浅井長政(あざい・ながまさ) 1545〜1573

近江国小谷城、3代目の城主。通称は新九郎、初名は賢政。備前守。祖父は浅井亮政、父は浅井久政。
父・久政の代の浅井氏は六角氏に圧されて屈し、雌伏を強いられていた。初名「賢政」の「賢」の字は、元服の際に六角義賢よりなかば強制的に与えられたものとされ、正室も六角氏と縁を繋ぐために六角氏重臣・平井定武の女を娶らされたという。
永禄3年(1560)、久政の隠退により家督を譲られた。この久政隠退は、重臣たちの強要によるものと伝わる。同年、父祖の代から争っていた南近江の六角義賢を野良田表に破って圧迫から脱した。永禄6年(1563)に起こった六角氏の内訌(観音寺騒動)に際しては反乱諸氏を支援して愛知川まで軍勢を出している。
永禄11年(1568)頃にはその勢力圏は北近江3郡(伊香・浅井・坂田)に加えて犬上・愛智・高島の3郡にも拡大、近江国のほぼ全域を支配下に治め、『湖北の驍将』と呼ばれた。
支城在番制、同名被官層への直恩給付、与力化などの新しい家臣団編成を行い、さらには流通経済の発展に対応した商業政策を取るなど、領国支配を堅固なものとする施策をうちだした。
その一方で、外交面においても尾張・美濃の両国を平定した織田信長と友好関係を築き、永禄11年には信長の妹・お市の方を妻とした。信長が足利義昭を奉じて上洛するにあたっては、近江国の大半を制圧する勢力を以て援助した。
しかし元亀元年(1570)4月、信長が越前国の朝倉義景を攻めるに及んで、父祖以来続いていた朝倉家との盟約を重んじて、信長に叛く(朝倉征伐(金ヶ崎の退き口))。このときは朝倉領に侵攻した織田軍を退けたが、同年6月に織田・徳川連合軍と姉川に戦って敗れた(姉川の合戦)。
その後も朝倉義景や石山本願寺、三好三人衆らと結んで、約3年間にわたって信長に対する反撃戦を繰り返すも、ついには天正元年(1573)8月、居城の小谷城に攻め込まれ、お市の方と3人の娘を信長に渡したあとで、城と運命を共にした(小谷城の戦い)。8月28日、29歳。法号は養源院天英宗清。
遺された娘の長女・茶々は長じて羽柴秀吉の側室・淀殿に、二女の初子は京極高次の妻に、三女の達子は徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の妻となった。
なお、長政には寛永9年(1632)、従二位・権中納言が追贈されている。