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仏教余話3

                                                  (サールナートの田園風景)                                                   
 しあわせということ

          [平成10年(98)3月記]




 幸せを求めつつ、幸せって何だろうと考えさせられる今日この頃ではないでしょうか。先日もある知り合いが見えて、幸せって何でしょうか、と尋ねられました。何もかもうまくいっているときには、こんな疑問も沸いてこないのに、最近のように様々な混乱の中にあると、幸せの概念さえもが分からなくなりがちです。

 特に多くの人たちがリストラという首切りにあい、職を失う働き盛りのサラリーマンも多い世の中です。家族のためにと家庭を顧みずに働き続けてきたのが仇になり、家に居場所が無く、職場さえもが無くなろうとしています。

 それではあらためて幸せとはどのようなことを言うのでしょうか。満ち足りて幸せだと感じることがしあわせということには違いないのですが、その説明ではかえって分からなくなりそうです。満ち足りるということも人によってまちまちですし、幸せだと感じる状況も人によって様々なのですから。

 仏教の古い経典群の中に「吉祥経(マンガラ・スッタ)」と題する、私たちに幸せとは何かと指し示すお経があります。お釈迦様に、ある美しい神が最上の吉祥、つまり極上の幸せについて質問し、それにお釈迦様が答えられたものです。

 以下に掲げる1から10の偈文は人の成長する過程に従って必要なものをお釈迦様があげておられるものと言われています。そして、これらの内容をきちんと行うことが人としての幸せなのであると諭されています。

 インドには古くから人生を4つの時期、つまり、勉学に励む学生期、家を養い護る家住期、心の教えを学ぶ林住期、諸国を修行するために遍歴する遊行期に分ける考え方があります。今日インドでも、もちろんそのようにはっきりと住み替えて年を重ねていく人はあまりないといいますが、インドの人々の人生の捉え方として今も大切にされています。

 この吉祥経も、その4つの時期別に少し解説しながら見て参りましょう。

 <1、人として生きる力を蓄える時期>
@愚かな人に近づかず、賢い人に親しむ。尊敬供養するに値する人を尊敬する。これは最上の吉祥である。
A適当なところに住み、先になされた功徳があり、正しい誓願を起こしている。これは最上の吉祥である。
B多くの見聞、技術、道徳を身につけて、きれいな言葉を語る。これは最上の吉祥である。

 人は人に学んでいくものです、と、ある南方仏教のお坊さんに教えていただきました。どのような人を参考にし、尊敬して生きるかはとても大切なことです。学も財もあるけれども人の道を踏み外す様な人を尊敬していてはいけないのです。

 この場合の賢者とは、多くの事を知り語る人ではなく、心安らかで人に恨まれたり怨んだりということのない人を指しています。特にその人の業績でなしに、そこに至る間に培った人格や性質を尊敬すべきではないでしょうか。

 生きるために必要なものを蓄えることがここでの要点です。単に知識や学歴ではなく、より実用的な見聞や技術を身につけるべきであることはもとより、人として生きるための道徳やきれいな言葉も大切な要素です。

 特に今の日本では重視されていませんが、相手を尊重したきれいな言葉遣いは社会の中で自らが大切にされるためにも、とても重要なことです。また、道徳をわきまえていなくては学問知識も正しく役に立ちません。

 <2、家族、社会を養う時期>
C父母を養い、妻子を愛し護る。混乱なき仕事をする。これは最上の吉祥である。
D施しと、法にかなう行い、親族を愛し護る。非難されない行いをする。これは最上の吉祥である。
E悪い行いをつつしみ離れ、酒類を飲むのを抑制し、徳行の実践を怠けないこと。これは最上の吉祥である。

 結婚し、家族、親族そして地域社会をも導いていく存在としての役割を担う時期です。これらのごく当然とも取れるものをクリアして初めて何の後ろめたさもない、誰からも非難されることのない幸せを享受できるのです。

 混乱なき仕事とは今様にはストレスの少ない仕事と言い換えれば分かりやすいでしょう。また法にかなう行いとは欲や怒りにより、他を害するような行いをつつしみ、分かち合い共に幸せを感じられるよう行うことです。

 これに対し自分の幸せだけを求めるばかりに悪いことをしでかすことは今の社会問題でもあります。何でも出来る立場にあるこの時期、悪い行いをつつしむことは憂いや後悔することなく幸せになるために不可欠なことです。

 お金がたくさんあっても何かむなしさが残るのを多くの人が感じ、ボランティアに励む姿も見受けられます。徳のある善行が心豊かな幸せを感じさせてくれることは言うまでもありません。

 <3、功徳を積みつつ心の教えを学ぶ時期>
F尊敬と謙遜と、知足と知恩。ときどき、覚れる人の教えを聞くこと。これは最上の吉祥である。
G忍耐、忠告を率直に聞く、出家者に会う。ときどき、覚れる人の教えについて話をする。これは最上の吉祥である。

 社会生活を営みつつも徐々に一線を退き、後継者に道を譲り、世の中を冷静に眺め心を養っていく時期です。自分の実績や善行を誇り高慢になりがちですが、他者を尊敬したり謙遜する徳を身につけることでより深い幸せを感じます。

 こうした豊かな心を育むためにも足ることを知り、これまでに受けた恩を忘れず、また欲得を超えた心の教えについて学ぶことも大切なことです。

 また、人の言うことに耳を傾けたり、お坊さんなどと親しく話すことを通じて、自分の経験や技術、時間などを生きとし生けるものの為に生かすことで、より一層の幸せを感じられるようになります。

 <4、社会生活を離れ安らかな心の幸せを求める時期>
H心の鍛錬、自分の心を知るという実践、神聖なる真理を見ること。覚りの世界を明らかにすること。これは最上の吉祥である。
I俗世間のことに触れても心が動揺せず、憂い無く、汚れなく、安らかである。これは最上の吉祥である。

 定年をしてなおかつ、仕事を持つ人も多いとは思いますが、出来れば仕事を離れ、残りの人生を心静かに過ごすことも必要なことです。定年後は一人四国遍路を歩くという人も多くなっているとのことですが、そうして、社会生活を離れ自らの心を知るように励むことがなにものにも依存しない最高の幸せを求めていくことにつながります。

 人として人生の意味を感じ、永遠の幸せである覚りをも求めることになります。世間の利益や不利益、苦や楽、賞賛や非難、名誉や不名誉などにも心動かされることがなくなり、憂い無く、貪り、怒り、妬み、おごり、偽善といった汚れのない心、安らかな幸せが得られるのです。

 この吉祥経に説かれるように、幸せとは、つまり何かを達成したり、何かになることではなく、人としてなすべきことをきちんと成し終えていくこと、その上に自ずとおとずれる何も憂えることのないめけめろ安らかな心、徳のある行いをなした充足感、その上に求められる至福感といったものであると言えます。

 そして、幸せには、
 [1]人として知識や技能を身につけ生きる力を蓄えることによる幸せ、 
 [2]正しい仕事によって財を得て家族や社会を養う物質的な充足による幸せ、
 [3]生きとし生けるもののために善い行いをして感じられる幸せ、
 [4]なにものにもとらわれない清らかな心の幸せ、


 と幸せにも様々な段階があることが分かります。
 
 この吉祥経でお釈迦様が説かれる内容に比べ、比較にならないほど多くのものを、私たちは人生の中に求め、その獲得のために血眼になってはいないでしょうか。そのために、かえって様々な問題を私たちは抱え込んでいるのではないでしょうか。・・・

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