北畠顕信(きたばたけ・あきのぶ) ?〜1380?

北畠親房の二男。北畠顕家の弟。初代の伊勢国司。母は春日局という。左近衛少将となり、春日少将と称す。
建武3:延元元年(1336)12月、後醍醐天皇が大和国の吉野へ遷幸して南朝を興した際、伊勢国で挙兵した。このときに伊勢国司に任官されたようである。
『太平記』に建武5(=暦応元):延元3年(1338)には北畠顕家の西上(北畠顕家の征西:その2)に副将軍として従軍し、美濃国青野原で北朝軍と戦い、さらに山城国の男山八幡宮に進出して戦うと見えるが、これは春日中将と称された春日顕国との混同であろう。
同年5月に北畠顕家、閏7月には新田義貞を失って劣勢に陥った南朝では、奥州から巻き返しを図るために後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)・宗良親王を奥州に下向させることを決め、顕信は陸奥介・鎮守府将軍に任じられて兄の職責を継承し、同年9月に両親王や父の親房、白川(結城)宗広伊達行朝新田義興北条時行らとともに海路で東国に向かうために伊勢国大湊より出帆した。しかし遠州灘で暴風雨に遭って船団は四散し、顕信・義良親王・白川宗広らの乗った船は伊勢国へと吹き戻され、のちに義良親王とともに大和国吉野へと帰還した。
その後に再び奥州への下向を企図し、暦応3:興国元年(1340)7月頃には葛西清貞の居城である陸奥国桃生郡石巻の日和山城に入城した。その時期や行路は不詳であるが、父の親房が陸奥国白河郡白川城主の白川親朝に送った書状によれば、5月中旬には顕信の陸奥国下向が近いことを知らせ、6月末には顕信が白河に留まらずに陸奥に赴いたことを詫びている。
以後はここを拠点として南部・相馬・葛西らの諸氏に対して所領の安堵や官途の推挙などを行って糾合に努め、康永元:興国3年(1342)の秋には陸奥国府の奪還を策したが、栗原郡の三迫で北朝方の奥州総大将・石塔義房に敗れ、田村荘(郡)の宇津峰城へと逃れた(三迫合戦)。
康永2:興国4年(1343)には恃みと期待していた白川親朝が北朝方へと転じ、同年11月には常陸国の関・大宝城を拠点としていた親房がこの両城を攻略されて吉野に撤退し、康永4:興国6年(1345)には石塔氏に代わって吉良貞家・畠山国氏の両名が奥州管領として下向して支配体制を強化するなどしたため情勢は厳しさを増し、貞和3:正平2年(1347)7月には霊山・宇津峰城を落とされて勢力が大きく減衰したが、出羽国で拠点を移しながら転戦したり、貞和5:正平4年(1349)には陸奥国岩手郡の雫石城に入城するなど、戦線の維持に努めて抗戦を続けた。
北朝擁立の中心人物であった足利尊氏とその弟・直義の分裂抗争(観応の擾乱)が観応元:正平5年(1350)に激化し、奥州でも畠山国氏が尊氏派、吉良貞家が直義派として抗争に及ぶようになると、顕信はこの機を逃さず陸奥国府へ進軍し、観応2:正平6年(1351)11月には悲願であった国府の奪還を果たした。しかし直義が翌観応3(=文和元):正平7年(1352)2月に没し、尊氏方に帰参して統治体制を整えた吉良氏の軍勢によって3月に国府を逐われた。
国府から没落した顕信らは宮城郡の郡山村に留まって再奪還を窺っていたようだが、戦線はしだいに南へと押し下げられ、文和2:正平8年(1353)5月には宇津峰城をも落とされた。
この後も奥羽を潜行しており、延文3:正平13年(1358)8月には出羽国一宮の大物忌神社に「天下復興」と「陸奥・出羽両国の静謐」を祈願しているが、もはや組織的な軍事行動は見受けられず、康安2(=貞治元):正平17年(1362)発給の文書を最後に奥羽での軌跡が途絶えている。
のちに吉野に帰還し、康暦2:天授6年(1380)11月に没したと伝わる。