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仏教のルーツを知る


 仏教のルーツを知る
        ・中国編1

           [平成9年(97)10月記]


 前回は、インドの仏教が様々な発展の末に、西域からのイスラム教徒による侵攻によって寺院が破壊され、仏像は壊され、かなりの数のお坊さんたちも殺されて衰退していったところまでを述べました。

 こうした過去の事実からも、インドにおいて、今なお宗教対立による事件が多発しているのも理由のないことではないと言えます。

 その後のインドの仏教の経過については、一部の仏教徒がチベットへ、また、ミャンマー国境へと逃げたと前回に述べておきました。そのうちミャンマー方面に避難した人々は今日ではインドへ帰還してカースト化しバルワ仏教徒といわれベンガル地方に多く暮らしています。彼らの人口はおよそ30万人で、他の南方の仏教国と同じ上座部の仏教が行われています。(
ベンガル仏教徒の歩み参照)

 また新たに戦後ヒンドゥー教徒の下位カーストから仏教徒に集団改宗した新仏教徒といわれている人々は700万人ともいわれています。が、いずれにしましてもインドの仏教徒は人口9億の中のほんの一握りに過ぎない状況にあります。 

 〈北伝の道〉
 これでインド国内の経過を終え、インドから仏教が伝播していった先に進もうと思います。中でも我が国に仏教を伝来する北方ルート、シルクロードから中国に至る歴史に目を転じていきたいと思います。

 これまでも中国からお坊さんが仏教を求めてインドに至ったという話をしてきました。そのことはその頃既に中国の人々に仏教が重要な意味を持っていた事実を知ることができます。

 そもそも中国に仏教がもたらされたのは紀元前後といわれます。その当時既に、東西の貿易路であったシルクロードは、インドと中国の文化接触の幹線であり、仏教伝来の道でもありました。

 この道を通って西域の大勢のお坊さんたちが経典を携え中国にいたり、仏典を翻訳し、またその作法を披露したのでありましょう。パルティア、トルコ系遊牧民の国、西域南道のコータン、クチャ、月氏国など、今日その面影も知ることの出来ない砂漠に消えていった国々の信仰によって仏教は中国に紹介され、私たちの日本へも仏教が伝来されることになるのでした。

 また、玄奘や義浄など仏教の国インドを目指して中国からインドへ旅立ったお坊さんは合計で61名にも上ると、義浄が8世紀頃撰述した「大唐西域求法高僧伝」で述べています。それによると、そのうち初志貫徹し故国へ戻れた人はたったの5名で、その多くがインドもしくはその途中に死亡したり行方不明となってしまったということです。

 こうして西域から中国へ伝導のために来た人、また、インドなどから帰還した中国のお坊さんたちはその後精力的に持ち帰った仏典の翻訳事業に励みました。その最初は、西暦148年頃から始められたとするパルティアのお坊さんが進めた訳経で、このときには上座部の諸経典が訳されたとされています。

 その後般若経、法華経、維摩経といった大乗経典が盛んに訳されてまいりますが、以来中国における経典翻訳の歴史は1000年にも及ぶものとなりました。この間に訳された仏典は今日その大半を収める大正新修大蔵経3053部11970巻に見るように膨大なもの

 “焚書坑儒”などのあおりから翻訳後のインドの原典もことごとく処分され残されておらず、今日こうして翻訳された漢訳経典が世界中で唯一最大の仏典となっているのです。

 <仏教の中国化>
 中国の仏教を概観する前に、我が国の仏教にも多大な影響を与えた中国がいかにして仏教を導入したかという問題について述べておきたいと思います。

 中国の人々は仏教を正確に受け入れていったのかどうかということなのですが、もしも中国が紀元前3世紀に仏教が伝えられたスリランカのように、文化の程度が伝来されたインド文化より、かなり低いものであったならば、仏教をそのままに変化を加えることなく伝わったものと考えられます。

 しかし、仏教が定着する4世紀には、既に中国では儒教に加えて老荘の思想が流行していました。それが故に、中国の人々は初期においてはそれらの思想特に老荘思想を通して仏教を解釈しようとした時代がありました。

 たとえば大乗仏教の中心思想である「空」を老荘思想で説く「無の思想」をもって類推しようとしたというのです。しかし4世紀後半になって本格的仏教研究が進むと、こうした仏教解釈は批判され、インドの仏教そのものを正しく理解しようとする思想運動が進むことになりました。

 しかし、それからも後々まで中国仏教を形成していく中で老荘思想と仏教との結合は否定することのできないものとなり、「無」という言葉が後々までも中国仏教の中で重要な概念として残されていったのでした。

 さらに、儒教の国に相応しく、孝という徳目を説くことがない仏教は中国において受け入れられるものではありませんでした。そこで父母恩重経などのお経を創作して孝の道が説かれ、そしてまた、位牌を造ったり、先祖供養を営むという儒教の習慣が入れられたと言われています。位牌は後漢(25-221)の時代に既に儒教において用いられていたということです。

 また、中国では一度翻訳されるとインドの原典が省みられることはなく、その漢訳した訳語を巡って議論され解釈が加えられ、仏教の原初的な姿とはかなり異なるものとなっていきました。それは既に西域に仏教が伝えられた時点でも同様なことがあったと思われますが、いずれにしてもこの様に仏教は中国化して受け入れられ、その中国化したものが我が国にも伝えられることになったのです。

 <仏教中国化の歴史−1>
 先にも述べたとおり、仏教は紀元前後に西域から中国に伝えられ、西域のお坊さんたちによってもたらされた経典の翻訳によってインドの仏教のおおよそのものを想像して取り入れられていきました。

 そのため中国の思想から仏教を類推するといった試みがなされたわけですが、4世紀末頃玄奘、義淨に先駆けて法顕というお坊さんが単独でインドを旅して、お坊さんたちの生活の規範となる戒律に関する文献を持ち帰りました。それによって、僧院の運営や受戒作法など様々な作法が整備され、またインドで仏教を見聞したお坊さんも出て直接インドの仏教が取り入れられるようになっていきました。

 そして、5世紀から6世紀にかけての南北朝の時代には、クチャ出身のクマーラジーヴァが招かれて中国に到着し、大般若経をはじめ、法華経、阿弥陀経などの大乗経典の他、その翻訳は諸論や律蔵にまで及びました。中国で没するまでの12年余りの間に、この大翻訳家は35部3000巻もの翻訳事業に携わり、これによって仏教研究が中国文だけで出来るようになり、その後独自の仏教を生み出す主要な原因となりました。

 またこのころ、仏教は上層階級ばかりか庶民にも深く浸透し、寺院は3万から4万へ、お坊さんたちは200万から300万人に達していました。

 もともと仏教のお坊さんたちの僧団は、国家の統制の外にあって、人々の任意の布施によって成り立ち、彼らは出家後の年数だけをその序列を決めるものさしとしていました。

 しかし、ここにいたって国家統制の中に入るきっかけとも言える僧制四十七条が、この南北朝時代の北魏において制定されました。また、その以前に既に僧綱(ソウゴウ)の制度が定められており、僧侶を官職として位置づけ、身分制度の中に組み込み、階級が定められるようになっていきました。

 このことは国家によって官寺が造営され、僧尼に生活の資を給付する仏教保護とも言えるものではありますが、国家によって仏教教団が統治され、国家権力の思惑によって国家統治に利用されたり、また弾圧に会う素地となっていくのでした。(ダンマサーラ第23号より)
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