羅生門
(児玉さんの横田弁川柳)
あなたも出雲弁川柳を作ってみませんか
寄稿をお待ちしております
〇 わきゃーない あなたの腕なら すぐできる | ||
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〇 わけくその わからん人でも なかろうに | ||
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〇 わざっとごと みたいだったね この始末 | ||
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〇 わすりゃーのー 知っちょってかも しれんじね | ||
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〇 わりーしこー えまさっきまで おられたに | ||
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お わ り に
四十四の文字をそれぞれ頭に持った方言 それをまた句の頭に置いた川柳をという制約はかなり厳しかったがそれなりにチャレンジという気持ちを持続させてくれたように思う。句作に耽っている間は充実感もあったし 出来上がった二百五十首には愛着を覚えているのである。
かなり強引に 無理にはめ込んであり お読み頂いても 稚拙で取るに足らないと思われるようなのばかりだろうが どのようにはめ込んでいったらいいのかその方言を説明するにはどんな表わし方,どんな場面設定がふさわしいのか日常生活を題材にし活写したいのだがどう描けばいいのかなどなど 私なりに努力したつもりであった。
なお できるだけ多様な場面をとらえたいと思っていたが難しかった。私自身の暮らしと経験の範囲から これ以上のことにはならないなと思い知らされたのだった。
作っていく中にこんなことが頭をよぎった。五七五の短い韻律のものであっても これは私の創作なのだなということである。小説や詩などももちろん創作である 創作は 作品を通して作者と読者が向き合うそのための資料なのだ 共感を得るか ぶつかるか 読者に満足感,充実感を与えることができるのか 課題を投げかけるのだ 言い方を変えると 作者の人間そのものを読者にぶつけるのが創作なのである。
だからこの川柳集もささやかなものではあるが「私」が皆さんと向き合ったものなのだ と考える。そこには 卑小な「私」という人間がいるのだという恥ずかしさと まあありなりの「私」をさらけ出しているのだからと あきらめに似た感懐とが湧いてきたのだった。
こんなことは考えもしないで取り組んだのだったが このように創作とは恐ろしいものだな ということがわかった程でもよかったかもしれない と思っているのである。
全句をあらためて読み返し これだと心に決めたのが「羅生門」という題名だった。羅生門には鬼が棲んでいる。
人間の心の闇にも さまざまな鬼が潜んでいる と思ったからなのである。
平成15年9月27日
作者:児玉敏郎