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仏教のルーツを知る

仏教のルーツを知る      

・日本編(仏教伝来から平安時代)
日本編(鎌倉時代)
日本編(南北朝時代から江戸時代)
日本編4(明治時代から現代)



 仏教のルーツを知る
       ・
日本編1
                    [平成10年(98)6月記]

 前回では、中国に渡った仏教がその後中国独自の展開を見せて、インドで生まれた仏教が正に様変わりしていく様子を述べました。

 横書きのインド文字で記されていた経文が縦書きの漢字に翻訳され、中国独自の解釈がなされ、その儀礼部分では儒教や道教に大きく影響されていきました。国家権力から自由であった僧侶の集団も中国では国家の統制の中に組み込まれていきました。

 そうした中国仏教が朝鮮に伝わり、我が国に紹介されるのは、今から1500年ばかり前のこと、公伝では百済王から欽明天皇九年(548)に釈迦金銅像と経論若干を献じて公式に信奉をすすめられたとあります。

 遠くインドではお釈迦様が亡くなって既に1000年が経ち、そろそろ密教が興りだそうとする時代、そして中国ではクマーラジーヴァという大翻訳家が膨大な経典を訳し、隋唐という中国仏教の最盛期を迎えようとする時代でありました。

 <仏教伝来期から奈良時代の仏教>
 我が国に渡った仏教を前に、朝廷内部では古来から祀られている神々の怒りを招くとして仏教の採用に反対する向きもあり、そこに当時の権力闘争も絡み、仏教はそもそも我が国に純粋な信仰として受け入れられたものではなかったようです。

 そして次の時代、聖徳太子(574-622)が現れると、高句麗の高僧慧慈に仏教の教えを受けた太子は、仏教を国の教えとして、またそれに付随するすべてを文化全般の発展のために導入したのでした。

 たとえば経文を読み、写経することが文字を習い、教養を身につける基礎となったことはいうまでもなく、寺院の建設には、建築や工芸の技術が必要であり、それは宮殿や邸宅の建築に応用されるものでありました。

 建築のための道具は武器や農具に応用することができ、仏堂には壁画や幔幕が張られ、絵の具や筆の製法や織物技術が得られました。さらには瓦を焼く技術や仏像を鋳造する技術。

 くわえて、音楽や舞踊も儀礼に付随して採り入れることで外来の芸術にも接することができたのです。仏教一つを導入する事は、当時の我が国にとって、それまでの生活を一変するほどの効用があったことがわかります。

 中国では仏教が国家の統制に任されるのは、導入後500年近く経ってからのことでしたが、我が国では、この聖徳太子のあと間もなく僧階制度ができました。そして、718年には「僧尼令二七条」が制定されて、出家することも年何人というように制限ができ、私生活も厳しく規制されていました。

 僧を取り締まる役人僧が置かれ、護国経典である「仁王経」「金光明経」「法華経」等を読んで国家の平安や五穀豊穣を祈祷することが課せられました。また、勝手に山林に入り道場を設けたり、民衆を教化することも禁じられ、この当時仏教はあくまでも国家のためのものであったことがわかります。

 勿論なかには私的に出家遁世する人々もあり、行基(668-749)に代表されるような民衆の信仰を集める者もありましたが、これらは国家権力とは別の社会勢力になると警戒され迫害を受けたのでした。

 天武帝のときには諸国に仏舎が建てられ、持統帝のときには書写された金光明経100巻を諸国に送り正月8日から一週間読誦されたということです。こうして国家の天神、地神が反乱を起こすことなく、福をもたらし、五穀豊穣であることを、そして祖先の霊の安穏とこの世の安泰を願い祈祷して国家守護することが、当時の仏教にとっての主要な役割であったのです。こうしたことからも本格的な神仏の習合を促す素地が既にこのころから存在していたことをうかがい知ることが出来ます。

                                                     (奈良・東大寺大仏殿)
 さらに聖武帝のときには、国ごとに釈迦仏一体と菩薩像二体を作らせ大般若経一部を写し、その後、今も諸国に残る国分寺の制度が発せられました。

 総国分寺としての東大寺は当時の理想的な国家統一の象徴、国家の一大事業として作られることになりました。身の丈が14.7bもある大仏の大きさは当時にあっては世界最大の金銅仏でありました。 

 初め朝鮮から入ってきた仏教は、遣隋使とともに留学僧として中国に渡った多くの僧が帰国して中国仏教を直接輸入するようになり、また中国からも聖武太上天皇や孝謙天皇など多くの僧俗に対し戒を授けた鑑真和上(687-763)をはじめとしてすぐれた僧が来朝しています。そして、こうした僧侶達がもたらした膨大な経典によって、我が国においても仏教の基礎が急速に整えられていきました。

 奈良の平城京に都をおいたこの時代、奈良の諸寺院で展開した仏教は、南都六宗といわれ、今の宗派とは違い仏教研究の科目という程度の集まりでありました。

 六つの学派は当時のインド仏教の主流四学派を網羅していたといわれています。今日まで一部の宗はその伝統を継承しています。東大寺の華厳宗、薬師寺、興福寺の法相宗、唐招提寺の律宗などです。当時は、一つの寺、一人の僧がいくつかの宗を建学することも間々あったということです。

 律令国家体制の象徴として東大寺が建立され、すべてのものを包摂する盧遮那仏を祀り、盛大に開眼供養を行うという当時の仏教界を巻き込んだ国家的華やかさの裏には、多分に政治的な目的が含まれていたと言われています。

 また、一方では多数の大寺院の経営は既に国家の財政を圧迫しつつあったといいます。くわえて、貴族や地方豪族と競って寺田を拡大するようになり、その分の租税が徴収できず、税収減少の原因となりました。

 <平安時代(794-1192)の仏教>
 平安京は当時の粋を集め、風水説により立地建設が進められました。そして、奈良の大寺を移建することなく新都建設に取りかかった桓武帝ではありましたが、鎮護国家のためにはやはり仏教の力を必要としていました。

 そのため、いまも残る東寺や西寺を建立し、鎮護国家の祈祷を行わせました。また「道心ある人を国宝となす」という日本天台宗祖最澄の言葉に表れるように、この当時もう一つの仏教の役割は国家に有用な人材を養成するということでした。

 前回に述べた僧尼令により規制されていた山岳修行は、770年にこの禁が解かれ、これにより比叡山を拠点に籠山行に励む最澄(766-822)や吉野や四国の山野を闊歩し修行を重ねた空海(773-835)を生み出すことになりました。

「平安仏教の二大祖師」

 最澄と空海は803年、ともに遣唐使として唐に渡りました。

 既に法華経を信奉し自らの教えの柱としていた最澄は1年余りの在唐中に法華、戒律、禅、密教という4つの教えを当時の高僧らから授かり帰朝しました。平安京の鬼門にあたる比叡山に延暦寺を建立し天台宗を開き、これら4つの行を併せ行う一大仏教センターとして発展する礎を築きました。

 それとは対照的に空海は、2年余り長安に滞在して真言密教一筋にその周辺の学問を修得し、インドから中国に伝えられていた当時最高の密教の正統を不空の弟子恵果和尚からことごとく伝授され帰国しました。

 数多の貴重な経典類仏具仏画等を持ち帰った空海は真言宗を立宗し、多くの書物を著して真言密教の教理を体系化しその優位を説きました。そして、奈良の諸大寺や宮中で修せられる鎮護国家の修法を密教化したり、宮中で「祈雨の修法」を修し、名声を博しました。加えて讃岐の萬濃池や大和の益田池の修築や庶民教育の施設綜芸種智院の創立など社会事業にもその教えを展開しました。

 「平安時代の信仰」
 これら二大祖師により導かれていった平安仏教は、仏教を国家宗教から個人の宗教へ展開させていくものとなり、この平安時代に私たち日本人が今日も行っている信仰の諸形態が早くも出揃い、日本仏教の基礎が築かれていきました。

 当時の民衆が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両仏教は当時の貴族、文化人にとっても、とても魅力溢れるものでありました。

 奈良時代には諸堂に祀られる御像として薬師如来、観音菩薩、弥勒菩薩などが盛んに造像されましたが、この時代には、観音菩薩に加え、地蔵菩薩、不動明王の信仰が盛んになりました。

 これらへの信仰はいまも私たちの身近で見ることができるものです。特にこの時期から盛んになる不動尊への信仰はインド中国など密教の栄えた他国にあっては特別熱心に信仰された形跡はなく、不動尊を主尊とする護摩の祈祷を好む日本仏教の呪術的な特徴が表れているものと言われています。

 また観音信仰がこの時代とても盛んであったことは国宝や重文に指定されている観音像がこの平安から鎌倉にかけて非常に多く、他の諸尊と比べてもはるかに多数指定されていることからも伺い知ることができます。

 さらには、西国三十三カ所や板東秩父の観音霊場が既に平安末期には作られ、全国に観音信仰が広まったといわれています。まさに一千年にもわたって私たち日本人の観音様への思いが変わらずに息づいていることを知ることが出来るのです。

 「神仏の習合化」
 またこの時代、都や奈良などの都市にあって寺院の中で仏教を学ぶ僧侶たちとは違い正式な戒律を授かることなく山野を駆けめぐり修行する遊行僧の活動が盛んになりました。

 これにより、古来山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こし、神道と仏教の習合をきたすこととなりました。遊行僧たちは各地に巡歴して神社を宿として山中の霊気に触れ修行し仏教を広めました。

 こうした山岳修行者たちの思想的な裏付けとして密教の教理が組み入れられ、修験道として組織づけられていきました。吉野熊野など近畿地方を中心に、出羽、豊前、相模、摂津など全国の霊山にその信仰が広がり、神仏習合という独特な日本仏教を醸成していくこととなりました。

 「天台宗、真言宗のその後」
 最澄の死後、まもなく延暦寺に大乗戒壇という我が国独特の僧侶の戒律を授ける場が設けられることになりました。

 奈良時代に、我が国の正式な僧侶をつくるために、鑑真和上が招かれ僧侶たちは既に250余りの戒律(四分律)を授かっていました。

 しかし、最澄は大乗仏教である我が国には独自の戒律が必要であるとして、本来であれば在俗の信者のための戒律(梵網経)を僧侶のものとして採用し、その大乗戒を授ける場がつくられたのでした。そして、このことは、その後我が国の僧侶が戒律を軽視し、引いては今日の様な無戒化世俗化を招く発端となりました。

 その後、天台宗では唐に留学して密教を学ぶ高僧が相次いで現れ、法華の教えよりも加持祈祷を行う天台密教が興隆していきました。中でも円仁(794-864)は密教のほかに五台山の浄土念仏を伝え、後の空也聖の活躍などと共に我が国の浄土教の発展に大きな役割を果たしました。

 また比叡山では10世紀半ばには宗門の争いから僧兵が跋扈し、山上の秩序が乱れましたが、この間学問研究に没頭する学僧を輩出して、次の時代へ新しい仏教を生み出す土壌を養うことになりました。
                           
          (今日の高野山壇上伽藍)
 一方真言宗では、空海没後100年にして空海の忌日に御影供という法要が東寺の灌頂院にて行われ、その後全国の真言寺院で御影供が執行されるようになり、いまも根強い信仰を集める大師信仰が盛んになってまいりました。

 その後高野山は火災に遭い山上の伽藍が全焼し一時衰微するに至りましたが、その頃栄華をきわめていた太政大臣藤原道長などの寄進により復興するに至りました。

 その後、当時盛んになりつつあった浄土教との調和を説いた覚鑁(1095-1143)が高野山から紀伊根来に移って新義真言宗をつくり、その後真言宗が多くの分派を生む先駆けとなりました。

 「末法の世へ」
 藤原氏が政治の実権を握る時代にも陰りが見え始めると、疫病の流行や治安の乱れ、天変地異、また僧兵の横行などから、人々には末法の世の到来を予感させるものがありました。

 末法とは、仏教の教えは残っても修行も悟りもなくなる時代のことであり、釈迦入滅二千年後に始まるといわれ、それが我が国では永承七年(1052)にあたるとされました。

 この説は「三時説」といい、仏滅後千年を正しい教えと修行と悟りが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるが悟りがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行も悟りも無い末法の世が来るとされました。これは中国で後に書物に記されるものであって、インドの経典では時代を意味する概念ではありませんでした。

 しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、それに呼応するように様々な動乱がおとずれたことにより末法を強く意識させられる時代であったのです。

 平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。(ダンマサーラ第26・27号より)  

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