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写界生活

 若き日、報道カメラマンの端くれとして、あちこち駆け巡った。
その時々に体験した珍談・奇談・失敗談を恥ずかしながら紹介しよう。

  ★日本国内で★


   落盤事故現場で


 1959年春、岐阜県の奥飛騨・荘川村(現・高山市荘川町)で、当時としては珍しい巨大なロックフィル式の「御母衣ダム」が建設されていた。その現場で、大きな落盤事故が発生した。放水路となるトンネルの掘削現場で土砂が崩れ、作業中の20数人が生き埋め・孤立した――その取材に駆けつけた。

 落盤現場はトンネルの入り口から約800メートルほど先。しかし、崩れ落ちた土砂がトンネルを埋めており、近づけない。空気を送り込む直径約30cmほどの鉄管を通じて、閉じ込められた作業員との会話で、全員元気で救助を待っていることが分かった。建設関係者、消防関係者らが崩れた土砂の取り除きをはじめる一方で、壊れなかった空気鉄管を使って、作業員を励ましたリ、食料などを送り込んでいた。

 閉じ込められた作業員たちの姿を何とか写真に撮れないものか――通常では当然無理な話。それでも何とか―と考えていた時、ふと閃いたのは、鉄管を通して送り込む食料などの中に、カメラを忍ばせるーーだった。その発想を現場責任者にこっそり話して頼み込みんだところ、責任は持てないよ--と言いつつ
OKの返事。さっそく小型カメラと「皆さんの元気な姿を写して下さい」とメモ書きした紙片をタオル2枚でぐるぐる巻きにして食料と一緒に送り込んだ。そしてじりじり待つこと約1時間。タオルの塊が戻されたてきた。

 ダメもとで送り込んだカメラだったが、果たして、写してくれたのだろうか?? 半信半疑ながら現地近くの旅館に作っていた押し入れ暗室に飛び込み現像してみたら、「やった! 写っている!」。フィルムを抱きしめたいような感動が走った。大急ぎで画像を本社へ電送。翌日の紙面に大特ダネ写真≠ニして一面トップを飾った。

 

 
  後日ふと、あの時、誰がシャツターを切ってくれたのか?  関係者に尋ね歩いたが不明のまま。 
いまも感謝の気持ちと、あの瞬間は忘れられない。
 



   ヘリ機内で現像処理


 夏の高校野球甲子園大会ーーその開会式を迎える度に思い出されるのは、球児たちの入場行進をする光景のカラー写真を夕刊紙面に掲載するため、ヘリコプター機内で現像しながら名古屋本社まで飛び、締め切り時間に間に合わせたことだ。

 昭和50年代当時、写真電送といえばモノクロ写真のみで、カラー写真を送る電送機がまだ開発されてなかった。何とかカラー写真で紙面を飾る方法はないものかと、写真部員一同で色々と考えた。その結果、撮影済みフィルムをヘリで運び、会社の上空で投下すれば間に合うのではーーだった。

 しかし、その方法は投下されてから現像処理(1時間余)を行うため、原稿締切時間の遅い一部地域の配達紙面のみ有効で、遠方へ発送される紙面には間に合わない(遠方は相変わらずモノクロ写真だった)。全地域への紙面にカラー写真をと、さらに写真部一同で考え出したのが、ヘリで運ぶ時間を利用して、機内でフィルム現像できないものか? 
 フィルム(エクタクローム)のE6カラー現像処理は最初の数液は暗室で、あとの数液は明るい所でも作業できる。その特性を利用して、撮影直後、写真電送車に持ち込み、暗室部分での現像作業を行いつつ、ヘリが待機している場所まで運び、以後、明るい所で出来る現像処理をヘリ機内でやる方法だ。さっそく先輩がテストした結果、可能と分かった。

 翌年から、
「ヘリ現像」に切り替えられ、以来10年間連続出場≠ナ己が担当した。暗室部分での処理は臨時へリポートまで走る写真電送車の中で。そしてヘリに乗り移って後処理をしながら名古屋へ。機内で大変だったのは液温管理。機体が上昇下降で気温が変る。それが液温に影響する。液温の高低でカラーの色調が狂う。その対策に、お湯、冷水、氷を詰めたポット(魔法瓶)を何本も準備し、液温計とにらめっこしながら、温めたり、冷やしたりと大忙し。フィルム乾燥は当初、ヘリの排気ガスでやろうとしたが、ばい煙等が付着するため、ヘリの電源に家庭用のヘアドライヤーが使える変換機器をつなぐことで成功。


   ヘリから新幹線へ

 ある年の開会式。予定通り撮影を終え、走る写真電送車内で初期段階の現像。ヘリに乗り移って後処理をしながら名古屋へ向かった。しかし道中の鈴鹿山脈は厚い雨雲に覆われ、ヘリの行方に立ちふさがる。越すに越されぬ鈴鹿の山々。おまけに霧も出て有視界飛行のヘリには二重の苦行。パイロットは鈴鹿の山越えコースをやめて、低空飛行で新幹線の線路を目印に関ケ原コースを進んだ。だが、低空飛行は高圧線にひっかかる恐れもあり危険がいっぱい。パイロットの表情は固く、背中のシャツは冷や汗?でびっしょり。

 何とか関ケ原を通過して濃尾平野に差し掛かった時、突然パイロットから「あきらめて下さい!」と悲鳴にも似た声が発せられた。先に横たわる木曽三川(揖斐川、長良川、木曽川)沿いには高圧電線が何本も張り巡らされており、それが霧に包まれていて見えなくなっている。天気の良い日以外は、避けて通る魔の飛行コース。高度を上げればますます視界不良で、一瞬でも高圧線に触れたらお終い、命には代えられないーーと。前へも後ろへも飛ぶことが危険となり、ヘリは霧が晴れるまで緊急避難で降下して羽島市内の宅地造成地に臨時着陸しようとした。

 その時、宅地の端にあったプレハブの建物から数人が飛び出してきた。ヘリに近づくと危ないから下がれ下がれと大手を振って合図したが、うち一人が思わぬ行動を始めた。それにはパイロットもびっくり。飛行場で見られる「着陸OK」の誘導合図だ!。 後で聞けば、その人は元航空兵で離着陸誘導の経験があったとのこと。
 プレハブの建物は仮設の選挙事務所で、たまたま前日の選挙で候補者が当選し、支援者らと祝勝会を開いていた最中。その祝勝会を我々のヘリが取材に来たと勘違い。それには申し訳なく思いつつ事情を話したところ同情され、「それなら新幹線で--」とアドバイス。通りかかった配達途中の郵便車を止めて、「この人たちを大至急、岐阜羽島駅まで送ってやってくれ!」と。われわれは赤い郵便車で羽島駅に配達?された。そのお蔭で夕刊にカラー写真が間に合った。

 羽島の皆さんには感謝、感謝。

 


★ 外国で ★


   カメラの没収


 中米のホンジュラスとエルサルバドルの国境となる橋の上でクリスマスセールの市場がにぎやかだった。思わず一枚!とカメラを向けようとした瞬間、さっとカメラを奪われた。見れば犯人≠ヘ警察官の服を着ている。まさか警官がと思いつつ「何をするんだ! カメラを返せ!」と思わず日本語で叫んでいた。 しかし、その男はダッシュでその場を立ち去る。追いかけた先は何と国境警察の建物。本物の警察官で、中にいた同僚に二言三言話して金庫の中へカメラを放り込み知らん顔。片言の英語で「カメラを返して下さい。レンズだけでも(予備ボディはあったので)」と訴えたが通じない。 困った! 

 その様子を見ていた若い警察官が、そっと「近くの税関オフィスで相談してみろ」とアドバイスしてくれた。早速出かけて事情説明すると自ら警察の建物に出向き、掛け合ってくれた。そして「20ドル出せるか?」と。ハハァーン、手打ち金だな?と思いつつお札を渡したところ、それは上司の分。取り上げた警察官にも20ドル、その同僚二人にも、と合計80ドル払わされて、やっとのことカメラが戻ってきた。掛け合ってくれた税関職員は謝礼を拒んだが、無理に20ドルを渡して一件落着。トータル100ドルの思わぬ出費は少ない出張費からみれば痛かった。だが、カメラ無くしては仕事にならない。なんだかデキレース≠フ感もあったが、どこかでカメラを新たに買うにしても100ドルでは買えない。有り難く思うことにした。


   5ドルで出国成功

 今でこそ、写真はデジカメで撮影し、ネット送信で画像を外国からでも日本へ送ることは簡単だが、30年ほど前までは国内各地からでも、トランクサイズで20キロ以上もある重い写真電送機を持ち歩かないことには写真送信ができなかった。まして海外取材ともなると、最低限カメラボディー3台、レンズ5本、フィルムだけでもダンボール2箱。とても一人で電送機まではーー。そのために、取材済みフィルムを日本の編集者の元に送るのに、あの手この手を考えるのが特派カメラマンの必須でもあった。

 中米パナマで撮影済みのフィルムを、パナマ空港で日本へ向かう人を探して託そうとしたが適当な人が見つからず、やむなくメキシコまで自身で飛び、メキシコ空港にあるJALのオフィスに依頼することを思いついた。早速、チケットカウンターで知っている限りのスペイン語の単語を並べて、メキシコまでの日帰りチケットを買おうとした。しかし、悲しいかな?言葉が通じず意味不明だったのか、窓口のセニョリータは?? 

 困り顔の己の姿に、セニョリータはどこかへ電話を掛けた。そして、やおら「電話に出ろ!」との手振り。訳もわからず出ると、「メキシコまでの日帰りチケットを本当に買われるのですか?」と明快な日本語の声。何とセニョリータは日本大使館の職員のところへ「確かめてくれ」と電話してくれたのだった。

 一件落着やれやれと思った次の瞬間、再び問題がーー。航空チケットは手にしたものの、入国の際に受け取った出国カードをホテルに置いたままだった。イミグレーションで手振り身振りで出国できるよう説明したが、「NO!」。 飛行機の出発時刻が迫っており、ホテルへ戻る時間はない。ふと悪しき考え?が浮かんだーー(もう時効?だから明かす) パスポートに、こっそり5ドル札を挟んで再度窓口に差し出した。担当官は一瞬 ?? 次の瞬間、にっこり笑って「OK!」
 無事メキシコへ、そして日本へ発送することが出来た。


   撮影謝礼でびっくり

 外国での撮影で、人物撮影すると謝礼を要求されることが度々ある。東南アジア、中南米などを旅していてそうした場面に何度か出くわした。当然、それなりの謝礼はするのだがーー。

 そうした中で、とくに驚いたのは南米ペルーとボリビアの国境にある巨大なチチカカ湖の湖内に浮かぶ葦の島で生活する家族の取材をした時のこと。ひと通り撮影を終えた後、一家の主にお礼としてペルー紙幣を持ち合わせず、財布にあった米ドルで5ドル渡した。

 ところが、その主は「これはおれの分、女房にも、子供にもそれぞれ渡してくれ――」という。中学生ぐらいから赤子まで5人それぞれに、というわけ。これにはびっくり。躊躇していると「島から帰さない」と通せんぼ。やむなく、一人一人に1ドルずつ合計11ドルを渡して島を離れることが出来た。
 
  通常、日本で謝礼する場合、一家の主に謝礼すれば、それで全てお終いなのに―。当時、ペルーでの米1ドルの価値は約千円ほどの価値。ペルー貨幣を持ち合わせていたら小銭で済んだと思われたが、後の祭り。まさかそんな要求の仕方をされるとは想定外。その国に入ったらその国の小銭をチェンジしておくことを痛感。その後はその国の小銭をたくさん持って旅するようになった。