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仏教余話5

 なぜ言葉は大切か     
[平成10年(98)6月記]


 昔も昔、私の中学生時代のことです。そのころ、何でも一緒にしていた親友がいました。クラブも書道塾も一緒に通っていた仲間だったのですが、ある時、私の発した一言の冗談でその後一切の交際が絶たれてしまいました。

 その後何を言おうが取り合ってくれないことに腹立たしい思いさえしたのでありましたが、すべては後の祭りでした。同じクラブの試合においても、必要なやり取りさえできなくなったことを記憶しています。それっきり会うこともなく現在に至っています。このことは私に言葉の大切さ怖さを同時に味わせてくれた忘れられない経験となりました。

 言葉は人と人の気持ちを伝えたり、意志を伝えるものではありますが、それが逆に相手を思わぬ不安や不愉快な気分にさせるものでもあります。それが災いして中学生の頃の私のように人間関係までも失ってしまうということもあります。

 度重なればその人の生活そのものが孤独なものになってしまいます。そうならないために私たちは子どもの頃から言葉遣いについて厳しく躾けられ、成長してきたはずなのです。

 ところが、どうしたことか最近の特に若者たちの乱れた言葉を聞いていると、はたしてどのように言葉を学んできたのだろうかと疑問に思う場面に多々出くわすようになりました。皆さんも同じような思いをもたれたことがあるのではないでしょうか。

 テレビなどの耳からはいる情報による悪影響も大きいとは思いますが、こうした言葉の乱れ汚れは、当事者ばかりか聞いている周りの人たちをも巻き込んで、誠に不快な気分にさせられるものです。

 しかし、赤ちゃんの頃から周りの大人たちの言葉を聞いて成長する子供たちの話す言葉の責任は、私たち大人にもあるはずです。そして、最近では半ば諦めているのか、学校や家庭でも言葉遣いに対してそれほど心を砕いて指導しているとも思えません。逆に大人の側がそれに合わせているかのようにさえ思えます。

 近年、中学生高校生の多発する犯罪を生む土壌の一つに言葉の荒廃があげられるのではないかと私は思っています。なぜならば、言葉は意思を伝達する道具として使用しているばかりでなく、私たちはその言葉によってものを考え判断しています。

 さらには、その言葉によって私たちの性質や情操などもかたちつくられていくからです。特に、小さな子どもの時に安易に汚い乱暴な言葉を使っていると、その子の性質や人格をも蝕むことになりかねません。

 汚い乱暴な言葉には、粗雑な心、相手を阻害する心が、丁寧な優しい言葉には落ち着いた心、相手を受け入れる心が付着するものです。本人は相手に対して発していると思っていても、その言葉のエネルギーは本人にも及ぶものです。そして、そうした乱暴な汚い言葉を野放しにすることは、しまいには社会全体をすさんだものにしていくことにはならないかと心配されるのです。
 
 そこで仏教では、在家の仏教徒の五つの戒律の中に不妄語戒として、嘘をついてはいけないと言葉についてのきまりを設けています。不妄語戒は、社会の一員としての私たちがその中で暮らす上で欠かすことのできないルールといえるものであり、真実でないことを語ることから様々な問題を生じ、またその事で暴言悪言を言うことにつながります。

 家庭の中でも、帰りが遅くなった言い訳に嘘を重ねていくことで、家族関係がおかしくなるということは日常茶飯のことではないでしょうか。初めの一つの嘘が次々に嘘を重ねのっぴきならないところへ当人を追い込んでいくということにもなりかねません。

 そこで仏教では嘘も方便などと言われ、それが恰も仏教の教えであるかのように受け取られがちですが、あくまでもそれは俗説であり、本当はどんな嘘も言うべきではないのです。

 また日常心がけるべき功徳ある善い行いとして十善業道(十善戒)という教えがあり、その中にはこの不妄語に加えて不綺語、不悪口、不両舌の4つの内容で言葉に関する善行を説いています。

 綺語とは、巧みに飾り立てた言葉によって相手を迷わせたり、あわてさせるようなことを言って、不利益になるようにはかることです。

 悪口とは、わる口のことで、陰口もこの中に入りますし、直接相手を罵倒するといった場合や、またおおへいな物言い、口汚い乱暴な言葉も含まれます。

 両舌とは、二人の人に違うことを言ったりして、仲たがえをさせたり不用意な言葉で他人の不和をきたすような言葉を言うことです。

 心がけて、こうした悪い言葉を使うことのないように、相手を重んじたきれいな言葉を、話すべき時に話すことで、相手も自分も気持ちよく過ごすことができるはずです。丁寧な言葉や敬語を使うことは相手に従属したり、目下になることではなく、お互いの立場を認め合う意志を示すものと理解したいものです。

 ところでお釈迦様の時代、大勢の弟子の中には、そうした言葉遣いの汚い人もいたらしく、仏典にも、なぜそうした言葉を使うようになるのか、どうすればきれいな言葉を使うようになれるのかをお釈迦様の高弟モッガッラーナ尊者が、多くの弟子たちを前に語るお経(パーリ中部経典15推量経)があります。

 そしてそのお経の冒頭には、荒々しい粗悪な言葉を使い、そうした言葉を生じさせる心を持ち、忍耐なく人の言う言葉を素直に聞かない人たちには、たとえ請われてもお釈迦様の教えを授けてはいけない、信頼してはいけないと述べられています。

 今の学校でこのように実施したならば、おそらく教室はがらがらになってしまうのではないでしょうか。ですが、本来言葉についてはそれほど厳しく気を付けるべき事なのです。

 では、その悪い言葉を生み出す原因はどのようなものなのでしょうか。お経には、その人がどのような時に悪い言葉を使うのかを16の状態に分析して述べられています。

 要約すると、悪しき欲を貪る、自分ばかりがよくありたいと思う、不満の原因を他に求め怒る、忠告してくれた人に八つ当たりをする、猜疑心が強い、悪意をもつ、媚びへつらい要領よく他を欺く、自分の考えに固執する、傲慢である、とこのような心の状態にあるとき人は悪い言葉を使うのだと述べられています。

 つまりは自己中心で自己内省もなく、相手と敵対したり、ないがしろにする心を持つときに言葉を汚しているのです。

 それでは、そうした心をもたないようにするために私たちはどのようにすればよいのでしょうか。「もし人が悪しき欲に支配されている者ならば、その人は私にとって愛しくも好ましくもない。またもし私が悪しき欲に支配されている者であるならば、私は他の人たちにとって愛しくも好ましくもないであろう。このように知って私は悪しき欲に支配される者になるまい、と心を起こすべきなのであります」とこのお経は述べられています。

 汚い言葉を聞くことは自分もいやだし、人もいやに違いない、だから自分は語るまい、こう心を起こすべきなのです。そして、自分は周りの人々が愛しくも好ましくもないであろう悪い言葉を語らせる悪しき欲にとらわれてはいまいか、怒りや恨みをいだいたり、忠告してくれた人に言い返したりしてはいまいか、傲慢で、自分の考えに固執してはいまいかと、日夜自分の心に問い、自ら正していくことが必要であると教えられています。

 自分の心に問うということ、簡単なようでとても難しいことです。公平な立場に立って考えているつもりでも、つい自分をかばっていたりしがちではないでしょうか。相手の気持ちを自分と同様に尊重するということも頭で分かっていても、瞬時に忘れ去られ、上記のような汚れた心が付着するということもあります。

 ことばが乱れたとき、汚い言葉を言ってしまったとき、おおへいな乱暴な言い方になるとき、逆に媚びを売るような話し方になるときなど、どうしてそうなるのか、きちんと自分に問うてみる
ことはとても大切なことです。

 そうした言葉を口にすることは本人にとっても決して気持ちよいものではないはずです。以前にもそういうことがあったのなら、それはどんなときだったのかと記憶をたどるとき、過去にしまい込んだ感情の鬱積に気付くこともあるかもしれません。

 ののしられたり、中傷されたり、罵倒されたりした記憶は、その本人にとって心の傷として永く残るものです。そして、身体による暴力が殴った側の拳にも衝撃が残るのと同様に、言葉の暴力も投げつけた言葉による衝撃が言った側の心にも残ります。心に積もるその衝撃は、次第にその人の顔や姿に現れてくることは言うまでもありません。

 言葉は周りの人の言葉に慣れやすく習慣化しやすいものでもあります。周りの人たちへの影響も考えて、日々自分の言葉を、そして心を謙虚に反省しつつ、慢心することなくありたいと思います。
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