九戸(くのへ)の乱

陸奥国の南部家では、当主の晴政・晴継の相次ぐ死によって一族の石川(南部)信直が第26代に迎えられたが、同じ一族の九戸政実は不満を抱いていた。政実の弟・実親は晴政の二女を娶って南部一族として処遇されていたが、跡目相続の政争に敗れたためである。その内紛が解決されないまま、羽柴秀吉による奥州仕置きという事態になった。南部を名乗るようになった信直は秀吉の傘下に入ったが、政実はこれに属さず、秀吉の軍勢が撤収するとともに、公然と信直に対する謀叛にたちあがったのである。

天正19年(1591)3月、政実は櫛引清長・七戸家国・久慈備前守らを誘って、自分たちに味方をしない諸氏の城を攻めはじめた。これに対し信直も北・名久井・野田・浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、政実らの勢力が強大化し、ついに信直は嫡子・利直と重臣の北信愛の2人を上洛させ、秀吉に援軍を要請したのである。
秀吉にしてみれば、ようやく全国統一を成し遂げたばかりのところに反乱軍の蜂起ということになり、奥州再仕置きの軍を向けることになった。前年(1590)秋より葛西氏・大崎氏の遺臣たちも蜂起しており、いわゆる「葛西・大崎の乱」を起こしていたからである。
秀吉は甥の豊臣秀次を総大将に、九戸政実討伐の大将として蒲生氏郷、葛西・大崎の乱討伐の大将として伊達政宗を任命した。
氏郷が会津若松を出発したのは7月24日、軍勢は3万であった。8月7日頃には浅野長政の軍と合流して二本松から北進を開始し、23日に和賀に着陣。このあたりから九戸勢との戦いが始まり、9月1日には姉帯城および根反城を落とし、その勢いで九戸城の包囲にかかったのである。
この包囲軍には、大谷吉継の配下として出羽国の諸将も九戸城攻めに動員されており、小野寺義道戸沢盛安秋田実季らがこれに加わっていた。またそれだけでなく、津軽為信松前慶広も北から南下して包囲網に加わり、そのため、九戸城の5千の城兵は、6万もの大軍に包囲されることになってしまったのである。
攻城軍は火矢や鉄砲、さらには松前勢のようにアイヌの毒矢を使って攻撃し、ついに9月4日、九戸氏に所縁の深い薩天和尚の取り成しによって降伏することとなった。
その日、政実・櫛引清長は剃髪して法衣に身を包んで降り、城を出て本陣の三迫に送られ、そこで百五十人余の主だった城兵と共に斬首されたのである。一方、大将の降伏で命を助けられると思っていた九戸城の城兵たちは二の丸に追い籠められ、そこに火をかけられて非戦闘員の婦女子に至るまで皆殺しにされてしまった。
この合戦ののち、信直には和賀・稗貫・志和の3郡が加増された。