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仏教のルーツを知る ・中国編2 [平成9年(97)12月記] 前回は、仏教がインドから中国へ至る歴史に触れ、その後中国で仏教がどのように受け入れられていったのかを見て参りました。 中国における初期のお寺は、当時既にあった貴族の邸宅や官庁を改造した中国伝統の殿堂様式の木造建築が多かったといいます。また、大寺院では仏塔を中心に仏堂を回廊で結ぶ寺院もあり、仏塔の周囲を巡って礼拝供養するという、今もサールナートのストゥーパで見られるような仏教信者の姿を当時目にすることができたのでした。 また、黄河以西の河西回廊や黄河流域には随所に石窟寺院が造られ、当時のひたむきな信仰を物語っています。前秦の時代 (366頃)から造られ出したこれら石窟には入り口に磨崖大仏が佇み、内部には素朴で雄壮な多くの仏像が彫られていきました。 前回も述べたように、中国では、経典がもたらされると、次々に中国文に翻訳されていきました。上座部、律部、論部、大乗とその当時なし得るほとんどの仏典が1000年という長い時間の中で漢訳され、中国の人々は誰でもがたやすく仏教に触れることができるようになりました。 しかし、それらの中から取捨選択され広まっていった教えは、中国の人々の好むごく一部のものが主流となり、それらが重要な教えとして我が国にも紹介されることになりました。 それらの教えとはどのようなものだったのか。それらはどれも中国仏教の最盛期である隋唐の時代(隋581-618、唐618-907)に登場してまいります。前回に続きその時代から中国仏教の歴史を振り返って参りましょう。 <仏教中国化の歴史−2> 西域の大翻訳家クマーラジーヴァの活躍した南北朝時代に多くの経典が中国文で読解できるようになり、それによって学問的研究が広く行われるようになりました。その研究する人々の集まりが学派となり宗派となっていきました。 当時最も広く歓迎された経典は、“すべてのものに仏となる可能性がある”と説く涅槃経でした。また大きな影響を中国仏教に与えたとされる法華経、そして般若経典群や華厳経、無量寿経、阿弥陀経なども広く研究されていきました。 こうして、これらのお経を研究し講義をし、注釈を書くために様々なグループができていきました。このように好んで研究された経典研究の現場において、それらの教えを実践する立場から、また信仰する中から宗派が生まれてまいりました。 中国で誕生するこれら宗派は隋の時代に、はじめて生まれてくるのですが、今の浙江省にある神仙の棲む山として名高い天台山を本山とする天台宗、南京市東方の深山幽谷摂山を中心とする三論宗などがまずは盛んとなりました。 中期には隋の都揚州に本山を置く律宗、大雁塔で有名な長安の慈恩寺に始まった法相宗、また山西省の五台山を中心として華厳宗が、そして真言宗も8世紀前半には中国にもたらされ、長安にて誕生いたしました。さらに、中国で独自の発展によって形成される浄土教、最も中国的色彩が強いといわれる禅宗もここに登場してまいります。 天台宗は法華経を、華厳宗は華厳経というお経を専門的に研究し、最上の教えと信じる人々により形成されていきました。 [天台宗]は、法華経の説く、すべてのものをそのまま一切の諸条件をそなえた真実のすがたであると捉え、そこから、すべてのものは悟りを開く条件をそなえているという、理想主義平等主義の教えを主張いたしました。 天台宗三祖智ぎ(538-597)はこうした天台教学を大成するかたわら、これまでに訳されたあまたの経典をその内容からお釈迦様の説法の時期別に分類し経典の価値評価をしたことで有名です。 「五時八教」と言われるこの教判は、お釈迦様の説法した時期を五つに分け、それぞれの時期で内容に変化があったとして翻訳された経典を分別し、最後の時期に説いた教えである法華経と涅槃経こそがお釈迦様の本当に述べたかった教えであると位置づけました。 そして、法華経こそがすべてのものが成仏するという悉皆成仏の理想の教えを説いているとして、それまでの他の経典は仮の教えに過ぎないと規定してしまいました。 これまでに述べてきたようなインドからの仏教史を理解している人にはその誤りがすぐに気づかれるものですが、このことは当時経典が五月雨的に入ってきたがために、それぞれの経典がいつ頃つくられたものかまったく知られていなかった事実をあらわしています。そうした当時の事情から生じた誤りとはいえ、この五時八教の教判はその後の中国仏教、また日本仏教の行方に多大な影響を与えるものとなりました。 一方、[華厳宗]では、東大寺に見られる毘盧遮那仏を本尊とする荘厳な仏の世界を表現し、その一つ一つの部分にすべてのものが含まれ、その全体の中に一つ一つの部分が映し出される。また長い時間も一瞬の間に収まるものであるとして、今の現実を離れて別に尊い聖なる領域があるのではなく、現実に生きる私たちが仏の光明にそのまま照らされてあると主張いたしました。 また、華厳宗でも天台宗と同様に教判を作り、こちらは内容別にさまざまな教えを分類し、その内容から評価を下す「五経十宗」という教判を行い、華厳宗の教えこそ最も優れた教えであると位置づけました。 これら天台と華厳は中国が生んだ学問仏教として中国仏教を代表する二大教学とたたえられるものです。が、その教学は漢訳された上での独特な読み方や解釈によって理論が構築されており、こうした教理は、インドの言葉には置き換えることができず、論理的思考を重んじるインドではありえない、中国人の思惟による独自の教学が成立していきました。 また、戒律を重視し律蔵の研究を進める人たちが[律宗]を開き、インドの部派仏教時代にそれぞれの部派が所持した律蔵を比較研究し、なかでも特に大乗色の強い「四分律」が重んじられました。後に日本にも伝えられ、真言宗のお坊さんなどは、今もこの四分律を授かった上で修行にのぞんでいます。 [三論宗]は、般若経典の思想を受けて「空の哲学」を大成したナーガールジュナが著述した中論など三つの論典を研究するグループから生まれました。烈しい空観の修禅にその特徴があり、唐代以後は禅宗の中に吸収されていきました。 また、インドを旅した玄奘三蔵がもたらし、意識下の心を解明した唯識説を研究する[法相宗]が生まれ、先に述べた天台宗などで説かれる、誰でもが悟りを開く素質があるとする悉皆成仏の思想を批判し、皆能力には違いがあることを主張いたしました。 そこで、法相宗では意識下の心に貯め込んだ汚れを滅却していく瞑想行を重んじ、現実主義実践主義の教えを貫きました。日本にも唐に渡り直接玄奘より教えを授かった道昭が奈良時代に伝えて、今も興福寺薬師寺がその本山となっています。 さらに、玄宗皇帝のときインド僧善無畏(637-735)が密教経典を携え陸路長安に来て、インド伝来の密教が伝えられ[真言宗]が誕生いたしました。善無畏は大日経を訳し、またのちに南インド出身の金剛智は、金剛頂経を訳すなど、多くの密教経典が漢訳され、インドで盛んになるのとほぼ同時期に中国でも密教が興隆していきました。 金剛智の弟子で西域出身の不空(705-774)は、金剛智から中国内で密教を授かり、後にインドに帰りセイロン等に寄って最新の密教をもたらしました。この不空は、後に143巻の経論を翻訳しクマーラジーヴァや玄奘などと並び四大翻訳家の一人として名をとどめています。 この様に、それぞれの経典や論部の仏典などを深く研究し、その教えに沿った実践を進めていく、学問的な宗派が主流となりました。が、その一方で、当時庶民の信仰としてより宗教的実践的な仏教が求められていたことが中国各地に残る壁画などから伺い知ることができます。 北魏の時代から1000年間絶えることなく開窟と造像が続いたといわれる敦煌莫高窟の壁画には壮大な極楽浄土変相の図が多く残されています。阿弥陀仏を礼拝し念仏する[浄土教]の教えは、中国では一つの宗派として独立したものとはなりませんでしたが、いろいろな宗に属する人々が盛んに阿弥陀浄土を信仰していたと言われています。 三論宗系の人、曇鸞(476-542)は、心に阿弥陀浄土を観想するといった観念の念仏から口で唱える念仏を確立した思想家として、我が国の浄土宗誕生にも多大の影響を与えました。今日でも台湾などでは阿弥陀様を讃歎する歌を作りテープで流すなど、浄土信仰が盛んなようです。 また[禅宗]は、他の宗派がどれも、より所とする経典なり論をもって宗旨をたてるのに対して、心を以て心に印する教外別伝としてそれらを用いず、520年頃に海路中国に至ったとされる菩提達摩がインドから伝えたとされています。 それまでの仏教の教理や一切の分別を捨てて、ただひたすらに座禅し本来の淨らかな自己の本性を直感的に自覚しようとするところに特徴があります。また食事作法や作務など生活全般に重きを置くこともよく知られており、中国人が生んだ最も中国的仏教と言われています。 インドにあっては、お坊さんたちの住まいである僧院が主要な部分を構成していた仏教施設も、中国にあっては特にこの時期、仏を祀る仏殿やシンボルとしての仏塔がその中心を占めていきました。 隋唐時代の寺院は、寺門、仏殿、法堂などが中軸線上に縦に並ぶ様式の寺院が盛んに造られました。長安城内の寺院は数百、大寺院の規模や壮麗さは宮殿をも凌ぐものであったということです。 以上のように、この時代華々しく仏教が中国全域に広まることになりましたが、その発展を支えたのは、仏教を保護し、多くの官寺を造営した王室の全面的な支援の賜物でした。 唐の高宗はインドから帰国した玄奘に対して大慈恩寺を建て、翻経院を設置し経典や仏像が焼失するのを避けるため大雁塔を作るなど、彼の翻訳事業のために多大の便宜を図りました。 則天武后は、華厳宗や禅宗を重んじ、宮中に内道場を設け、国家安泰聖寿長久を祈祷させたと言います。また、玄宗は、インドから最新の密教をもたらした不空を重んじ、不空は帝に密教の灌頂を授け、その後の粛宗、代宗の三代の国師として大広智三蔵の号を賜りました。 この様に仏教の存在が国家の統治や人心の安定のために役立つものとして国家から尊崇され保護されればされるほど、それを快く思わない道教や儒教者たちからの仏教排斥も盛んになっていきました。 度重なる廃仏運動が起こり、中でも、唐代末期の武宗による廃仏(845)では、僧尼の中で犯罪を犯したり戒律を守らず還俗させられたものが26万人以上に及び、寺院も長安洛陽に各四か寺、その他は各州に一か寺を残し、官寺四千六百余,私寺四万余寺がことごとく廃止されました。 この廃仏によって、唐代に隆盛を極めた仏教が瞬く間に衰退していきました。三論、天台、法相、華厳、真言の各宗派どれもが朝廷の帰依を受けて経済的援助によって興隆してきたが為に、一時の廃仏によって急激にその勢いを失うことになってしまったのでした。しかしながらその陰で、朝廷の援助の外にあって、民衆のための宗教として重要な役割を果たしつつあったのが浄土教と禅宗であったのです。 <仏教中国化の歴史−3> 唐代以後の中国仏教は、大きな発展もなく今日を迎えています。その教義や実践に関する基礎が唐代までに完成されていたからと言われていますが、仏教が中国化し深く民衆の生活に浸透し、生活の中にとけ込んでしまったからであるとも思われます。それ以後儒教や道教などとも相互に理解が進み、烈しい衝突もなくなったといいます。 それらと仏教は長い歴史の中で共存し互いに影響を受けることにもなりました。道教は文献構成方法を仏教の三蔵にならい、儒教は人間の本質を解明する原理の中に仏教の考え方を取り入れるなど、仏教から多大な影響を受けたとされています。 また、仏教側が道教から得たものとしてよく知られているものが、死後の冥府にあって罪人を審判するという閻魔王などの十王信仰があります。十王経などが作られて民衆に受け入れられ、我が国にも伝わって誰もが知るところとなりました。 その後の大きな変化としては、元の時代(1271-1368)に、蒙古地方に伝わっていたチベット仏教が宮廷に迎えられ、大きな勢力を得たことがあげられます。チベット版大蔵経が蒙古語に翻訳されるなど、チベット密教系の仏教研究も盛んでありました。 ダライラマの制度ができて間もないこの時代、モンゴル人のダライラマが出現していたことは余り知られていません。ただ、この次の明朝、清朝もチベット仏教との親交をはかったということですが、多くのチベット僧が来朝し、また大きな法会が重なったため、国家の経済を疲弊させ、チベット僧の横暴が漢人の反感をかい、王朝滅亡の大きな理由になったとも言われています。 明朝から、清、さらに中華民国にかけて、中国では出家していない人々による居士仏教が栄え、阿弥陀仏や観音信仰、地蔵信仰が盛んになっていきました。 (ダンマサーラ第24号より) |
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