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ベンガル仏教徒の歩み











ベンガル仏教徒の歩み
−失われた栄光のために2−
                         [平成11年(99)7月記]

 18世紀後半以降、イギリス統治の下で徐々に仏教徒としての地位を取り戻していった彼らは、前ページにて述べたように、かなり乱れた形ではあったものの仏教徒としての儀礼を行い、その際にはパーリ聖典を用いていたらしい。

 アラカン仏教徒の影響から、ブッダをパラー(ビルマ語でパヤー)、ダンマをターラー(同ターヤー)、サンガをチャンカー(同タンガー)などと発音し、時にブッダをボクタ、ボグダなどと言うこともあったという。

 このように、このころのベンガル仏教徒は純粋なテーラワーダでも、大乗でも、密教でもない独特の仏教を伝持してきたようであるが、その背景には前ページで述べたように、ことあるごとにビルマ国境を行き来したアラカン仏教徒たちとの交渉の歴史があったのである。

<マハームニ像のこと>
 ベンガル仏教徒が19世紀にテーラワーダ仏教を再生させる経緯を記すに当たって、その後の彼らの歴史にとってシンボル的な存在となるマハームニについて語っておかねばならない。

 西暦2世紀頃ビルマ西部アラカン地区海岸沿いの港町アキャブに造立されていたとされる“マハームニ”と呼ばれるお釈迦様のご像は、たいそう人々を引きつける不思議な魅力ある存在であったと伝承されていた。

 11世紀頃、アラカン王国に敵対していたビルマ王は、そのマハームニこそが度々ビルマに侵入を繰り返すアラカン人の軍事的脅威の源であるとまで信じていたという。

 そのためアラカンに侵入したビルマ王の軍勢は、時にマハームニ像を自国に運ぶ算段をするものの、その大きさと重さに加え、丘陵地を越える道に阻まれて断念し、そのマハームニ堂の周りの木々を伐採したり、金銀の鉢や瓶を持ち去ったり、火にかけたり、ご像の金がはがしたり、足を落としたりと何とかマハームニの不可思議な力を無きものにするため手を尽くしたと言われる。

 そのためその後その地が無政府状態となり荒廃し、マハームニ像も行方しれずとなってしまった。そこで、1160年に自治を取り戻したアラカン人の手によってタエットミョウ地区のミンドンにもう一つ新たにマハームニが建立された。それ以来、ビルマのボダパヤ王に敗れる1784年までの長い間、アラカン人自らこの地を統治することになる。

 ボダパヤ王はアラカン人たちの抵抗する力の背景となるマハームニ像をたいそう怖れ、僧侶に変装した魔術に精通する二人のスパイをマハームニに潜入させ、ご像の力を無効にする魔法の儀礼をなさしめたといわれている。そしてその甲斐あってか、その後ボダパヤ王は3万もの軍勢を引き連れてアラカン王国を攻撃し、勝利した。

 その後、王は幾多の困難の末にマハームニ像を自国に運搬し、アマラプラの北5マイルに大きなパゴタを造り納め、死ぬまでマハームニに敬意を表し豊富に供物を供えさせたと言われる。そしてこのマハームニ像は今も有名な仏教都市ヤンゴンのシェーダゴンパゴタに秘仏として祀られているという。

 そして、19世紀初頭、前ページにて述べたようにこの頃イギリス統治下でイスラム教徒たちから土地を取り戻し寺院を再建し、仏教徒としての日常をとり戻しつつあった彼らは、失われた仏教の伝統を復活すべく模索を重ねていた。

 チッタゴンのパハールタリーのチャーインガ・タールという名の僧がアラカンの古代の都ムロハングを訪れ、その地で古のマハームニ像を発見し、故国チッタゴンにこの像の造像を思い立つ。

 村に戻ると間もなく、アラカンの彫刻家の助力を得て、煉瓦、石灰、大理石チップ、白セメントなどを用いて、6ヶ月の歳月でほぼ作り上げたときには、アラカンのマハームニそのものであったという。

 1813年、同じ年にファールグニー(ヒンドゥー歴の12月、太陽暦の2,3月)の満月の日に多くの著名なチッタゴンの僧たちを招き落慶式が行われた。後にその村はマハームニ村として知られるようになっていった。

 そして発願者であるチャーインガが管理を委託され、ふさわしいお堂や僧坊、増えてきた巡礼者のための飲料用の池や宿泊施設、僧侶たちの儀礼用のシーマー(結界)などが次々に造られていった。

 これらの施設を寄付したコックスバザールのキャージャ・チャーイン・チョードリーにはイギリス政府からマーン・ラージャーという称号が授与され、称えられることとなった。  
 こうしてチッタゴンに新たに造られたマハームニは国内ばかりか海外にもよく知られるところとなり、東洋神秘思想に造詣の深い米国のオルコット大佐、日本のR.木村博士、スリランカのダルマパーラー師、イタリヤのローカナータ比丘などがこの地を訪れたのである。

 そしてこの時期からこの東ベンガルの地にテーラワーダ仏教を再生するためにふさわしい雰囲気が出来つつあった。分別ある人たちはすでに、ビルマ、タイ、スリランカで、広く行われているブッダの正統のテーラワーダの教えのことを知っていた。こうした時期にアラカン仏教徒の最高の地位にあったサーラメーダ大長老がチッタゴンに来られたのであった。
 
<サーラメーダ大長老の来訪>
 それはチッタゴンの一人の僧ラードゥマテがアラカンのシータクンダに巡礼に訪れたときに、僧伽ラージャー(王)であったサーラメーダ大長老に偶然出会ったことに始まった。

 彼は、その時大長老にチッタゴンの惨憺たる仏教の状態を細かく説明したと言われる。そして1856年2月、大長老はラードゥマテの招待によってチッタゴン、バイドャパラにやってこられた。そして現実にチッタゴン仏教徒の現状をご覧になり、その仏教の荒廃ぶりに落胆されたと伝えられている。

 そして、マハームニの祭りが開かれる期間、大長老はその地に滞在された。バルワ仏教徒を始め、丘陵地域の仏教徒チャクマ、マルマ、ラッカイン、シンハ族などが集まり、サーラメーダ大長老を出迎えた。

 大長老は、チッタゴンのハルバングの生まれであったため、チッタゴンの言葉を理解できたといわれ、その場で、主だった僧や在家者たちとチッタゴン仏教徒のテーラワーダへの再生について話し合われた。そしてその後2年間をこのアラカンの人々にとっても因縁深いマハームニの名を付けた村で過ごされることとなった。

 その間大長老は、仏教徒たちには、それまで当たり前にしてきた密教的な儀礼や動物の供犠、殺生、シバ・カーリー・ドゥルガーなどの神々を礼拝することなどは仏教徒である自分たちには必要のないことであると納得させていった。

 そしてこの最初の訪問で特に大長老が力を尽くしたことは、仏教徒の共同体、特に僧侶たちの組織の再構築であったといわれる。テーラワーダ仏教を再生させるために、僧侶たちには新たに227もの戒律を定めたパーリ律を授け、比丘(Bhikkhu)となる再出家を必要としていた

 前回述べたようにそれまでの在家者と変わらない生活習慣を改め、着るものも食べることも住まいも、質素で厳正な生活に切り替えることが求められる。そのため、僧侶たちの特に年長者たちはそれまでの権威や特権をあきらめることが出来ず参加しないものも現れた。

 しかし、ともあれこのときには見習い僧としての10戒を授かる沙弥式のみを執り行い、大長老は帰国された。

 そして6年後の1864年、サーラメーダ大長老が再びチッタゴンへ、テーラワーダ仏教を再生させるために招待された。このときには儀式のために数人のアラカン比丘を伴ってこられた。

 多くの仏教徒が集まるこの年のマハームニの祭りに際して、マハームニ村の近くに作られたウダカ・ウッケーパ・シーマーでチッタゴンの7人の僧に正式なテーラワーダの比丘になる儀式を行った。これがインド仏教の復興を宣言する歴史的な具足戒式(Upasampada)となったのであった。

 ここまですべてに関わりお膳立てをしてきたラードゥマテはなぜか具足戒を受けなかったが、国内のテーラワーダ仏教の宣布のためにその後もサーラメーダ大長老の手助けを続けたと言われる。さらに多くの僧が具足戒式を受け正式な比丘となっていった。・・・次ページに続く。
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