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仏教余話


仏教余話


小冊子「ダンマサーラ」(インドから一時帰国した1994年から、支援して下さった方々の全面的な協力の下に35号発行したB5両面印刷で16ページの布教誌)に掲載した小文を中心に、とき折々の仏教小話集。


もくじ

報恩ということ(↓) なぜ言葉は大切か
ある家庭内暴力の話 被災者の声・ボランティア奮闘
しあわせということ ゴミの話
ナイフ事件の話から チェルノブイリ原発事故十年目の環境問題

報恩ということ
             
[平成8年(96)10月記]


 仏教の古い経典群の中に、“報恩”と題する小さなお経がある。「弟子たちよ、あなたたちに善からぬ人の立場と善い人の立場を示すことにしよう」とお釈迦様が語りかけるこのお経は、私たちが大切にすべきものを教えてくれている。

 「善からぬ人とは、恩を知らず、恵みに気づかずにいる人、これらはまことなき人々が習いとすることである」といわれる。

 そして、「善い人とは恩を知り、恵みに気づいている人であり、これがまさしくまことある人々が習いとすることである。そして私は特に二人については容易につぐないをすることができないと言明する。その二人とは母親と父親に対してである」と続く。

 そして「例え、百歳の寿命の人がその寿命に達し、なおかつその年で母親父親のお世話をし、香を体に塗り、さすり、沐浴させ、もみほぐす。また尿や糞などの排泄物を処理したとしても、それでもなおかつ両親に対して何事かをなした、あるいはつぐないを果たしたことにはならないのである」とお釈迦様は諭される。

 お釈迦様の時代も、今と変わらず、老親のお世話を怠る人もあったのであろうか。出家しているお坊さんたちにとって、自分の師匠はお父さんと同じ様にお仕えするようにと言われる。

 家を出てしまっているのだから、親の世話をしなくて良いという訳ではないのであって、師匠を父親と思って部屋の掃除、身の回りの世話から、洗濯、また臥せっているときには看病も功徳を積ませて頂く大事な仕事となる。

 私もカルカッタにいる間は、71歳になる師匠のすぐ裏に部屋を借りて、何かというと呼ばれては手紙のリライトやら、本や書類の整理、タイプライターを使う手伝いなどさせていただいた。

 水と言われれば静かにコップに水を注ぎ差し出し、ファンと言われれば扇風機のスイッチを入れる。どんなことでも、とにかく言われたことはひとつ返事で迅速に済ませなければいけない。

 がしかし、私の場合は、インドの暑さや過酷な交通事情から体調を害することも多く、逆に心配をかけることも多かったようだ。また今年(1996)も恒例の様にマラリヤにかかり、寺内の人達にご面倒をかけてしまった。

 師匠の部屋を一緒に掃除をしたり、何かと私のことを気づかって下さる50過ぎの先輩のお坊さんは日に何度も見舞い、身の回りの世話もして、洗濯物まで洗って下さった。

 日本のように洗濯機で洗うのではなく、洗剤を入れた水にしばらく漬けておいてから、床に擦り汚れをしぼり出すように洗う。何とも申し訳なく、こちらの気持ちを伝えると、笑いながら自分がそれをして徳をもらうのだからと静かに言われた。

 よく托鉢などでも、布施をする側が布施をさせてもらって功徳を積ませてもらいありがとうございますとお礼を述べるもの、と言われるが、先輩のお坊さんからこう言われたときには、逆にこの方に対して本当に手を合わせたいありがたい尊敬の念が沸いてきたことを思い出す。

 してやったぞという思いも、何か見返りを期待してという気持ちもまるでない、そのやさしさに、この方との心のつながりを大切にしたいと思わせる一瞬であった。このようにお世話をしたり、またしていただくことによって、その相手からお互いに学ぶということをしているのではないかと思える。

 今、老いた父母が子供たちと別居している家も多い。介護を必要としても、尚かつ様々な理由からお世話を第三者に託さざるをえないケースも多いのではないかと思う。

 公的介護保険の制度が衆目を集めてもいる。女性の社会進出や少子化によって当然議論されるべき問題なのだとは思う。

 しかし、そうして制度化されることで、お任せすることが当たり前となり、心を失っていくことになりはしないものかと心配される。また、そうした制度化の中にあると、介護を受けることが当然の権利となり、介護される側も自力で回復させようとする努力を断念させてしまうのではないだろうか。

 何かさせていただくことで自分も幸せに感じるということもある。そもそも何も得ることのない苦労などありえないと思える。そうした経験を積んだ人のお世話をすることで何かを学んでいくという機会を失わせていくことになりはしないだろうか。

 そして、“報恩”と題するこの経は、私たちが真っ先にその両親の恩に報いるべき理由を次のように教えられる。「七つの宝に満ちたこの大地で王者の位に上らせるほどに両親に対して勤めたとしてもその恩に報いるに足りない。なぜならば、母と父はその子に多くの助けを与え、支持し、養育し、この世界を子に示した人であるから」とお釈迦様は両親の子に対する存在の偉大なることを示される。

 生まれ落ち、何も分からないこの世に導き、危険から身を助け、何から何まで世話をしてくれたのは私たち自身の両親にほかならない。しかし私たちは、子供のときにどれだけの労苦を両親にかけたことかと思いを及ぼす人も少ないのではないだろうか。

 自ら親となり、子供を育てつつその大変さを身に沁みて感じるとき、はたして自分もこのように親に心配や苦労をかけてきたのかと悟る人もあるかもしれない。

 両親が当然のこととして自分のことをあきらめて深い愛情をもって養育してくれたのと同じ様に私たちは両親に対してできることをするように努めればよいのではないか。そうして老親に対して敬い、やさしく接する親の姿を見つつ育つ子は、またその親に対して同様に対面するものなのではないだろうか。

 しかし、お釈迦様はそうしてつくしても、なおその恩に報いるに足りないと言われる。それでは、私たちはどの様にしたら子として親の恩に報いることが出来るのであろうか。お釈迦様はその先をこのように続けてこの法話を完結される。

 それは、「もしもその両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである」と語られる。

 この世での繁栄、社会的な地位を与えることよりも、はるかに私たちには心の安らぎ、それに導くための正しい行い、そして功徳ある施しをすることが大切であり、そのように促すことが父母への報恩になると教えている。この世の善なる人の、まことある人々の生き方とはこうしたものであると示されている。

 今、物質的にまた金銭的に繁栄を誇っているわたしたちではあるが、その繁栄が何によってもたらされているものかと心して思うとき、多くのものの助けを得て、多くのものが犠牲となり、そして多くのものに負荷を与えつつあることに思い至る。

 つまり、私たちの今は、これまでの過去に受けた恩や恵みの現れであり、そして、将来を導くものとしてあることを思うとき、感謝の念とともに、より徳ある善行に篤くなることの大切さが知られる。そして、私たちがその初めに思い至るものが父母への報恩ということなのではないだろうか。

 様々な理由から親のお世話をすることも、一緒に暮らすことも、また会うこともままならないという人たちもあるかもしれない。しかし、それにもかかわらず大切なことは、今の社会に暮らす私たちにとって、まずはその恩や今ある恵みに真摯に気づくこと。

 そして、忘れず、その思いを日々新たに思うことこそ大切なことなのではないかと思う。ふと私たちは自信を喪失したり、思い悩むことも多い。そうしたとき、親と何げなく語らう中の一言で心が晴れ勇気が湧くことがある。そうした力を受け取れる受け皿として、私たちは敬う心を大切にしたいと思う。

 あまりにも当たり前に思いつつ過ごしているものが、実はとても貴く、自分を支えてくれている大切なものであることに気づく必要があるのだと思う。

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