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仏教のルーツを知る・インド編−2 [平成9年(97)3月記] 前ページでは、仏教について日本国内から諸外国に目を転じ、そのそれぞれの仏教が、大きく3つのグループ<@インドから南方に伝来された上座部仏教・A主にシルクロードを通り中国に伝えられた大乗仏教・Bインドから主にチベットへもたらされた密教>に分けられること。 そして、その各々はそれぞれ仏教の歴史上の一時代に現れたものであることを知りました。前回はそのことを踏まえて、お釈迦様の時代から、没後100年の僧団分裂までを見てまいりました。 <アショーカ王の時代> 今回はまずはじめに、仏教から離れ、この時代の歴史を少し見てみたいと思います。お釈迦様の亡くなられたのは日本では一般に西暦紀元前383年頃とされています。が、そのわずか50年余り後に、遠くギリシャから兵を興し、インドの地へ侵攻を企てた勢力がありました。 有名なアレクサンダー大王の遠征軍です。アレクサンダー大王は、前327年にインダス河を越え、タキシラという商業とバラモンの学問の場として栄えていた都城に入ったとされています。しかしながら、既にマケドニアを出て10年もの歳月が過ぎていたこともあり、アレクサンダーの軍勢は、そのあとインド国内に攻め入ることはありませんでした。 遠征に疲れた兵のきびすを返し、まもなくバビロンに帰還してしまったということです。しかし、そのアレクサンダーの勇姿を目撃した人々の中に、後に西北インドから兵を挙げ、インドを統一する若き日のチャンドラグプタがおりました。 今のビハール州の首都パトナに首都を置いたマウリア王朝(前317年〜前180年頃)は、それから130年あまりの間インドを統治するにすぎませんが、仏教のその後の発展に多大な恩恵を与えることになりました。 というのは、チャンドラグプタの孫アショーカ王(在位前268年〜232年)こそは転輪聖王(てんりんじょうおう)と称えられ、仏教を始め宗教を保護し、仏教の教えに基づいた政治を行ったのでした。 日本でいえば仏教伝来間もなくに現れた聖徳太子のような存在でありました。アショーカ王は元は性格が凶暴で、王位争奪のために多くの兄弟を殺し、凄惨な戦闘を繰り返したと言われています。 が、即位してのちに仏教に帰依し、インド全土を手中に収める戦場で10万にのぼる死傷者を出し、一般民衆まで巻き込んだ闘いを恥じて改心すると、熱烈な仏教信奉者となりました。 多くの精舎や仏塔を建立し、仏跡や仏弟子の遺跡を巡拝。大規模な仏僧供養を行ったということです。また、国内至る所に人と獣のための療院が設けられ、薬草や果樹を植え、井泉を拓くなど幾多の福祉事業にも奉仕したと言われています。 さらに、各地に仏教使節を送るなど、こうしたアショーカ王の努力によって仏教が一つの地方宗教から全インドに、またスリランカなどの近隣諸国にも伝導され広められていきました。さらには、遠くエジプト、シリア、マケドニアなどにも仏教使節を派遣し、キリストも誕生せざるこの時代に、早くも西方の世界に仏教の存在を知らしめたということです。 (ルンビニのアショーカ王柱) これらの業績は、アショーカ王がインド各地の石の柱や岩に「アショーカの刻文」と言われるものをその地方の言葉で刻み、仏法の趣旨を伝えたり、王自身の仏教への信仰を語ったことによって明らかになったものです。 サールナートにある石柱には、仏教教団同士の分派行動について戒める内容の法勅が刻まれているということです。 <上座部仏教の誕生> 前回に述べた、仏教教団の分裂が起こるのはこのアショーカ王が即位する15年ほど前の出来事であったと推定されます。 お釈迦様の時代に守られていた規則を時代に合わせて修正していくかどうかといった前回述べたような問題が起こり出すと、保守派の上座に座る長老のお坊さんたちは、700人のお坊さんをヴァイシャーリーに結集し、再度仏典の編集会議を開いて、自分たちの教えの再確認を行いました。 この会議に対抗し改革を求めるお坊さんたちはなんと1万人もの人々を集め、それまでの僧団からの離脱を宣言してしまいました。保守派を上座部、改革派を大衆部と言い、その後もお釈迦様の教えに対する解釈の違いなどからそれぞれ分裂を繰り返し、その後100年の間に20もの部派が誕生していくことになります。 そして、今日スリランカを始めミャンマー、タイなど南方の各国で行われている仏教は、この根本分裂の後アショーカ王の王子マヒンダ長老によってスリランカにもたらされた、この上座部の仏教によって伝播されたものであったのです。 これら部派に分かれた時代の仏教は、お釈迦様の時代と比較すると、その生活のスタイルに変化が見られるようになります。それまで樹下に自らの住まいを求め旅をして修行していたお坊さんたちも、お釈迦様の時代に比べ住まう精舎も整い、僧院での生活が中心となっていきました。 残念ながらそのころの僧院が、はたしてどのような形態であったのかは明らかになってはいません。が、その少し後の時代の僧院は、レンガの壁で仕切られた4畳半程度の小部屋が四方に並び、中庭には沐浴と洗濯のための井戸が掘られていました。 一つの僧院の部屋数は様々でしたが、とにかく一人にひと部屋割り当てられたその中で、規則正しい生活習慣を守り、瞑想的生活を送っていたものと思われます。 後の批評家は、こうした点を批判し、当時のお坊さんたちは僧院に閉じこもり、自分たちの修行や思索に耽るだけだったという見方もされています。がしかし、彼らはその定住する場を得て、お釈迦様の教えを分類整理し、個々の概念の意味内容を吟味したり、自然界や心のあり方を観察し、細かく分析し体系化していきました。 その間に培われた哲学理論や実践法の集大成はそれまでの仏教を後世に残すための大切な作業でもありました。こうしてまとめられたものを論蔵といい、経蔵・律蔵と併せ三蔵と言っています。 西遊記でもお馴染みの三蔵法師はこれら三蔵すべてに精通している人の称号のことなのです。そして、この三蔵は、正に後の仏教者によって「小乗」と非難されるこの時代にまとめられ、それによって仏教の礎が出来上がるのです。そしてまたこれら仏教の哲学的集大成のお蔭で、その後の大乗仏教の思想的探求が可能になったと言われています。 僧院にあって厳しい戒律を守り、瞑想と思索に明け暮れるお坊さんたち。彼らは私たちには想像できないほどお釈迦様を身近に感じつつも、そこまで到達できないもどかしさに苦しんでいたのかもしれません。 そのためか、このころから、同じ修行者としてあられたお釈迦様を、特別のその前世によって悟りを成し遂げた、超人的存在として神格化していくようになりました。そして「ジャータカ」というお釈迦様の前世物語が作られていきます。 これは、今でもお坊さんたちは小説などの本を読むことが禁止されていますが、当時のお坊さんたちは世俗的な説話や物語に興じたり話したりすることさえも禁止されていました。そのために、様々な物語の主人公をお釈迦様の前世に帰して説法などに用いたものがまとめられていったのだということです。 (ナーランダー僧院跡) こうしたこの時期の僧院を中心としたお坊さんたちの生活は、彼らを保護する藩候や、資産者、西域との交易によって莫大な利益を得た商工業者たちがあったお蔭で維持されていたのでした。 中には広大な土地を寄付するものもあり、それらの土地では耕作して収穫したものの半分を教団の所有として運営に当てられていたのだそうです。 また、今では仏教のあるところどこも仏像があり、その姿を拝し信仰する姿を見ることができます。がこの時代には、まだ仏像は作られておらず、その代わりに人々はお釈迦様をはじめ仏弟子たちや長老の遺骨や遺品を盛んに崇拝しておりました。 そしてそれらを納める「ストゥーパ」という、私たちが法事などの際にお墓の後ろに立てる塔婆の原型を、レンガまたは切石で土饅頭型の仏塔として製作するようになったのがこの頃のことでした。 それら仏塔の門や仏跡の彫刻などにはお釈迦様の姿をそのままに表すことなく、菩提樹や仏足石、法輪などを描き、象徴的に表現していました。それらの寄進者の中には遠くギリシャ、アフガニスタン、パルティアなど西域の人々が含まれており、彼らの寄進によってアジャンターなど西インドの壮麗な巨大石窟寺院も作られていったのだということです。 この時代、つまり紀元前2世紀からの数世紀は西北インドなどへ次々とギリシャやペルシャなどからの武装した侵略者が現れ、民衆は塗炭の苦しみを味わっていた時代でもありました。 ギリシャ王の中には、仏教の経典名にその名をとどめる人も現れました。メナンドロスというギリシャ王は、前2世紀後半にアフガニスタンから中部インドまでを統治、仏教に多大の関心を寄せました。王は、ナーガセーナという上座部系の部派のお坊さんを招き、対談して仏教の考え方を聞き、3日目には仏教を信仰するようになったということです。 このように、続々と西域からインドに侵入した外来の民族は、誰をも許容する仏教の信仰を得ていったと言われています。逆に仏教側でも西アジアの宗教、特にきわめて現実的な教えを説いたゾロアスター教の多大な影響を受けることになりました。 こうした西域との交流による影響と民衆にとって受難の時代に対応し、そのころ進歩派の仏教信仰者の中から、仏教をより大衆のものとする大乗変革運動が起こってくるのでした。 次頁へ・・・。(小冊子「ダンマサーラ」第20号より) |
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