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HAPPY、HAPPY、LOVELY ! − summer festival − tsukiko





 綺麗な月の夜だった。

 店は、いつもの喧騒に包まれていた。
 「いらっしゃいませ」
私の横に立つ可奈は、店の女らしい媚びを含んだ声で頭を下げた。 開いたドアから、むわっと夏の湿った熱気が入り込む。男は不遜に顎を上に傾けて入ってきた。店の馴染みで、この辺り一帯に顔が利く男だった。
「よお」
「…ちは」
驚いたのは、男の連れが明らかに少年といえる年齢の子どもだったからだ。
 最近、可愛げのないネコを拾ったという話は聞いていた。 彼は懐かないネコを大層気に入り、自由にさせているらしい。
 少年は無造作な短い黒髪で、不機嫌に顔をしかめ無理矢理連れてこられたのだと全身で拒否を示していた。
 「可愛い」
私より二つ年上の可奈は、男と一通りの挨拶を交わしてから少年に目を向けた。
「名前は?」
ほどよく柔らかな肉のついた白い腕を伸ばして、可奈は少年の髪に触れようとする。
「触るな」
少年は乱暴に手を弾いた。男はそれを低い音で笑う。
「こいつは女嫌いでね」
誘われてもぴくりとも靡かない。そう言って、男と少年は席に着いた。
「飲み物は?」
私は少年に訊く。
「いらねえ。それよりメシ」
「え?」
「メシ食わせてやるっていうから、ついてきたんだ」
少年は不機嫌に、店の女の子と戯れている男を見遣った。
「悪いな、月子。態度悪いが気にしないでくれ。腹が減って気が立ってるんだ」
にやにやと少年を揶揄う。
「適当に食わせてやれば落ち着くから」
「…俺は動物か」
不満げに少年は口を歪めた。 Tシャツから伸びた細い腕はあまり大食とは思えなかったが、成長期とはこんなものなのかもしれない。
「何が食べたいの?…ええと、」
「イチ」
射抜く視線。少年は初めて私に目を合わせた。その遠慮の無い目に、貫かれたかの如く私は動きを止めた。深い闇のような黒。
「…イチ?」
声は信じられないくらい掠れた。震えていたかもしれない。
 彼を覆う空気は場違いに清絶で、ぼんやりと彼の周囲だけが浮いているような錯覚を覚えた。
「なにがあんの?」
相手の反応など気づきもせず、イチは無愛想だが邪気のない様子で訊いた。

 『面白いガキがいる』と、話には聞いていた。
 街中で会った少年は、数人の男に囲まれて、私に気がつくと静か過ぎる落ち着いた笑みを浮かべた。
 それはどこか狂った風景に思えた。戦う前までは上機嫌にさえ見えたイチは、終わると幻滅したように男たちを見下ろした。怒りを露わにその場を後にした。
 成長期のアンバランスな身体を抱えて、それでもイチは強かった。訓練された動きだと誰かが言った。柔靭な物腰は野生の獣を連想させ、一切の無駄を省いた動作は喉元を一瞬で噛み切る肉食獣のようだった。
 イチが争う場を見たのはそれ一度きりではなく、 好きにさせているというのは、縄張りで暴れても干渉せず、庇護もしないということらしかった。

 結局あの後、一滴のアルコールも含まず食事のみを頬張ったイチは、その後何度来ても酒も煙草もやらなかった。身長を気にしているせいらしい。男に揶揄われては腹を立てていた。
「なによぉ、わたしよりは大きいじゃない?」
しなだれかかる女を、イチは冷たい目で煩そうに押し遣った。
 イチの女嫌いはキライというよりも憎悪にも似た嫌悪だ。
 最初は彼が経験がないことやまだ幼いことで周囲は揶揄いを含んだ誘いをかけたが、 彼の態度があまりにあからさまなので、 遊び半分、プライドを傷付けられた腹立たしさ半分で、イチを落とす賭けなども陰で行われるほどだった。

 残暑も終わり、店は空調だけになった。過ごしやすくなったねという話題が出るようになり、薄手のコートが必要だと言い合う季節になった。その日は、なぜか慣れ親しんだ喧騒が酷く癇に障り、最悪の気分のまま私は笑顔を浮かべていた。
 「ね…、月子ちゃん」
猫なで声で腕を掴まれてぞわと全身が粟立った。 おぞましさがいつものように身体を這い登る。 慣れたことだ。一呼吸置いて、自分を落ち着せる。 こんなこと、なんでもない。
 「やだ、やめて下さいよぉ」
邪険にならない程度に手を払う。
 ふ、と視線を感じた。イチと目が合った。
 私は違うテーブルにいて、彼は相変わらず食事をエサに連れ込まれただけらしかった。
 半ば意地のようになっている周囲と違い、私はイチに誘いをかけたことは一度もない。 ほとんど揶揄い半分で囲まれているが、イチももう慣れたのか、あまり過剰には反応していないようだ。
 面倒臭そうに断る様子を眺めているうちに、 ふと悪戯心が湧き上がった。
 私が誘ったら、イチはどうするだろう。 受け入れるだろうか。拒否を示すだろうか。
「…私はどう…?」
するりと口から滑り出た。 周囲が驚いて、振り返る。 イチは、きょとんと私を凝視した後、 喧嘩の挑発を受けたように目を細めて微笑んだ。酷くゆっくりと薄い唇を上げた。温度の低いその動作に、一瞬、迫り上がるような欲望を感じた。

 「月子さんなら、いいよ」

 なにを言われたか理解できなかった。
 イチの同意に湧き上がったのは、勝利感でもなんでもなく、激しい怒りだった。怒りで、目の前が真っ赤になった。自分でも意味の判らない理不尽な感情に眩暈がした。
 「また月子なのー?」
「月子は狙った男は全勝だもんねえ」
周囲から上がった不満の声にハッと我を取り戻す。湧き上がる感情に蓋をして微笑んだ。
「そう…。一緒に抜けない?」
「いいよ」
これもまたあっさりと頷いて、イチは同意した。
 なんだろう。怒りで目が熱い。泣きそうになっている自分に茫然とする。
 まるで酷い裏切りにあったかのようだ。


 季節はもう秋の気配を出していた。
 出会ったときは夏で、イチは少し身体より大きいサイズのTシャツを着ていたのだったと、ぼんやり思い出した。ゴミの散らばるコンクリートには、色のある葉が混じっている。
 肌寒いのは、外気のせいだけではないと思った。
 放心してベッドに腰掛け、イチを待った。 先にシャワーに入り、濡れた髪のまま出てきたイチは、 次どーぞ、と全く無頓着な様子で首を傾げた。ガシガシと乱暴に髪を拭くと、タオルの陰になってあの黒い目も見えなくなった。
 バスローブから覗くのは、男でなく少年の身体だ。 長さに、厚みが追いついていない。
 あのとき私を襲った一瞬の欲情は、欠片も見当たらなかった。ただ凍えたように手足が冷たい。
 イチは、私が動かないのを見取って、不機嫌に鼻を鳴らした。

 「そこどいて」

「…え?」
目を瞬いた。
「眠い」
私の反応の鈍さに苛立った様子でイチは反対側のシーツを引っぺがした。 私に背を向けた状態で潜り込む。
「おやすみ」
    え……え!?イチ!?」
肩を掴んだ。意味がわからなかった。煩わしそうにイチが唸る。
「んだよー明日は行かないと出席日数やばいんだよー」
眠いという言葉通りに、間延びした口調でイチは応えた。目は閉じたままだ。
   しないの?」
「は?」
思わず訊いた。イチはやっと目を開けて、私を見た。
「…月子さん、助けてくれたんだよな?」
身体を回して疑問を映し出した目は、出会ったときと変わらない直線的なものだった。
「俺が絡まれてるから、それで、助け舟出してくれたんだろ?」
純粋に問われて、答えられない。私にとって都合のいい勘違いを、イチはしてくれていたのだった。 本当はただの悪戯心だったというのに。
「月子さん別に本気じゃなかったよね」
イチは緩慢に上半身を起こして私と向き合った。 疑問というより確認だ。
「だいたい、みんな面白がってんだよな。俺がガキだと思って」
イチはもうどの誘いも本気とは見なしていないらしい。麻痺してしまったともいえる。 確かにイチが言うように、子供で男臭さを感じさせない彼は揶揄いの対象だった。
「……私、シたいわよ?」
本気の子だって、いるのに。 そう思って少し腹が立った。
 からまれているときに助けてもらったのだと頬を染めて話す新人の女の子の顔が浮かんだ。 彼女は嬉しそうだった。
 「いいじゃない? どうせここまで来たんだから…しよ…?」
頬に手を添えて、誘う。しかし、キスが出来るくらいに顔を近づけるのに、イチは不躾な目を閉じなかった。 両手で自分の唇を覆い、くぐもった声でなにかを言っている。
「やだ。どうせここまで断ってきたんだ。意地でもやらねえ。」
顔が紅潮している。誘われて、中学生らしく身体はその気になっているようだが、断固として手は口に当てたままだ。
「ぜってえ、」

 「好きな相手とやってやる!!」

 だからやんねぇ、と断言して漆黒の眼が睨み付けてくる。
 私は、嘲笑してイチの髪に触れた。
 ああやはりイチは清廉だ。腹が立つほど。吐き気がするほど。
 初めて会ったときに思った通りだ。汚してやりたい。

 「や…めろ!!!」
思い切り撥ね付けられた。ベッドから離れて距離を取る。 手は先ほど私が唇で辿った首を掴んでいた。
「…なんで、なんでこんなことするんだよ…」
イチは困惑した顔をした。眉をひそめて、混乱している。
「…月子さん…男…、きらいだろ…」
ビクリと身体が震えた。
「俺を誘ったのは、俺がガキだからで、俺が『男』じゃないからだ」
秘密を暴くような静かな声だった。

 「月子さんはいつも怯えてる」

 あのとき。
 身勝手な欲情を私のせいにするな、と、あのとき言えなかった。 恐怖ばかりで抵抗一つ、拒絶の言葉一つ発することは出来なかったのだ。
 今なお鮮明に蘇る感触。押さえ付けられた重みと身動きを封じた腕と。

 「怖くなんてない…」

 逆手に取るのだ。不快感を押さえつけて、相手を利用すればいい。蜜を出して誘う花のように群がる虫を利用すればいい。私を蜜のように感じて誘われるのは私のせいではない。 私は何もしていなかった。いつだって私は誘ってなんかいない。

 「月子さん…」
イチが困っている。目から、熱い液体が流れていた。
「月子さん」
イチは茫然と泣き出した私を持て余している。襲ったのは私なのに、私のために近付くのを躊躇っている。
 笑った。涙を拭いもせずに微笑んだ。イチがほっとしたように笑みを返した。
 手を差し出すと、初めはゆるく、私が力を込めると、強く、温かい指が。

 夢を見た気もするし、透明な、何も存在しない空間に浮かんでいた気もする。
 沈み込むように眠った。ただ優しい眠りだった。
 保育園で頬を寄せて寝る子供たちのように、近しい体温に安心するように、私たちは眠った。


 寒い冬が来た。
 春を待たずに、イチは街から消えた。
 イチの本名を知る人間はいない。私たちはそれが苗字なのか名前なのかも知らないままだった。
 この街には異質だった彼は、本来の場所へ戻ったのだろう。
 イチが好きだった。 危険のない子供だったから?彼の言ったように? それはわからない。 うんざりするような男に出会うたび、強引に誘ってでも彼としておけば良かったと考える。そして、彼が断ったから彼を好きなままなのだろうとも。

 淋しいとき、私はあの夜を思い出す。

 寂しさを埋めるように分け合った体温を。
 優しい指を。
 思い出す。







月子




end.






つづく








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