応仁元年(1467)5月28日に室町幕府8代将軍・足利義政が下した停戦命令が効いたものか、細川勝元派と山名宗全派による上京での両軍の抗争は沈静化に向かった(上京の戦い)。しかしこれは両勢が和睦したのではなく、あくまでも一時停戦しただけであり、5月30日には両陣営がそれぞれの要害の防備を固めたり、軍勢の補充・強化などを行っている。
そして6月1日、勝元は義政に対し、将軍旗(牙旗)と山名宗全治罰の綸旨の拝領を願い出た。どちらも下されれば自身の戦闘行為が正当化されることとなるものである。将軍旗の拝領については反対する者もあったが、3日に細川陣営(東軍)に与えられた。これによって東軍は将軍の信任を得た「幕府軍」として位置づけられたことになる。
その後の6日(あるいは7日)には東軍陣営において評定が持たれ、8日に西軍方へ総攻撃をかけることが取り決められ、その総大将に義政の弟・足利義視が任じられたのである。
しかしその8日に至って西軍の一部の将から降伏の申し出があり、ひとまず総攻撃は延期された。義政は諸将に御内書を送って更なる降伏者を募ったものと見える。宗全の二男である山名是豊は降伏して義政に祗候しているが、降伏の意を示した土岐成頼・六角高頼などは偽装だったという。
この後も小規模な戦闘は散発するものの、この時点においては政治的に東軍方が優勢だったといえよう。
しかし7月20日に西国屈指の大名である大内政弘勢が西軍方として摂津国の兵庫に到着し、8月23日には3万の軍勢を率いて京都南方の玄関口にあたる東寺に、24日には船岡山に移動して本陣とした。
東軍方はこれ以前より大内勢東上の情報を得ており、大内勢が到着するまでに西軍の首魁である斯波義廉の邸を落とそうと攻撃を加えていたが成らず、大内勢の上洛間近となった20日にはその囲みを解いて撤退している。
そして大内勢が入京した23日の夜、足利義視が東軍の陣営から姿を消した。北畠教具を頼って伊勢国へと向かったのである。この義視の出奔は、かつて義視を讒言した結果として失脚を余儀なくされていた伊勢貞親を召還した義政への不信感が募っていたことが大きな理由とみられている。
こうした事情から東軍方は動揺し、逆に西軍方では士気が上がっていた。
そして9月1日、内裏警固のため三宝院に布陣していた東軍方の武田元綱の軍勢が等持寺に陣取る畠山義就勢に矢を射かけたところ、畠山方の兵が迎撃に出てきて戦闘となり、このとき武田方では9人が討たれたという。
追い崩された武田方が三宝院に退却すると、西軍方は畠山・土岐・六角ら5万ともされる大軍をもって攻撃をかけたといい、この攻撃によって三宝院は火をかけられて焼亡するに至った。