東岩倉(ひがしいわくら)の戦い

応仁元年(1467)の京都で始まった応仁の乱は、緒戦の上御霊社の戦いでは山名宗全らの支援を得た畠山義就細川勝元派(東軍)の畠山政長を逐い、5月下旬の上京の戦いでは細川方が汚名を雪いだものの、山名方(西軍)の勢力として大内政弘勢が到着した後の9月に起こった三宝院の戦いでも山名方が勝利し、京都では西軍方が優位な情勢となっていた。
この情勢を見てのことか、東軍方に属していた幕府将軍の足利義政は畠山義就に宛てて、畠山政長と手打ちをして帰国することを勧める御内書を送っているが、当の義就は13日に内裏を占拠し(後花園上皇・後土御門天皇は前月下旬より将軍御所に臨幸している)、山名宗全らは細川勝元邸を攻めるなど、西軍方の攻勢は止まらなかった。そして14日にはあろうことか、天皇が臨幸している将軍御所(室町殿)にまで攻撃をかけ始めたのである。
一方、7月20日に3万ともされる大軍を率いた大内政弘が摂津国兵庫に着いてより、その迎撃にあたっていた細川氏被官の秋庭元明や赤松氏被官の浦上則宗ら5〜6千の軍勢は、数度の戦いに敗れながらも大内勢を追撃して入京しており、9月14日に東寺に、16日には東岩倉の南禅寺山に陣を取っていた。
しかし京の市中の過半は西軍に制圧されていたため、東軍本陣と連絡も取ることもできずに合流できる機を窺っていたが、18日になると西軍が攻撃をかけてきたのである。
秋庭・浦上らはこれをなんとか凌ぎ、10月2日に至って、ようやく神楽岡から御霊口を回って東軍本陣にたどり着くことができたものの、東山一帯の南禅寺や青蓮院などが焼失した。
東軍はさらに敗戦を重ねることとなり、花の御所を中心とする京都の東北隅に追い込まれる状態となったのである。
なお、この間の9月20日には、後花園上皇が突然に出家して法皇となっている。その心情は詳らかでないが、大乱の勃発に責任を感じてのことともいう。