木下博信草加市長が日本を変える
木下博信は2001年8月から2010年10月まで、草加市長を務め、様々な改革に取り組んだ。市長退任後の東日本大震災では、NPO法人(特定非営利活動法人)と現場との橋渡しをし、市長としての行政経験が生かされた。木下が所属する青年市長会等を活用し、草加から日本を変える事を期待する。
木下草加市長が提案した特区
木下博信の草加市長時代、草加市から様々な特区構想が提案された。その数は全国の市町村でもトップクラスだそうだ。特区構想の提案がきっかけとなって、日本を変えた例もいくつかある。
草加市が提案した特区
草加市公式ホームページより。以下その例。
- 地方税の収納をコンビニで取扱い可能とする。戸田市も同時期に提案。
- 小中学校で市採用教員が担任を受け持つことを可能とし、少人数学級を実現する。
- 幼保一元化施設の整備のため、保育所の施設設置要件を緩和する。
- 警察が凶悪犯罪の捜査に専念できる環境をつくり、併せて、市民の日常生活や防災の観点から効果的な駐車違反取締りを実施するため、違法駐車の取締権限を市町村へ移管する。
- 学校教室を石炭などで暖めていた明治時代に室内の空気環境対策として導入された全国一律の天井高3m規制。この120年前から続く規制が市の特区提案により撤廃。学校建設の費用が安く抑えられました
木下草加市長関連のHP
- 木下草加市長のプロフィール
1965年 草加市転入 氷川幼稚園、高砂小学校、瀬崎中学校、春日部高等学校を経て
1987年 3月 慶応義塾大学法学部政治学科卒業
1993年 8月 草加市議会議員初当選
2001年 8月 草加市長就任
2010年10月 草加市長退任
2012年 7月 慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科附属システムデザイン・マネジメント研究所研究員 - 木下博信 Official Web Site
- 東日本大震災での活動 前草加市長 木下 博信氏(後編)|【SOKER】草加のまちづくりメディアより
木下 自分の再構築とメンテナンスが必要な時期だったのですが、あれだけ未曾有の災害が来たら、そちらを先にやるしかない。幸い現場能力とサバイバビリティは高いので、被災地でボランティアを受け入れる準備がないという状態でも、オレはじゃまにならないよと、車に100リットルのガソリン積んで、テント、寝袋、生活物資、パソコン、プリンター、無線機、発電機と一通り持って現地入りしました。
岩手県宮古市の前市長が青年市長会の先輩だったので、最初はフル装備でそこを目指したんです。そしてその途中の大槌に、草加市の町会連合会がランドセルを送ろうとしているんだけど連絡がつかないという話を聞いていたので、宮古の手前の大槌に寄りました。大槌町の教育長と話ができてそういう支援は歓迎だということだったので、現地から町会長に連絡したんです。町会長は、どうしてそんなことが分かるんだと聞くので、「今現地に来ている。教育長に直接確認した」と言ったら驚いてました。
そして、宮古に向かおうとしていたら、テントを立て始めている人がいて、暇なら手伝ってとよ、ということになりました。そして作業しながら色々話していたら、この場所で自分にできそうなことがあると分かったので、結局大槌に留まってしばらく活動を続けることになりました。ボランティアと役所の職員がうまくかみあっていない部分をアドバイスしたり、NPO(特定非営利活動法人)と現場の実働部隊とのコミュニケーションの橋渡しをしたりと、行政の経験を生かして支援がうまくいくよう、皆さんの善意と力が最大限発揮できるように組織や活動の調整のお手伝いもしていました。
あとは、草加でも何かしたいという人が沢山いらっしゃったので、その人たちの思いや物資を向こうに届けたり、義援金で必要なものを買って届けるということもしました。
今の段階では、向こうに足を運んでお金を使うことも大切です。先週も22人の仲間たちと現地の商店街で買いまくって、食べまくるという企画を実施してきました。現地を実感して、人と繋がり、現場で消費したりして支援することは大事だと思って、今後も続けていくつもりです。
これまで27回ぐらい、行ったり来たりしてますが、支援するというより、実際は勉強することばかりです。机上でいくら計算して災害対策本部をつくって訓練しても分からないこと、うまくいかないことはたくさんあります。それは経験してみないと分からない。そういう経験を積ませてもらって、本当に勉強になります。支援に行っているというよりは、学ばせてもらいに行っているという感じです。起こってほしくはないですが、もし明日草加で災害が起きても、勉強したことを全部はき出していきますので、草加の皆さん、ご安心下さい。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。