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仏教余話8

現実を見つめて−チェルノブイリ原発事故10年目の環境問題

[平成8年(96)6月記] 
              (1996年4月17日読売新聞より)
                                        
 <原発事故十年目の現実>
 1996年4月26日、旧ソ連・ウクライナで起きたあのチェルノブイリ原子力発電所の事故から10年を迎えた。日本でも様々な集会が開かれ、新聞やテレビでも10年目を迎える現地の様子が報じられていた。

 NHKの特集番組「終わりなき人体汚染」を私も拝見した。チェルノブイリから400〜500キロも離れた地域で子供たちの甲状腺がんや白血病がいまだに増え続けている。

 妊婦の染色体異常と新生児の先天異常、それに事故処理に当たった作業員たちの脳神経細胞の死滅も深刻さを増す。

 今も放射能を放つ土から栽培された作物を、それと知って食べざるをえない人々の心はいかばかりであろうか。その痛ましさ、恐ろしさに思わず映像に見入ってしまった。

 そして遠く日本から8000キロも離れた土地の出来事。50年も前の広島・長崎で起きた放射能被爆が繰り返されてしまった。そう感じた人も多かったかもしれない。しかし私はこの番組を見終って、そこに日本に暮らす私たちの今の現実に何も触れられていないことに戦慄を覚えた。

 はたして日本の老朽化しつつある原子力発電が、このチェルノブイリ原発の様に事故を起こさないと言い切れるのだろうか。はるかに狭いこの日本で、もしも同じ様な事故が起きたらどれほどの被害になるのか。大地震が原発を襲ったらどうなるのか。そのとき、私たちはどう行動したら良いのか。「もんじゅ」のその後も心配される。

 そうした同じ地球に暮らすものとして、同じ過ちを犯すやも知れない国の一員として、何も語られないことの怖さを感じずにはいられない。

 そもそもチェルノブイリ原発の事故がどれだけ恐ろしいものであったかを、私たちは知らない。プルトニウム、ストロンチウム、セシウムといった放射性物質が死の灰として降り注いだと新聞などで報じられている。

 こうした金属の仲間が原子炉の暴走による爆発によってガスになってしまうほどの高温、摂氏三千から四千度に上昇して、膨大な死の灰となり1万メートルも上空に吹き上げ、全世界を汚染してしまった。

 事故による直接の死者は阪神大震災の死者を上回る6千人以上に上るともいわれている。被曝した人は全体で1000万人を越え、この事故に直接起因するガン患者は数十万人に達する。そして避難者は立入禁止地区30キロ圏だけでも13万5千人にも及んだ。

 阪神大震災では地震後すぐ近くの学校などに歩いて避難できたが、チェルノブイリの事故では見えない放射能を浴びつつ、家族が散りじりとなりながらバスでの大移動になったという。

 一瞬の原発内の爆発で、地球上の環境が見えない放射能によって計り知れないほどに汚染されてしまった。原子炉から吹き上げた死の灰は国境を越えて全世界に降り注いだといわれる。ポーランドでは牛乳の飲用が禁止され、スウェーデンの湖では食用に危険な程の放射能で魚が汚染された。

 そして遠く離れた日本でも母乳から放射性ヨウ素が検出されている。震災後の復興は次の日から始まるが、原発事故は10年たった今も、その被害状況すら正確につかむことができない。そしてこのチェルノブイリの影響がピークに達するのはあと10年も先といわれている。

<私たちの問題として>
 こうした私たちを取り囲む環境の現実を、日常生活の忙しさに取り紛れ、はっきりと知らずに、または知ろうともせずに過ごしてはいないだろうか。原発や核の恐怖ばかりか、防災を無視した町作り、開発や事業という名で進められる自然破壊、大気や河川、海洋の汚染、資源やエネルギーの無駄使い、ごみ問題、有害な化学物質や電磁波の問題等々。

 こうした生活環境について知れば知るほど不安になり、そんなことを真剣に受け止めていては実際の競争社会の中で生きていけないではないか、と思われる方もあるかもしれない。

 しかし、やっと40年を経て解決に漕ぎ着けた水俣の人々も、雲仙普賢岳の噴火で家を追われた人たちも、奥尻島や阪神・淡路の地震で家を潰されて避難した人たちも、その瞬間まで我が身に災難が降りかかるとは誰もが想像もしていなかった。私たちの町が、生活がこんなにも危険で脆いものだとは、誰もが知らなかった。

 いざとなっても警察も消防も役所も当てにはならない。まずは自分自身が、そして身近な人たちがたよりであるということを思い知らされたのではなかったか。

<現実に向き合う>
 お釈迦様は、最初の説法において四聖諦[4つの聖なる真実]という実践に導く教えをお説きになられた。この教えを私たちのテーマに則して考えてみてはいかがであろうか。

  [1]自分自身の心の現実に向き合い、移ろい悩み苦しむ心をありのままに知るべきであると教える[苦の真実](苦諦)は、私たちを取り巻く様々な環境の真実の姿をはっきりと知ることの大切さを教えてくれている。

 今の私たちの生活を維持していくために地球上の環境が日に日に破壊されていく現状、多くのヨーロッパの国々がその危険性と非採算性から国民投票を経て脱原発に向け進み始めた中で、いまだに増設を進める我が国の原発行政、無目的な乱開発の現実などについて目をそらすことなくはっきりと知らねばならない。

 そして私たちの行いの一つ一つが何によって成り立ち、どういう結果を招いていくのかも自ら尋ねてみる必要がある。大量生産大量消費される品物によって暮らす私たちは、末端で環境を破壊する担い手でもある。

 そして各家庭の、例えば電気の無駄づかいは電力消費を増大させ資源を浪費し、自然を破壊したり、日々増加する被曝労働者を抱えつつ稼働される原発を増設する理由の一つにもなる。この様に私たちの一つ一つの行いが、すべてに通じ関わっている。私たち自身がそうした現状を増長しつつある現実を知らねばならない。

<その原因は>
  [2]苦しみの原因は自らの貪りの心であり、それを根絶すべきであると教える[苦の原因の真実](集諦)は、今の状況に至った原因が私たち一人一人の行いを生じさせる欲の心、貪る心にあると知り、改めるべきであると教えてくれている。

 手軽さ、便利さ、快適さのために経済至上主義を許してきたのは私たち自身ではなかったか。そのためには資源やエネルギーの大量消費と環境の劣化を敢えて顧みずにきたのではなかったか。

 開発という名の自然破壊の陰に、利権を貪る構造が存在し、それを学歴、地位、権威を求める私たちの欲の心が支えてきたのではないか。私たちはこの欲こそを拭い去り、単に利便性のみを求める安易な生活を改めていく必要がある。

<理想の姿とは>
  [3]苦しみを滅した心の平安を実現すべきであると教える[苦の滅の真実](滅諦)
は、私たちの進むべき方向をはっきりと設定すべきであることを教えてくれている。

 ごみとして捨てられ、この地球上に害を与え続けるような、使い捨てされるものに囲まれて暮らすことが私たちの理想ではない。限りある資源やエネルギーを湯水の様に使い、なおかつ一瞬の事故によって計り知れない被害を人と環境に与えるものであり、そればかりか日々排出される放射性廃棄物の処理に半永久的に膨大な資本を投じざるをえない原子力発電に頼るような危険と隣あわせの浪費型社会が理想でもあるまい。

 この地球に暮らす一つの種として、人間らしく将来にわたって安心して暮らすことのできる生活環境を子供たちに残してあげるにはどうあるべきか、が私たちにとっての火急の課題である。出来得る限りのものをリサイクルして、資源としてのものを生かしてあげる。

 太陽や風力による自然エネルギーやコジェネなど、より多く実用化されることも期待したいが、大切なことは、今の増え続ける消費量に合わせて供給を膨らませていくのではなく、無理のない供給量に合わせた、より自然を育む生活習慣に切り替えていく冷静なる認識が求められているのではないだろうか。

<いかにあるべきか>
  [4]苦しみを滅する方法として偏らない清浄な生き方を実践すべきであると教える[苦の滅への道](道諦)
は、その理想を実現するために私たち一人一人の日々の生活そのものの改善を促すものである。

 自分一人が気をつけてもどうなるものではないと、ものを無駄づかいし電気や水を使い放題使う生活。また、このままでは地球の自然が崩壊する、この世に未来はないと今の社会生活を放棄してしまうこと。そのどちらも極端な生き方だといえる。

 これまでの日々の積み重ねが今の状況を作り出してきたように、自分自身の行いの一つ一つについて自ら判断し改善していく必要がある。私たちの生活環境を守るという観点から様々な問題に知悉するとき、どう物事をとらえ考え行うか、どのように生活し生業に努めるべきかを知ることができる。

 そして、時として日常の生活を離れ、自然の中で静かに目を閉じ瞑想するとき、自分と回りのものたちとのつながりや自然との関わりにも気づくであろう。

 互いに関係し、それらが在ることによって自分が今あることを実感するとき、地球上の様々な出来事、現象が自分と決して無関係ではないと知ることができる。人間中心の発想を改め、人と自然との調和を模索しつつ、生きとし生けるものを友として、その平安を願う、慈しみの教えの大切さをも実感するであろう。

 ほんの20年程前に、川でざりがにやおたまじゃくしと遊ぶ子供の姿を見ることの出来た東京都下の町でも、都市化が進み、河床はコンクリートに固められ、電線が張り巡らされて、すっかり生き物たちの姿が失われてしまった。過密度を増し、それだけ災害時の危険は増大していく。

 家の中には電気製品が溢れ、増大する電力需要をまかなうために全国17か所に50基もの原発が稼働し、毎日放射能を大量に放つ廃棄物を吐き出している。どの国もその高レベル廃棄物を処理する処分法すら確立できないまま、世界中で400基を超える原発が稼働している。この事実に、私たち人間の愚かしさを思うのは私だけであろうか。

 お釈迦様は、若き日に栴檀の香りたつ王宮にあって、カーシー産の瀟洒な衣をまといつつも、人の老い衰え、病み苦しみ、死にゆく現実を他人事とすることなく、自分の身に引き当てて、自らの若さ、健康、寿命に対する慢心を捨て、出家なされた。

 私たちも、身の回りの現実をありのままに見つめ、我が身に引き当てて今に目覚めることから始めなければならない。そしてそのことは、漠然と不安や苦しみを感じている心の現実を探究する、仏教の実践にも通じることなのではないだろうか。

   
参考文献・危険な話 広瀬隆著(八月書館)
         ・脱原発年鑑 原発資料情報室編(七つ森書館

                              (大法輪平成8年9月号掲載)
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