*改行ありVer*
******************* 王都ラクフォリアは、シルドリア大陸の西方に位置し、この国すべてを統治している五大国の一つである。 その歴史も他国の中で最も古いと言ってもよく、今のシルドリア王の何十代も前の王から繰り返された戦争のそれも、他国の悲劇の比ではない。 『敵』は――他国。そして、時には同じ国の者同士。 さらには魔物達、他種族のエルフなど――戦争の数をあげればキリはなく、しばらく争いが起こっていないこの百年余りは、五大国にとっては初めてのことだった。 それは、前例のない『快挙』と言っても差し支えない程で、五大国はこれを期に同盟を結び、人間達はやっと自分達の本来の『敵』へと、目を向けることができるようになった。 じわじわと広がっていく謎の伝染病と、増え続ける魔物達の脅威。 これらすべてを、存在するかどうかも誰も分からない『魔王』のせいだと決めつけた五大国の王達は、力を合わせてそれらに立ち向かうことを決めた。 それぞれの腹の中にある真意を探りあいながらも、それでも初めて人間達は、手を取り合うことができたのだ。 最もそれらの連携の手助けをした、三大賢者達の知恵がなければ、それは無理な話であっただろう。 三大賢者は、それぞれ三つの国へと散らばり国同士の力関係に干渉し、賢者不在の二国の秩序をも保ち、世界を見守ってきたのである。 世界は大きく揺れ動き、人間達は大きな謎へと立ち向かう。 古より伝承されし、『赤眼の勇者』の出現。それは一体、何を意味するのか。 広がり続ける死の病と時を同じくして増えていく魔物達。 そして――は本当に、魔王は存在するのか。 多くの謎が残されたまま、何も知らずとも人間達は剣をとるだろう。それが、生きるために必要であるのならば、あの太古の神との聖戦と同じ様に、この星に住まう者達は立ち上がるのだ。 それが、平和を望み生きる者すべてに許された『生き方』なのだから。 だが、その生きるために戦う者達とは、異なった人間もまた存在する。 なにも人間は、生きるためだけに剣をとるのではない。今までの戦争が物語る通り、侵略のため、領土拡大のため、ただ王の欲のために起こされた戦というものも数多くあった。 いや、むしろ正当な生存本能に則った戦いなど、数える程しかなかったかもしれない。 そう、人間とは――欲と、快楽と、悪意でもって戦うことができる唯一の『害悪生物』で、それこそが最も神が忌むべき習性であり、故に争いの耐えぬ歴史が存在するのだ。 そして、彼らもまた、自らの欲と悪意、快楽に突き動かされている人間だ。 魔人ディールと、同胞――ヴィンセント・ノマアール、そしてリー・ホランにゼス・ジールレイル、ウィズ・サイラス。 自らの欲や成したいことを叶えるために、いかなる犠牲をも厭わない彼らのその『生き方』。 それは果たして、人間ではない魔人の所業だと断ずることができるだろうか。いや、否。なぜなら、その欲こそが人間を人間たらしめる力で、欲がなければ人はここまで強大な力を得ることはできなかっただろう。 その業深き習性こそが、彼らの最大の武器であり、諸刃の剣なのだから。 人間は自由に生きられる。 だから、どのような生き方をしようと自由であり、それを善か悪だと思うことすら、人それぞれの手に委ねられている。 その中で何故、彼らがそう生きることになってしまったのか。そして、それは、果たして特別なことなのだろうか? 彼らが人間らしく生きていないと、一体、誰が言えるだろうか? 真の人間とは彼らのような、すべての感情を肯定し、その欲と成したいことのために生きていける人間ではないのか? 人々が自分達で作り上げた常識や、秩序、法律に縛られた生き方が何故、そんな魔人達よりも人間らしいと言えるだろうか? それが、この――ディールという男の心の深層に、根深く今もなお息づいている思考だった。 自らの欲は、いかなる犠牲を払おうとも叶えなければならない。 それがこの男のすべて。 彼はどのような悪行をこなそうとも、それが自分の叶えたいことに近づく道程であるのならば、嬉々として取り組んでいった。 他者の心や、人々の平穏を意に介さず、自らの欲でもって踏みにじっていく者達。 それが、『悪』という存在なのだ。 彼らが、普通の人間よりも、より人間らしいかどうかは、賢者にさえ分からぬだろう。 だが、正義か悪かと問われたならば、それは――。 「止まれ。誰だお前達は」 王都の正門前まで、ゆっくりと歩み寄ってきたディール達四人を、門番の兵二人は不審に思い、止めた。 街へと入るための巨大な門は、城壁を思わせる街をぐるりと取り囲む壁に沿って作られていて、今は開け放たれたいる。 王都へと入るには、この正門を通るしかなく、あとは一周しても、ただ壁が続くだけの作りとなっている。 そして、基本的に日中は、商人などの馬車が頻繁に通るため、正門は開いており、外に門番が数名と、中の詰め所に街を見回る兵達が待機していたり、仕事に追われている。 今日の門番は少なめで二人しかおらず、彼らは現れた四人を、妙な取り合わせだなと第一印象で思っていた。 一人は、髪を真っ白に染め上げた筋骨隆々の長身の男で、頬の傷や、目つきからあまりガラが良くない風に見えた。 その後ろには、ギラギラとした目をした巨体に鋼の筋肉を供えた武道家らしい男。 そして、そんな中で、一国の将軍とも思える程の佇まいで、見たこともない漆黒の鎧に身を包む男は、長い黒髪が賢者セウロ・フォレストの様で、どこか近寄り難く感じた。 門番が一番、妙に感じたのは、その三人に全く溶け込んでいない村人の様な少年だった。綺麗な顔に、縦に並んだ印象的なホクロ以外は、すべてまともにしか見えなかった。 「すいません。僕達は旅の大道芸人なんですよぉ」 「大道芸人?」 後ろから陽気にリーが門番にそう言うと、隣でディールが鼻で笑う。 「くくく……趣味の悪いからかい方はやめろリー。どうせ、俺が近づいているから魔術師共は気がついている」 「あぁー、そっか。残念、ちょっと遊びたかったんですけどねー。すいませんディールさん」 「お、お前ら何を言っているっ?」 兵の一人が彼ら四人を妙に感じ、中へと連絡をしようと一歩、後ろへと下がった時だった。 「うぐっ……!」 ディールの手元が僅かにしなった瞬間、門番の兵の頭に、とん、と軽い音と共に一本のナイフが生えた。 「え?」 ナイフの刺さった兵の声に反応して、後ろを向いたもう一人の門番もそこで意識を断たれる。瞬時に彼の前へと詰め寄ったディールの手によって、そのまま首をさらに半回転させられていた。 ごきりと鈍く重たい音が響き、首を折られ倒れこもうとした兵をディールが抱え、先程始末した方はすでに倒れる前にヴィンセントが肩に抱えている。 他者のことを全く意に介さない者達の手により、瞬く間に二つの命が消え失せた。彼らにも家族や生活があることなど、頭の片隅にも思い浮かべない者達――悪人の所業。 中の兵に気がつかれる程の大きな物音は一切たたせず、一瞬で二人の門番を暗殺してみせた彼らは、やはり魔人であった。 ディールとヴィンセントは、その兵の死体を開いた門の前にわざと目立つように並べた。 そんな彼らに、門の中から近づいてくる人影があった。 「私の手引きは必要なかったようですね……」 イザナは殺された兵から視線を外し、青い顔でそう言った。 「勘違いするなイザナ。貴様の役目はこれからだ。警備の魔術師達は、今俺にかけられた『ヤミノキズ』の呪術を感知して、動き始めているだろう。俺はこのまま、近くの身を隠せるところに潜んでおく。イザナ、貴様は賊が現れ、二人の門番を殺して外に逃走したと、中の連中に伝えろ。……上の重役達にもしっかりと伝わるようにな。……これで奴らの注意は外に向く。俺はわざと追いかけやすいくらいの場所で身を潜め、中の戦力を集めてやる。――その間に、お前達三人は忍び込んで『時の賢者』を奪え」 「了解ですぜ旦那っ。うおおっ、燃えてき」 いきなり熱くなって、叫ぼうとしたヴィンセントの口を後ろからリーが抑え込み言う。 「もう、相変わらず馬鹿だなヴィンセントさんは。気がつかれたら面倒だっつってんでしょうが」 「むが、むがああっ」 そんな、二人を横目にディールは、有無を言わさぬ口調でイザナに命ずる。 「俺は外で待つ。貴様は、偽の情報を流した後に、ヴィンセントと合流し小僧を俺の所まで連れてこい」 「シ、シフィに会わせるのは!?」 「中で会わせる時間はあるまい。無論、その後だ。安心しろ。……約束は守ってやる」 イザナは、その言葉を信じてはいなかった。いや、そもそも、こんな眼をした男の言うことなど信用できるはずがなかった。 人の感情など微塵も興味のないこの男は、自分が望む道程の先のことだけを見据え、邪魔をする人間は躊躇わずに排除するだろう。 しかし、それでもイザナは今は言うことを聞いておこうと思った。いざとなったら、自分だけでヴェインを連れだし、逃げることも視野にいれておきながら。 そんな、返答に迷っていたイザナを見て、ディールは口元を斜めに歪める。 「くくく……心配するな。必ず会わせてやる。必ずな」 そう言い、次に夜叉は同胞達へと言葉をかけた。 「ではな。今さら死など恐れてはいない貴様らに、『死ぬな』とは言わん」 「……」 少しの間の後、ディールはその顔に狂気を宿して言った。 「何も知らずに、幸せぶっているクズ共に教えてやれ」 それだけ告げ、ディールは背を向けて平原へと、元来た道を戻っていった。 『時の賢者』を手に入れることはディール本人の兼ねてからの願いであり、必ず成したいことであった。できることならば、自分で王都へと潜入したい彼ではあったが、城に侵入する前に動きが魔術師達に探知されてしまえば、この夜叉であってもかなり動き辛くなり、目的を果たすことができる確立は大幅に減るだろう。しかも、一度失敗してしまえば、警備は強化され二度と『時の賢者』を手に入れる機会が無くなるかもしれない。 だから、彼は王都の注意を、外の自分へと向ける様に門番を殺しておく役回りに徹し、後をヴィンセント達に任せたのだ。 (願わくば『闇の賢者』が俺の方に現れてくれれば、事は早く進むのだがな) ディールは確信している。 『時の賢者』は必ず、彼らが手に入れると。 「さて、では俺らも入りますかい。途中まで案内しなイザナさんよ」 去っていくディールの背を見ながらぼーっとしていたイザナは、そうヴィンセントに声をかけられ我に返った。 「そ、そうですね。……すぐに人が来るでしょうし。……こっちです」 そうして、三人を引き連れたイザナは門の奥へと、王都の街へと入っていった。 ******************* ルーウィン・リーシェンは、ぼぅっとしてただの青に塗られただけの退屈な空を、何をするでもなく眺めていた。 ここ最近の勇者はこんな風に何もする気が起きずに、悪戯に時間を浪費してしまいがちだった。 アカデミーの授業を終えた後、ルーウィンは王城の彼が自由に使えるいくつかの部屋の一つのバルコニーで、一人思考にふけっていた。 「……」 頭の中の考えがまとまらない。 ルーウィンは寝食のほとんどを城で過ごしている。 そんな彼にとってこの自室は、セウロの部屋以外で唯一の心安らげる場所だった。だが、今の彼はただ休むこともできずに一つの疑問に囚われたていた。 瞳を閉じる。 まぶたに浮かぶのは、大好きだった彼の姿。 ヴェイン・アズベルシア。 ルーウィンがこんな風に、気の抜けた様な状態になったのは勿論、あの事件の後からだった。 あれから、ヴェインとは会っていない。いや、会おうとしたところで当然、会えるわけではない。例え会ったとしても、今のルーウィンには、ヴェインとどう接すればいいか分からなかった。 「僕に何か言えることがあるのでしょうか……」 ぽつりと、そう呟いたルーウィンの脳裏にセウロの言葉がかすめた。 『ルーウィンには分かるのですね。奴が救われなければいけない側だということが』 そう言ったセウロの言葉通り、ヴェインは今回の罪を普通の人間の様に裁かれたり責められることはないだろう。なぜなら、あの暴走も殺人も、すべては『時の賢者』を継いでしまったことによる『仕方のなかった』こと。 つまり、事故なのだ。 「……」 (だけど……本当にそうなんですかセウロ? 殺された者達の悲しみはどうなるのですか? ……殺してしまったヴェインを憎む彼らの家族や、親しい人々の気持ちは……どうなるというんですか。ヴェインを裁くことも、どこかおかしい……だけど……。僕には……僕には分からない) ルーウィン・リーシェンは、あの時ヴェインを斬りつけてしまった。 彼を止めるためにそれは仕方のなかったこと。 しかし、残酷なことにルーウィンの剣が彼の肩に埋まる僅か前に、ヴェインは正気に返ってしまった。 (止めたのは僕じゃない……) ルーウィンを責めたてているのは己の無力さと、どうしようもない罪悪感だ。 ヴェインを裁くことは、どこかおかしい。 しかも、覚悟もなく、裁く理由も解かっていない自分の剣で彼を――しかも正気であったヴェインを傷つけてしまった。 セウロは言った。 あまり深く考えないでくださいと。 これは単なる事故の様なものです、と。 馬車が崖から落ちて、下の集落の家へと落ちた大惨事が数年前に王都近隣の村で起こった。 セウロは、ヴェインの変化を馬車の落下、街の人々の死を潰された集落に例えてルーウィンの気持ちを落ち着けさせるために説いた。 しかし、ルーウィンはその考えで、さらに解からなくなっていた。 (では……一体、誰を裁けばいいのですか? この怒りや悲しみは……一体……) その問いに対し、セウロは言った。 向けるもののない怒りや悲しみ理不尽は、常に我らと共にある。 だから、人間は強く生きていかねばならないと。 今の疑問を生じ始めたルーウィンの心には、胡散臭く思えるほどの賢者らしい言葉。 その答えを聞いたルーウィンは、生まれて初めて――薄く笑った。 口元を斜めにし、自分が救わなければならないと知らされている世界を拒絶しかけたのだ。 そして、すぐにはっとして我に返ったルーウィンは、己のあさましい心と、世界に対する諦めにも似た歪んだ諦観を振り払った。 (僕は……まだまだ弱い……。そういうことなのですかセウロ? 起こった理不尽に対し、心を曇らせて世界を恨むことは弱者の思考……。勇者である僕は決して、そんな考えを持ってはならない。そうなんですよね……セウロ……) まだ幼い勇者の心は賢明に戦っていた。 そして、僅かな空気の揺らぎにも似た違和感を、その苦悩の狭間で察知した。 「……っ」 同時にルーウィンの背筋に感じたことのない程の強烈な悪寒が奔った。 (殺気っ……!?) 明らかに挑戦と思える程に、自分へと直接向けられている殺気が一つ。 それは、まるでほの暗くぬめついた暗闇から、こちらを窺う獣のあぎとを前にしている様な緊迫感。 周囲に視線をおくり、傍に立て掛けていた剣を手に取る。 その瞬間、一気に殺気が倍程に膨れ上がり、思わずルーウィンは声を漏らしそうになった。 「……っ」 剣を取った――そのルーウィンのその反応に、殺気の主は舌なめずりを繰り返し、さらなる威圧とも言える殺気を放ち続ける。 (冗談や、からかいの類ではない――……。城に何者かが潜み、僕を誘っている) 兵達がこの魔力の波動にも似た第六感でしか感じられない殺気を見逃していることは分かるが、この城にはセウロや他の将軍もいる。 しかし、おかしなことに今、城内に動きはなく――いや、明らかに不自然に不気味さを感じる程に静まり返っている。 (敵襲!!) 複数――しかも強敵。 さらに隠密行動で、周りには僕一人。 瞬時に展開を整理して、ルーウィンは走った。 部屋のバルコニーから、開け放たれていた扉と部屋を通り過ぎて、一気に廊下へと飛びだし、そしてさらなる異変に感づいた。 「……なっ……」 左右に伸びる長い廊下。そのどちら側からも、誰の気配も感じなかった。 この城には自分一人だけしかいないのではないかというくらいに、なんの音も気配もしない。 ルーウィンは剣を迷うことなく抜き放ち、その瞳を爛々と燃え揺る赤眼へと変貌させる。 張り詰めた糸の様な緊張感の中、本気のルーウィンの数倍増した感覚はその殺気の主を捉えた。 悠々と廊下の奥の曲がり角から姿を現したのは、栗色の毛をした爽やかな青年だった。 いたって普通の風貌。しかし、左目の下の縦に二つ並んだホクロが印象的な、とても綺麗な顔立ちの美形。 「賊ですね」 青年の姿に全く惑わされることなく剣を向けたルーウィン。 そんな彼の様子に、「へぇ」と感嘆の声を漏らした青年リー・ホランは、嬉しそうに頬を掻きながら朗らかに笑った。 「はははっ。僕の相手は君みたいだね。なるほど……赤眼の勇者か。いやぁ、あの人もわざわざこんな凄いの用意してくれるなんて気が利いてるなぁ」 「僕のことを知っているみたいですね」 「あっはっは。知らない人いないでしょ」 警戒を緩めずに僅かに間を詰めながら言葉を投げるルーウィンは、手にじわりと汗が滲んでいるのを感じていた。 (強い…………バラン以上……そんな、まさか……) 溢れ出る威圧感と殺気だけで、相手の力量を完全に測れるものではない。 そうと知っていたルーウィンでも、相手から感じている師のバランをも越えているかもしれない脅威に、僅かに体が震える。 (賊――……こいつは敵。師でも、友でもない……訓練ではない本当の戦い) ルーウィンは自分の体の震えの正体を今さらながら知る。 (僕は、本気で戦えることを――喜んでいる) 殺さなければならない相手を目の前にして――。 ――歓喜していると。 「……違う」 呟き、ルーウィンは剣を構える。 赤眼になったルーウィンの力は、それはもはや人間のものではない。 普段とは別格のその力をバランや、ヴェイン相手にすべて解放したことなどない――いや、それはしてはならないと、セウロや王からきつく言われていた。 しかし、この相手は殺さなければならない相手。遠慮の必要など微塵もない。自然と剣を握る手に力がこめられる。 「ふふふ、はははっ。ここに来るまで何人か食べちゃったけどー……まだ腹は重たくないし、君一人くらいはいけるかなぁ」 舌なめずりしてルーウィンを見、眼を細めたリーは恐ろしく緩やかな動作で体勢を低くした。 まるで、猫が獲物を狙う時の様なその姿勢に、ルーウィンは思わず剣を低く構え―― 「えっ」 とん、と軽い音がした瞬間自分の剣の上に笑顔の青年の姿があった。 薄い刀身の上に羽毛の様な軽さで降り立った青年は、またも朗らかに笑い、ルーウィンに極端に顔を近づけて言った。 「まだ経験が足りないみたいだね君には。……いまの隙で殺してしまっては面白くないし――と言っても、君なら今の不意打ちでも致命傷は避けられただろうね。……でも、まあ怪我されてもつまらないし? 全力の君を見たいからこれはサービスだよ? それに気をつけてさえいれば、君ならば僕の速さを捉えられたはずだ」 呼吸荒く震えて相手を振り払えないルーウィン。未だかつて味わったことのない強敵の威圧感と、はっきりと自分へと向けられた殺意に勇者は動きを封じられていた。 「あはは、可愛いなぁ君は」 ルーウィンの頬を味見するかの様にぺろりと舐めた青年は、その耳元に囁いた。 「僕の名前はリー。きみはとっても美味しそうな子羊ですね。僕は狼だから気をつけないと」 ――食べられちゃうよ? 「うわああああああああああああ!!!!」 自身にあてがわれた不吉をなぎ払う様に振るわれた剣から、奇麗に弧を描いて後ろへと跳んだリーは、着地と同時にルーウィンへと駆けた。 (来る!) 思ったと同時に、剣を水平にして防御をしたルーウィン。その剣に信じられない程の重みののった打撃が加えられ、たまらずによろけそうになる。 キィィンと高い音。もう一度リーの攻撃を防いだルーウィンは、相手の手をその眼でやっと捉えることができ、思わず声を発した。 「爪っ!?」 リーの指の先から伸びる長い爪があった。鋭利なそれは、それぞれの指から伸びて五本が時折、ガキガキと合わさって音をたてていた。 まるで、獣の様なその両手の爪をルーウィンへと目掛けて、さらに突進をしかけるリーの攻撃をなんとか剣で受け止めて、勇者は頭の中の混乱を落ち着かせた。 (冷静に……なるんだ。今は、目の前の敵を駆除することだけを) すうと息を吸い、赤眼をいっそう深い赤色へと沈ませて、相手の動きをルーウィンは追う。 「はぁっ!」 迫ったリーに、気合と共に剣を振り、攻めへと転じ始めるルーウィン。 素早い相手の呼吸を乱すには、攻め続け、こちらが有利な状況を生み出し続けるしかない。 攻守が変わったところで、リーは嬉しそうに声をあげる。 「へぇっ」 そして、振るわれた剣を紙一重で後退しながら避けてやり過ごす。 「……っ」 (僕の剣を確実にっ……すべて見切っている。この『赤眼』の僕の剣を……!) おそらくバランでさえ『赤眼』のルーウィンの剣を読みきることは不可能。 ただ、バランの場合『見えていなくとも』その太刀筋を予測し、対応してくる剣豪の技を持ちえている。 それが人間が修練の先にたどり着く境地であり、いくら修行をしたからといって人間の能力の限界を超えることは、普通できるはずがない。 故に、『赤眼』のルーウィンの剣速を眼で――ただの、動体視力をもってして読みきるこのリーという男は人間離れしていた。 (でも、やれるっ……もう速さにも対応できる!) 自分より素早い相手と戦ったことが限りなく少ないルーウィンだったが、ようやくリーとの戦いに慣れ始めていた。 「はっ!」 攻撃を避けたリーの体が沈み、ルーウィンの視界から消える。ルーウィンは、すぐに後ろへと後退しながら相手の気配を探り――捕捉。右側の壁を足場にして斜め後ろから襲いかかるリーの攻撃をしゃがんでやり過ごす。 猫の様に四本足で着地した相手に、ルーウィンの脳天への打ち込みは常人ならば絶対に避けることはできないものだが、それは当たり前の様に空振った。 その攻撃後のルーウィンの隙を、いつの間にか――今度は天井を足場にして――跳躍したリーの攻撃が襲いかかる。これにも並々ならぬ反射神経をもってしてルーウィンの剣が敵の爪を弾き返した。 相手と距離ができて、音が止み、瞬きほどの間で睨み合った後、また両者距離を詰める。 合わさった鋼と爪が火花を散らし、今度はぴたりと二人の動きが止まった。 振るわれたルーウィンの剣を、リーはその両手の爪を交差させて挟み込む様に受け止めていた。 ガチリとはまり込んだそれは動かそうとしても、なかなかびくともしない。 本気で外そうと力をこめれば外せはしそうだが、その後の隙を考えると迂闊にも動けない拮抗状態へと陥った。 「このままではあなたも動けませんよ」 言うルーウィンに、苦笑して答えるリー。 「だよねぇ。……というか、ここまで僕の動きに対応できるなんて君は凄いなぁ。……これは本気でかからないと、ダメですね?」 「なっ!?」 まだ実力を出し切っていなかったと――そんな馬鹿な。 リーの言葉を頭で否定し始めた時、それは起こった。 冷たい風が吹き抜けた様な気がした。周囲に異様な気が満ちる。 そして、変化はリーの爪の先から始まった。 剣と合わさった爪が膨張し始め、大きく太くなっていく。合わさった剣がガチガチと震えて、やがて、ばきりと鈍い音と共に、簡単に剣が途中からへし折られる。 「こ……れは……」 驚愕し、口を幾度となく開閉させて折れた剣と相手を交互に見ながら、後ずさりを始める勇者。 剣が容易く折られたことにではなく、その現象にルーウィンは眼を見開いていた。 ぼん、と音がなってリーの腕が大きく膨らみ、その腕はいつの間にか薄い茶の体毛で覆われ始めていく。 「あははっ。君、そんなに驚かないでよー可愛いなぁ君は」 朗らかなリーの声は言葉の途中から、野太く低い声へと変質していた。口も両側へと大きく引き裂かれ始め、そこから爪と同じく鋭利な牙が瞬時に生える。二割り増しくらいに膨らんだ体躯。その姿を見たルーウィンは率直に思った。 「人狼(ワーウルフ)……」 一瞬にして変化したリーの姿はまさしく、それだった。 「……そう、僕は『狼』。つまりは――狩る側であり、君は狩られる側の子羊ちゃんってわけ」 先程とは違った低い声が、尖った鼻先の下の大きく裂けた大口から漏れる様に発せられる。 リーの姿は狼そのものだった。 ただ、引き裂かれた服を着て、二本足で断ち、その体は異様に大きく、爪も肘から先の長さと同じくらい長くて鋭利だったが、それはどう見ても狼そのものだった。 もはや人間とは言えないその姿を前にして、ルーウィンは異様に高鳴る心臓を抑えつけられないでいた。 人外――人ではない者――敵――本気で――殺せる相手。 ヴェインの様に恨めない相手ではなく、その憎しみすべてを剣にのせられる初めての。 初めて全力で殺しにかかれる相手。 「おや……笑っているのかい?」 リーの言葉にはっとして、ルーウィンは自分の歪んだ口元に手をあてる。 言われるまで。その自分の感情に気がつけることができないでいたルーウィンは困惑した。 「あははっ、なるほどなるほど……。これは思ったよりも楽しめそうですね……」 「知った様な口をきかないでください!」 見透かされた様な気がして、ルーウィンの頭には一瞬にして血が昇った。 事実、リーはルーウィンが感じていた、その感情を上手く読み取ることができていた。 「そんなに怒らないでよ。恥ずかしがる必要はないと思いますよ。僕だって初めて、相手を殺せる時にはすっごく興奮したし」 「あなたと同じにしないでください。僕は、僕はそうじゃないっ……!」 自分の中に湧き上がる感情をねじ伏せ、真ん中から折られた剣を人狼リーへと向け、しぼり出す様に勇者は叫ぶ。 「同じだよ。あの方に、獣の血が僕の中にあることを教えられて、人を食べる喜びを教えてもらった僕のあの時の『喜び』と、今の君の感情の何が違うっていうのかな?」 「違うっ!! 僕は喜んでなんかいない!!」 子供の様に、ぶんぶんと頭を振り、真っ向から否定している様はもうそれを肯定しているも同義だった。 リーは面白くなり、その狼の口から含み笑いを漏らして続ける。 「安心しなよ。それは変なことじゃないし、自分の中のそういう感情には素直になった方が楽しいよ? 僕はもうあんな退屈な羊飼いの日常になんて戻りたくない。自分を育てたお爺さんとお婆さんを食べた時から、僕は狼に変わった。羊の群れにいる僕を見て、あの人は笑って言ったよ。『ごちそうが目の前にあるのに、お前は食べないのか?』って……うん、僕は食べるね」 「……僕は、僕は……」 「大丈夫。勇者だって人間さ。……まあ僕には半分、人狼の血があったけど……。人間誰しも、力を得れば使いたくなる、それを自らの楽しみや欲のため、食事のために使ってどうして悪いのさ? なにも悪いことなんてない。僕はただ『楽しく、食事をしたい』それだけなんだから」 「……他者の心をねじ伏せても、ですか?」 言う勇者の視線はいつの間にか定まっていた。 「は? 何を言っているのかな?」 (同じわけがないじゃないですか。何を僕は、迷っていたのだろう) 勇者は息を吸って吐き、構えを新たに折れた剣を人狼へと向けた。 「べらべらと喋ってくれて助かりました。……僕の心がまだ未熟なのは認めます。しかし、僕とあなたは同じじゃない!! どんな悪しき感情が横切っても、それを抑制できる良心があるのだから」 狼はわざとらしく大きく溜息をもらして、それを返す。 「だから、どうして、それがワルモノになっちゃうわけ? 僕は食事しているだけですよ?」 「他の人間の感情を意に返さず、自分の欲のためだけに動けば、それは僕達人類の敵です! 共存するつもりがあるのなら、こちらの言葉を聞かなければならない。あならにはそれができますか!?」 「いーや、できない……ですねぇ。だって僕、狼だし、みーんな食べたいし?」 「では、あなたは魔物と同じだ! 僕は勇者としてあなたの様な者を野放しにはできない!」 「へぇ……」 人狼リーの目が細められ、勇者を見据える。それだけでかなりのプレッシャーを感じたルーウィンだったが、もう、心は決まっていた。 「あなたを王命により処分いたします」 「あははっ! 面白いですね〜。……僕もそんな子羊は野放しにはできませんねぇ!!」 人狼の踏みしめた床が軋みをあげた瞬間、自分を引き裂かんと振るわれた爪が、もう勇者の眼前に迫っていた。 (さっきよりも速い……! 比べものにならないくらい!) 変化したことでリーの力は格段に上がっていた。 なんとか、折れた剣でその爪を受け流し、次々に爪を振るうリーの腕をすり抜けて距離をとる。大きな力を得たことで先程よりも攻め方が大雑把になっていると感じたルーウィンはそこに勝機を見いだした。 「あははははっっっ!!!」 勇者と狼の剣と爪が交差して――。 ******************* 「名を聞こうか」 静かに、何の感情をも感じさせずに、賢者セウロ・フォレストは目の前の漆黒の騎士に名を問うた。 自分と同じ様な腰までの長い黒髪を垂らし、眉間から左頬には弧を描いた古傷。 (かぶってんなこいつ) と、どこか調子ハズレのことを考えながら、黙ったままの男にセウロは再度、問う。 「賊。名を名乗れ。死にたいのか」 問われた黒鎧の騎士は、今の今まで何故だか閉じていた目を静かに開け、名を告げた。 「ゼス・ジールレイル」 「ゼス……」 眉間に皺を寄せたセウロの両の眉が、ぴくりと反応を示した。 その黒鎧の騎士の言った名に覚えがあった。 かつて、バルトゥークの国で名を馳せた聖騎士が、確かその様な名で数年前に行方知れずになっていたとか。そんな話をバルトゥークに嫁いでいったレオドルフの妹が言っていたような――と曖昧な記憶を探りつつも、セウロの眼光は敵を捕捉していた。 しかし、もしこの男がバルトゥークの聖騎士なら、なぜシルドリアに? 王の暗殺? いや、それならば、自分を誘う様な行動をするはずがない。 敢えて賢者と戦う様な選択をこの敵はとっている。 そう、こいつは敵だ。セウロは出会った瞬間、いや――気配を察知した瞬間にそう感じた。 いや、それも否。 『察知した』というよりも『察知させられた』のだ。 王都の城の中で、大きな異質を感じ取った賢者は、誘われるままに王の間の一番近くにある下へと降りる階段へと参じた。 放たれた殺気は、明らかに挑発的な誘いだった。警戒したセウロだったが、ここからならば王のいる間にも近く、何かあってもすぐに駆けつけられるとふんで、敵の誘いにのってみたのだ。 それに、王にはジンジャライもついている。受けが性に合わないセウロは、攻めるべきだと判断し、ジンジャライに小声で「任せた」とだけ告げて殺気の主の元に赴いた。 静まり返った城内を歩き、異変を感じながらセウロは思った。頭のいい奴だと。敵の目的は、王ではない。明らかに自分と戦うことだけを目的としている。なぜなら、王の近辺にいる兵力を削ぎ、王と賢者の分断を目論んでいるならば、もっと遠くから誘いをかけるはずで、これではわざわざセウロが出陣し易い様にしたとしか思えなかった。 「どうやら、我をここに呼びつけて一騎打ちでもするつもりらしいが……死ぬぞ? そもそも、貴様の目的はなんだ?」 「お前との死合いこそが目的。手合わせ願おうか賢者セウロ・フォレスト」 ゼス・ジールレイルはそれだけ言うと、腰に携えていた黒い鞘から剣を抜き放ち、その現れた刀身までも黒色に沈んでいるのを見たセウロは、その瞬間、遠くで僅かな剣と鉄のぶつかり合う音を聴いた気がした。 「……賊は貴様一人ではないな。一人……いや、あと二人はいる」 「……」 セウロの言葉を全く意に返さないかの様に、ゼスは黒剣を両手持ちで構えをとった。もう、話すことはない――そう静かな殺気が告げていた。 「貴様は我と戦うことが目的だと言ったな。他の連中はどうなのだ? 全員、生きてここから出られると思っているのか?」 「元より命を拾おうなどとは思ってはいない。……いくぞ」 (我と戦うことが目的だと? 笑わせる) セウロ・フォレストはニヤリと笑みをこぼして、地を蹴ったゼスに向かって杖を振りかざした。 「炸裂風弓(フォルト・シモート)!」 瞬時にして円を描き収束した光が矢に変化し、ゼスへと高速で放たれる。 (我と戦うことが目的であると言ったな貴様は。――それは、『嘘だ』) セウロがそう心で呟いたと同時に、黒い風がゼスの眼前に巻き起こる。 それは、黒き剣の舞い。黒に吸い込まれるようにして、光の矢は消え去った。 「ほう」 あの高速の矢を撃ち落すことができるとは、剣の腕も並ではないなこの男――という感嘆の呟きを漏らし、賢者はゆったりとした動作で杖を前に掲げたまま、ゼスへと歩み寄りながら言う。 「そして、我の魔力を打ち消す程の剣。ただの剣にはなかなか無理な芸当だ。それもレオドルフの剣の様な魔法剣か?」 「……」 尚もセウロの問いには答えず、剣を前へと構えたゼスにセウロは苛立たしげに 「ちっ」 と舌打ちして、逡巡する。 (確か、バルトゥークの聖騎士にはその称号として、代々伝わる強力な魔法剣が授けられると聞く。しかし、それがこんな禍々しい魔力を纏ったものであるはずがない) そう、明らかにその黒い剣がおかしな魔力を秘めているのをセウロは感じていた。 人の心が読める賢者だが、ジンジャライの様に、魔力の質や属性が分かる才能はなかった――にも関わらず、ゼスの剣からは悪意の塊の様な波動をびしびしと感じるのだ。 (そもそも、こいつがその聖騎士である確証は…………。そうだな……確かめてみるか) ある程度、間を詰めたセウロは歩みを止め、再度言葉を投げかける。 それは、今までの様な問いではない。 「これは忠告だ。このままやれば貴様は死ぬ。おそらく……貴様は元バルトゥークの」 「言うな!!」 ――。 初めて無表情を崩した黒鎧の騎士は、セウロを睨みつけて、構えた剣を音がなる程に強く握り、言葉を続けた。 「私に過去などないっ! あるのはこの修羅の道のみ! 何も聞くな賢者! 何も言うなセウロ・フォレスト! 私は、悪鬼と成り果て、暴走しているただの殺人者だ! ……遠慮などいらない。全力でこい!」 (やはり、こいつは) 敵の心の微妙な変化を魔力で察して読んだセウロは、男がその聖騎士であると、確信を得た。 一体、何故あれ程に、国と王に愛された騎士が――今ここでこれ程に邪悪な気を満ちさせて賢者に挑んでいるというのか。 「おおおおっ!!」 騎士が咆哮をあげると、黒い風が旋風となってゼスの周囲を取り囲み始める。それは、まるで強大な呪文を詠唱している際にセウロを守護していた魔力の渦の様に、ゼスの周りを防壁となって渦巻いていた。 黒き騎士はそのまま、僅かに反応が遅れたセウロへと突進をかける。 「……っ!」 セウロの予想を遥かに上回った速度の突進。そして、杖による防御が間に合わないまま、横薙ぎに振られたく太刀。 どんな不意打ちであろうと防げる――という、ある種の慢心があったのも確か。 しかし、あのルーウィンやバランの攻撃でさえ、セウロは一呼吸遅れてもなんとか避けられる自信はある。 だが―― 「ぐっ!」 黒き風がセウロの右上腹部を深く切り裂いていた。 ボタボタと黒を伝って大量の赤が流れ出る。 「――」 慢心はあった。だが、決して侮っていたわけではない。 (魔力で速度を上げた!? 『疾風(ゲイル)』の魔法か!? いや、しかし……! 詠唱が全くなく、魔力の発現による僅かな隙もなく攻撃と同時に速度が増していた) 「分かったぞ……貴様っ……これは……『禁呪』か……!」 「ご名答。……故に私に手加減は無用。この身、すでに地獄の業火で焼かれる覚悟はある」 「はっ……!」 ぺっ、と血の塊を吐き出して鼻で笑った賢者は、あろうことか腹に刺さったままの黒剣の刀身を左手で掴んだ。 「なっ!? ……がっ!」 勝負は決したと思っていたゼスは、次の瞬間、何が起こったのか理解できなかった。 ただ、脳が激しく揺さぶられ、自分の体が高速で後ろへと飛んでいるのは何となく理解できた。 どごん、と大きな音をたてて、ゼスの体が後ろの壁へと叩きつけられる。 セウロが相手の剣を掴んだ後に放った攻撃、それは魔法でも技でもなんでもない。 それは、ただの右ストレートだった。 「ぐぅのぉやぁろぉおぉぉ……痛ぇじゃねぇか、あぁ!?」 完全にどこぞのチンピラの様な凄み方で刺された腹を抑えながら、賢者はブチ切れていた。 ちなみに剣を掴んだ左手も血まみれで、もはや杖を持つことさえできない状態である。 「……っ。その傷で動けるというのかっ……」 信じられないものを見る様に驚愕して、ゼスは顎にきてふらふらになりながらも、なんとか立ち上がった。 魔法使いからのまさかの青天の霹靂の様な打撃――ゼスは精神的にも大いにダメージを受けた。 「……さすが、賢者というわけか」 なんという男だ。この賢者セウロ・フォレストという男は。 魔術師であるはずのこいつが、何故、騎士よりもタフで、戦士よりも腕力があるというのか。 主であるディールが、賢者は手強いと言っていた意味がようやく理解できてきたゼスは、心から何か妙なものが湧き上がるのを感じていた。 「……」 (なんだこれは――なにか、昔に感じていたような――) その動きを止めたゼスを見て、普段からひたすら深い眉間の皺を尚も深くしたセウロは訝しがる。 「……貴様、なにを喜んでいる? 気持ち悪ぃな……」 ジト目でゼスを見ながら、少し肩で息をし始めたセウロは、その膨大過ぎる魔力で相手の感情を感じ取っていた。 それは相手の心を理解してしまう『闇の賢者』が有する能力。 「あぁ? なんだ貴様……はぁ……っ。ふん、今ごろ何をわくわくしてやがる。そんなに強い我と戦えることが嬉しいか?」 「嬉しい? 喜んでいる? この、私が?」 (まさか――) 無くしたはずの武人としての感情をこの強者との戦いで目覚めさせたというのか。 ゼスはふるふると剣を持つ手が震えていることに気がついた。 「武者震いというやつか……はは……はははは……ははははははは!!」 何かが心の底から弾ける様に湧き上がって、ゼス・ジールレイルは今まで溜め込んでいたすべての鬱屈としたものを払い飛ばすように笑った。 その様子を見たセウロは、どこかこの目の前の男が何かに縛られ、本心で動いてはいなかったのだろうと感じ、敢えてまた問うた。 「……もう一度、聞こう。貴様の目的はなんだ?」 「……私はバルトゥークの光のアラトラス様に仕えた元聖騎士ゼス・ジールレイル。今は地に堕ちたダークナイトとして修羅を極めし者」 「……」 「私の目的はただ一つ――」 ゼスはふっと今までに見せなかった笑顔で賢者に告げる。 「この地獄を終わらせてくれ」 同時に黒き騎士の頬に光るものが二つ流れ、賢者はすぅと目を閉じ、息を吐き、神妙に頷いた。 (そうか……この男は……) すべてを納得したセウロは。 「承知した。バルトゥークの騎士よ。お前の築いてきた功績をこれ以上、蹂躙されぬよう我が、終わりを与える」 両者、長く腰まである黒髪を揺らし向かい合う騎士と魔術師。 セウロは、その黒騎士となったゼス・ジールレイルに過去の自分を見た。だかららこそ、ゼスの気持ちを汲んだ応えを返したのだ。 (悪鬼と変じ、修羅の道を行くこの男を笑えるか? いや、我にはできん。こいつは我だ。あの頃の、我だ) セウロは街で暴走したヴェインにかつての自分を重ねた様に、この男にもまた過去の忌まわしい記憶を投影していた。 たまたま、順序が逆だっただけで、自分は今、賢者として人のために生き、その存在を認められはしているが過去にしてきたことは、この目の前の男と何も変わらない。 たくさん殺した。罪もない人達を。殺される覚悟のない人々を。たくさん。殺し尽くした。 人を恨み、唾を吐き、人生を呪った。誰も信じられなくなったし、生きている意味などないと思っていた。 何もするべきことがなく、何もしたいとは思わず、何も知らずに、何も悩みなどないかの様にのうのうと生きている他の人間達が許せなかったし、ただひたすら殺してやりたいと思っていた。 あの人の想いを無駄にし、自分達を信じてくれなかった人々に復讐してやりたいとさえ思っていた。 いや、もう世界なんてすべて滅んでしまえばいいと、そう思う自分を世界を滅ぼすといわれている魔王なのではないかと思ったこともあった。 そんな自分がこの男の様にならなかったのは、本当にただ運が良かったというだけでしかないのではないか。 ルーウィンに会い、王に会い、バランに会い、レオドルフに会い――彼らといると、どこか昔の自分を忘れられた。 (ダークナイト……この男はそう言ったな) セウロは過去に紐解いた一つの古い魔道書の記述を思い出していた。 『闇の魔道騎士』ダークナイトそれは、古の禁呪の一つである。 その術をかけられた者は、自身の大切な者を手にかけ、魔道に堕ちて剣を極めるという。手にかけた者がその者にとって、大切な存在であればある程、その血を魔力として自身の力へとできるという人の道を外れた魔術。 (その禁呪は、もはや誰にも唱えることができないはず……一体、どこの誰が……) そう、他にも賊はいる。 となれば、この男はやはり操られているだけだと言ってもいいのではないか。 裏で糸を引いている奴がいて、そいつが何か目的を持って、この男を差し向けた――そいうことではないのか。 セウロの思考は物の見事に核心をついてみせるが、それは意味のないことだった。 どこまで思考を巡らそうと、その思考の糸は、あの白き夜叉には辿りつけない。 あの恐ろしく慎重な男は、何の苦労も労さず、ただ謀略を巡らせているのだから。 「一つだけ聞かせてくれ」 珍しくあの賢者セウロが敵に、頼む様な口調で言った。 それにゼスは無言で頷く。 「その禁呪にかかったのは貴様の意思か? もし、お前の意思ではないのならば」 (ああ、この男は――) ゼスはまたも頬に流れそうになるものをなんとか止め、目の前の男に尊敬の念さえ抱き始めていた。 (なんと寛大なのだ。『闇の賢者』よ) ゼスは深く溜息をつき、最後にこの男と合い間見えたことを、呪ったはずの、かつては信仰していた神に感謝した。 ゼスは口を開き、 「私は……」 僅かに躊躇い、閉じる。 おそらく、ここで自分の意思ではなかったと言えば、この賢者は自分を許しさえするのではないだろうか。 しかし、それだけはしてはならない。その過程を偽るということは己の騎士の道を穢すも同然だ。 (最後くらい、己に正直に生きなければ、自分が強くなるために殺した妻と子にさえ、地獄で謝ることができない) 「――すべては私の心が弱かったことが原因だ。私は力を得たいがために妻を殺し、子を殺し、故郷の友人や、仲間をすべて殺した。私はそんなどうしようもない外道だ。だがら、遠慮はいらない『闇の賢者』よ。私を終わらせてくれ」 そう言い、ゼスは黒き剣を構える。またも彼の周りには強烈に吹き荒れる黒きつむじ風が現れる。 「次の一撃――……私の騎士としての最後の、誇りと生き様を……すべてを捧げる」 「……」 先程の比ではない、魔力の渦がその黒い剣とゼスの周りに収束していく。 (魔力の量だけで言えば、我の最強呪文と同等だな……。しかし、その一撃は所詮は剣戟。我の魔法の様に広範囲ではない――故に、かわして反撃に転じられる!) セウロは決して逃げないと心に決めた――ここまですべてを自分に委ねた敵に、セウロはある種の敬意を感じていた。 いや、それがやはり、過去の自分であったからなのか。 セウロは目の前の長い黒髪の悪鬼を、もはや自分である様にしか思えなかった。 (この男は……我のあったかもしれない未来……我が王と会わず、彷徨っていたならば、いずれ世界を恨み、闇に堕ちたはず……。だからこそ、この男は我が止めてやらねばならない……!) 「いくぞ……闇の賢者セウロ・フォレストよ」 もはや迷いのない表情でゼスはその魔力をすべて黒き剣に込めた。 それに大きく頷き、賢者もまた強大な魔力の渦を纏い、杖を掲げて応えた。 「ああ、かかってくるがいい!」 (我はお前を止め、過去を乗り越える!) ******************* 自分は一体、何をしているのだろうな。 ただ、何をするでもなく牢の中で武装解除され、上半身裸で座禅を組んでいたバランは、そう思っていた。 「……」 本当に何をしているのか自分は。 イザナを助けることもできず、教え子のヴェインが苦しんでいるというのにその力にもなれず、そんな無力な自分が許せなくて、王に反発しきることもできずに、その結果――でた答えが牢の中での座禅。 「我輩、アホなのかね」 (こんな時にレオドルフ君がいれば、それとなく役に立つのか立たないのか、よく分からない助言でもしてくれただろうに) レオドルフがスエディラの村へと兵を率いて出陣したのが昼前のこと。現在は夕刻前で、一日ばかり牢の中で過ごし、頭を冷やそうと考えていたバランだったが、どこか先程から気分が落ち着かなかった。 (……何故だが、嫌な予感がするが……遠征に出たというレオドルフ君は大丈夫だろうか? それに、何故だか城の雰囲気がおかしい気がするぞ。むむむ……本当に我輩はこんなところで座禅を組んでいるだけでいいのだろうか?) 実直過ぎるバランの性格は悩みを複雑化し、答えを先延ばしにする様にはできていない。 つまり、解はすぐにでた。 「いや……いいわけあるかーー!!!!」 「うわっっっ!」 急に大声をあげて立ち上がったバランに驚いて、彼の部下である看守の青年はびくりと悲鳴をあげた。 「も、もう……バラン団長っ……。急に大声をださないでくださいよー……」 情けない声をあげて抗議したのは、まだ隊に所属して間もない貴族出の兵で、その容姿はあまり兵には見えないぽっちゃり体型の青年。 そんな彼の初任務は、皮肉にも自分の上司である団長を見張ることだった。 「いやぁ、すまんね……えーと、ポロくん」 「ポコですっ」 「ああ、そうだったかね。うん、まあ、それはどうでもいいのだが」 よくないですと激しく抗議しながらポコと名乗った兵に、バランは手の指をくいくいと動かして、自分の方へと招き言った。 「緊急事態だ。今すぐにここを開けたまえ」 「え、ええ!? バラン様、自分が何を言おうと明日までは出すなって……」 それは本当のことで、牢へと入る前にバラン自身がそうポコに伝えて投獄されていた。 バランは大きく首を振り乱し、 「ええいっ! 状況が変わったのだ! 君は気がつかんのかね!? この妙な雰囲気を!」 「もう。駄目ですよバラン様。そんなこと言っても出しませんからね。いつも一度言ったことは最後までやり通せって。それはバラン様がおっしゃっていることじゃありませんか」 元々ふっくらとした頬を、さらにぷーっと膨らませて少年の様に言う兵に脱力しそうになるバランだったが、こんなことをしている間にも何故だか胸の内にある謎の危機感が急激に膨らみを増していくのを感じていた。 (この気配……ただごとではない。何故、今まで気がつかなかった!? それ程の使い手だというのか?) シルドリア王、そして賢者セウロに一目置かれている王都最強の騎士は、すでにこの異変を敵襲だと確信していた。 在り得ない程の異質な気配に、いつもの城とは思えないくらいに静まり返った城内。どれもこれも、普通の人間には気がつけぬ異常ではあったが、雷神のバランには十分すぎる判断材料だった。 「とにかく、明日までの辛抱です。だいたい、団長が悪いんですよ〜。王座の間で剣を抜いたんですって?」 「あーもう、君は本当に融通が利かんなっ」 痺れを切らしたバランは何を思ったか牢の鉄格子を両手で掴んで、ふぅと大きく息を吐き―― 「うおおおおおおっっ」 咆哮と同時に、鉄格子を掴んでいた両の手に渾身の力をこめる。 「うわああっ」 ポコ兵隊が悲鳴をあげたのも無理も無く、なんとバランは牢の鉄格子を無理矢理、腕力だけでこじ開けようとしていた。 バランの顔が急に紅潮し、彼の筋骨隆々な肉体が軋みをあげ、それと同時に鉄格子が取り付けられた天井と床にも亀裂が生じていた。 「わ、わっ……! まさかっ……そんなの無理ですよ! やめてくださいっ! バラン様っ!」 「ぬぅぅおおおうぅぅ!!」 今や紅潮した顔面は、血液が巡りに巡って赤紫色にまで変化し、彼の腕の筋肉も破裂するのではないかという程に膨らんでいる。 分厚い鋼鉄でできた鉄格子は曲がりこそしないが、先に接合面の天井と床にガタがきていた。 「あああ!!」 力を入れすぎて脳に酸素が回らず、白目をむきかけたバランは正直、限界を感じていたが――ついに、ばきばきばきと掴んでいた鉄格子が床と天井から外れて、がらんと大きな音をたてて床に転がった。 「はぁ……はぁ……はぁ……」 一歩後ろへと下がって座り込んだバランの顔には、びっしりと大きな汗の玉が浮かび上がっていた。 途端に、脳と肺に酸素が入り込んでくる。 目の前がちかちかとして眩暈に襲われ、その端でポコも同じくへたり込んでいるのが見えた。 「ふはふはふぅはっ……ふぅ……少し……ばかり……無理をしすぎたかね……」 ゆっくりと立ち上がり、ずしりと重くなった両腕は早くも筋肉痛が始まっていた。 それも、今までに感じたことの無いほどに重い筋肉痛。 限界を超えて酷使した筋肉をほぐす様に肩を回して、バランは鉄格子が二本抜けて、なんとか自分が通り抜けられるくらいになった牢から出た。 「ん? 大丈夫かねポロ?」 「ポ……ポ……ポポポポッポ……」 怯えたポコの口は震えて、上手く言葉が発せない。 「鳩の真似かね?」 「ポ、ポポ……ポコです! えっ、っていうかっ、ええ!? な、な、なにしてるんですかー!?」 「なにって、君が開けんから我輩が自分で牢を開けただけだがね? うん、大丈夫だとも! 君はしっかりと見張っていた! 我輩の言いつけ通り、我輩が出せと言っても頑なにそれを拒んだ! うむ。素晴らしい。うむ。では、我輩は行くとしよう」 「ちょ、ちょ、ちょっ!」 上手くまとめて先を急ごうとしたバランの腰にしがみつき、ポコは彼を引き止め言う。 「バラン様っ、駄目です! だって『時の賢者』のところに行くんでしょ!?」 「む。……君はどうしてそのことを知っている?」 ただの兵、しかも所属して間もないばかりのポコが国の機密を知っていることを不思議に思い、振り向いて彼の目を見た。 バランは相手に質問する時には必ず、その者の目を見る。それでバランに何かが分かるわけではない。ただ、正義の鏡の様な彼に見つめられると、バランのことを知っている者ならばそれだけで本心を話してしまいたくなる。彼の部下であるポコもまさしくそうだった。 「すいません。……父が城の、その……執務をしてまして……それで……」 「ふむ。……あまりそういうことが家族からとはいえ漏れるのはよくないが……今はいいかもしれんな。ヴェイン……『時の賢者』がどこにいるのか君は知っているのかね?」 「え? あ、はい……地下の牢に」 「牢? 何故、牢などに!?」 賢者ともあろう者がまさか牢に幽閉されているなどとは考えもしなかったバランは驚きはしたが、すぐに納得する。 「そうか……ジンジャライ殿だな」 (彼はどんな者にも公平であろうとする。……民を殺害したヴェインに刑罰を与えているつもりか? しかし、それではヴェインはまだ治療を受けていないのか?) 国が『時の賢者』に施す処置は、『教育』とも『治療』とも呼ばれているが、バランは後者の言い方をとる。他国から『洗脳』と揶揄されることもあることから、彼はそれに近く感じる『教育』とは言いたくなかったのだ。 「いいかポコ。我輩を信じろ」 「えっ……」 真剣な眼差しで両肩を掴まれ、ポコ兵隊ははっとして背筋を正した。 ふざけていようと、やることが無茶苦茶でも目の前の人は王都最強の騎士で、自分の上司で、憧れ続けている神様の様な存在なのだ。そんな彼から真面目な顔でそう言われれば、ただ頷くしかなかった。 「今、この城にはおそらく賊が入り込んでいる」 「ええっ……」 「賊は問題ない。セウロ殿やルーウィン殿、ジンジャライ殿がおられるし、王が安全であるのは間違いない。……それよりも、我輩はこの隙にヴェインを連れ出そうと思うのだ」 「ヴェインって……『時の賢者』をですか!? どうして!?」 バランは、ふぅと息を吐き、目を伏せる。 あっ、とポコは思う。彼がこうする時は『いつも』のがくるからだ。 「ぬおおおおっっっ」 ぶぅあっ、と両の目から大粒の涙を流しながらバランは叫び泣きながら言う。 「病気の妹に会いたくても会えぬ兄!! そして、その帰りをただただ待つ妹!! 我輩はどうしてもイザナ殿の頼みを聞いてやりたいのだよ! 我輩はヴェインを信じている! あいつは『時の賢者』の業を背負おうとも、きっと正しく生きていける! 犯した間違いを償い、生きていかねばならんのだよ!」 「で、でも……王様やジンジャライ様の命に背けば……バラン様、ただじゃ済まないですよぅ……」 いくら王から気に入られ、特別視されているバランであろうと、『時の賢者』を勝手に城から連れ出したことが発覚すれば、王も庇いきることができずに極刑も在りえた。それさえもバラン・ガラノフ・ド・ピエールは理解していたが、彼の想いは止まることを知らず、拳を胸の前で強く握って熱く言う。 「イザナ殿の様子では、そのシフィという少女の容態がおそらく良くないのだ! そんな時に、最愛の兄に会えない!! ああっ、こんな、こんなことがあっていいというのかね!! うおおおおんっっ」 大量の大粒の涙をぼとぼとと滝の様に流して、バランは言い、ポコはそれを見て思っていた。 自分にはこの人を止めることはできない――そして、ポコは静かに呟いた。 「わかりました」 「ぬ……今、なんと?」 ぴたりと、泣き止んでバランはポコ兵隊を見る。どこか先程とは変わった、締まりのある表情で自分を見ている。 (バラン様のそういう情にもろいところ皆好きなんですよ) そう心の中で呟いた彼は、くすりと笑った。 「僕が案内します! 『時の賢者』のところへ! 鍵のあるところも見当がつきますし」 「おおっ! ありがたいぞポコ! さあっ、今すぐに参ろうか!!」 二人は異質な城内を駆け足で行き――やがてその城の異変は、普通の感覚しか持ち得ないポコ兵隊にも理解することができた。 「ほ、本当に城の様子がおかしい。なんで、誰もいないのっ?」 見回りの兵、忙しそうに歩き回るメイド達に魔術師、将軍、色んな人々がたくさん行き交う廊下でさえ、今はバランとポコの姿しかなく、物音一つしない。一体、これはどういう状況なのか――バランには勿論、敵襲であることしか分からず、本来ならばこの異常な事態には王を守りにいかねばならない彼だが、今は絶対に遣り通さねばならないことがあった。 バランは王を守る他の仲間達を信じていた。 (我輩は、あのイザナ殿の想いを無下にすることはできん! セウロ殿、ジンジャライ殿……ルーウィン殿……頼んだぞ! 王を、城を守ってくれ!) ******************* 「あんたが、『時の賢者』だな」 暗闇から低い男の声を聞いた気がしたヴェインは、むくりと体を起こした。 起き上がり、真っ暗の牢に視線を巡らせると、牢の外に巨漢の髭面の男が立っていた。 見たことのない、武道家の様な男は上半身裸で、ヴェインを感情の感じられない表情でただ見つめていた。 「あんたが……旦那の求めていた……」 「なんだ、お前は」 大男がよくわからない呟きを漏らしたのを気にも留めず、ヴェインは誰でもいいと思いながら相手にそう投げかけていた。 本当に目の前に現れた男など、ヴェインにとってはどうでもよかった――ただもう、眠らせてほしかった。何も考えずに、ただ長い眠りにつきたかった。 あれから、一体どれくらいの時間眠っていたのか。何ヶ月もの時間が過ぎた様に感じていた。 もう、先生に会いたいとも、シフィに会いたいとも感じず、いや、その感覚すら自らしまい込んで蓋をして、ただ眠り続けていた。 暗闇の牢から見えていたはずの月はいつの間にか淡い光になり、また真っ暗闇になり、また月が見え、光が差し込み、小さな変化しか訪れさせないこの地下牢でヴェインの感情は、ただただ何も感じない様になっていった。 ジンジャライの思惑通りというわけではないが、しばらく外界と断絶した状況に置かれることによって、ヴェインの心はある種の平安を取り戻せていた。偽りの――ではあるが。 ジンジャライはここから本来ならば『教育』を施す予定だったのだろう。 「俺はあんたをここから出すように命じられたヴィンセントって男だ」 「ここ……から、出す?」 言葉を理解できないままヴェインはそれを反芻して、疲れた目でその巨漢を再度、眺める。 「ああ、安心しな。見張りはもういない。外の兵達も俺の仲間が始末して、今は大物とやりあってる」 「ここから……出る?」 「ああ、出たいか?」 ぼーっとした頭は回りきらず、多少現実感さえ感じられなかったヴェインだが、それでも質問を質問で返した。 「出てどこに行く?」 はっと吹きだしたヴィンセントは、両手で牢の鉄格子を掴んで言った。 「地獄だよ」 その瞬間、ヴェインは僅かに揺れと音を感じ、地震でも起こったのかと思ったが、すぐに理解する。 目の前の大男が鉄格子を掴んだ両手に力を込めているせいで、床と天井が軋みをあげているのだ。 (まさか、格子を素手で?) 「はっ!」 男の声と共に信じられない光景を目にしたヴェインは、僅かに頭の霞が晴れた。 「さあ、行こうぜ。こんなところにいるよりは面白いもんが見られるぜっ」 「……」 ヴィンセントが差し出した手を掴んで立ち上がり――『ぐにゃりと曲がった』鉄格子の間を潜り抜けて、ヴェインは外へと出た。 (そうだな。ここにいるよりは……地獄だろうが、なんだろうが面白いことが起こるだろう。だったら、もう何もかも忘れて、運命に身を委ねてしまえばいいのではないか) 確かに――ジンジャライの処置は正しかった。一度、外界から孤立させることでヴェインの感情は落ち着いた。言わば、『まっさらの状態』でここから、何かを心に刻むには十分な余裕を得ることができた。 だが、その前に、『より刺激的な世界』が舞い込んできたならば、ヴェインはどうするだろうか。 鉄格子を簡単に曲げてしまえる程の男が、自分を外に出すという。何者かも分からず、目的さえも分からない。だが、過去も未来も忘れてしまいたい『まっさらな状態』の彼にとって、そんなことはどうでも良かった。 何が善か、何が悪か、その判断をどこかに置いてきてしまった彼は――あっさりと、目の前の刺激を欲したのだ。 (地獄か。見てみたいもんだな――) シフィのことも、イザナのことも、今の彼にはもうなにも無かった。無かったことにしてしまった。 そうして、ヴェインは選択した。 地獄への道程を。 |
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