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仏教のルーツを知る

                        (インド・ナーランダー遺跡より)
 このホームページの「仏教の話」などで、仏教とはどのような教えかという基本的な内容についてお釈迦様の教えを中心に述べて参りました。

そこで述べた仏教の教えと日常私たちが目にする日本の宗派仏教とはどうも同じ仏教とは思えないと率直な感想を寄せてくださった方もありました。

そこで、そのあたりの違いについて分かるようにすこし古の仏教について歴史をさかのぼって見てみようと思います。


もくじ  

インド編−1(お釈迦様の時代) 中国編−1(仏教伝来),(隋唐時代より)
インド編−2(仏滅後500年まで)   日本編−1(伝来から平安時代まで)
インド編−3(大乗仏教の時代) 日本編−2(鎌倉時代)
インド編−4(密教の時代) 日本編−3(南北朝時代から江戸時代まで)
日本編−4(明治時代から現代)

 仏教のルーツを知る・インド編−1
                              [平成8年(96)12月記]


<仏教を三つに分類>
 日本にはいくつもの宗派がありますが、歴史的に古く大きなものだけでも13宗、それらの派まで入れると56にもなると言います。日本の寺院のはじめとされる大阪の四天王寺は聖徳太子にゆかりがあり、今では和宗を名乗るようになりました。また浅草の観音様は聖観音宗などと名乗っていたりと、そうした細かい宗派が今日では無数に枝分かれして存在しています。

 が、いずれにしろ日本の各宗派はどれもが中国や朝鮮によってもたらされた大乗仏教です。インドから北西部のヒンドゥークシ山脈を越えてシルクロードを通り、さみだれ的に伝えられてきた経文や仏像によって形成されていく北伝仏教と言われているものです。これらの仲間には台湾、そしてベトナムが入ります。

 これに対しスリランカやタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシア、ネパール、バングラデシュ、インドなどで行われている仏教は日本では教科書で小乗仏教という名で教えられている南方経由の仏教。正確には上座部(ジョウザブ)仏教と言われています。こちらのお坊さんたちはみんな同じ黄衣を着ています。

 そして、最後にチベットやモンゴル、ネパールやインドの一部、また日本の真言宗と天台宗の一部はいわゆる密教と呼ばれている仏教です。このように、今世界中で行われている仏教を大きく三つに色分けすることができます。そのほかにもスリランカから移植された上座部仏教がイギリスやアメリカ、オーストラリアなどでも自国のお坊さんを誕生させ、まじめに実践されているところが数多くあるということです。

 これらのうち、お釈迦様の時代に一番近い仏教を行っているのが上座部仏教であり、これはお釈迦様が亡くなられてから後100年くらいにおこなわれるようになったもの。それに対し、私たちの日本仏教も入る大乗仏教というのは仏滅後500年を経た時代の要請によって生まれてきた教えであり、密教になるとさらに500年、つまり仏滅後1000年を越えて現れた新しい教えといえると思います。

 それでは今でもこうして世界中で実践されている仏教がどのような変遷のもとに今に至ってきたのかを探るために、お坊さんたちの暮らしぶりなどを中心に、まずは仏教を説かれたお釈迦様の時代から歴史をスタートさせていこうと思います。

 <お釈迦様の時代>
 お釈迦様の時代はすでに農耕が営まれ、かつ貨幣が早くも流通して商工業が盛んになり都市国家が生まれ出すという時代。当時絶対の権威を持って振る舞っていたバラモンという聖職者たちは自分たちの階級の神聖さを誇り、ヴェーダ聖典の権威を主張し、祭祀を司っていました。

 がそのころ、そうした姿勢を批判し、なおかつ自ら家を出て自由に修行し思索に励む人々が多く現れていました。その中の一人としてお釈迦様も出家され、財産、地位、身分を放棄しつつも、2500年経た今もなおインドを代表する最大の聖者として崇められる生涯を送られました。

 お釈迦様については、これまでにも何度も触れているように、紀元前5世紀に、今の北インドからネパールにかけてあった釈迦国の王子としてお生まれになり、29歳で出家され、生老病死に代表される苦しむ生の連続からの解放をこの世のことわりを知ることによって成し遂げられました

 この時、御年、35歳。今のビハール州ブッダガヤでの成道でした。そしてベナレスの北8キロに位置するサールナートで初めての説法を成功させ、5人のお坊さんによる僧団が誕生いたしました。このとき、仏教徒にとって帰依の対象となる<仏・法・僧>の三宝が成立したのです。
                                
      (ガンジス河パトナにて)
 以来45年もの長きにわたり、雨期の3ヶ月間の定住を除いて、主にガンジス河中流域を歩いて旅をしつつ教えを説かれました。

 決して自ら信者を集め教えを垂れるという姿勢ではなく、集まり来る弟子たちや悩みを抱える人たちの求めに応じて優しくお諭しになったのでありました。

 今でもインドでは師匠を囲み胡座をかいて話を聞くという伝統が残っていて、ガンジス河の岸辺などの聖地ではよくこうした風景に出会うことができます。

 お釈迦様の時代には多くのお坊さんたちは一ヶ所に定住することなく、当時すでに王様たちや裕福な商人の寄進した精舎(ショウジャ)と呼ばれる宿泊施設もありましたが、普段は旅をしつつ木陰で瞑想をし修行に励んでいました

 お釈迦様も他のお坊さんたちと同じように暮らし、特別に着飾ることも権威を表すようなものを手にすることもありませんでした。そのころのお坊さんたちの持ち物と言えばぼろ布を縫い合わせた三枚の茶褐色の衣と帯、托鉢用の鉢、剃髪用の剃刀、飲み水のための濾し布、針と糸。これらしか認められていませんでした。

 収入を得るような職に就くこともなかった訳ですから、着る衣も口にするものもすべて在俗の信者からの施しによって生活していました。特に、食べ物はその日にいただいたものはその日の正午までに食べてしまう規則になっていました。

 また、王様たちとお釈迦様の関係も、弟子と師の関係であり、王権からは一切の規制を受けることなく治外法権としてお坊さんたちは自由に諸国を往来することができました。

 落ちついて修行に打ち込める場所を見つけるとしばらくとどまり、早朝には村へ托鉢に行き、食事の間や長老から教えを受ける他は樹下で瞑想に励み、時折立ち上っては一定の距離の間を静かに歩きながら瞑想する姿がありました。

 そして、毎月2回、新月と満月の日には周りのお坊さんたち一同で、戒を正しく守れているかと布薩(フサツ)という反省会を開きともに精進を確認し合っていました。

 こうしてまだお釈迦様がおられた時期には、この世の苦しみから解放され、心の平安を成し遂げていく、阿羅漢(アラカン)という聖者にお釈迦様の多くの弟子たちが到達されました。そして、この最高の悟りを得られて後、各々各地へ伝導の旅を続けられたのでした。 
 これら弟子たちの集団の中には様々な人たちがいて、才知優れた良家の子弟ばかりでもなく、尊貴な人もそうでない人もあって、それぞれの人にあった修行が用意されていたのだそうです。お坊さんが増えて、直接お釈迦様に教えを受けられないようになると瞑想の仕方などそれぞれの専門分野に優れた長老について教わるようになっていきました。

 そうした優れた長老の中には日本でも有名な、般若心経の聞き手として描かれる智恵第一といわれ賞されたサーリプッタ長老(舎利弗)や夏のお盆のお経に登場する神通第一のモッガラーナ長老(目 連)などがおられました。

 また釈迦族の中からも優秀な弟子が輩出しました。中でもお釈迦様が亡くなられるまで30年にもわたって随行を勤めたアーナンダ長老と持戒堅固なウパーリ長老は、今日残る仏典の基礎を作り上げた、世界の仏教徒にとっての恩人となりました。

 お釈迦様は最後の旅を今のラジギールから始められパトナ、ヴァイシャーリーを通ってインド北部のクシナガラに達し、そこで時ならぬ白い花を咲かせた沙羅の樹林の中、頭を北に向け安らかに入滅されました。お釈迦様の遺体は地元のバラモン僧の手によって火葬され、8等分されて各地に舎利塔として祀られることになりました。

 今日どこの国のお坊さんも儀礼を司っていることを考えると奇異に感じられるかもしれませんが、当時のお釈迦様の出家の弟子たちはそうした儀礼には一切携わることがなかったためで、彼らにとってはお釈迦様が生前に語られた教えこそ師の遺産であると考えられました。

 そして、その教えを正しく継承していくために、お経と戒律の集大成をすることにし、マハーカッサパという一番の長老が、五百人の長老をラジギールの七葉窟(シチヨウクツ)に結集するよう呼びかけました。

 彼らはその年の雨期の間お経と戒律の編集会議を開き、お釈迦様の生前と同様の僧団の維持を期されたのでした。お経については先に述べたアーナンダ長老が、戒律についてはウパーリ長老が代表してお唱えになり、みんなで確認しつつ編纂されたのでした。

 そしてこのときのご苦労によって、記憶され伝えられ後にそれらの経典がスリランカで紀元前1世紀頃、シュロの葉を紙代わりにして鉄筆で文字を刻し、文字に残されることになりました。そのことによって2500年も前の教祖の肉声を感じ取ることの出来る希有な教えとなったのです。

(シュロの葉にスリランカの文字で記された経典)

  
がしかし、このときの僧団の統一を目的とした経典の編集会議の試みも報われず、その後お金を布施として受け取ってもよい、正午までと決められた食事の時間を少しのばすなどといった戒律上の変革を求める人たちが現れました。

 今日ごく一部を除いてどの国のお坊さんもお金を持ち、移動している訳ですが、当時はお金にさわることも禁止されていました。そしてそれら改革派と今までどうり伝統を継承しようとする保守派とに分かれていくことになりました。こうしてお釈迦様没後100年にして初めて教団が二つに分裂することになったのです。
 次頁に続く・・・(小冊子「ダンマサーラ」第19号より)         

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