあ、これ貰えるのか? いくらだ?」 「いえいえっ! お代など滅相もない。私はあなたが苦しんでおられるので、お役にたてれば、と。へへへ……ですから、その袋の分は差し上げますです」 「いいのか?」 「ええ勿論です。ですが……困りました」 胡散臭くそう言ったフードの男は、そこでヴェインへと、ずいっと寄って小さく耳元で囁いた。 「それはたいへん高級な代物。そこら辺では決して手に入りますまい」 「そうなのか……」 「ええ。ですから、もし、万が一ですが……。あなたがそれを……そのお薬をお気に召したのなら、この時間この場所においでくださいませ。この薬師である私めが、格安でお売りいたしましょう。――そうすれば、飲めぬ酒に頼る必要もございませぬ。くふふふ……」 「……」 男の言う通り、これさえあれば胃を焼くだけの酒など飲まぬとも、自分を抑えられるだろう。 それだけに先程の快楽は、今までの何もかもを超越していた。 この薬ならばきっと消してくれるはず――あの抗いようのない恐怖を。ヴェインはそう感じていた。 (もともと、酒じゃ無理だったんだ……) そう――あれは、こういうモノでなければ太刀打ちできない程の恐怖だ。 ヴェインは渡された袋を眺め、自分に断続的にやってくる『恐怖』を思いだしていた。 決して自分の知るはずのない過去の様々な情報の波が大量に押し寄せてきては、頭を破裂しそうな程の痛みでやたらめったら引っ掻き回していく。 尋常ではない苦痛に襲われ、さらにその後には足がすくむ程の恐怖感が突如どこからかやってきて、気が狂いそうになるのだ。 ヴェインはここ数日、ただそれに耐えるためだけに酒を浴びる程に飲んでは、ぶちまけていたのだ。 (……何故、俺にこんなことが起こっているんだ?) ヴェインには原因は分からなかった。 あの夜の森で、浮浪者の男と出会った時から? イザナやセウロに、このことを相談できないでいたのは、自分がシフィに何かとんでもないことをしたのではないかという後ろめたさからで、それ故に彼らには話せなかった。 そして、なにより今の彼は。今のヴェインは人が信用できなくなっていた。 突如、雷鳴の如く流れ込んでくる情報の欠片。 【王都暦の四百二十二年、シルドリアはバルトゥークへ進撃。国境付近の村の人々をシルドリア兵は捕虜としたが、翌日に全村人を一列に並ばせて一人ずつ公開処刑をした。中には、女子供も含まれており、女は最期に犯され、子供は親の目の前で殺された。その後、殺された者達の亡骸をシルドリア兵達はバルトゥークの捕虜に自分達の国の城まで運ばせた】 「……またっ!」 「どうかしましたか?」 急に頭を抑えて苦痛に顔を歪ませたヴェインに、フードの男は声をかける。 「なんでも……ないっ! これが無くなったら、またここに来る!」 それだけフードの男に告げると、ヴェインは一目散に走りだした。 いつの間にか、酔いが完全に醒めて、いつもの軽快な走りができる足であったが、心持ちは一層悪かった。 (くそっ。とりあえず、家に帰ろう……! そして、この粉でやり過ごすしかない。) 【王都暦の二百八年、フェルシリアにて押し寄せた魔物の群れに軍は成す術も無く後退し、王と国の重鎮達は移民していたエルフの人々を魔物達に差し出し、その難を逃れた。その事実を知ったエルフの民達の報復をフェルシリアは武力をもって退け、エルフの半数が人間の手により虐殺された。この事件が、後にエルフと人間に消えようのない怨恨を生んだのである】 「だまれっ!! だまれ!! だまれええええええ!!!」 耳を両手で押さえつけて必死に叫び、その流れてくる情報から逃れようとするが、それはやはり無理であった。 「どうしてっ……こんな、過去のどうでもいい情報が、俺の頭の中でっ……ぐぅぅ!」 割れるような頭痛にうずくまりたくなるのを堪えて、ヴェインは走りだした。 早く、家に帰って――この粉を――。 生まれて一度も感じたことのない程の快感は思考を麻痺させ、今はただそのことしか考えられぬようになってしまっていた。 【魔物達がどこから来ているのか――それは現在とて謎である。一説では魔王が放ったとされているが、古より魔王は始まりの四大賢者に封じられたとあり、その姿を見た者はおらず、存在さえ疑わしい。――また、魔物は人間を食料として認識しているとあるが、他に動植物を食している形跡は今のところ見つかっておらず、魔物は人間のみを食べて生きていると言わざるを得ないのが昨今の魔術師達の見解である。そのような人間の天敵が一体、何故現れたのか? これを解明せずに、我々に明日はない】 「四大……賢者……? 魔物が……人間だけを……?」 ヴェインは聞き慣れぬ言葉を聞いた気がした。 賢者は三人で、三大賢者と呼ばれているのが今の世の通説であるからだ。 きっと聞き間違いだ。そう思うことにした。 しかし、一体この頭の中で溢れてくる知識は何なのだろう。 ただでさえ、頭が痛むというのに、しかも、その内容のほとんどが知りたくなどない恐ろしい話ばかりなのである。 この流れてくる情報が正しいとするなら、そしてそれを恐ろしいと感じるのは―― (それは……人類が過去に、黒い歴史を歩んできた証拠に他ならないんじゃないか……) ヴェインはそう思っていた――だからこそ、彼はここのところ、この凄惨な知識によって完全に人間不信になりつつあったのだ。 常人なら毎日こんなものが激痛と共に頭に流れ込んでくれば、おかしくなって当然だった。 それを人間不信と異常行動だけで済ませているヴェインの精神力は、並々外れていたのだが――その努力と凄さは、誰にも伝わることはなかった。 彼にとって厄介なのは人間不信。 それ故に、イザナやセウロに、ましてやルーウィンにこの現状を話せずにいた。 もうアカデミーにも何日も通ってはいない。 ヴェインの知り及ぶところではないが、ほとんど毎日の様に、ルーウィンはヴェインを探して走り回っていた。 家にもあまり帰らずにふらふらして、夜から明け方まで酒場にいるヴェインに、ルーウィンは結局のところ今日まで会えずじまいだった。 ヴェインは早足で家へ帰ると、扉を閉めるのも忘れて、すぐにベッドに座って布袋の中を覗いた。 部屋にシフィの姿はない。数日前からイザナの所で寝泊りしていたのだが、ヴェインはそれさえも妹とイザナに裏切られた様に感じている。 開けた袋に鼻を突っ込んで、すぅと臭いを嗅いだ。 「――」 一息吸っただけで、それだけで意識が根こそぎもっていかれてしまいそうな、そんな、とてつもなく甘美な香りでヴェインの鼻腔を刺激していた。 また、先程、男に教えられたように指で摘まんで一塊を舌の上にのせて、それを味わうようにして舐めてみる。 体全身の力が抜けて、手の先と足の先から燃えるような熱さが駆け上がってきて腹の底から鈍い快感の渦が、立ち昇ってきた。 びりびりと震える脳内が、喜びの脳内物質を大量に運びだしてくるのが、ヴェインにも分かった。 どこか楽しくなってきて、ヴェインは腹の底から大きく笑った。 「はははっ――はっは」 虚空を浮いている体は心地が良く、体は火照っているがかといって暑過ぎず、生暖かい羽毛に包まれているが如く安らぎがあった。 空蝉と偽りの喜びに酔いしれ、かつて、妹が寝ていたベッドでヴェインはいつの間にか横になっていた。 「――……」 目が醒める様な感覚、鼻をかすめる妹の香りがどこか懐かしさを感じさせて、一瞬だけ粉の甘い香りを消し去った。 途端に、どっと寂しさが押し寄せてきてヴェインを包んだ。 妹の、シフィの香りが忘れられず、ヴェインは彼女の枕へと頭をうずめて、涙を流した。 「ああ……シフィ。どうして……俺は……。帰りたい。帰りたいんだ……あの頃に……」 どうして、こんなことになったのだろう。 シフィは俺は怖れ、自分は心の底から信頼していたイザナさえ信用できなくなってしまっている。 そして、こんな得体の知れないものに頼り、涙を流し、あの楽しかった日々を思い出して、涙をながしている。 (滑稽だ……。滑稽じゃないか……俺は……あの頃に戻りたい、そう思っているのに、やっていることはあの頃の平穏がどんどん遠ざかっていくようなことばかりしている。……分かっている。頭では分かっているんだ。ただ、どうしようもない恐怖と情報と痛みに翻弄されて、思うようにできない――疑心で心がどうかしてしまいそうで、誰にも会いたくないんだ。ルーウィンにも……イザナにも……セウロにも……) 「シフィ……」 妹の名を呟いて――彼女の残り香に包まれて、ヴェインは束の間の安らぎへと意識を落としていった。 おお 時を鳴らせ――時間は遅くとも、速度を増す。 脳に言葉が焼かれ、すべての記が揃うのを待て。 再び脳髄が鳴る恐怖を銘記せよ。 おお 時を鳴らせ――時間は遅くとも、速度を増す。 ******************* 「紅蓮灼熱業火(フレムロード・タイド)!」 セウロ・フォレストは腕に魔力の炎を灯し、それを目の前の蛮族達へと解き放った。 湧き上がる悲鳴と、逃げ惑う盗賊の男達は、たった一人の魔術師を恐れ、蜘蛛の子の様に散った。 燃え上がる炎をものともせずに、火炎に身を投じたセウロはさらに術式を組み上げ、追撃の魔術を愉しげに口ずさむ。 「逃がしはせぬぞ!!」 周りこんでいた雷神の騎士バラン・ガラノフ・ド・ピエールの豪剣が、盗賊達の行く手を地獄の冥府への扉と変貌させた。 一気に三人の盗賊を叩き斬って絶命させた剣風は、竜巻を起こしてその突風で先にいた男達は倒れふした。 倒れ、転げまわった男は尻餅をついたまま、後ずさり悲鳴にも近い声をあげる。 「ひぃっ……どうして、こいつらが……こんな奴らがここに!」 その男の脳天をバランの剣が綺麗にかち割り、蒼き雷神の剣士は明かりのない暗い平地の奥へと、手を掲げて叫んだ。 「今だ!」 その号令に、体勢を低くして身を隠していた新手の部隊が、暗闇から躍り出た。 黄金の鎧を着た騎士レオドルフ・セントフィードと、数人の弓兵部隊である。 レオドルフは逃げてくる盗賊を少しの間、待ち構えて言い放った。 「放て!」 逃げに転じていた盗賊達は降り注いだ弓にやられ、残った男達は躍起になって数の少ないレオドルフの部隊の突破を図る。 落ち着き払った所作で黄金の騎士は、腰から大剣を抜き放ち、その禍々しい異形を見て、盗賊達は大きく目を見開いた。 レオドルフの剣――それは魔剣と呼ばれる大剣であった。 歪で毒々しい異形の剣は、それは、盗賊達にとって死神の地獄の鎌となる。 「覚悟っ!」 ――など、できるわけもないまま盗賊達はレオドルフの魔剣に、斬り殺され最後に残っていた数人もセウロの術に焼かれていった。 三十、四十人いた盗賊達は全員が地に伏し、辺りは途端に静まり返る様に静かになっていた。時折、セウロの魔法によって燃えた草原の消化に追われている兵達の声だけはあがっていたが。 それは、一瞬の出来事であった。 見通しの良い平地で酒盛りをしていた盗賊達は成す術も無く、ほんの僅かな時間で掃討されていた。 シルドリア一番の暴れ者の盗賊団といっても、王都最強の三人を相手にするには全く役不足もいいところであった。 「草や木のある場所で火炎の魔法は、その、どうにかならんのかね?」 溜息混じりに言うバランに、賢者セウロ・フォレストは顎に手をあてて難しい顔をする。 「こいつらが、ここ最近国中を荒らしまわっていた盗賊なのだろう。……妙だな」 「妙? こんな見晴らしの良い平地で酒盛りをしている無用心さは、確かに妙だがね」 地面の酒が入った酒筒を拾い上げて、バランは呆れて言った。 セウロ・フォレストは首を振る。 「違う。こんな大所帯の盗賊団に、護衛や用心棒の魔術師達がいなかったことが妙なのだ。報告では、関所さえもこいつらに落とされたことがあるという。……敵の魔術師にやられたと逃げてきた兵が言っていたんだろう?」 「ああ、確かそうだが……ならば、たまたまこの場にはいなかったのだろう。元々、こういう輩に手を貸す魔術師は金で雇われる者が多いと聞く。それか、我輩達が奇襲をしかけたことに、いち早く気がついて逃げたのではないのかね?」 無論、そのこともセウロは考えていた。 『時の賢者』ジルフの捜索を始めた賢者セウロと、治安騎士の部隊は王国周辺の町や村を巡り、情報を得ていた。 そして、盗賊団らしきものを見たという近隣の村の情報を元に、セウロ達はこの場へとやって来ていたのだ。 ジルフが盗賊達に連れ去られた可能性も皆無ではなく、なによりも野放しにはできないというバランとレオドルフの強い推しもあって、盗賊団の殲滅を決定していた。 だが、ジルフはここにはいなかっただろう――セウロはそれをすぐに確信していた。 「こんな連中では、何人集まろうとジルフの敵ではない」 「でしょうね」 セウロの言葉に、背後に控えていたレオドルフ・セントフィードが答えた。 短く整えられた金髪と青い瞳に、健やかさと厳しさを感じる様な精悍な顔つき――治安騎士団、副隊長レオドルフは、異形の剣を腰へと収めてセウロの隣へと並ぶ。 セウロと同じくらいの長身のレオドルフは、大きな体とさらに重量感のある黄金の鎧に身を包んでいるため、大男という印象が強く、近くに来られると暑苦しいとセウロは内心思っていたが、今は黙っていた。勿論、直接、暑苦しいと言ったことなど何度もあったが。 そんなことを何度言われても全くめげない彼は、基本的に無言で何を考えているのか分からないため、セウロは面倒臭い相手と認識していた。 そんなレオドルフに、賢者は面倒臭そうに尋ねる。 「盗賊達の持ち物の中に『時の賢者』の手がかりは?」 「今のところ見当たりません。おそらく、王都周辺にいたのは偶然でしょう。ジルフ様との関連性はないものと」 何の感情もなしに報告したレオドルフの言葉に、バランは大きく頷く。 「ああ、だが良いではないか。今はジルフ殿を探すことが先決だが、この悪党共を始末できたことは僥倖ではないかね」 「ったく……やはり貴様らといると、仕事の手間が増えるな……」 言って、持っていた『杖』をぶんと振ったセウロは、夜空を眺めて心に呟く。 (ジルフよ……。すまないが、我はもう貴様が死んでいるものとして、この『杖』を持っているぞ。お前の『知識』が狙われたのであれば――この『賢者の杖』が狙われることもあり得るのだからな) その意味あり気に黙しているセウロに、バランは彼の持っている物を見て言う。 「『賢者の杖』か。まさか、本当にあるとはね。……セウロ殿がそれを持ちだしたことに、意味がなければいいと思うのは我輩だけだろうか?」 バランの言葉に、にやりと笑みを零した賢者は、目を瞑った。 「意味など無い。賢者が『賢者の杖』を持つことに意味など無い」 (これで――これで、いいのだろうジルフよ。次に我の『杖』が狙われるならば、貴様の仇討ちができるのだがな。……不思議なものだ。我は貴様のことなど、どうでも良いと思っていたのだが、死んでみると同じ賢者としての親近感くらいは感じていたのだと思わされたよ。……安らかに眠るがいいジルフよ) 心で冥福を祈りながら、セウロはそれでも尚言った。 「『時の賢者』の捜索に戻るぞ!」 ******************* 偽の通行書で王都ラクフォリアへと侵入した少女ニアは見ていた。 立ち並んだ商店や宿などの大きな建物で囲われた円形の広場がある場所、その真ん中であった。 昼下がりのそこには、大勢の人達や馬車が行き交い、小さな村育ちのニアにとっては目が回りそうに忙しい空間で、落ち着ける場所ではなかった。 その中で彼女は、ニアは見ていた。 震える体を必死に抑えて――そして、僅かに口元を吊り上げて笑った。 広場の真ん中に立てられた号外の立て板に書かれたその言葉に、彼女は心の底から笑ってみたくなったのだ。 【賢者セウロ・フォレストと治安騎士団は、昨日未明に近隣の村々を荒らしていた凶悪な盗賊団を壊滅させた。その偉大な功績により、王都に住まわれる諸君の安全がより保障されたことをここに知らせる。――シルドリア王】 号外を読んだ市民の感激の声や騎士達を称える声の中、少女はその復讐心に酔っていた。 (やっぱり、神様は……見てくれてる。私達の無念を晴らしてくれたっ……) 神は決して手を差し伸べない。そう言ったディーの言葉が、頭で打ち鳴った少女は首を激しく振った。 (違う! ……そうだ……そうじゃない。たとえ盗賊達が殺されて復讐できたとしても……それじゃ意味がないじゃない。何を今さら……死んだ人達は帰ってこない。こんなのは偶然だ。だって、本当に神様がいるのなら、村の皆が殺される前に助けてくれるはずだもん……) 神様なんて、いないんだ。 そう、諦めてしまった少女がこれから辿る道はやはり、神などいない茨道なのだろう。 それは、あの白髪の夜叉が辿る道筋と同じ道程。 盗賊達の末路に哂ったニアは、次に神を吐き捨て、そして困った。 (困ったわ。……ディー様に、賢者が『杖』を持っているかを確認して知らせなきゃいけないのに……) 賢者が王都にいないのであれば調べようがない。 偉い人物であるのなら、そのうち人前に出てくるだろうと楽観視していたニアは、途方にくれていた。 そんな時に思わぬ程にあっさりと、助け舟となる声が彼女の耳に届いた。 「いやぁー、さすがセウロ様だっ! 治安騎士団と遠征に出られる姿をわしは見たが、初めて見たぞ。セウロ様が『賢者の杖』を持っていたのを。先代の時からそうだったが、やはり、賢者様の貫禄はあの『杖』がなくてはのぉ」 ニアの隣で独り言を言った随分年老いた老人は、うっとりした感じでうんうんと頷いていた。 「おじいちゃん。賢者様……『杖』を持っていたの?」 問うニアに、老人は目を細めて優しく頭を撫でながら言った。 「そうだよ、お嬢ちゃん。闇の賢者様は代々、賢者の杖を持っておられるのだよ。……それは、とっても大切なもので、セウロ様はあまりお持ちになっていなかったのじゃがな。……こんな世じゃからのぉ、セウロ様もついに賢者の本質を極めなさるおつもりなのだろう」 『よくやったニア――』 脳に直接、少女の主であるディールの声が届いた。 「ディー様っ」 少女は空に向かって嬉しそうに声をあげ、隣の老人は訝しげに辺りを見渡している。 『場所を移せ』 「あっ……はいっ」 ディールに言われるままニアは広場を後にして、人通りの少ない王城近くの路地まで移動する。 路地から外に出ればすぐに王城へ渡る橋が見える程に近いが、それくらい中心街から外れた方が人の通りは少なく好都合だった。 また、主から声が届いてニアは胸を高鳴らせて言葉を聞いた。 『賢者は大方、俺が殺したジルフとかいう『時の賢者』でも探しに行っているんだろう。……次にお前は『時の賢者』の後継者を探せ』 「『時の賢者』の……後継者?」 『ああ。後継者はこの国にいる。間違いない。賢者を継ぐ者は、その賢者が死ぬ時に必ず傍らにいるという。ジルフの使った術のせいで、俺は奴が死んだ街の隣の森からさえも離れなけばならなかった。だから、誰が『時の賢者』を継いだのかまで見ることができなかったのだ』 「どうすれば、『時の賢者』が見つかるでしょうか?」 ニアは自分の主の、ディールの役にたとうと真剣に尋ねた。 『……』 その、ひた向きさに、逆にディールの方が疑ってしまう程である。 それも仕方がない。 ディールにとってニアは、無理矢理に言うことを聞かせているだけの少女なのだ。 それが、急にここまで頭を切り替えて自分のために働こうと必死にしているのだ。 策を講じる賢しさがあるようには思えないし、それに、なにがなんでも生きたい少女が、自分を騙そうなどど思っているわけもない。 ディールには、少女が分からなかった。そして、気がつけないでいた。 いや、彼は知らないのだ。一生、理解できないのだ。 たとえ強制的な関係であったとしても、その様に始まった主従関係の中でさえも芽生える、ほのかな感情があるということに。 もはや今のニアには、自分が無理矢理に従属させられているということなど頭にはない。 ただ、主のために忠を尽くしているのだ。 それは幼い少女だから持ち得る危うい純粋さでもあり、いつの間にかニアにとってディールは、命令をする者から自分の絶対的な主へと変わっていった。 そして、禁呪で繋がったことで彼女の中のディールは、これからもさらに大きくなるだろう。 『見つかるかはお前の頑張り次第だ。ある種、賭けでもある。方法は、簡単だ。……ひたすら人間を見ろ』 「見る……ですか?」 『ああ。『時の賢者』を継いだ者は正常ではいられない。異常な行動をしている者を探せばいい。そして、その目で見ろ。そうすれば、俺にはそいつが普通の人間か賢者であるかが分かる』 「でも……そんな人が見つかるでしょうか……?」 いくら幼いニアにでも、この王都にはとんでもない数の人間が住んでいるのを知っているし、その中からたった一人を見つけることはとても困難に思えた。 『さっきも言ったが、『時の賢者』になった者は正常ではいられない。必ず大きな事件を起こす。同じことを二度言わせるな』 「は、はいっ……申し訳ございませんっ」 ニアは意見した自分を激しく恥じた。 ああ、どうしよう――ディー様に嫌われてしまう。そのことで頭が一杯になった。 『――が、ジルフの様な強き精神力を持っている者だと厄介だ。奴は酒を飲み、世を捨てることで己を保つことができていた。……そうだな、最近、急に酒を求めた者を調べ上げろ。裏の情報屋を尋ね、何か変わったことがないか聞け』 「わ、わかりました。まずは、どうすれば……」 ちっと舌打ちの音が聴こえ、少女は「申し訳ございません」と泣きそうな声で必死に謝った。 『夜を待て。俺の名を出せば、情報屋に会える。後はそこからだ。渡した金で宿を使え。――以上だ』 急に主との会話が途切れて、ニアは何度も「ディー様」と名を呼ぶが返事はなかった。 途端に寂しくなって、泣きたい気持ちになったニアは、とぼとぼと歩きだして宿のある先程の広場まで戻る。 通りの角を曲がり――。 「きゃっ!」 どん、と真正面から誰かとぶつかって、少女は尻餅をついた。 すぐさま、目の前の人影のぶつかった本人は頭を下げて謝罪した。 「ごめんなさいっ。大丈夫ですかっ?」 太陽を背にして手を差し出した美しい少年、いや少女にも見える。 ニアより少し年上の彼、ルーウィンは倒れた彼女の手をとって立ちあがらせ、もう一度、頭を深く下げた。 「ごめんなさいっ。急いでいて……怪我はないですか?」 「えっ? あ、は、はい……」 あんまりに必死で謝るものだから、ニアは逆に悪い気がして、手を振って言う。 「大丈夫です。どこも怪我していませんからっ。……それより、どうかしたんですか? とても急いでいたようですけれど……」 「あっ」と声をあげて、ルーウィンは言った。 「ごめんなさいっ。行方不明で……ずっと、いなくなっていた友人を見つけたと聞いたものですからっ……! ごめんなさい、僕はこれでっ」 そう言って律儀に四度目になる謝罪をして頭を下げて、ルーウィンは走って行った。 王都生まれでないニアには、彼が勇者であることは知りようがないことだったが、その瞳の奥の夜叉は別だった。 『ニア……! 今のあいつを追えっ。見失うなっ』 「わぁ。ディー様?」 声をかけられた事が嬉しくて、何を言ったのかちゃんと理解しなかったニアに、怒気を孕んだ怒号が飛んだ。 『早くしろっ! 見失えば殺すぞ!』 「あっ……はいっ。申し訳ありません。申し訳……ううっ……」 ディールからこれほどの怒りを感じたのは初めてで、ニアは体が震えて、とても悲しくなった。 役に立ちたい――ディー様のお役に――。 「はっ……はっ……」 ニアは先を行くルーウィンを必死に追いかけた。 何事かと振り返る街の人々など、気にしてはいられない。 少女は泣きながら懸命に走り、どんどんと距離は離されているものの、なんとかルーウィンの背を見失わずに走っていた。 恐ろしきは、白髪の夜叉の勘であった。 ニアとぶつかった少年、突然目の前に現れた彼が勇者であるなど、特別な『眼』を持つディールには一瞬で分かった。 そんな勇者が慌てて、ある人物を探しているという。 しかも――その人物はここ最近、行方不明になっていた。こんな偶然があるだろうか? これは、用意されたかの様な幸運なのか、それとも単なる偶然なのか。 手がかりのない草分けの様な作業を覚悟していたディールにとって、これは千載一遇の好機。逃す手など勿論、ありはしない。 もし、この先に求めるモノがあるとすれば、それはなんという……とんでもない偶然なのだろう。神がかり的なものさえ感じる。 神は誰も助けはしないが、時にこういう遊びだけは、きっちり見せていく。 だから――嫌いなのだ。ディールは哂う。 白き夜叉は、古傷のある頬を歪ませて愉しげに笑ったのだった。 『時の賢者』を受け継いだ者は、使える。 ディールは先代ジルフを殺す前から、ずっと『時の賢者』を継ぐ者を求めていた。 賢者を継いだばかりの者であるのなら、きっと不安定な今であるならば――その者をどんな風にでも自分色に染められるだろう。 懐柔し利用するもよし、ニアのように従属させるもよし。 『時の賢者』を殺した真の目的は、新たな『時の賢者』をその手に掴み、利用することだったのだ。 ディールは少女に聴こえぬよう、心の内で思う。 『時の賢者』となった者よ。俺のところへ来い。不安だろう? 死にたいだろう? ならば俺が助けてやる。 染めてやる――正義にでも、悪にさえもな。 |
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第6幕へ |