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仏教のルーツを知る


 仏教のルーツを知る・日本編4
                           [平成11年(99)9月記]

 前回は、江戸時代の宗教政策の一環として、また民衆掌握のために幕藩体制の中に取り込まれていった仏教の様子を中心に述べてみました。その過程で死者の葬儀は必ず檀那寺において行うことが定められ、その習慣が今日に至っていることを述べました。

 また、新しい教えが生まれなかった分、各宗派内での教理研究、来るべき時代の要請を先取りした仏教学の進展も見られました。今回は政治ばかりでなく民衆の生活にも多大な変化をもたらした明治時代を中心に、今日の仏教へ至る道筋を明治政府の宗教政策にも言及しながら見ていきたいと思います。

<明治時代の仏教>
 神仏分離令と廃仏毀釈
 慶応4年(1868.9月より明治元年)3月、未だ江戸開城も済まぬ時に、神祇事務局より神仏分離令が発令されました。まず3月17日、「諸国大小の神社において僧形にて別当あるいは社僧として仕えるものは復飾するように」とのお達しがありました。

 また同じ3月の28日には、「権現など仏語をもって神号とする神社は由緒を書き付け申し出よ。また仏像をご神体としているところ、本地などとして仏像を社前に掛け、鰐口、梵鐘、仏具などを置いているところは早々に取り除くべきこと」と通達しました。

 この布告を見てもその頃の神社がいかに仏教と習合し祀られていたかがうかがわれるわけですが、当時大きな神社であっても神職身分のものの上位に社僧など僧侶がいて、神職はその指示に従っていたと言われています。

 ところが江戸末期には元々神社中心の政策をとっていた岡山藩や水戸藩の他に薩摩藩や津和野藩でも排仏と神道化が行われ、他の地域でも王政復古、神武の古にかえすとの理想がはびこり、神社内の上下関係に神職側の不満も高じていました。

そうした状況の中で、この神仏分離令が発令され、加勢を得た神職らによる強引な破壊行為が各地で巻き起こっていきました。

 比叡山の日吉山王権現では、社司が数十名の同志とともに弓や槍を携えて神殿に闖入し、ご神体として祀られていた仏像の面を射通して喝采し、経巻仏具などを外に投げ出し焼いてしまったということです。こうして、世に廃仏毀釈と言われる野蛮行為によって、国宝にも比せられる多くのものが瞬く間に全国各地で灰燼と化す事態となりました。

 また一方では、奈良の興福寺のようにすべての僧侶が何のもめ事もなく復飾して神官となって春日社に仕え、伽藍仏具などは処分されるといった例も、他に大きなところで石清水八幡宮、鶴岡八幡宮や北野神社など、まま見られたということです。しかしその多くは、神社と寺とに境内を分離して別々の管理のもとに置かれ、今日に至っています。

 <明治新政府の宗教政策>
 かくして王政復古の旗印の下にうち立てた明治新政府は、その権威のために天皇陛下を神権者とする国家神道を国教化する政策を採用しました。しかしこの政策は一方で、欧米各国との関係強化によって予想されるキリスト教の侵入に対抗し、民族的意識統合をはかる必要にも迫られていたからとも言われています。

 いずれにせよ、神道を国の教えとするために、それまで天皇皇族の菩提寺として葬祭の一切を執行していた京都の泉涌寺との関係は、明治元年の12月には早くも改められ、神式の祓除招神の儀式をおこない拝礼を行うことが慣例になりました。

 そして明治2年7月、神祇官が太政官の上に置かれ、「祭典の執行、陵墓の管理、宣教」を司ることとなりました。神々の頂点には神典に記された神々と皇霊をいただき、その下に諸国有名神社や功臣を配し、底辺には村毎の氏神と祖霊を置く神々の体系をもって、それ以外の宗教的なものをみな淫祠邪教の類として排し、神社や神職らによる国家管理を進めることとしました。

 そして明治4年頃には伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とする神社祭祀が体系化され、官・国弊社や府藩県社、郷社、産土社を定め、すべての神社神職は国家機関とされました。

 さらに江戸時代民衆掌握の手段としてお寺が作成した宗旨人別帳に代わり、明治4年4月戸籍法が制定され、7月には氏子調規則が定められました。これにより、新生児は必ず産土社で守札をもらい、死亡に際しては守札を神社に返すことが強制されることとなりました。

 当時、仏教信仰は容認されていたとはいえ、これによって国によって定められた祭祀体系の中にすべての人が取り込まれる事態となり、江戸時代のお寺の役割をそのまま神社が取って代わることになりました。

 ところが翌明治5年3月には、早くもこの神祇官による神道唯一主義に無理が指摘され、キリスト教に対抗するために民衆教化に実績ある仏僧を取り入れた教導職をもうけ、神々への崇敬を民衆に教導していくこととなりました。

 そして、4月28日政府は、僧侶神官ら教導職が宣揚すべきものとして「敬神愛国の上旨を体すべき事、天理人道を明らかにすべき事、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事」を内容とする三条の教則を布告。仏教各宗の代表者は早速政府に大教院という教導職養成機関の創設を訴え、諸般諸学科を教授することを許されました。

 しかしその大教院開院式が行われた東京芝の増上寺では、山門に白木の大鳥居が建てられ、本堂の本尊様は別に移され神鏡をおいて注連縄を張り、そこで烏帽子直垂の神官とともに各宗管長が祭儀を行ったということです。

 はじめからこの有様でしたから、この大教院も結局は神官たちに隷属し単に三条の教則を伝道する場となりはて、明治8年には解散。その後、各宗は三条の教則を守りつつ独自に布教が許されることとなりました。

 またそれに先立ち、明治4年末から欧米を訪問していた岩倉使節団は、訪問国でキリスト教迫害を抗議され、信教の自由を承認せざるを得なくなり、明治6年にキリシタン禁制を撤廃。氏子調べも同年中止となりました。こうして急激な変革をもたらした神道国教化政策は様々な禍根を残しつつ、近代国家への体裁をつくろうものとなっていきました。

 <肉食妻帯の解禁>
 その禍根の一つ。三条の教則布告に先立つこと3日、明治5年4月25日、「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し、法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず」という、それまで僧尼令によって定められていた肉食妻帯の禁を解く布告がなされました。

 さらに同年9月には僧侶にも一般人民同様に苗字を称させる太政官布告がありました。これらはつまり、国家としては出家者を特別扱いしないということの表れであり、神道を国の教えとする上で当然のことではありました。

 僧侶の戒律は、本来国家とは何の関わりもなく僧団の一員として当然のごとく自発的に守られるべきものであります。しかし、仏教が伝来し定着する頃には国法によって厳重に管理されてきた長い歴史の故に、志ある僧侶たちからは心得がたいものと映り、一方では喜んで還俗したり肉を食らい妻帯するものもあったということです。

 ともあれ、この肉食妻帯問題は明治30年代に各宗の宗議会で戒律問題として公認すべきか否かで紛糾し、結局自然の成り行きに準じることとされました。そのために、今日に見るような全くの無戒状態、戒律を意識することさえないような仏教が常態となってしまったのでした。

<明治の名僧

 こうした明治の僧風の中にあって持戒堅固を貫いた明治を代表する仏教者をここに紹介しておきたいと思います。                       
(50歳頃の雲照師)

 釈雲照律師(1827-1909)は、その学徳と僧侶としての戒律を頑なに厳守する清浄なる生活姿勢、崇高なるその人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信などの明治の元勲や多くの財界人が帰依し教えを請うた明治の傑僧でありました。

 神仏分離令に際しては、仏法擁護のために数多くの建白書をしたため京都東京を奔走されました。その後東京に出て目白に僧園を創設。

 わが国最初の経典和訳事業に取り組みつつ、平素40人程の若い僧侶とともに戒律に沿った修行生活を送り、同様に西那須、倉敷連島にも僧園を開設して如法の僧侶を養成。

 堕落した仏教界の改革を目指しました。在家者には十善会、夫人正法会を開き戒律のある道徳的生活を説き、また晩年には西洋化する世間に対抗し神儒仏を一貫した精神をもって教育する徳教学校設立運動を起こしました。

 さらには、世界に仏教を宣揚するためにインドの聖地を買収して世界仏教の総本山とすることを計画。甥の釈興然(比丘名グナラタナ)師をスリランカに派遣して南方の上座部仏教の戒律を受けさせ、後にインドの現状を報告させていきました。

 明治23年(1890)、興然師は、今日インドの仏跡復興の功労者とされるスリランカのダルマパーラ居士と出会いともにインドに赴き、同じ志を持ち合わせていた二人は世界の仏教徒によってインド仏教の象徴であるブッダガヤの聖地を買い上げる運動に奔走する事となりました。

 仏教各国で資金を分担する事となり、日本からは雲照律師が日本の分担金千円を募り興然師に託すものの、その後ヒンドゥー教徒や英国政府の反対にあい、残念ながらこの構想は断念せざるを得ませんでした。しかしこのことは文明開化の日本にあって、宗派を離れた一仏教徒が国際的に一事業をなさんとした知られざる壮挙といえるものでありました。

 釈興然師(1849-1924)は、7年間のインド・スリランカでの行程を終えて帰国後もスリランカの袈裟を終生脱ぐことなく、自坊・横浜の三会寺では釈尊正風会を結成。僧侶をスリランカに派遣して日本人による南方上座部の僧団形成を計画していました。

 またパーリ語を教え、その生徒にはチベット学の先駆者河口慧海師や欧米に禅を説いた鈴木大拙師などがあったということです。明治40年、タイ国公使から日本で最も立派な僧侶を招待したいとの申し入れにこの興然師が選ばれ、一年間タイ各地に滞在し供養を受けたということです。

 河口慧海師(1866-1945)は、終生向学心を燃やし続けた真摯な仏道実践者でした。黄檗宗にて出家後、漢訳一切経の読破をすすめる傍ら、黄檗宗の改革に乗り出すものの山内退去となり、原典サンスクリット経典を忠実に訳したチベット語経典の蒐集を発願、インド・チベット旅行を企てました。

 雲照律師の目白僧園で律を学んだり、また興然師についてパーリ語を習うなど渡印の準備を進め、明治30年(1897)単独でインドへ旅立ちました。苦心惨憺の末ヒマラヤを越え、他国人立ち入り禁止の国チベットに潜入。

 膨大な経典類、仏像仏具、民具類、装飾品、貨幣、動植物の標本に至る資料を持ち帰りました
。今日欧米に比べても勝るわが国の仏教原典の蔵書量は、ひとえにこの慧海師によるところといわれています。

 また、福田行誡師(1809-1888)は、浄土宗回向院に住し、明治初期の混迷期に政府に対し数々の意見を建白したことで知られています。仏僧本来の面目に帰るには、まずは戒を守り、広く他宗の学問も修める兼学を提唱した人でありました。

 肉食妻帯勝手たるべしとの政令後、戒律に関しては総じてその意識に欠け十分な成果をあげ得なかったのでしたが、その後の明治の仏教界には多くの学僧が輩出し学問としての仏教が大いに発展していきました。その根本の精神は各宗派のそれではなく、行誡師が唱えた兼学ということにあったということです。

 <欧州におけるインド学の発展>
 欧州では18世紀末頃から、植民地であったインドやスリランカに渡った官吏や司法官などが現地の言語文化を研究し、中でもサンスクリット語やパーリ語に惹かれ、辞書を編纂、数々の典籍を翻訳していきました。

 マックスミューラーは英国のオックスフォード大学にあって、インドなど東洋諸国の膨大な量の古聖典を翻訳し集大成する仕事をなしました。

 仏教語であるパーリ語経典は、リズ・デビッズらによってスリランカからロンドンにもたらされ、各国の文字で書き記されていたパーリ経典をアルファベット表記にして原典を出版するパーリ聖典協会(PTS)をオルデンベルグらと設立(1882)。またパーリ経典の英訳やパーリ辞書の編纂も手がけ、後学の徒にとって貴重な研究の礎となりました。

 こうして欧州で発展したインド学仏教学を学ぶため、日本からも多くの学者が訪れ、中でもいち早く東本願寺の南条文雄、笠原研寿の二人は明治9年(1876)に、マックス・ミューラーを訪ね、サンスクリットを学びました。

 こうして、学問の世界では中国経由の漢訳の仏教ではない、インドの香り高い仏教が欧州経由で研究され、特にパーリ語の仏教、つまりお釈迦様の語られた言葉などを記述した南方上座部所伝の仏教が仏教学の主流となっていきました。

 そして、昭和10年から6カ年をかけて、パーリ経典をことごとく訳出した南伝大蔵経65巻がわが国の学者の総力を結集して刊行されたのでした。

 しかし残念ながら、わが国の伝統的各宗派にあっては、戦争を挟み今なお、こうした学問的な発展を吸収し得ず、逆に自宗の祖師信仰や伝統儀礼に頼る体質は変わることなく、今日に至っています。


 これまで、実に10回の連載を要して、お釈迦様から近代日本仏教にいたるインド・中国・日本における仏教の三国史を述べてまいりました。

 時代の変遷による社会環境の変化、伝えられた土地の文化風習の違いによって、またその時の政治に翻弄されつつ、お釈迦様の教えに始まる仏教が著しく変化していく様子がおおよそお分かり頂けたことと思います。

 今日幾筋もの支流に分かれて展開する仏教は、それぞれの歩みをさかのぼりその源・ルーツを確かめていくことができます。

 今ある現象のみを見て評価することなく、インドへ至るルーツをたどりつつ、その本質を見極めていくことが大切なことではないかと思います。(ダンマサーラ32号より)
 

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