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仏教のルーツを知る


 仏教のルーツを知る・日本編3
                           [平成11年(99)7月記]

 前回は、鎌倉時代に地方豪族や武士が台頭して、仏教の教えが変化していく様子を述べました。奈良平安時代に礎を築いた各宗の大寺院は、律令制のもとで貴族のように大規模な荘園経営を経済の基盤としていました。

 鎌倉期にはまだそれら寺院の荘園は存続していましたが、室町、安土桃山時代へと封建領主制度が確立すると荘園は姿を消し、それによって仏教界も著しい変化をとげていくことになりました。

<南北朝・室町時代の仏教(1336-1573)>
 この時代前半は政治的揺籃期が続き、さらには五穀が実らず、飢饉が連続して起こるような時代でした。また後半には応仁の乱(1467-77)以降戦乱が続き、人々の心には無常観が漂い、あの世での極楽を願う気運が高まっていきました。

 足利幕府の庇護をうけた臨済宗では京都の天竜寺、建仁寺などの有力寺院を五山と定め、それらを中心に、禅僧自らの修養の境涯を漢詩に表現するところから五山文学を確立していきました。

 また将軍家からの信任を背景にして金閣銀閣に代表される建築、彫刻、造園術など明の新しい文化を採り入れつつその影響力を発揮、さらには水墨画が流行し幕府から禄をもらう御用絵師も現れ、雪舟など山水画に卓越した禅僧も現れています。

 また、栄西によってもたらされた茶が堺の商人や大名に普及し、千利休によって禅の精神を根幹に茶道が大成されたのもこの時代でした。こうした詩画僧や茶人との交流に明け暮れる当時の禅僧たちを批判して登場するのが一休宗純(1394-1481)で、世間に迎合する当時の僧風を痛快に皮肉った風狂の流浪僧として知られています。

 ところで、これまで各宗内の行政管理は8世紀に定められた僧綱制度によって、各宗が自主的に人選して官に推薦した僧が宗内の管理にあたっていました。ところが、尊氏、直義の尊信を得た夢窓疎石の門下春屋妙葩(1311-1388)は、将軍義満から直接「僧録」という官位に任ぜられ、宗内の行政権力を統括。

 さらには十方住持制という幕府が住職を任命派遣する官寺の制度が作られていきました。これらは、政治権力による仏教介入の先駆けとなりました。

 時宗では、この時代、遊行の習慣から戦闘に同行する陣僧(従軍僧)となったり、阿弥陀を名乗る猿楽師観阿弥、世阿弥に代表されるような芸能文化の創造に関わるなど、室町文化を支える役割を果たしました。  
(戦国武将の供養塔が並ぶ高野山奥の院参道)

 曹洞宗では道元禅師の理想とした、ただひたすらの座禅を重視する永平寺は衰退し、逆に儀式を重んじ祈祷や念仏をも採り入れて民間信仰と結合していった総持寺を中心とする禅が人々の支持を拡大していきました。

 当時、禅、浄土、律など各宗の人々が訪れていた高野山では念仏が流行し、平安末期から諸国を遍歴して大師信仰を説いて回っていた高野聖がこれを採り入れ、高野山を浄土(総菩提所)として祖先の霊骨を納骨する風習を広めました

 また、天台宗でも戒律を重視した念仏行によって極楽往生を期する教えが広まるなど、この時代、浄土各宗以外でも世相を反映して念仏が採り入れられ、民衆の支持を獲得していく為の重要な手段となりました。

<一向一揆>
 一方、律令制度から解放された農民たちは、封建的な権力に対抗するため組織化して結束を強め、農業技術も進歩するなど力を増大させていきました。それに宗教的な裏付けをもって、一揆という経済的政治的抵抗運動を生むことになりました。

 一向一揆は浄土真宗本願寺の僧と門徒の武士や農民の集団でした。本願寺八世蓮如(1414-1499)は、南無阿弥陀仏の名号を200幅300幅と書いて信者に与え、加えて教義を平易な文書にしたためて伝道を行うことで、当時沈滞していた本願寺を立て直し、北陸地方を中心に農村単位の門徒化に成功していきました。

 人は在家のまま何の修行も要せず、どんな悪人でも一念発起の信心の定まるとき往生が決まると、階級や職の差別無きことを説きました。階級差別の厳しかった当時にあって、こうした意識改革も作用してか、一向一揆はこの蓮如の時代に始まりました。

 彼は当初一揆に対し反対の姿勢を示していたということですが、九世実如の時代には本願寺自身が一揆の中心になって戦うようになりました。加賀や越前越中の北陸地方で強力で、越前朝倉、甲斐武田、美濃土岐の各氏が門徒になり、信長軍と対抗する勢力となっていきました。

 また京都を中心とする町衆の一揆として日蓮宗が結合した法華一揆も、応仁の乱後焦土と化した京の町を外からの攻撃に対して自衛する目的と様々な幕府への要求を交えたものとして形成されました。

 <安土桃山時代の仏教(1573-1603)> 
 世の中全体が戦さに明け暮れたこの時代、仏教教団自体も武装化を余儀なくされていました。秩序が無くなり、僧侶も商業営利に走るものが現れる一方で、宗内の教理を時代に合わせ研究発展させていく俊英たちも現れていました。

 戦局は、統一されつつあった武家勢力と対峙していた有力な仏教教団との抗争へと移っていきました。天下を掌中にしていた信長は、対抗勢力に荷担したとして比叡山の堂塔を焼き払い僧を殺し(1571)、続いて各地の一揆も終息(1580)させていきました。

 信長亡き後、秀吉は降伏せず二万もの僧兵を擁し城塞と化した紀州根来寺を十万の軍勢を率いて炎上(1585)させ、粉河寺など周りの寺院勢力をも壊滅させるに至りました。秀吉は高野山にも降伏を迫り、高野山客僧木食応其(1536-1608)が粉河で陣を張る秀吉のもとに赴き、高野山は辛うじて焼き討ちを逃れたといわれます。

 後に秀吉の信任を得た応其は、秀吉の生母の供養として高野山に青巌寺を建立、その他諸堂を修理。さらに諸国97カ所の道路や橋、用水を整備修復して、行基の再来と称されました。

 後に天下を掌握した秀吉は、太閤検地を行い、土地制度を一新して、農民を土地に定着させ、封建大名領主制を確立するに至りました。これによって、荘園によって経済的に栄えていた旧仏教や武力により土地を支配する教団も姿を消しました。

 秀吉は徹底的に寺院勢力を壊滅させると、逆に本願寺や比叡山、高野山、興福寺などの復興を援助し、奈良の大仏をも凌ぐ方広寺大仏を京都東山に造立。亡き父母の供養として大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養(1595)を行いました。これら一連の施策は秀吉が仏教界全体の懐柔を目論むものであったと言われています。

 また、封建制度が確立されて、それまで社領として荘園を営んでいた神社でも寺院と同様に領地を取り上げられることになりました。例えば、鎌倉期頃、紀州には石清水八幡宮領が多く、それぞれに荘園鎮守として八幡宮が建てられましたが、領地取り上げ後はそれらは村の氏神となり、神社だけが今も残されています。

 こうして、経済基盤を失った大神社は、その後、御師という制度を設け、彼らを諸国に派遣。信者を獲得させ、神前で祈祷したお札などを配布させたり、団体で神社に参拝させるなど神社信仰を一般民衆に普及させていきました。

 こうした動きと呼応して、それまで仏教側から理論化されていた神の領域が神道自体で理論化されていくようになりました。それまでは、仏が本来の姿で、その仮の姿として現れているのが神であるという本地垂迹説が神仏関係の基本とされていました。

 が、当時仏教側でも極端な現実肯定の考えが広まり、現実そのままが究極の姿であるとの考え方が定着していきました。それによって、高邁な仏も現実の姿をとる神も同列となり、はては、神こそが根本であり、仏法は花実であるとの神道理論が形成されていきました。
 
<江戸時代の仏教>
 徳川幕府の仏教政策作成にあたっては、南禅寺の崇伝(1569-1633)と天台宗の天海(1536-1643)の二人が幕府に協力し多大な影響を与えたといわれます。

 崇伝は家康の信任を得て駿府に赴き、宗教政策全般に関わり外交文書までも起草しました。一方天海は家光に至る三代の宗教顧問として尊重され、家康を没後東照大権現として日光に祀り、江戸鬼門に寛永寺を造営して盤石な幕府の礎を築いたことでも有名です。

 彼らの影響のもとに作成された寺院統制の一つは、各宗の江戸在所の有力寺院を触頭寺院と定め、幕府の命令を直接受ける役割とし、そこから全国の寺院に幕府の命令を徹底させることでした。

 そして寺院法度を発布して宗内の職制や住職資格など様々な規則を定め、自由な布教活動を制限しました。自由な法談が制限されたり、新寺建立やそのための勧進募財にも取り締まりがありました。

 さらにその法度には、本寺末寺の関係が規定され、すべての寺院が本末制度の中に組み込まれることになりました。それにより本山を中心とする中央集権的な組織を確立し、先の触頭寺院からの伝達を徹底させていきました。

 そして寺格や僧侶の階位も細かく規定され、住職になるための修行年数や学問も定められました。それにより、各宗に道場や学林ができて教学研究が進められることとなりました。

 そして今日まで多大な影響を及ぼすことになる檀家制度ができたのもこの時代でした。この制度は、もとはといえばキリシタンを禁止して、その実効をあげるために作られた制度でありました。

 慶長十八年(1613)、京都でキリシタン取り締まりに際して改宗者を寺の信者に登録させたことに始まり、寛永十七年(1640)にはこの寺請制度が全国ですべての人々に施行されることになりました。

 誰もが家単位でお寺の檀家となり、家族の年齢宗旨を書いて家の長が捺印し、所在の組頭らが連署して檀那寺の住職が証明した帳面を作らせていきました。これを宗旨人別帳といい一種の戸籍の役割を持たせ、寺の住職に管理させました。

 こうして、当時は結婚、旅行、引っ越しなどにも必ず檀那寺で寺請証文をもらわなくてはならず、また死亡した際にも住職が検分しキリシタンでないことを請けあいのうえ引導を渡すことが義務づけられました。

 こうして今日のような檀家制度が強要されることになり、さらに亨保七年(1722)頃にはその檀那寺の変更も禁止され、僧侶は尊大となり、ますます堕落を招く結果ともなりました。

 また、前回荘園によって経済的に栄えていた旧仏教が姿を消したと記しました。秀吉はすべての寺領をいったん没収した後由緒正しい所領だけを寄進という名目で返還しました。ただそのときには旧来の司法権をも持つ領主であったのが、細かな規則を定めた江戸時代には単なる地主となり、寺領も減っていったと言われています。

 しかし、こうした体制側に付いて官吏化した仏教に対する批判は江戸初期から朱子学陽明学などの多くの儒学者からなされ、排仏論が書物に著されるようになりました。その批判には、たとえば僧侶が家を捨て出家することに対して、孝や忠という倫理に反するとしたり、僧侶が労働せずに広い土地を所有していることなどに対する批判であって、仏教の宗教哲学に対するものではありませんでした。

 しかしながら、ともかくもそうした批判が集中する原因の一つには、当時の僧侶たちが戒律を守らず奢侈に耽り幕府の官吏として尊大になる様に反感を買っていたことを伺わせています。

 そうした僧侶たちの風潮の中で、自己批判をして僧風を粛正していこうとする動きも現れました。天台宗では寛永寺に宗内の実権を握られた比叡山において、小乗の250戒を遵守して、戒律に従うことが祖師の理想に近づくことであるとする戒律の復古運動が起こりました。                            
(慈雲尊者像)

 真言宗では浄厳(1639-1702)や慈雲尊者飲光(1718-1804)が出て、梵学(サンスクリット語研究)を起こし戒律を研究して多くの信者にも菩薩戒を授けたということです。

 特に慈雲は十善戒を「人となる道」と位置づけ、仏教の戒律を生きるための身近な教えとしてわかりやすく説きました。この十善の教えは明治の仏教者にも多大の影響を与えたと言われています。

 また信仰に持戒を求めない浄土宗でも中期に僧風刷新の目的から浄土律が提唱され、さらに日蓮宗、浄土真宗でも持律厳粛な僧が現れ、僧風の自粛を求めました。

 新しい教えを起こすことを禁止された江戸時代にあって、この時代唯一黄檗宗が中国から伝来されました。当時外国との窓口となっていた長崎に中国人たちが渡来し、お寺を建て、そこへ請い招かれてやってきたのが隠元和尚(1592-1673)で、宇治に黄檗山万福寺を建立して禅と念仏が習合した念仏禅を説く黄檗宗が開かれることとなりました。

 隠元の弟子鉄眼道光(1630-1682)は漢訳経典の集大成である一切経の開版を決意して募財し、鉄眼版一切経を出版しました。江戸時代初期には天海が幕府の支援で木製活字による一切経を作成したものの部数が僅かで一般に普及するには至りませんでした。が、鉄眼版は木版で印刷部数も多く、その点仏典研究の進展に大いに役立てられることになりました。

 ところが、その鉄眼版の一切経出版にも関係していた富永仲基(1715-1746)は一切経を読んで「出定後語」という書物を著し、膨大な経典のうち真に仏陀の説いたものは阿含経の数章にすぎず、大乗の経典を含むその他すべては後の人々の加上によって多くの経典群が残されていったと指摘して、仏教経典の原典批判を行いました。

 これは、今日明らかになっている仏教史からみて誠に妥当な指摘であって、当時僅かな資料から論理的に推理して導き出した説として驚嘆に値するものであり、当時もこの説に対して文献学的に反論することはかなわないものでありました。

 そうして江戸時代後期には本居宣長や平田篤胤などの国学者たちからこの富永仲基の説を取り入れた仏教批判が相次ぎました。彼らは儒教や仏教が伝来する前の古神道による社会を理想として、神国への復古を叫び、それが通俗的であったことで多くの人々の共感を呼び、維新の王政復古運動へと結びついていくのでした。
 
 次の明治という時代を迎えるにあたり、ここで、この江戸時代までの神仏をめぐる信仰の形態について一言しておかねばなりません。

 今日お寺と神社は明確に境内を隔て管理されています。しかし、江戸時代までは神仏習合という風土の中で、お寺の中に土地の鎮守が祀られ、また神社では隣り合わせるお寺に住む社僧といわれる僧侶が神社の別当(神主)として神域の管理をも行っていました。

 そして新寺建立を制限された江戸時代、特に江戸の町では年々人口が増加し、また新しい土地の開拓も行われたところでは、僧侶が新たに鎮守を勧請して神社を造営し、隣地に寺院僧坊を建立していきました。

 このようなお寺を神宮寺といい、僧坊に住まう僧侶が社殿に入り、ご神体を前に仏教経典を読む姿が日常的に見られ、これを神前読経といい、儀礼は仏式で行われていました。

 神仏習合は、古くは宇佐八幡宮に弥勒寺が造られ社僧が初めて登場する神亀二年(725)以来江戸時代まで続けられてきました。一千年にも及ぶこのような伝統に基づいて私たち日本人の信仰は形成されてまいりました。今日何の疑問も感じることなく神社とお寺にお参りする私たちの信仰は、正にこうした歴史を反映するものなのだといえるのです。

 そして、幕末から明治へと、時代が足早に駆け抜けるとき、それまでの体制に荷担し体制維持に一役買って優遇されていた寺院僧侶は批判弾圧の対象となりました。また、王政復古、神道国教化政策に伴い神仏分離令が発布され、廃仏毀釈の嵐の中に晒されることになるのでした。(ダンマサーラ30・31号より)
 

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