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仏教のルーツを知る



 仏教のルーツを知る・日本編2
                                 [平成10年(98)10月記]
                 

 前回は平安時代の仏教を概観し、いくつかの今日に至る問題点をあげてみました。政治経済における朝廷や貴族の勢力が失われ、地方には武士階級が台頭していく平安時代後期。社会の変革にあたり世の中が乱れ、末法思想が浸透していったことも述べました。

 藤原道長が洛西に創建した法成寺、頼通の宇治の平等院など絢爛豪華な堂塔をつくったのも失われゆく栄華をその功徳によって維持したいが為であったといわれます。

 一方下級の貴族や武士たちは、経典を書写読誦したり、特に浄土信仰の高まりによって日に六万遍もの念仏を唱え極楽往生を期した者も少なからずあったということです。

 <鎌倉時代(1192-1338)の仏教>
 平安時代の僧たちが既に国家の庇護のもとに官僧として国家公務員的な扱いであったことは前回にも述べました。それが故に多くの制約を抱え、国家的祈祷を専らにし死者に接することをはばかり、民衆への布教や救済活動なども自由にはなりませんでした。

 しかし荘園を所有する貴族や地方豪族・武士の出現により、次第に国家に生活の資をたよらず官僧を辞して遁世する僧が出現するようになっていきました。鎌倉時代に新たに宗旨を立てる祖師、そしてまた旧来の宗派から独自の活動を始める僧たちのいづれもがこうして官僧から離脱した遁世僧でありました。

 だからこそ、それまでとは違った活発な布教活動や民衆救済に乗り出すことが可能だったのであり、その教えも民衆に受け入れやすいものへと変化していきました。また、官僧とは違い死者に関わっても謹慎する必要のない遁世僧らによって、仏教者が積極的に葬送に従事するようになるのもこの時代からでした。

 「浄土系宗派の誕生」
 平安時代に高まりを見せ始めた浄土信仰は、比叡山においては念仏と共に阿弥陀経を唱え滅罪懺悔する行法であったものが、次第に死後極楽往生を念ずるものとなり、さらには日常唱えるものとなっていきました。

 平安時代末期に、有名な「往生要集」を著した天台宗の僧源信(942-1017)は、浄土往生には自己の往生を願う力と過去の善い行いの功徳、そして阿弥陀仏の本願力などを重視しておりました。また、念仏とは、元々阿弥陀仏や極楽浄土を心に想い描く瞑想法のことでありました。

 しかし、初めて浄土宗(1175)として一つの宗派を立てた法然(1133-1212)は、僧兵が跋扈し騒動の絶えない比叡山を下りて遁世し、末法を生きる凡夫にとっては、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけの口称の念仏によって往生することができると説きました。

 そして、人の心の根底には阿弥陀仏と同じ平等普遍の慈悲心があり、それに目覚めるとき真実の信を得ることができる。そのために念仏者は内心に偽りを持つことなく、自分は救われる資格のない煩悩にまみれた人間であることを深刻に受けとめる自己反省と懺悔が必要であるとしました。

 そして、その徹底的な自己内観によって阿弥陀仏に対する絶対的な他力の信を得られるとしています。洛東吉水に草庵をかまえ、こうした専修念仏を説く法然のもとには僧俗を問わず多くの人々が訪れ、中には時の関白九条兼実などもあり、持戒堅固な清僧法然に帰依を誓っています。これをきっかけにその後20年ばかりの間に地方にも熱病のように法然の教えは広まったといわれます。

 この法然の多くの弟子たちの中から、一大宗派として発展する教団をつくった親鸞(1173-1262)は、法然の教えを更に発展させ、徹底した自己反省、罪障の自覚により発見される絶対他力の信仰を説きました。

 そして、その他力による往生を可能たらしめるものは、阿弥陀仏のなされた諸善がすべての衆生に回向されるためであるとしています。本来的には善行をなすのは私たち衆生の側でその功徳を回向して浄土に往生することを願うものなのですが、親鸞は絶対他力の立場から善行も不要であるとして、ただ阿弥陀仏の回向を信ずるだけで成仏が確定すると説きました。

 親鸞は浄土真宗を開き(1224)、東国常陸を中心に農民や武士階級に多くの支持を獲得していきました。非僧非俗の立場をとり妻帯したことでも有名ですが、これも当時の堕落した旧仏教僧団の偽善を我が身にも感じ憎み、かえって不徳の自己をさらけ出すことによって進むべき道を見いだしたのでありましょう。

 親鸞にやや遅れて登場してくる一遍(1239-1289)は、親鸞以上に他力の信に徹底し、阿弥陀仏が悟りを得られるとき既に一切の衆生が往生することが決定されていたとして、信ずる心の有無に関わらず人のはからいを入れる余地なく南無阿弥陀仏の六字の名号の功力によって人は往生すると説きました。

 そして、人々が阿弥陀仏と結縁するためには南無阿弥陀仏と書かれた算を配ればよいと確信し、山野に野宿を重ねて全国を遊行し人々に念仏を勧めて歩きました。そうして一遍は念仏する衆生がそのまま阿弥陀仏であるという信念のもとに一所不住の厳しい旅にその一生を捧げました。

 時衆と名乗りその時その場所の衆まりを重んじる僧俗の遊行回国の念仏衆として、後に一宗派・時宗(1276)を形成しました。

 時代の要請もあり大胆な解釈によって悟りの仏教から死後の救いを求める仏教への転換を成し遂げたこれら浄土各宗に対しては、それまでの旧仏教教団からの度重なる批判弾圧があったことも、申し添えておきたいと思います。

 「奈良仏教の復興」
 都が京都に移ってから低迷していた奈良の諸大寺ではこの時代になってやっと改革運動が起こり積極的に社会に働きかけを行うようになりました。

 東大寺を本拠とする華厳宗では平安時代末期に大仏殿を焼かれ、再興の大勧進を行い後白河法皇や源頼朝の援助もあって様々な人々の喜捨を集め1195年再建されました。

 またこの時代、華厳の実践者として明恵(1173-1232)が出て、密教や禅に立脚した華厳学を樹立しました。後鳥羽上皇や建礼門院などの戒師となり北条泰時の帰依を受け、お釈迦様の生誕日や命日に法要を興し、今日も行われている仏生会や涅槃会のさきがけとなりました。
                            
(奈良・西大寺金堂)
 律宗では叡尊(1201-1290)が奈良の西大寺に住して諸学を修め、民衆にも戒を授ける布薩の儀式を修して仏教的な生活に目覚めさせ、あるいは癩病者や身体障害者、乞食などを救済する事業を行いました。

 弟子の忍性(1217-1303)は鎌倉に極楽寺を開き、癩病舎を建てて20年間に四万七千余人の癩病者や乞食を養い、また動物病院を建てたり橋を架けるなどの土木事業も行いました。二人は共に菩薩の名で呼ばれるなど、多くの民衆に崇められたということです。

 また法相宗では貞慶(1155-1213)が出て解脱上人と尊称され、戒律と唯識を学び法相宗を復興しました。笠置山に遁世して弥勒の不断念仏を修し弥勒信仰を広めました。興福寺に残る運慶作弥勒仏が今日では国宝として祀られ、弥勒信仰の伝統が伝えられています。また貞慶は専修念仏の問題点を指摘し朝廷に訴え出たことでも知られています。

 この時期の奈良仏教はともに戒律への自覚を強めた時代でもありました。それはこの時代に勃興した浄土教各宗派のいずれもが、往生するために戒律は必要無しとしたことにより、戒律が失われては仏教が滅びるという危機感をいだいたためであると言われています。

 「禅宗の形成」
 我が国への禅の初伝は飛鳥時代と一般に言われています。しかしながら、そもそも本来的に仏教そのものが禅定を抜きに成立しえないものと考えれば仏教伝来とともに禅が伝えられていなければならないことになります。

 とは言え一宗派として、坐禅を重視する宗派が誕生するのは、栄西(1141-1215)が2度入宋して中国臨済宗の禅を学び、即心是仏の禅を宣揚してからということになります。

 栄西はもともと比叡山や中国の天台山で天台の教理や密教を修得しましたが、その後は禅の実践によってのみ王法も仏法も栄えるとして、自らも厳しい持戒禅定の生活を送られたということです。栄西は「喫茶養生記」を著して日本にお茶の風習を普及させたことでもよく知られています。

 しかし栄西が伝えた禅は密教と禅の兼修を家風としていたとも言われており、純粋の禅が広まるのは、その後中国人の禅僧が来朝し鎌倉を中心に活動するまで待たねばなりませんでした。

 栄西滅後30年にして来朝した蘭渓道隆(1213-1278)は建長寺の開山となり、その門には弟子たちが雲集したと伝えられています。またついで来朝した無学祖元(1226-1286)は円覚寺を創立し、折しも蒙古来襲にあたり、北条時宗を激励し般若力を念じて勝利に導いたと言われ、その後も終生鎌倉武士の教化に励んだということです。

 また曹洞宗を興す道元(1200-1253)も一時比叡山に学び後に入宋して曹洞禅を授かり帰朝。日常の行いすべてを禅ととらえ自ら仏の自覚に立って修行すべきことを説きました。

 道元後は保守派進歩派の分裂を招きましたが、進歩派によって民衆の現世利益を求める信仰をも禅の中にとらえ、教団を飛躍的に拡大していきました。

 「法華経信仰者の登場」
 法華経を信仰する人々は平安時代から見られ、特に平安後期に台頭した地方武士層を中心に法華経を所持して読誦書写等を行い、それにより罪業を消滅し輪廻からの解放を求める信仰者がありました。法華経を信仰するそうした人々の存在を背景として、鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。

 日蓮(1222-1282)は、鎌倉に遊学後比叡山など各地を遍歴して法華経への絶対帰依を獲得し「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めたということです。人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性格が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとって題目を唱えることによってのみかなえられると説きました。

 ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。

 朝廷や貴族が政権を握っていた時代から武士階級による権力掌握へと国家制度が大きく変革されたこの時代、仏教の世界にもここで述べてきたように大きな変動がありました。近づきやすくなった反面、本来もっていた体裁が崩れゆく一段階となりました。

 仏教の信仰は、地方武士階級の他に農民や商人たちにも広まり、仏典を読む人口が増大し、そのため早くもこの時代に木版による仏典の出版が始められました。奈良の興福寺東大寺法隆寺や高野山、また鎌倉や上野など関東でも出版されていたということです。(ダンマサーラ第28・29号より)

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