写界生活
若き日、報道カメラマンの端くれとして、あちこち駆け巡った。
その時々に体験した珍談・奇談・失敗談を恥ずかしながら紹介しよう。
★日本国内で★
ダメもとで送り込んだカメラだったが、果たして、写してくれたのだろうか?? 半信半疑ながら現地近くの旅館に作っていた押し入れ暗室に飛び込み現像してみたら、「やった! 写っている!」。フィルムを抱きしめたいような感動が走った。大急ぎで画像を本社へ電送。翌日の紙面に大特ダネ写真≠ニして一面トップを飾った。
|
ヘリ機内で現像処理 夏の高校野球甲子園大会ーーその開会式を迎える度に思い出されるのは、球児たちの入場行進をする光景のカラー写真を夕刊紙面に掲載するため、ヘリコプター機内で現像しながら名古屋本社まで飛び、締め切り時間に間に合わせたことだ。 昭和50年代当時、写真電送といえばモノクロ写真のみで、カラー写真を送る電送機がまだ開発されてなかった。何とかカラー写真で紙面を飾る方法はないものかと、写真部員一同で色々と考えた。その結果、撮影済みフィルムをヘリで運び、会社の上空で投下すれば間に合うのではーーだった。 しかし、その方法は投下されてから現像処理(1時間余)を行うため、原稿締切時間の遅い一部地域の配達紙面のみ有効で、遠方へ発送される紙面には間に合わない(遠方は相変わらずモノクロ写真だった)。全地域への紙面にカラー写真をと、さらに写真部一同で考え出したのが、ヘリで運ぶ時間を利用して、機内でフィルム現像できないものか? フィルム(エクタクローム)のE6カラー現像処理は最初の数液は暗室で、あとの数液は明るい所でも作業できる。その特性を利用して、撮影直後、写真電送車に持ち込み、暗室部分での現像作業を行いつつ、ヘリが待機している場所まで運び、以後、明るい所で出来る現像処理をヘリ機内でやる方法だ。さっそく先輩がテストした結果、可能と分かった。 翌年から、「ヘリ現像」に切り替えられ、以来10年間連続出場≠ナ己が担当した。暗室部分での処理は臨時へリポートまで走る写真電送車の中で。そしてヘリに乗り移って後処理をしながら名古屋へ。機内で大変だったのは液温管理。機体が上昇下降で気温が変る。それが液温に影響する。液温の高低でカラーの色調が狂う。その対策に、お湯、冷水、氷を詰めたポット(魔法瓶)を何本も準備し、液温計とにらめっこしながら、温めたり、冷やしたりと大忙し。フィルム乾燥は当初、ヘリの排気ガスでやろうとしたが、ばい煙等が付着するため、ヘリの電源に家庭用のヘアドライヤーが使える変換機器をつなぐことで成功。 ヘリから新幹線へ ある年の開会式。予定通り撮影を終え、走る写真電送車内で初期段階の現像。ヘリに乗り移って後処理をしながら名古屋へ向かった。しかし道中の鈴鹿山脈は厚い雨雲に覆われ、ヘリの行方に立ちふさがる。越すに越されぬ鈴鹿の山々。おまけに霧も出て有視界飛行のヘリには二重の苦行。パイロットは鈴鹿の山越えコースをやめて、低空飛行で新幹線の線路を目印に関ケ原コースを進んだ。だが、低空飛行は高圧線にひっかかる恐れもあり危険がいっぱい。パイロットの表情は固く、背中のシャツは冷や汗?でびっしょり。 何とか関ケ原を通過して濃尾平野に差し掛かった時、突然パイロットから「あきらめて下さい!」と悲鳴にも似た声が発せられた。先に横たわる木曽三川(揖斐川、長良川、木曽川)沿いには高圧電線が何本も張り巡らされており、それが霧に包まれていて見えなくなっている。天気の良い日以外は、避けて通る魔の飛行コース。高度を上げればますます視界不良で、一瞬でも高圧線に触れたらお終い、命には代えられないーーと。前へも後ろへも飛ぶことが危険となり、ヘリは霧が晴れるまで緊急避難で降下して羽島市内の宅地造成地に臨時着陸しようとした。 その時、宅地の端にあったプレハブの建物から数人が飛び出してきた。ヘリに近づくと危ないから下がれ下がれと大手を振って合図したが、うち一人が思わぬ行動を始めた。それにはパイロットもびっくり。飛行場で見られる「着陸OK」の誘導合図だ!。 後で聞けば、その人は元航空兵で離着陸誘導の経験があったとのこと。 プレハブの建物は仮設の選挙事務所で、たまたま前日の選挙で候補者が当選し、支援者らと祝勝会を開いていた最中。その祝勝会を我々のヘリが取材に来たと勘違い。それには申し訳なく思いつつ事情を話したところ同情され、「それなら新幹線で--」とアドバイス。通りかかった配達途中の郵便車を止めて、「この人たちを大至急、岐阜羽島駅まで送ってやってくれ!」と。われわれは赤い郵便車で羽島駅に配達?された。そのお蔭で夕刊にカラー写真が間に合った。 羽島の皆さんには感謝、感謝。 |
|