「おい、竜」
「あ?」
「あ?じゃねぇよ。アレ、お前の知り合いか?」
「はあ??」
俺はマスターが指した先に目を向けて、グラスを落としそうになった。
(お嬢さまぁ〜…)
がっくりと頭を下げる。そこに居たのは、今日の夕方に嫌いだと言われて泣きそうになっていた伊集院真琴だった。
…俺のほうが泣きそうだよ。
俺は昼間は古本屋でバイトをして、夜はこうしてカウンターに立っている。
常連のお姉さま方の要望で、眼鏡ではなくコンタクトである。
「あ〜〜…、ちょっと抜ける。ごめんマスター」
俺は断りを入れて、カウンターから出た。
この店はお世辞にも柄のいい連中が集まってきているわけではなかったし、立地としても安全なところじゃない。
(どうやってココまで来たんだ…)
俺は軽く溜息を吐きながら思った。
客の間を縫って進むと、案の定飢えた男どもに囲まれている。
真ん中に佇む小さな伊集院は、いかにも儚げで純情で、困った顔で誘いを断っていても、男から見たら誘っているようにしか見えなかった。
(外見がいいってのも結構災難だよな…)
少なくとも顔が悪かったらあんなに注目されることもないだろう。ま、実際に普通の顔になりたいなんて言ったら嫌味にしかならないが。
「お客様」
俺は目の前のでかい男に声を掛けた。
「ああ?」
男は振り返り、俺を見下ろした。
ホントにでけぇな〜。俺だって175cmはあるんだから、コイツ190はあるぞ。
「そちら、私の連れでして」
「店員は黙ってな」
睨みを利かして凄んでくる。
どうやら騒ぎになりそうだと判断して、店員が出てきたと思ったらしい。ココがそんな親切な店かよ。
「伊集院」
茫然と俺を見る彼女を呼ぶ。彼女はやっぱり泣きそうな目をして、俺に駆け寄ってきた。
ぎゅっと俺のシャツの袖を掴むので、俺はその手を振り払った。
「カウンターに行ってろ」
追いかけようとする男を遮って、顎で方向を示す。
「店員は引っ込んでろって…」
「やめとけ」
でかい男が俺に詰め寄ろうとしたそのとき、後ろからドスのきいた声がした。
「…テツ」
(こえぇよ、その顔)
俺は呑気に突っ込みをいれ、客と騒ぎを起こさずに済んだことにホッとした。
周りは、テツが持つ、いかにも強者なオーラに呑まれている。
「貸しだな。奢れ」
俺のそばまで来たテツは、その低い声で言った。
「んあ、そうだな、いいトコに来た。頼みがある」
奢るという言葉を無視して俺はカウンターに戻り、後ろからついてきたテツはぶぅぶぅと不平を言った。
こんな喧嘩バカと知り合いなのは、別に俺が昔グレていたとかいうわけではなく、コイツが由希の弟で幼なじみなだけである。由希より付き合いは長い。
185cmで筋肉の付いた均整な身体。このガタイでやっと高校生になったばっかりだとは、俺も驚きだ。
俺はカウンターでマスターの出したジュースを飲む伊集院に近づいた。彼女は俺を見て、脅えた表情を見せる。恐らくあの場面で手を振り払われたのがショックだったのだろう。
そろそろ俺に愛想つかすかな、と俺は心の中でにんまりとした。
テツを振り返る。
「テツ、こいつ送ってってくれ」
「はあ!?」
テツが素っ頓狂な声を上げた。
「冗っっ談じゃねぇよ〜〜。俺いま来たばっかなんだぜ?さっき自分のツレだって言ってたじゃん!」
「あの場はああいうしかなかったろうが。しかも、お前の歳じゃこの店は入れねーんだって何度言ったらわかるんだ?」
俺が睨みを効かせてやると、不満そうに口を尖らせた。
お前がそんなことやっても可愛くないんだ。アホ。
テツは、優等生である兄の由希より、俺の方に親近感をもっているらしい。だから、自分の兄貴は俺だと思っている節がある。
よって、兄の命令は絶対なのだ。
「キミも帰りなさい」
「…だって、他んトコ行くくらいならウチに来いって言ったのは竜兄だろ?」
それで正直にここに来たのか。可愛いヤツ。
「なんでお前は他の奴には素直じゃねぇんだろうなぁ」
まだブツブツ言ってるテツの肩を叩く。
俺が言ったのは「オバサンが嘆くから夜中に出歩くな」ってことだったんだが、まあ、俺もあんま固いこと言いたくないし。
「そだな、俺がバイトしてるときには来てもいい」
「ホントか?!」
テツは嬉そうに目をキラキラさせた。…犬みたいだなぁ。
「うん、だから今日は頼んだ」
にっこり笑うと、むぅ、という顔でテツがしぼんだ。今日は言うことを聞くしかないと悟ったのだろう。
「じゃあ、えーと、…」
「伊集院真琴です」
「伊集院さん、俺が送ってきます」
「…でも」
チラッと俺の方を見る。俺は知らない顔をしてグラスを片付けた。
「あの…お仕事の邪魔をして、ごめんなさい」
よくわかってんじゃねえか。
「竜也さま、お話が…」
(竜也)
ふっと記憶の声が伊集院の声と重なった。
「呼ぶな」
「え?」
「俺の名前をなれなれしく呼ぶな」
「耳障りだ」
吐き捨ててカウンターに入る。
伊集院が息を呑むのを無視した。
「っってーーー!!!!!」
俺は殴られた後頭部を押さえた。
「テツ、てめー!!!俺様の大事な頭になんてコトしやがる!!」
テツの胸倉を掴んで睨みつける。
「だって竜兄!!そんなこと言っちゃ駄目だろ!」
「ああ?」
テツはこんな外見をしているくせに女性に優しくがモットーなのだ。
電車で座っていれば避けられるくせに、自分から席を譲る。年上にも礼儀をわきまえる。
反抗期だなんだといっても、結局オバサンの躾は成功しているわけだ。
「テツ、お前には関係ない」
「この人泣きそうじゃねえか!!」
バチバチッと火花が飛び、慌てて伊集院が間に入ってきた。
「あ、あの! 竜也さま、私なら平気ですから…」
そのとたん、ブーーッと吹き出す人物がいる。我関せずと見ていたマスターだ。
「…『さま』!! りゅ、『りゅうやさま』!!」
大爆笑。
さっきから笑いを堪えていたらしい。
「えーと、真琴ちゃん? こいつはねー、『竜』でいいの、『竜』で!
そんな『様』なんて…」
ゲラゲラと笑い続けている。普段の穏やかなマスターからは考えられないのだろう、常連客は不思議そうに目を向けていた。
あー、この人はね、ホントはすっごい笑い上戸なんすよ…。
30歳独身。お買い得です。
「そ、そんな…」
「竜だってその方がいいだろう?」
「………」
俺が黙っていると、マスターとテツが名前を呼ばせようと色々言っている。
「りゅ、竜…也さま……」
伊集院は真っ赤になる。俺はゲンナリして、
「一宮でいい」
と口を挟んだ。伊集院が嬉そうにパッと顔をあげる。
「一宮さま?」
「……」
マスターがうーんと唸った。
「呼び捨てじゃなきゃいいのかな?『竜也くん』とか?
…イメージ違うけど」
「やっぱ『竜兄』??」
なんで兄貴にならないといけないんだ。
「り…ゅうく…ん?」
ぎこちなく、呼ぶ。
マスターはポンと手を叩いて、
「『竜くん』。いいかもソレ。可愛くて、竜に合ってないのがイイね」
「竜兄は『竜くん』か!」
俺はなぜか喜んでいるマスターとテツを不審に思いながら、『くん』などという生意気な弟もどきを、さっきのお返しとばかりに殴ってやった。
「いてーー!!
何すんだよ竜兄〜〜」
知るか。フンと鼻を鳴らす。
伊集院が俺の許可を息を凝らして待っているのが判った。
「…いい、それで」
俺は溜息混じりに言った。またテツの馬鹿に殴られたくない。
「竜く、ん?」
「…なんだよ」
返事をすると、伊集院は目を輝かせて、
「竜くん、竜くん」
と確認するように何度も俺の名前を呼んだ。
「〜〜〜もういいだろ!
テツ、連れてけよ!」
「おう」
「じゃあ、また明日学校で!ごきげんよう」
ぺこりと品よく頭を下げて、くるりと背を向けて歩き出したテツを追った。
ふわりと髪が靡いて、香水じゃない、石鹸の柔らかい香りがした。 それは、煙草やアルコールの匂いが充満したこの場所に、ひどく不釣合いだった。
「…あの子、お前に話があって、こんなトコまで来たんだろう?
それも聞かずに追い出すかな、普通」
「知らね。興味ない」
俺がそう言い捨てると、マスターは仕方がないなぁといった様子で首を振った。
『竜くん』
そう呼ぶ声に、不思議と先ほど感じたような嫌悪感はなかった。
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