/ 『マイ・ボディガード』
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『light as a feather』トップページに戻るマイ・ボディガード
原題:“Man on Fire” / 原作:A・J・クィネル『燃える男』(集英社文庫・刊) / 監督:トニー・スコット / 脚本:ブライアン・ヘルゲランド / プロデューサー:アーノン・ミルチャン、トニー・スコット、ルーカス・フォスター / 製作総指揮:ランス・ホール、ジェームズ・W.スコッチドポール / 撮影:ポール・キャメロン / 美術:ベンジャミン・フェルナンデス、クリス・シーガース / 編集:クリスチャン・ワグナー / 衣装デザイン:ルイーズ・フログレー / 共同プロデューサー:コンラッド・ホール / 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ / キャスティング:ボニー・ティマーマン / 出演:デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、クリストファー・ウォーケン、ジャンカルロ・ジャンニーニ、ラダ・ミッチェル、マーク・アンソニー、レイチェル・ティコティン、ミッキー・ローク / ニュー・リージェンシー&スコット・フリー製作 / 配給:松竹×日本ヘラルド
2004年アメリカ作品 / 上映時間:2時間26分 / 日本語字幕:石田泰子
2004年12月18日日本公開
公式サイト : http://www.mybodyguard.jp/
丸の内ピカデリー2にて初見(2004/12/25)[粗筋]
メキシコシティーでは6時間に一件の割で誘拐事件が発生する。その被害者の70%は生きて帰らない。
ジョン・クリーシー(デンゼル・ワシントン)は16年奉職したアメリカ軍を去り、親友ポール・レイバーン(クリストファー・ウォーケン)が暮らすメキシコシティーへと移った。辛い過去から逃避するために酒浸りとなったクリーシーにかつてのような仕事は難しいと、レイバーンは簡単な仕事としてボディガードの口を斡旋する。
クリーシーが警護する対象は、ピタ・ラモス(ダコタ・ファニング)という9歳の少女。多発する誘拐事件への配慮からボディガードを伴って通学していたが、前任者が余所へ引き抜かれたのを機に学校を休んでいた。着任したその日からサムエル・ラモス(マーク・アンソニー)の屋敷に住み込むことになったクリーシーに、ピタは一目見るなり全幅の信頼を寄せるが、無邪気な好奇心で質問攻めにする彼女にクリーシーは一線を引き続ける。
新たな仕事に就いてのちもクリーシーは過去の幻影に悩まされていた。雨が激しく降りしきる夜、怒濤のように押し寄せる悪夢に遂に耐えきれなくなったクリーシーは、発作的に銃口をこめかみに当てて引き金を引く――だが、弾は出なかった。絶望に打ちひしがれ、雨のなか立ち尽くしていたクリーシーは、窓からピタが見つめていることに気づく。
水泳の大会を控えたピタは学校で懸命の練習を積み重ねていたが、どうしても三位以上の成績が収められず幾分卑屈になっていた。その姿を目にしたクリーシーは、彼女を指導し始める。銃声を恐れるな、あの音が君を解き放つ――屋敷にあるプールでピタの特訓を重ねていくうちに、クリーシーは次第に過去の呪縛から解き放たれていった。あれほど溺れていた酒を断ち、本気でピタを守ることを決意する。
クリーシーとの練習を通じて水泳が好きな自分を改めて見出したピタはサムエルにピアノの教室を止めて水泳に打ち込みたい、と言うが聞き入れられなかった。いつも通りピタを教室に送り届け、その前で待機していたクリーシーは、奇妙な動きをするパトカー、かつて見かけた不審な車の姿に、不穏な気配を感知する。ピタが教室を出てくると同時にピークに達した緊張のなか、クリーシーは叫んだ。ピタ、逃げろ。
銃撃戦が始まった。怪しげな動きをし、自らに銃口を向けた警官を撃ち倒すクリーシーだったが、自らも肩と腹部に銃弾を受け重傷を負う。そして、ピタは誘拐された。
誘拐犯との交渉は順調に進んでいるように思われたが、肝心の受け渡しの場面で何者かの介入があり、犯人の甥が死傷する。誘拐犯は返礼として、娘の命は神に託す、と告げた。
メキシコ警察はクリーシーが犯行グループに内通していた可能性を匂わせるが、マスコミも連邦警察もその説を信用しなかった。誘拐に関与した汚職警官達による報復があることを恐れた連邦捜査官のミゲル・マンサーノ(ジャンカルロ・ジャンニーニ)はクリーシーを動物病院に匿う。そこでクリーシーはレイバーンから、交渉が失敗に終わったことを伝えられた。
そしてクリーシーはレイバーンの手を借り、傷も癒えぬうちに動物病院を抜け出す――絶望から抜け殻となっていた彼を甦らせた少女を、彼の手から奪った者たちに復讐するために。[感想]
『スパイ・ゲーム』のトニー・スコット監督、『ミスティック・リバー』のブライアン・ヘルゲランド脚本、『ジョンQ 最後の決断』『トレーニング・デイ』のデンゼル・ワシントン主演、『I am Sam』『コール』のダコタ・ファニング共演――これだけ条件が揃った時点で、私にとっては確実に外れなし、と信じられる作品だった。実際、その期待はほぼ裏切られることがなかった。
ほぼ、というのは、ラストシーンにおけるサプライズの扱いである。ある観点からすると読むことも不可能ではないクライマックスだが、充分な伏線が張られておらず、そういう処置を施したことへの説明もこれといってない。その事実を前提にラストシーンが構成されているので、しばし釈然としない想いを抱かされる。
が、それ以外の点ではほぼ期待通りの、極上のクオリティだった。オープニングからしてトニー・スコット監督らしく、複数のカメラを駆使して細かく画面を刻み、時として部分を大きく、時として全体を大胆に捉える演出が物語にスピード感を齎す。人物の背景を過剰に描かず、細かな台詞や行動に匂わせながらその随所にクライマックスへの伏線を張り巡らせる配慮の細かな脚本も巧い。序盤は自暴自棄、警護の仕事を得てからもしばらくは捨て鉢な言動の多かったクリーシーだが、ピタとの交流で活力を取り戻し、その大切な少女をふたたび奪われたことで復讐鬼へと変貌していく、とわずか二時間半のなかで劇的に変化する主人公を演じたデンゼル・ワシントンは相変わらず圧巻だし、そんな彼を強く惹きつける、無垢だが孤独で聡明、しかし周囲を明るくさせる“天使”を見事に体現したダコタ・ファニングも素晴らしかった。事件の脇を固める役者も、クリストファー・ウォーケンを筆頭に作品を骨太なものとしている。
物語は前編と後編に二分されていると言っていい。前半は酒浸りで自暴自棄になったクリーシーがピタとの触れ合いで少しずつ感受性を取り戻していく姿が、尺のために最小限ながらも綺麗に描かれており、周辺で犯罪が多発している気配を登場人物同士の会話をはじめ車での送迎や校門の前でボディガードとしての身分証明と署名を必要とするくだりなどで仄めかしながら、しかし優しい手触りで演出する。
それが、ピタの誘拐を境に急激にハードな色彩を帯びる。クリーシーの疵は癒えていない、どころか彼は途中でプールに浸かり、その傷口から微かに血を滲ませてさえいる。だが、彼は新聞記者らの協力を得ながら、僅かな手懸かりをもとに驚異的な精神力で犯人を手繰り、着実に復讐を重ねていく――人間らしさを取り戻した前段と比べると正反対のような姿だが、自暴自棄になっていた面影はとうになく、いっそ前半以上に精気に満ちあふれてさえいる。クリーシーの復讐する手段は独創的だが残虐で、直截描けば目を覆うほどなのだが、それをカメラワークで丁寧に抑制しつつ、しかし衝撃は決して削っていないあたりが、アクション作品に拘って製作してきた監督の矜持を感じさせる。全般にヴァイオレンスの強烈な物語であるのに、その直截描写が少ないことは特色のひとつと言えるだろう。
A・J・クィネルによる原作は80年代に発表され、70年代のイタリアを舞台としている。それをメキシコに移動させた背景には、70年代にイタリアで社会問題化していた誘拐事件は法整備などを経て現在では激減しており、代わって中南米で多発するようになり、地理的にもアメリカと近接しながら危険の多いメキシコが選ばれた、という事情があるらしい。そうした社会情勢を適切にリサーチし、脚本に反映させている点にも好感を抱く。
あいにく私は原作は未読なのだが、そうした舞台の再選択やキャラクターの枠組みの補強、それらを踏まえた上での慎重な伏線の組み立て方からして、恐らく原作の持ち味は崩していないはずだと感じる。加えて、プログラムなどから察せられる原作の事情と比べて、本編のラストシーンの衝撃と哀しくも美しい余韻は決して劣っているようには思えない。寧ろ、こういう展開でなければあり得なかった快さが――あれほどの悪夢と殺戮の限りを尽くしたあととは思えない快さを見事に醸成している。
プログラムでのことだけに、たぶんにリップサービスが混ざっているはずなので鵜呑みには出来ないが、原作のファンにこそ観てもらいたい、という原作者のコメントには少なからず真実が混ざっていると感じる。が、原作との兼ね合いを一切考慮に容れずとも、優秀なエンタテインメント作品であることは断言したい。妙に甘ったるいイメージの邦題に惑わされることなく御覧ください。(2004/12/25)