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ベンガル仏教徒の歩み







ベンガル仏教徒の歩み
−失われた栄光のために−1         [平成11年(99)2月記]

 インドの仏教は、一般に13世紀初頭に衰滅したと記されてきた。確かに、完膚無きまでにイスラム教徒の進軍の前に、為す術もなく寺院は破壊され、僧侶や仏教徒たちの多くが殺され、仏像は壊されてしまった。

 土地を離れず改宗した者たちも大勢いただろう。しかし、その陰で、信ずるものを心に秘め、それが故に住み慣れた土地を捨て逃れゆく者たちもあった。

 当時仏教の最後の砦となっていたベンガルの地は後期密教がその主流であったといわれる。そのため、多くの人たちは北へ進みチベット、ネパールへ難を逃れたであろう。

 が、ここで私が述べようとする今日もなおベンガルの地で仏教徒として生き続けている人々の祖先はその遥か以前から更に東へビルマ国境へと逃れていった人たちである。

 彼らは自らを今日のビハール州ガンジス河中流域に住んでいたかつてのマガダ国の末裔であると信じている。西域からの異教徒の侵入は既に8世紀ごろから頻発していたため、争いを好まない彼らは東部へ避難。

 その頃カルカッタの町はなく、北へ回ってアッサムやマニプールを通ってビルマ国境のチッタゴン丘陵部やビルマのアラカン地方に逃れたと言われている。龍山章眞氏著「南方佛教の様態(昭和17年刊)」によれば、このアラカン地方にはかなり古くからアッサムやマニプールを経て陸路で移りきたった民族によってインド文化が伝えられたとある。

 以前からあったこのルートをたどって彼らもその地にたどり着いたのかも知れない。移住したそれらの土地に以前から住む仏教徒たちとともにベンガル仏教徒と呼ばれるが、彼らはその中にあっては多数を占め、バルア姓を名乗るため、バルア仏教徒とも言われる
 
 歴史を書き記す習慣の無かったインドにあっては、その後どのように彼らが暮らしていたかを物語ることは容易ではない。唯一の史料といえるものは中国からインドに渡った法顕や玄奘といった中国人僧侶の旅行記に記されていることから推察する他はない。

 7世紀にインドを訪れた玄奘によれば、ガンジス河河口東ベンガルの地には、伽藍30僧2000人上座部の法を学んでいると記しているから仏教が盛んに行われていたことを伺わせている。

 しかし、それがチッタゴンに逃れた彼らとどのように関係しているかは今となっては知る由もないのである。その後12世紀までこの地を統治するパーラ王朝セーナ王朝は密教化した仏教を保護したことからベンガル一帯には密教寺院の遺跡が今日も見られるという。

 <ベンガル近世史>
 13世紀から始まるムスリム支配の間、ベンガルの歴史はイスラムの侵略と大きく関わっていた。

 イスラム教は大衆を改宗させることで勢力を拡大させていったとされるが、当時南インドで台頭してきたマラーター王の政治的圧力によってヒンドゥー教徒への改宗を断念し、代わりにベンガル地方の仏教の痕跡を消したがっていたヒンドゥー勢力と手を結び、仏教徒排斥をはかったといわれている。

 それにより、チッタゴン丘陵部の隣に面するアラカン王の支援によって、仏教徒が強力に統治していたチッタゴン南東部を除いて、瞬く間にイスラムの土地と化していった。こうしてチッタゴンは常にベンガル人とアラカン人の間で統治され抗争する土地となっていった。

 その後1666年まではチッタゴン南部はアラカンによって統治されたが、時にはトリプラのヒンドゥ王やムスリムによって占領されることもあって、1482〜1532年の間はアラカン地区の暴動によりたくさんのアラカン移民がチッタゴンに移り住んだ。

 その後ポルトガルから来た海賊にチッタゴンの仏教徒は戦闘の末敗れてしまうが、100年間は彼らの利益のために共存する道を歩んだ。

 しかし、1666年シェスタカーンはポルトガルに土地を与える代わりにアラカン人たちを排斥させることをたくらんだ。それによりアラカン人は土地を追われ、チッタゴン全域がムガール皇帝の領土と化した。

 この悲しい事件はまさに仏教徒にとって大きな打撃となった。ほとんどの仏教徒が力でムスリムに改宗させられることを嫌ってチッタゴンを去っていった。仏教徒2000人が捕虜となり、ポルトガルに囚人として売られてしまった。

 しかしベンガル語を話す仏教徒は国を去らず、あちらこちらへと潜伏していた。それから100年間はアラカン政府の保護も庇護もなく逆にムスリムは西部から多くのイスラムの人々をチッタゴンに移住させた。

 彼らは暗殺したアラカン王家の血筋のものを傀儡として政府を作った。1692年王宮は焼かれ、無政府状態になり、次々に王が暗殺され、村人は常に戦争状態に置かれた。

 その間に英国東インド会社が現れた。1760年9月29日、チッタゴンは彼らの手に渡った。1774年彼らはビジネス上の金融力をもってチッタゴンばかりかベンガル、ビハール、オリッサにおいても統治権を手に入れていった。彼らは人々の宗教の問題には立ち入らなかった。が、彼らは強靱な軍隊を養成することに興味を示し、土地のものを採用することを思いついた。

 17世紀のはじめからマグとして知られていた仏教徒はそれを自分たちの立場改善の好機ととらえた。彼らは軍隊に英国兵として初めて採用された。そしてマグのすさまじい統率力と体力を知られることになった。

 後にマグプラトーンとして知られる小隊を編成すると軍の中でその異彩が英国人たちを満足させた。小隊長などに昇進するものも出て、地位が上がった。

 しかし、その後マグプラトーンはその必要性が無くなり解体され、彼らの多くは警察官になっていった。当時のチッタゴンの警察部門は仏教徒が多数派であったという。しかしそれも宗教上の教理にあわないとしてこの職もあきらめるにいたった。

 しかしながら彼らはこの間に主要な土地を自分たちのものにすることに成功していた。もはや彼らは土地なしではなく、彼らの多くが地主となっていた。英国人たちが彼らの信頼感溢れる奉仕に満足したとき、彼らはもはやムスリムを恐れることはなくなっていた。

 彼らの失った土地と財産のほとんどを回復し、新たに寺や僧院を建設した。2,3年のうちに彼らの多くは大規模な農耕地の地主となっていた。そして、バルアの代わりにチョウドリーという名を名乗った。ほかにムツッディ、タールクダールなどと。

 こうして、この英国統治時代にチッタゴンとその周辺地区の仏教徒は彼らの失われた栄光を取り戻すことになった。英国政府が国の安全保障を担っている時期が最も仏教徒の地位が確保されていたのだった。

 1795年、ビルマのボダウパヤ王によってビルマに併合されたアラカンから移民の波がチッタゴンに押し寄せてきた。ビルマ軍の暴虐に朝喉をかき切られることを憂うことなく寝ることの出来るアラカン人はいない程であったという。

 1797年にはある指導者のもとにこの専制政治に反乱を企てるものの失敗に終わり、1798年には更なる移民がアラカンからチッタゴンへと押し寄せた。彼らは英国統治者によって居住を許された。

 アラカンからの避難者を世話するために英国政府から使わされたコックス将軍の名を取って、その場所をコックスバザールと名づけ、今もその名をとどめている。

 さらにこのチッタゴンに入ったアラカン移民を巡って1824〜26年英国とビルマの間でチッタゴンとアラカンの境界地区でアンゴラビルマ戦争が繰り広げられ、ビルマはこの戦いに敗れた。この戦いの前にアラカン人難民がチッタゴンに押し寄せたが、彼らはチッタゴンでの居住を許されず、バルケルガンジに居を構えた。

 英国の開放的な宗教政策によって仏教徒がベンガルの地で再び堅実な宗教活動を再生させることを可能にしてくれた。しかし、その後1947年にインドが独立を果たすに当たっては、東パキスタンに組み入れられることになった東ベンガルからインド領となる西ベンガルへと多くの仏教徒が避難民となって移住してしまった。

 イスラムの土地となる国で再び過去の悪夢がやってくることを憂えての行動であった。この事件は東ベンガル内の仏教徒の位置を大きく低下させることになった。さらに、1971年のベンガル独立戦争で再度彼らの存在が振るいにかけられ、そして今もなお、チッタゴン丘陵部の仏教徒の少数民族は、現実に相応しい待遇を与えられずに今日に至っている。

 <テーラワーダ仏教の再生前夜>

 ムスリム時代、ベンガルの仏教僧院は壊されてモスクとなり、仏教徒の中には殺されるものも出て、多くの人たちが追い払われることになった。仏典は焼かれ、仏像も壊されたり海に捨てられた。

 生き残った僧侶も袈裟を身につけることができず、儀式に際しては袈裟を頭の上にのせて行っていたという。今もチッタゴンにはそのころの名残で、ブッダマカーン(仏陀の家)という名のムスリムの礼拝所が存在している。

 そして、英国時代には仏教徒たちは勢力を取り戻すにいたるものの、不幸なことにこのムスリム支配の間、彼らはすでに彼らがそれまで培ってきた宗教的伝統や教理についてその大切な部分を忘れてしまっていた。

 聖典は失われ、彼らの古の伝統を再興することはそう簡単なものではなかった。生き残った僧侶たちも僧院生活の行儀、規則さえも忘れられていた。

 それらの宗教的荒廃を反仏教徒であるムスリムの破壊的な態度ばかりに責任を求めることもできなかった。なぜならばインドで仏教が衰退していった頃、すでにここベンガルの仏教僧たちは、自らの戒を省みず、またビナヤ(戒律)も失われつつあったからである。

 パーラ朝の支配により、ベンガル全体に仏教の密教化は、現実の生活に追われる人々との触れ合いを失わせ、僧侶たちをますます僧院内の隠れた存在としていったといわれる。僧院では戒の遵守は二の次となり、それをもとに成り立つはずの行も教理も失うにいたったのである。

 結果として、インドで生き残った仏教徒がイスラム支配の末に、英国統治時代を迎えても、仏教徒と呼ばれる人々は多く存在したが、実際には仏教は実践されていない状態であった。

 手に入れた土地に、真新しい建てられたばかりの寺が仏教徒の村々に見られたが、当時は外見からもそれが仏教の寺かどうかもわからず、僧侶もごく稀にしか存在しなかったという。一般の仏教徒もふつうヒンドゥー教徒のようであり、英国人たちもベンガルに仏教が存在するとは思っていなかったようである。

 当時の様子といえば、在家者は様々なヒンドゥーの慣習、儀礼を執り行い、ヒンドゥーのおびただしい神々を礼拝していた。ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー、カールティカ、カーリー、タキニー等々。九星への礼拝もふつうに行われた。また、ムスリムの聖者をも彼らは礼拝していた。

 ヒンドゥーとともに崇拝されていたマガデーシュヴァリーを崇拝する祭儀は村の外れでおこなわれた。雌山羊を屠殺してその新鮮な血と肉を捧げるもので、今日でもノーカリ、チッタゴン、コミラ、トリプラなどに見られる。子宝とすべての人間の病や苦しみを鎮め、特別な願い事を叶えてくれるという。今日ではもちろん血の代わりに赤い色のジュースが用いられている。

 また、僧侶の生活に言及すれば、彼らの袈裟はビナヤに沿って作られたものではなかった。彼らは比丘になる具足戒式(正式な僧侶になるための儀礼)を経ておらず、10歳の子供すら僧として資格が与えられることもあった。

 僧侶たちはほとんどの在家者の集まりに参加していた。結婚の仲人となり、結婚式に出席し、客の応対をも行っていた。夜でも飲食を当然のことのようにしていた。布薩(満月新月の日に行われる懺悔式)や安居(雨期3ヶ月間の僧院内の修養)を知らなかった。

 彼ら僧侶はラーリと呼ばれ、彼らは得度式の後、十戒だけを7日間守り、その後は家に帰り妻子とともに家庭生活を営んでいた。もちろんそのまま袈裟を捨てることなく、宗教儀礼の時だけ袈裟を身につけたのである。普段は在家の服でいるにも関わらず。今ではもちろんこうしたラーリは存在しないが、未だにムスリムは仏教僧をラーリと呼んでいるという。 ・・・次ページに続く。 

     
 参考文献:インド仏教史下巻・平川彰著・春秋社刊
              仏教史1・奈良康明著・山川出版社刊
              Contemporary Buddhism in Bangladesh. Sukomal Chaudhuri
                       (Atisha Memorial Publishing Society)

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