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仏教のルーツを知る

 仏教のルーツを知る・インド編3
                            [平成9年(97)5月記]

 前回は、仏教教団が、二つに分裂した後、インドを初めて統一したマウリア王朝のアショカ王によって、仏教がインド国内はもとより、周辺の諸外国にまで宣布されたこと。そしてその後、さらに教団は分裂を繰り返していったことを述べました。

 たくさんの宗派に分かれる今の日本仏教の様子と一見同じようにも思われますが、その雰囲気はかなり違っていたようです。その時代の部派僧団は、あくまでもお釈迦様の教えや戒律の解釈に対する食い違いから生じた学派といったもので、皆同じ袈裟衣を着て、ほとんど同じ様な戒律や実践方法を採っていたのでした。しかし、この次に現れる大乗仏教では、その様相が違ってまいります。

 <大乗仏教の出現>
 大乗仏教は紀元前後に誕生したと言われますが、そのころのお坊さんたちは、お釈迦様の時代のように、定住せずに遊行し修行していたのではなく、既に大きな僧院に住まい、思索や瞑想に専心していました。

 しかし、その僧院から一歩でも外に出れば、前回触れたように、西方の国々からの武力侵入が絶えず、民衆は生活そのものを脅かされる日々を送っていたのでした。戦乱と窮乏の日々。困り果てた末に悪事に手を出してさえも生きていかざるを得ない人々。

 そうした混乱した時代にあって、ありがたいお坊さんたちの教えに日長聞き入り、沈思黙考する暇はありませんでした。こうした人々の、心の安穏を見いだす新しい教えがこの時代に正に要求されていたのです。

 大乗仏教の出生−このような時代背景の中で、仏教徒もゾロアスター教など外来の宗教の影響を受け、疲弊する民衆のために救済者を求め、信仰することによって救われるという新たな仏教を誕生させていくことになったのです。

 しかし、こうした信仰は既にお釈迦様の時代にも存在していました。それというのは、お坊さん以外の仏教信者はふつうにインド社会の中で暮らしていたのであり、その社会で信仰されていたバラモン教の神々を祀り、またお祭りにも参加していました。ちょうど私たち日本人がお寺にも神社にも何のためらいもなくお参りするのと同じように。

 そうした仏教信者たちが時代とともにその信仰の対象を仏教の中に求めたとしても不思議ではなかったのです。そこで、紀元前2世紀頃には、お釈迦様以前にも悟りを開かれた過去の仏陀たちがいたであろう、また未来にも仏陀が現れるに違いないという考えが普及していました。

 そして当然のことながら現在にも十方に仏たちは生きているといった信仰が生まれていきました。未来の仏としては弥勒如来(仏に同じ)が、現在の仏としては阿弥陀如来、薬師如来などが既にこの時代に信仰の対象であったのです。

 さらには、お釈迦様がこの世で悟られる前の無数の前世において修行された際の異名であった「菩薩」という言葉を用いて、観音菩薩や文殊菩薩、地蔵菩薩といった、今も私たちの身近にある菩薩たちが早くもこのころ登場しているのです。
                         
(高僧らの仏塔跡・サールナートの遺跡から)
 こうした教えを信奉し、新たな大乗仏教徒というグループを形成した人々は、仏塔などを崇拝し管理していた人々の中から、つまりお坊さんではなく、仏教信者らによって様々な地域でそれぞれに生まれたと言われています。

 彼らは僧院に閉じこもる部派仏教のお坊さんたちを批難し、小乗(小さな乗り物)と呼び、自らを大乗と名のったのでした。そして、仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を強調したのです。

 しかし批判される側のお坊さんたちの中からも、進歩派の人々はこの新しい在家者の革新運動を補助し、積極的に人々の救済に当たる人も登場していきました。そして、煩瑣な哲学、厳格な瞑想から解放されたお坊さんたちの中から、かなりの境地に到達した人が、おそらく、その後現れる大乗の諸経典を作成していくことになったのでありましょう。

 大乗経典の創作−大乗仏教がそれまでの教えと違って、新しい教えであることを表す象徴的なものが、この経典の作成でありました。それまでの経典は、既に述べたようにお釈迦様の没後、残された弟子たちが暗記している教えを編集し、弟子から弟子にと口述によって伝えられてきたものでした。しかし、ここに現れる大乗経典はすべて新たに別の作者によって書き下ろされたものなのです。

 私たちがよく唱えたり耳にする般若心経の母胎である「般若経」の原初的なものは既に紀元前に、また我が国で天台宗・日蓮宗などで唱えられる「法華経」、また奈良の東大寺を本山とする華厳宗のより所とする「華厳経」や浄土宗の教えとなる「大無量寿経」も紀元後2〜3世紀のかなり早い時期に成立していたとされています。

 こうした大乗の諸経典は、当時の仏教説話や仏伝から題材を集め、戯曲的な構成として、その中に哲学的な意義を含ませ、当時の民衆のために作成されたものだといわれています。
                                     
  (ナーランダーの遺跡から)
 仏像の誕生−ところでマウリア王朝が衰退した後に、北インドを統一するのは中央アジアの遊牧民、クシャーン族でした。紀元1世紀中頃に統一を果たしたこの王朝は民衆の生活に混乱をもたらした一方で、ギリシャやローマとの交易を進め、学術文化の交流も盛んでした。

 第三代カニシカ王は大の仏教庇護者でもありました。このような背景の元に、紀元1世紀末頃、それまで表されることのなかったお釈迦様のお姿が、彫刻や絵画に描かれるようになりました。

 古来インドの人々には神様の像を祀るような習慣もなく、彫刻に現れるお釈迦様も菩提樹・法輪・仏足石によって象徴的に描くことでその神聖さを表していたのでした。

 仏像誕生の地はインド北西部のガンダーラと中部のマトゥラーの二カ所でほぼ同時期に別々に現れたと言われています。ガンダーラ仏はギリシャの彫刻様式に習熟した外来の職人の手によるものと目されています。

 しかし、この仏像を祀る習慣は後に部派仏教の寺院でも見られるようになり、今日のように仏教のあるところどこでも仏の像を礼拝する姿が見られるようになったのです。

 大乗仏教思想の発展−その後、大乗仏教は様々な経典を生み出し、偉大な学僧を排出していきました。「空」の思想“すべてのものに実体はなく、こだわりを捨てて生きること”を説いて大乗仏教の中心的な思想を形成し、八宗の祖として大乗仏教の各宗派の祖師として崇められるナーガールジュナ(龍樹または龍猛)

 また、後々までも珍重される仏教の綱要書を残すヴァスバンドゥー(世親)などが現れ、大乗の信仰を裏付ける思想体系を構築していきました。また、今世紀に入りフロイト・ユングらによって解明されたとする無意識の世界を既に4世紀に明らかにした仏教の深層心理学・唯識説

 今日的な関心事である環境問題を論じる際に登場する思想“すべての生きとし生けるものが等しく尊いものである”と説く如来蔵思想など。こうした高度な思想、哲学、心理学、論理学などが、この大乗仏教の枠の中から、この時代紀元2世紀から6世紀にかけて展開されていきました。

 インド仏教の主流−しかし、こうした新たな大乗仏教の発展にも関わらず、少なくともインドでは、それまでの上座部系の部派仏教がその後も各王朝の保護を受け、主流であり続けたのだということです。主流であったがためか、大乗仏教徒からの再三の批難に対しても、ほとんど部派仏教側からの反論などはなく、大乗仏教の動きに無関心であったということです。

 ところで、インドには元々歴史を書き残すといった伝統がなく、こうした当時の様子を知る手がかりは諸外国の資料から探っていくしかありません。この時期のインド仏教の様子を知る資料としては、7世紀頃中国からシルクロードを旅してインドに入り、ナーランダーの仏教大学などで16年も留まって仏教を研究した、玄奘三蔵の旅行記・大唐西域記があります。

 その“史実・西遊記”によれば、玄奘三蔵がインドや西域の100カ所の寺院を訪ねた結果として、その当時、大乗の寺は25カ所。それに対し上座部など部派仏教の寺が60カ所、その他部派大乗兼学の寺が15カ所であったと報告されています。

 大乗仏教の何が新しいのか−では次に、この大乗の教えについて、それまでの教えとどこが大きく違っているのかを見てみたいと思います。

 T、[三帰五戒から信仰の宗教へ]
 お釈迦様の時代から、仏教信者が大切にすべきものとして“仏・法・僧の三宝”があることは以前にも述べました。この場合の“仏”とはお釈迦様お一人のことを指しています。そしてこの三宝に帰依し、5つの戒を守って徳を積み清らかな生活を送ることで、来世には天界にも生まれることが出来ると信じられていました。インドの神々を礼拝することはあっても、あくまでも自らの善い行いに対する功徳によってその結果を期待するものでした。

 しかし、大乗の教えでは、お釈迦様以外にも様々な仏様や菩薩方を誕生させ、それらへ帰依信仰する事によって悩みが解消され、願いが叶ったり、死後には極楽往生できるとしています。

 どうしてそのようなことが言えるのかといえば、大乗仏教では、すべてのものが“空”であり、実体がなく、区別されるものではないと教えられているからで、迷いも悟りも、また自分も仏も分け隔てあるものではないと考えます。そこで、仏・菩薩を信仰する人には、仏・菩薩のご修行の功徳が巡らされると説かれるのです。

 また、様々な修養の道が示され、経典の読誦や陀羅尼(真言)と呼ばれるそれぞれの仏・菩薩の言葉を繰り返し唱えることなどに功徳があると説きます。私たちにとっては、お経を上げる、念仏や真言を唱えるといったことはごく当たり前のことですが、こうした仏教徒の習慣はこのころ培われていったのでした。

 U、[出世間から世間へ]
 それまでの仏教ではお坊さんたちは、世間との交際を離れ、隔絶した環境の中で、ものや心のあり方を分析してその無常に気付き、心の現実を知りつつ長期に修行を重ねていくことを前提としていました。

 しかし、大乗仏教においては、瞑想時の直観によって瞬時に究極の真理を理解することが主張されます。そして、社会に出て、人々と共に歩むことが求められます。聖なるものを探求することと社会生活を営むことを別々のものと捉えず、社会の中にあって人々の悩み苦しみを受けとめ、その救済に勤めることも菩薩として仏となる徳を積む行為であるととらえるのです。

 V、[自分より他を]
 お釈迦様の時代から、四梵住という慈・悲・喜・捨の教えがあることは以前にも述べました。そこではまず、自分自身が恨みなく、怒りなく、悩みなきものであることを願い、次に身近な人々について、そして生きとし生けるものの幸せを願うというものでした。すべての生き物を我が友として捉え、友情の心で接することが慈しみの教えでした。

 しかし、大乗仏教では、大乗の教えを信じる人誰もが将来仏になるために修行をしているのであると捉え、菩薩と呼ばれました。そして、大乗の菩薩として、特にすべての生きとし生けるものを救おうとする利他行の実践にその重点が置かれました。

 慈悲の精神から一歩踏みだし、自他を区別することなく、すべてのものの利益と幸福のために行動することが強調され、新しい仏教徒の理想像となりました。

 こうして、お坊さんの世界を中心に展開されていた仏教が、信仰するものすべてのものへ、また他との関わりの中でより重要なものとなっていきました。信ずるところの違う人々をも包み込み、すべてのものを利益する教えとして広まることになったのです。

 そして、既にその中に、次に述べねばならない密教の教えを包含しつつ、またこのころ大量の経典がシルクロードを通って中国にもたらされ、我が国に仏教を伝える準備を整えつつあったのでした。
 次ページに続く・・・ (ダンマサーラ第21号より)
  参考文献「さとりと廻向」梶山雄一(講談社現代新書)・「増谷文雄著作集1東洋思想」(角川書店)ほか

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