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写界裏話


  どんな世界にも、裏話とか、秘話というのが数限りなくある。私が係わった写真の世界にも、小さなことから大きなことまで色々と有った。

 そうした話は、ある面企業秘密的な要素も含まれていることが多々。いわば当事者の間で分かり合っていればよいことであり、一般に公表すべきほどのものではない−−とのロックが、当事者間で暗黙のうちにかけられてもいた。

 一例として、日々の新聞や雑誌等で見かける写真は、どのように取材され、運ばれ、掲載されるのか?そんな疑問をもたれる方も多いと思う。普段、そうした流れは表に出ない話であり、実はマスコミの世界で働く人間ですら、取材者以外は知る人は少ない。
 
 そうした話の中から、あえてこのコーナーで紹介しようとしているのは、小生が体験したアナログ(フィルム)カメラ時代の「写真送稿手段」についてのことである。

 昭和40年代、写真送稿の主役は「写真電送機」だった。その電送機も当初はプリント写真をドラムに巻き付けて回転させながら光を照射、その反射を電子記号に変換して送信するもの。もう一つは後年開発された現像済みのフィルムに直接光を当ててその透過光を電子記号に変えて送信する二種があった。

 しかしながら写真電送機は、デジタルカメラの登場で、撮影画像をそのままパソコン+スマホ経由でいとも簡単に写真送稿できるようになり、主役の座を降ろされるどころか、それを扱う作業も消え、廃棄へとなってしまった。そのため企業秘密的な条件も薄れたと勝手に解釈してここに開陳したのである。


事件現場近くの取材基地に設置されたプリント写真電送機

 かつての報道カメラマンは、撮影するのは無論だが、撮影画像を本社に送信する役も重要な任務だった。その手順を記すと、まず撮影現場近くに仮暗室を作る。その傍ら写真電送機に電話回線をつなぐ作業。それを済ませてから撮影に走る。 撮影後、仮暗室に飛び込みフィルムの現像処理、続いてプリント作製。出来上がったプリントを電送機のドラムに巻き付け、そのドラムを回転させながら光を当てて電気信号に変換し、電話線で送る−−それを繰り返し行ってきた。

 電送時間だけでキャビネ判(2L版二枚分ほど)サイズ1枚送るのに約7分。撮影から現像処理、電送が終わるまで、たった1枚で約1時間かかった。

 従って報道カメラマンは、まず原稿締め切り時間+写真電送時間を頭に置き、次に撮影にかける時間を割り出して行動することが原則。そのため、締め切り時間が迫っている時など、撮影は数分以内というのが日常茶飯事。粘って傑作を――は余程余裕のない限り不可能。とはいえ、わずか数分の撮影時間であっても編集者からは傑作を要求されるので、必死にアングル求めて駆け回ったものである。

 「いくら傑作だろうが、特ダネ写真≠セろうが、締め切りに間に合わなければ、撮れなかったことと同じだ!」 

 プロの世界に飛び込んだとき、上司の第一声はそれだった。撮影は当たり前のこと、その写真を如何に編集者の元へ早く届けるか−−それが報道カメラマンの使命であり、必須の条件でもあった。

 そうした苦労が、デジタル時代の到来で、画像の送信はパソコンとケータイ電話があれば撮影現場からいとも簡単に送ることができ、画質にこだわらなければスマホで撮影し、そのまま送信すれば数分で編集者の手元に届くなど驚異的に簡略化された。

 アナログ時代に生きたカメラマンにとっては信じられない変換で、驚愕の限りである。

  以下、汗と涙と苦笑いの中で、日々体験した写真電送について紹介しよう−−。 と、その前にーー。


  先輩たちから聞いた「伝書鳩送稿」を明記しておこう。
  写真電送機が無かった昭和30年代中ごろまで、先輩たちは写真フィルムの送稿手段の一つに伝書鳩を使うこともあった。当時、会社の屋上に鳩小屋があり、飼育担当者も居て100羽近い伝書鳩が飼われていた。カメラマンは取材に出かける時、撮影機材一式と、ハト数羽をカゴに入れて携行した。

 当時の使用カメラはパルモスやスピグラで、そのフィルムは一枚一枚が分離でき、それを利用して、撮影済みフィルムの一枚一枚を暗箱や暗袋の中でタバコより細くて薄く軽いニューム管に巻き込んで入れ、数羽の鳩の背中に1本づつ背負わせて編集者の元へ飛ばしたのである。

 1羽だけでは帰路、タカなど猛禽類に襲われたり、方向を見失ったりすることもあるため、数羽に託した。しかし、一番の傑作や特ダネ写真を背負わせた鳩が行方不明になったり、途中で他社の鳩と一緒に飛んでそちらへ届けたりで、泣くに泣けないことも度々だったとのエピソードもあり、先輩たちの苦労が忍ばれた。

   次に写真送稿の主役だった「電送機」や電送車、またその扱いなどを――。


  「写真電送機」とは、撮影現場近くから電話線あるいは無線電波で、編集者の元へ写真を送信する精密機器で、昭和40年代、すでに「モノクロプリント電送機」が開発されていた。外側がアルミ合金製で、大型の旅行用トランク様式になっており、トランクの内側片面に有線(電話線)と無線それぞれ接続できる装置がセットされ、もう片面にプリント写真を送信する設備が凝縮されていた。

 写真を電送する仕組みは、キャビネ判程度にプリントした写真を円筒形のドラムに巻きつけて、それを高速回転させながら光を当て、その反射光の濃淡を電気信号に変換しながら、電波(有線、または無線で)に乗せて送る仕掛け。装置が仕組まれたトランクは重量が約20キロほどもあり、運ぶのも大変な代物だった。 後にアタッシェケースぐらいに凝縮され、重量も約4分の1程度の電送機も開発された。

 その後、フィルムのコマを直に伝送できる「ダイレクト電送機」も開発され、プリント処理の手間が不要に。さらには世界の報道カメラマン待望の「カラーフィルム電送機」も昭和50年代初めに登場。電送作業も大幅に軽減されて、カメラマンは大喜びしたものである。              

  「写真電送車」
 大事件、大事故発生の取材時、現場が不便な電話回線など無い地域や、原稿締め切り時間が余りない時などに出動する「写真電送車」というのがあった。マイクロバスやジープの車内を改造して運転席のすぐ後ろに写真電送機器のスペース、その後ろに写真暗室が配置されていた。また車の屋根の上には無線アンテナと撮影台もセットされ、それこそ「走る写真処理室」。カメラマンと一緒に現場へ駆けつけ活躍したが、色々な設備が満載されているため、重すぎて早く走れないのが難点だった。

  「空からの写真電送」
 航空撮影の場合、暗室処理が出来ないため、緊急時には大判のポラロイド・フィルムで撮影。それを無線電波につないだ電送機で送信。その時の使用カメラは大型のスピグラや、小型でも大判のポラロイドフィルムが使えるよう、フィルムホルダー部分を改造した特製カメラを使った。このカメラは広角から望遠までレンズ交換が可能で、緊急時の撮影に重宝した。

  「海からの写真電送」
 船舶事故などの取材時、取材船に携行型の衛星通信インマルサット無線機と電送機を持ち込み、締め切り時間が近い時はポラロイド撮影で、多少余裕のある時は船内に造った仮暗室で現像処理した写真を、衛星経由で送稿することも。天候等で電波が届かない場合、船長に特別許可を得て船に搭載されている船舶無線などを利用したこともまれにあった。

  「へき地からの写真電送」
 電波の谷間となっている地域や電話線の届いていない地域、また山岳遭難取材時などは、無線電波が届きにくいため、本社のヘリコプターに上空を飛んでもらい、ヘリコプターを無線中継基地にして送信することも手段の一つだった。

 ちょっと一息――有線電話で写真送信中、突然「もしもし!」と電話局員の声が割り込んでくることがよくあった。そうした声は写真送信には雑音となり、写真の中に白線や黒線となって表れ、せっかくの写真が台無しに。そのため、最初から送り直すことになる。局員にしてみれば話し声が聞こえず、ピッコロピッコロという変な音(写真送信音)だけが聞こえるため、回線が故障しているのではとチェックしてくれているのだが、こちらにはいい迷惑。急いで送る時など「局員さん、割り込んでこないでー」と祈る思いで送信したものである。

                       ◆
 フィルム時代 「電送機が手元に無い時」
 @撮影現場が近い時―――撮影済みフィルムを、自分で走って持ち帰る。
 A少し遠方であれば---タクシーで運ぶ。
 Bもっと遠くなら―――電車・列車で運ぶ。
 Cさらに遠くなら―――ヘリコプターで運ぶ。
 D外国なら―――日本へ帰る人を空港で探して託すか、エアカーゴに依頼する。

 ★A−Dの場合、取材を継続する時は、フィルムに撮影メモをつけ、それを運転手さんや車掌さんらに託す。そして、編集者には電話で「○時○分に◇◇場所から△△タクシーに(あるいは○○時に××駅に到着する電車に、さらには○○空港から◆◆便の飛行機に)託したので、受け取りよろしく--」と連絡。

 ★またCのヘリで運ぶ場合、撮影現場周辺に着陸場所が有る時はパイロットに手渡し。無い時は空中停止したヘリから、先端に袋のついた長い紐を垂らしてもらい、その袋の中へ撮影済みフィルムと写真説明用紙を入れ、吊り上げて運んでもらう。

「たった1枚の写真」のために―アナログ時代の報道カメラマンは、
上記のような「送稿ドラマ」のどれかを、日夜、演じていたのである。


 このページを読んで頂いたことを機に、新聞・雑誌などに掲載されている写真の裏側に、どんなドラマが秘められているのか、またそれを撮影したカメラマンの泣き笑いを推理したり、想像したりしながら、見て、楽しんで頂ければ幸いである。

 最後に、カメラマンの汗と涙の送稿ドラマがあった傑作≠ノもかかわらずタッチの差で締め切りに間に合わず、また編集者の判断で日の目を見ずして消えた傑作≠ェはるかに膨大な数であったことも付記しておきたい。



*当ホームページの別項「写界生活」の中でも写真送稿話の一部を紹介しています。