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仏教余話4


ナイフ事件の話から

        [平成10年(98)3月記]




 中学生によるナイフを用いた凶悪事件が続いている。様々な議論がある中で、なぜナイフなのかということがあまり取り上げられていない。どうしていまどきこのナイフがそんなにまで若者たちを魅了するのか。そこに単なるファッション以上の意味が隠されているように思える。

 ナイフを持ってまで恐れる理由は何なのか。それは彼らの心の中に自分を守ってくれる人、愛してくれている人、自分を受け入れてくれる人がいない不安を象徴しているのではないかと、私には思われる。そこで、そうした彼らの性質や人格を形成したであろう幼児期、乳児期のことを少し考えてみたい。

 先日、知人の奥さんが来られて、様々な話の後でこの話題になった。一口で言うと「子どもは分からないですよ、難しい」ということであったが、しかし、「自分の子を叱るときは命がけでカッコをつける余裕もなかった。

 でもそれだけ子どもに一生懸命だという気持ちは伝わっていたようだ」と話される。この方は仕事の都合で三人の子を0歳児から保育園に預けていたというが、「休みの日は、とにかく一緒にいてあげることを心がけていた」という。非行に走ることもなく皆既に成人している。

 保育園に預けること事態は昔からあったことであり、今問題なのは自分の仕事のために子を預けるのではなくて、遊びに行くために保育所に預けたり、夜寝かしつけて平気で夫婦で飲みに出かけたりしてしまうことなのではないかと話される。

 そうした20代30代の親に「そんなことしていてはダメよ!」と言っても、「どうして?」とまるで話が通じない、世代間のギャップを感じ、その次の言葉が出ないと嘆いていた。パチンコをしていて車に置き去りの子どもを死なせる事件も後を絶たない。

 また、ある保母さんによると、保育園にあずけにくる若い親たちは「子どもをどう育てたらよいのか分からないし、叱ることもできないのでよろしく・・・」と恥ずかしげもなく言うそうだ。どうして親が我が子を叱ることができないのか。何も分からずに世の中に出てきた子を教え導くのは自分であるという責任を感じないのだろうか。責任を感じたとしても、本気で子と向き合う気力やゆとりがない程に他のことに忙しいのであろうか。

 背中に赤ちゃんをおぶるお母さんの姿など見かけることもなくなり、誰もが決められているかのようにベビーカーに乗せて出歩く。手間がかからないからと小さいうちからビデオを見せ、外で遊ばせることもせず、少し大きくなればTVゲームに時間を忘れる。夜も2,3才になると子どもの生活時間帯を設けることなく大人と一緒に遅くまで寝かさない家も多いようだ。

 そして、今問題なのはこうして育つ子のスキンシップや話しかけてあげることの不足によるとみられる無表情無感覚の赤ちゃんの急増だと言われている。15年ほど前から、泣くことも笑うこともしない赤ちゃん(サイレントベビー)が日本全国で数多く見られ出したという。

 親の目が、関心が子ども以外の所に多く向けられてはいまいか。そして、このあたりのお母さんと子どものふれあいの変化に、感情をコントロールできず、キレる子どもの遠因があるように思えるのであるが、いかがであろうか。

 先日、古い信者さんが見えて、「孫のしつけのことで言葉を差しはさんだら、日頃物静かなお嫁さんがものすごい剣幕で私に食ってかかってきたんですよ」と嘆いていた。祖父母や父親の家庭における地位が低下したことも、子供たちの心をいびつなものにする要因として上げられよう。

 少子化が進み、やっと出来た子を大切にするあまり、ある程度大きくなっても上座に座らせ何でも一番にして上げているところも多いのではないか。それでは、犬ではないが、家の中で一番偉いのだと思わせてしまうということもあるであろう。

 自分の生活を支えてくれているのはお父さんお母さんであり、祖父母があってこそ自分がいることを、そして大勢の人や生き物たちがいてくれて自分が生きていることを早い時期にきちんと教えることがとても大切なことなのではないだろうか。

 また、身近な人の行動から子は学ぶのであるから、自分の親が祖父母にしている姿を見て学んでいると考えられる。もしも親たちが自分の親である祖父母を敬わず、乱暴な言葉で接していたならば、どうして子が親を親と思うであろうか。

 もちろん親や家庭の問題ばかりでなく、社会全体や学校、保育園で受ける影響も考えられる。少し前に、教育現場で、個性や自主性を重視することが盛んに叫ばれていたが、最近では小学校前からそうした方針がとられている。

 公立の保育園などでは、自主性を重んじるとの方針により、子供達の好き勝手にまかせてしまうところも多いという。益々協調性に欠ける子を世の中に送り出してしまう可能性が高い

 昨年あたりから、小学校に入学してくる子供達の行動がおかしいとささやかれ続けているという。授業をしようとしても、「私は授業はいいから絵を描いている」と、平然と言う子が多いのだそうだ。個性や自主性とはみんなと一緒に授業を受けたり、食事をしたりしないことではないはずなのだが。

 ところで、24時間制をとる知人の保育園では、夜の11時を過ぎて迎えに来るお母さんも少なくない。そうしたお母さんの帰りを待ちつつ横になる子供達は、布団にはいるとシクシクと泣き出すのだという。

 泣いている子の枕元に行き、「泣かないのよ、お母さんはあなたのために一生懸命働いているんだからね」と何度も言うそうだ。すると泣いていた子も安心するのか寝静まるらしい。親に見捨てられるのではという思いほど子供の胸をえぐるものはない

 女性の社会進出もいい。少子化対策のために保育所の充実も大切かもしれない。しかし、その影で大勢の小さな子供達が毎日せつない思いを胸にしまい続けている現実を、私たちは忘れてはならない。

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