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仏教余話6



 被 災 者 の 声
−阪神大震災から得たもの

[平成7年(95)3月記]
                                                (1995年2月4日読売新聞より)
 二月一日から二週間、神戸市東灘区の市立本山南中学で約八百人の被災者の人たちと生活をともにした。(東灘区は六万七千人という最大の避難者をかかえる自治区であり、大小あわせ百十もの避難所がある)

 地震直後から何かできることがあったらしなければと思い。とりあえず食料だけ自分なりに梱包したものを神戸市の災害対策本部宛に送ってはいたが、何か物足りなさがあって申し訳ない思いが続いていた。

 そうしたところに、芦屋の友人からの連絡で、カウンセラーという精神面のケアーをする人が足りないのだが、という話に早速現地に赴くことにした。

<避難所へ>
 JRの芦屋駅に降り立ち、友人と会い初めて地震の被害を被った町を歩いたとき、建物の倒壊したすさまじさに比べ、ものものしい様相で歩いてはいるものの道行く人が意外と落ち着いていると感じた。

 小雪のちらつく中、瓦礫を避けたり、上から垂れ下がっている電線に気をつかいながら阪神芦屋駅まで歩き、二つ目の青木駅へ。大阪方面の電車を使う人の終点ということもあり、駅の周辺は 大きな荷物を持った行き交う人であふれていた。

 青木駅から本山南中学のある田中町まで、普通に歩けば約二十分なのだが、途中瓦礫で道が分断されていたり、水道の工事などで通行止めになっていたりと、地図にある道が通れず、歩道に広がった瓦礫で車道を通らざるをえないようなところも多くやっとの思いで一時間以上もかけて本山南中学にたどり着いた。

<避難所の様子>
 本山南中学は当初から、被災住民の自治が確立し、それを駆けつけてきたボランティアが支援していくという体制が取られた。本来あたり前のようなこのことが、意外と他の避難所ではできていないことを後から他の避難所を回ってみることで知ることができた。

 現在、体育館には床に布団や毛布を敷いて寝ている人たちが三百人、そのロビーで寝ている人五十人、各教室が四百人、校庭に特設のテントを作って生活している人や倉庫に寝泊まりしている人が五十人。

 水を含めた生活物資の搬入と分配。炊き出しの準備と実施。災害対策本部の受付事務。これらがボランティア側の当初の仕事であったが、避難している住民は日に二度のパンやおにぎり、牛乳などの食料の配分やトイレ、廊下の掃除などが割り当てられている。

 私がうかがったのは地震発生二週間が過ぎ、それぞれ厳しい状況の中で、大分その生活にも慣れてきたという頃だった。私も、一人で話だけしているわけにもいかず、とにかく給水車が来れば、ポリタンクに水を移し、食料などの物資が届いたら搬入の手伝いをするというように、この避難所の仕事を一通り経験することにした。

 そして、空いた時間には体育館に入って行ったり、教室を歩いて出会った人と話をするというようになるべく多くの人と話をし、気安く話をしてもらえるような雰囲気を作っていった。

 この避難所に生活する人の名簿から一人だけの世帯やお年寄りだけのリストを作り一人一人当たることもしてみた。また、保健室に来る人の中で精神的に弱っている人を教えてもらい訪ねてもみた。そうして、午前中と夜は、この本山南中学の中の人たちの様子を見ることを中心にし、午後は周りの避難所の様子を見て回ることが私の日課となった。
                                           (1995年2月の本山南中学)
<地震直後のこと>
 はたして、何人の人と話しができたのだろうか。話し込むと、すぐ一時間二時間があっという間に過ぎている。話している人も我を忘れて夢中になってしまう。

 地震の話から脱線して若いとき活躍していた話や家のことに話の向かう人も多かった。

 中には地震によるショックで自閉症が更に悪化し、かなり重傷と思われる方も中にはいたが、おおかたの人たちが肉親を亡くした人も含め、この地震を乗り越え次の人生に向かって積極的に取り組み始めたという印象であった。

 話を始めると、一様に皆堰を切ったように地震のときの自分の体験を話してくれる。箪笥が仏壇の上に重なったことで押しつぶされずに済んだ人や、 二階のベランダの縁が倒れて来たとき、その丸く開いた切れめに自分の顔が入ったので助かったという人。大きな箪笥の倒れる寸前に無意識に体が反対側に滑り込んで助かった人。

 毎日五時にジョッギングに行っていたのにその日初めて行くのをやめたおかげで、自分も助かり、箪笥にはさまれた奥さんをすぐに救出できた人、阪神高速を普段使っている長距離の運転手さんが、その日はどうしてかすいていたので下を走って帰ってきたところ橋脚の倒れたあたりで地震にあったという人など、話してくれた多くの人がそうして助かったことが奇跡だと感じている

<避難所が出来るまで>
 そして、地震後明るくなるのを待って男の人たちは周りの倒れた家々で生存者がいないかどうか生き埋めになっている人たちの救出に時間を忘れたという。それから、中学校に家を失った人たちが集まり、はじめは千二百人もの人たちの避難生活が始まるのだが、初めは電気も水もなく、食べるものもなく。異様な暗やみの中で寒さと余震と空腹に苦しむ三日間を辛抱された。

 初めて来たおにぎりのありがたさ。数が十分ではなく、一家族にひとつという割り当てではあったが、騒ぎも起こらず、そのひとつのおにぎりを分け合って食べたのだという。その頃はただ生きていて良かったというたったひとつの気持ちがみんなの中にあって、だからこそ不平不満も出ずにただ我慢できたのであろう。仮設トイレも当初なかったため、校庭に垂れ流しの状態が続いたのだという。

 昼間は壊れた家から少しでも衣類や寝具を取り出し、夜はみんなで身を寄せあって寒さをしのいだ。救援物資が届くようになり、その分配方法や管理をめぐってお世話役ができ、リーダーという人が取り仕切るようになっていった。そしてボランティアが現れ、より快適な環境を作るためにみんなが力を合わせていくこととなった。

<気持ちの変化>
 こうして、ただ生きていて良かった、一口でも食べられてありがたいという一念だった人たちも一週間二週間が過ぎ、だんだんともっといい物が食べたい、もっといいところに寝たい、という気持ちも一部現れて来た。そして他に住むところのある人は移って行き、電気が通じたことでひびのはいった家に戻る人も出てきた。

 しかし、してもらうことに当たり前だ、行政はけしからんと思っているような人には誰一人として会わなかった。ボランティアに対しても、送られてくる救援物資に対してもみんな感謝の気持ちで一杯であった。毎日同じようなパンとおにぎりの配給に対しても。

 ごてごてに回る行政の対応に対しても、おおかたの人がこれだけの惨事にすぐ対応できるほうがどうかしている。いろいろな面で対応が遅れたのは、行政のせいではなく、この地震を見に周りの県から押しかけて来た人たちのせいで必要なものが届かず、必要な作業が遅れた。

 これは我々住民の側の責任なのだ。ある人がそういわれたことが印象に残っている。決して人に責任をなすりつけるのではなく、すべてのことを自分たちの問題として捉えようとしている。

 ほとんどの人が身近な人を亡くしたり、家屋をつぶして悲しみ、これからの将来に不安をかかえている。しかし、その多くの人たちはこのような否定的な感情を自ら乗り越えようとしている。

 どうしてこのような大震災が神戸で起こったのか。これまで、しゃにむに働いて来るだけだった人たちが我が身を振り返り考え出した。これには多くの人が神戸市株式会社という言葉を使って説明してくれた。

 神戸の人にとって神戸市はお金の亡者という印象があり、自分たちも当然そうした影響の下に何よりも儲けることを第一に生きて来た。この地震は贅沢に慣れ、ほかして無駄にすることを反省することすらしない今という時代への警鐘であると受け止めている。多くの人がこうした風潮への罰が当たったのだと考えている。

<連帯感が生まれる>
 これまで自分の人生の大半をかけて築いて来た家が一瞬にして倒壊した。育てて来た会社が、店が全壊し再開のめどもつかない。そうした悲惨な目に会った人たちが、本当に大切にするものはそんなものではなかったんだと語りだす。

 この世のものはどんなに立派なものでも頑丈なものでも簡単に壊れてしまうものなんだね。それなのに、こうしてこの命を助けてもらったこと、みんなと一緒にいられることに感謝しなきゃ。あのときのひとつのおにぎりがありがたいと語る。

 みんな一緒という気持ちが芽生え、全然知らなかった人と声をかけ励まし合い、助け合い、語り合う喜び。いくつもの心の絆が生まれた。ある中年の奥さんは結婚してこんなに旦那さんと一緒にいれたのは初めてだと嬉しそうにいう。

 若い人たちがこんなにありがたいと思ったことはない、いつもは最近の若いもんはと言っていたのに若い人たちを見直しました、という声も多くの人から聞いた。贅沢は言えません、家を無くして来ているんですから、でも何でも若い人たちがしてくれて、また沢山の救援物資をいろいろな方からいただいて本当にありがたい感謝の気持ちで一杯です。

 生かしていただいた人は何かそれまでにいいことをしていたんでしょうね。こうして生かしてもらったからには、そのことを忘れることなく、何かこれからも人様のためになることをさせてもらって決して自分のことばかり考えて譲ることをしないような人にだけはならないようにしなければいけないと思っているんです。と話してくれたご婦人もいた。

<少しづつ問題の芽が>
 地震によって一人一人何かに気づき出した。それまで当たり前と誰もが思ってきた価値観が崩れ、人と人の暖かいふれあいの中に限りない大切なものを見いだしているように思われる。

 校庭のストーブに体を温めるおじさんたちも驚くほどの哲学者然とした言葉を語り出す。家の壁が吹き飛んで、心の壁も無くしたようだ。誰とも自然に声を掛け合い、友情の感情を持つ、何でも助け合ってやろうという気持ちが芽生えた。慈悲にあふれた空間が生まれた。本山南中学校にはとても明るい雰囲気が満ちている。

 しかしだからといって、誰一人問題が無いというとやはり片手落ちだ。夜になるとお酒が入り物資を分けろと押しかけて来るような人も三、四日に一度はいるし、やや乱暴な人たちもいて、それなりに問題はある。

 しかし、それは普通の状況下でも起こりうるものであって避難所に特有のものでも無い。これから大切なのは、避難所生活が長くなることによる疲労、無気力。だから盛んにイベントを計画しているところが多い。

 それに、精神面のケアー。このためには本来から言えば、避難者同志で語り合える場の設定が大切であって、専門的な処方の必要な人はわずかであるという感触を得ている。そして、家族別々に暮らすことを余儀なくされている人も多い。何よりも早く仮設住宅、公共住宅の入居を進めてあげたい。

 いまだにプライベートな空間が無く、風呂は近くの学校の自衛隊の仮設温泉に入り、洗濯もできない毎日を避難所の人たちは送っている。先に帰って来てしまう後ろめたさを感じつつ、私は帰路についた。

 新幹線の中から眺める建物がなぜみんな地面に垂直なのか。神戸の風景のほうが自然なのではなかったか。一瞬そんな幻想が頭をよぎった。倒れた建物があり、瓦礫があることのほうが普通なのではないか。

 何でも表にあるものはきれいに整理されていなければいけないということのほうが不自然なのではないのか。新しく作られるものがあるなら壊れるものがあって当然で、そうした中から何かが生まれて来る

 神戸は多くの人や建物を無くした代わりにおそらくそれを失わなければ得られなかったとてつもない財産を一人一人の被災者が獲得したことであろう。その財産を少しでもお裾分けに預かったのが全国からまったくの善意で被災地に駆けつけたボランティアたちではないかと思う。


 [ ボランティア奮闘 ]   (南中学救援物資置き場にてボランティア達と)


 今回の阪神大震災に関連して延べ三十万人ものボランティアが活躍しているといわれている。

 一口にボランティアといってもその形態立場はまちまちで、団体に属し数人の単位で行動しているもの、まったくの個人で駆けつけて来るものなどさまざまである。

 私の場合も、知人の紹介によって避難所に寝泊まりし、避難所を中心として活動した。全国からこうしたボランティアが毎日五人から十人は本山南中学には来ていた。多すぎて区役所内に設けられた情報センターに問い合わせてもらうケースも多かったようだ。

 一週間くらいの長期の人もあれば一日だけという人も多い。高校生から社会人まで。大半は大学生。出身地で目立ったのは、大阪、千葉、東京、北海道。一度中学生が自転車で大阪から来たというケースもあった。

 団体で活動する場合も、代表的には、医療担当の医者や看護婦のグループのように専門職を持つ人と、炊き出しなどの仕事を担当するために道具を持参で避難所を回ってくれている団体の人たちもある。

 これらは労働組合、青年会議所の人たちが多かった。また、洗濯のサービスや理髪師美容師のグループ。風呂や仮設トイレを設営してくれるグループもある。また、炊き出し用の大鍋や網を運んでくれる人、街角でテントを出す便利屋のようなボランティアまである。さらには、救援物資を地方から運ぶ運送屋さんのボランティアまでいる。

 本当にみんなの気持ちが暖かい、優しい、嬉しいのである。何かしたい。その一心でここに飛び込んで来た人たちばかり。駅の貼り紙を見たり、人に聞いて来たという人たち。何でも必要なことをしよう。その純粋な気持ちで結ばれた人たちの仕事によって避難所に暮らす人たちの生活が支えられていく。

 物資が市役所から届くと一斉にボランティアが集まり荷を下ろしていく。自衛隊の給水車が来ればポリタンクに水を移し運ぶ。一日二度の物資の配分。そして炊き出し。朝夕のお湯の準備。小さな子供たちの世話。子供たちを校庭に出させて一緒に遊ぶのもボランティアの仕事。

 私も呼ばれてドッチボールをしたり、バスケットボールをしたり。遊ぶ中で、子供は元気になっていき、大人たちも外に顔を出すようになって来た。

 そうして、この次に待っていたのが、災害弱者といわれる老人のケアーの問題。こちらのほうは私の担当になり、避難所の周りの各家々を一軒一軒三人四人で手分けして回っていく。

 避難所以外の比較的損壊の少なかった家やマンションに暮らす人たちの状況調査である。その中に老人だけの家庭もあり、水や食料に事欠く家が無いかどうか調べて回るのである。本来であれば行政の仕事であろうが、そこまで手の回る段階に無いことから、我がボランティアチーム独自の調査に乗り出したという訳なのであった。

 初めは何か押し売り的な気分がして気後れしていたが、ドアを開けてくれる人それぞれがやはり誰かと話したいという気持ちで質問する以上のことを語ってくれた。話をするということがこれ程までに求められているのを実感することができた。

 ボランティアに来る人の中には、学校内の様子を見て、自分にはやることが無いからすぐ帰りますという人もいる。せっかく遠くから来たのだから何かしていけば。と言っても何もありませんと言う。何でもいいんだよと言うとよけい困惑してしまう。

 何か生きるか死ぬかの状況の中で、作業をし人を救うことがボランティアと勘違いしているようなのだ。ボランティアとは本来、自主・自立ということで、自分で判断し自分で責任を持つということだそうだ

 自分の判断で自由に仕事を見つけ行動すること。人から指図されていて楽しいことは無い。自分で見つける自主的にやるからいきいきできる。楽しいし自分のためになる。ボランティアに限ったことでも無いだろうが。

 また、長くいると、こんなに俺たちはやっているのに住民は何も手伝わない。疲れて来てそうぼやき出す人も多い。被災住民が主で我々ボランティアは補佐する立場なのに主導になってはいないかとの反省も聞かれる。初心を忘れないということはいかに難しいことか。

 何かしたい。そう思って来たのにいつの間にか、こんなにしてやっているのにという気持ちになって来てしまう。ボランティアに期待し感謝してくれている人がほとんどなのに被災者と接していないがためにそのことを知らずに過ごしてしまったのである。たくさんの被災者と接すれば、してやっている、という気持ちは吹き飛んでしまうだろう。

 大切なのは、その仕事を通じて被災者と接し、そこから自分自身が何かしらを学んでいくことではないかと思うのである。被災者のためになることをさせていただき、あくまでそのことは自分のためである

 そして、被災者が地震で何を得たのかを知り、学び取って帰ることで、地元の多くの人と話し考えてもらう必要があるのではないのか。そうして初めて、この地震が神戸のものだけでなしに広く日本人全体の問題として捉え始めるのではないかと考えるのである。

 人間は本来ボランティアではなかったであろうか。お金のために毎日奔走する姿が人間の本来の姿では無かろう。困った人を見つけたら、黙って馳せ参じて救ってあげる。何の恩着せがましいことも無く。ただ当たり前の行為としてできたこれらのことが、今では特別のものとなってしまった。

 人の痛みを分かること、これほど今の私たちに求められていることは無い。この震災を契機にこれだけ多くの若い人たちが被災地に集結したことに勇気を感じ、ただただ熱い気持ちが胸に込み上げて来るのである。(小冊子「ダンマサーラ」第7号より)

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