#1 Snake and Serpent蛇と蛇
手に何かがぶつかったとズオ・ラウが気づいた瞬間には、すでに手遅れだった。机の上の隅に置かれていたステンレスのカップが傾くのが、スローモーションのように目に映る。ドクターに頼まれていた印刷物を渡そうとしたのだ。しかしドクターの机の上には所狭しと書類が積み重ねられていたので、それを避けようとしたのが裏目に出た。書類のちょうど影になっているところにカップが置かれているとは、ズオ・ラウは予想もしていなかった。
軽い落下音とともに、床一面に黒い液体が広がった。コーヒーは淹れ立てだったようで、撒き散らされた床からほのかに湯気が立つ。
やってしまった、とズオ・ラウは顔をしかめた。
「……すみません」
「いや、気にしないでくれ。これは机を片付けていない自分が悪い」
ドクターはそう言って席を立ち上がると給湯スペースへ向かい、雑巾を二枚持ってきた。その一枚を差し出しながら、
「慣れない業務で疲れているんじゃないかい?」
「いいえ、そんな事はありません」
ズオ・ラウは雑巾を受け取りながら、首を横に振った。
「ここに来た時と比べて、疲労がたまっているように見えるよ」
そう言うとドクターはその場にしゃがみ、汚れた床を拭き始める。ズオ・ラウもドクターにならってその場にしゃがみ、もくもくと床を拭きながら思案を巡らせた。
起床後、まずは生活習慣として組み込まれた宗師の鍛錬に参加し、業務の合間に代理人について記録する。そして就寝前には必ず資料や書類に目を通し、ここの業務についての詳細を頭に叩き込む。毎日がこの繰り返しだった。
ズオ・ラウが学生時代の頃は無我夢中で勉強した甲斐もあり、丸暗記には慣れている。しかしロドスは司歳台と分野がまったく違うので、見知らぬ単語を見かける都度調べるというのは、なかなかどうして気力も体力も消耗する。
ドクターの疲労が溜まっているという指摘は、あながち間違いではなかった。それが、ズオ・ラウが抱える不甲斐なさに拍車をかける。
と、ドクターが手を止め、小さなため息をついた。
「完璧なのは最良だ。しかし、君は炎国で大仰な組織に所属していても、ここではただの新人ほかならない」
「ですがドクター、僭越ながら秘書を賜った身としては……」
秘書というのは新人――それも他所の組織に所属している者であれば絶対に任されない業務だ。それなのに任されたという事実は、ズオ・ラウにとってはこの上ないものだった。張り切らない理由がない。
ドクターは一通り床を拭き終えると、何気ない仕草で壁の時計を見上げた。
「ま、そんな事よりちょうどおやつの時間だ。少し休憩にしよう」
「ですが……」
「ですがズオ・ラウ、休憩にしようと言っているんだ」
有無を言わさぬ物言いにズオ・ラウは思わず硬直した。するとドクターは肩をすくめ、
「君がどうしても嫌だと言うなら、業務を続けてもいい。自分は不慣れにもあくせく働く君を眺めながらおやつを食べる事にするよ。……疲れちゃったからね」
冗談交じりの一言が付け加えられ、場の空気が一気に弛緩した。
「……わかりました。休憩にしましょう」
そう返すとドクターは頷いて、おもむろに手を差し出してくる。ズオ・ラウはすぐに意図を察し、汚れた雑巾を手渡した。
「君は座って待っていてくれ」
そう言葉を残し、ドクターは給湯スペースへと足を運ぶ。
ズオ・ラウが応接スペースのソファに腰を下ろしてしばらくすると、ドクターが湯気のたつステンレスカップを二つ持ってきた。中にはティーバッグがたゆたうように揺れている。それから近くの棚をあさって、菓子の入った袋を取り出して持ってきた。ビスケットだ。
「さ、一休みの時間だ」
「はい」
ドクターとこうして会話するのは、ズオ・ラウにとってもう片手で数え切れないほどの回数になっていた。
彼の雑談はあまりにもゆるく、取り留めもなく、そして細やかな気遣いも縛りもない。炎国にいた時の、目上の人物の相手をするのとは全く大違いのコミュニケーションにズオ・ラウはしばしば戸惑ったが、自然体で落ち着ける空気に身を委ねるのは悪くなかった。
ズオ・ラウが紅茶を飲んでほっと息をついた時、部屋の扉が外側からノックされた。その音に反応して、二人は同時に顔を上げる。
「ドクター、いますか?」
扉越しに、くぐもった声が聞こえてくる。
「いるよ」
「ケルシー先生の書類の配達と、先日の報告書です。入ってもいいですか」
女性の声だ。ややつたなさを感じさせる共用語は、ズオ・ラウには聞き覚えがない。面識がない人物だと察したズオ・ラウはカップをテーブルの上に置き、居住まいを正した。これは子どもの頃からのしつけによる癖だ。
「どうぞ」
ドクターが促すと、扉が開いて室内に誰かが入ってきた。足音が近付いて来るとソファの近くで止まったので、ズオ・ラウは視線だけをそちらに向ける。
少女だった。身軽な服装の上に、ロドスの社章が入った上着を羽織っている。頭部の両脇にあたる位置から突出した耳に、そして腰から垂れ下がった滑らかな光沢を放つ長い尾。少女はズオ・ラウと同じフィディアだとひと目見てわかる特徴を備えていた。
観察するズオ・ラウの視線に気付き、少女はわずかに首を動かしてズオ・ラウに目を向ける。視線がかち合った瞬間、少女はわずかに瞼を持ち上げたが、すぐにドクターへ視線を戻した。彼の方へ近寄ると、手に持っている封筒と書類を差し出した。
「これが、ケルシー先生から」
「うん」
「それと、こっちが報告書です」
「ありがとう。今目を通すから、少し待っていて」
「わかりました」
待っている間手持ち無沙汰なのか、尻尾をゆらゆらと左右に揺らしている。ズオ・ラウの目測だが、尾は自分のよりもかなり長いように見えた。
ドクターはケルシーからの書類をしばらく眺め、おもむろに立ち上がると机に向かった。椅子に腰を下ろしてペンを取り、書類に何か書き始める。
「ナマエ、少し時間がかかるから、座って待ってて」
ドクターが声をかけると、ナマエと呼ばれた少女は首を横に振った。そしてズオ・ラウの方をちらりと横目で伺ってから、
「いい。お客様がいるから」
「彼はナマエが思ってるような客人じゃないよ」
「……そうなの?」
「うん。もしかするとこの先任務で一緒になるかもしれないから、お互い適当に自己紹介でもしておいて。テーブルの上のお菓子は食べちゃっていいから」
さらっと流すように言って、ドクターは再度、書類に目を落とす。
居住まいを正したままのズオ・ラウとナマエの間に奇妙な空気が流れた。まるで品定めするかのような視線を向けられるので、ズオ・ラウも相手を不躾に観察することで応じる。
敵意は感じないが、表情に警戒の痕跡が見られる。ズオ・ラウを見つめる眼差しには、さきほどドクターに話しかけたような柔和さが感じられない。どうやらこの少女は、人見知りのきらいがあるようだった。
やがて観念したようにナマエはソファに腰を下ろした。しかし対面にいるのに、どうにも視線が噛み合わない。
「はじめまして」
ズオ・ラウがまっすぐ見つめて挨拶を告げると、
「……はじめまして」
渋々と言った様子でナマエは視線を合わせた。
同い年か、もしくはそれ以下か。年齢はわからないがズオ・ラウにはそんな予感があった。少なくとも年上には見えなかった。
「私は炎国司歳台に所属する持燭人のズオ・ラウと申します。こちらのロドスには炎国の代……いえ、客人が多数所属している事から、その監督役として遣わされました。司歳台の意向としてはロドスとは友好関係にありたいと考えており、今は後方支援が主な業務ですが、有事の際には協力を惜しむなと仰せ付かっており……」
「何を言ってるかちっともわからない」
「……はい?」
「あなたの言ってる事は難しい。もっとわかるように説明して」
ズオ・ラウはいつも通りに説明したつもりだ。でも目の前の少女はそれがわからないという。
ナマエが不満をあらわにするのとほぼ同じタイミングで、ドクターが座っている椅子が軋む音がした。
「ナマエ、司歳台というのはね、サルゴンで例えると国王の下部組織みたいなもので、持燭人はその組織の役職名だ。ロドスには司歳台の客人が数名滞在しているから、ズオ・ラウはそのお目付け役として派遣された。……わかったかい?」
「……、なんとなく……」
「ズオ・ラウ、彼女はこの通り公用語には不慣れだ。専門用語は噛み砕いての説明を心がけて欲しい。君なら難なくできるはずだ」
「は、はい。善処いたします……」
いつもと違うパターンにズオ・ラウは困惑をあらわにした。挨拶の文面と手順はもはやズオ・ラウの頭の中で定型化されており、それを言葉にして滞り無く終わるはずだったのだ。それが一切通じない相手という事に戸惑いつつも、気を取り直して口を開く。
「大変失礼いたしました。配慮が至らず申し訳ない……」
「お世辞もいらない。間怠っこしいし面倒臭い」
「……」
ズオ・ラウの胸中に、仲良くできるのだろうかという不安が広がった。
「話を戻すね。私はナマエ、コードネームも同じ。サルゴン出身。呼び方は頓着してないから好きに呼んでいい。あなたの事はなんて呼べばいい?」
「私もあなたと同じでコードネームはありません。お好きにどうぞ」
「じゃあ、バカとアホのどっちがいい?」
「……」
唐突な悪口に、ズオ・ラウも硬直せざるを得なかった。
そんな二人のやり取りを密かに盗み聞きしていたらしいドクターが盛大に吹き出した。かと思えば、挙げ句の果てにむせはじめてしまう。ズオ・ラウは目を細めて不満をあらわにした眼差しをドクターに向けた。視線に気づいたドクターは書類の合間から見えるように身体を傾け、何度も咳を繰り返しながら片手を上げてごめんのジェスチャーをして見せる。
仲良くできる自信を失いつつあったが、ズオ・ラウは健気な態度を崩さなかった。
「ズオ・ラウでお願いします」
「お好きにどうぞって言ったし、どっちがいいって聞いたよね。次からは適当な事言わないでね、ズオくん」
要望を無視されるのはズオ・ラウの想定内だった。そして呼び捨てされるかと思えばきちんと敬称がついたのには驚いたが、それよりもナマエの態度が無性に癇に障って仕方がなかった。
「……では言わせてもらいますが、私があなたの事をバカと呼んでもいいという事でしょうか?」
「別にいいよ」
けろりとした顔で言うので、ズオ・ラウは面食らってたじろいでしまう。
「私が住んでた地域じゃ、バカもアホも褒め言葉」
「……そ、そうなんですか?」
「まあ違うけど」
「……」
持ち上げてから思いっきり地面に叩きつけられるような気分だった。目の前の少女と本当に仲良くできる自信が見つからない。
「ナマエ、彼をからかうのはそこまで。彼は真面目な性分なんだ」
見かねたドクターが助け舟を出した。
「やっぱり。そうだと思った」
「……ナマエ」
「ごめんなさい」
ナマエは瞬時に謝って肩を縮こませた。ドクターはわざとらしくため息をつくと、
「ズオ・ラウ、ナマエの事を許してやってくれ。どうにもこういうところがあるんだ」
「別段気にしていません。暴言と呼ぶにはまだ甘いですから」
ズオ・ラウはそう言って曖昧に微笑んだ。
今まで捕らえた罪人に浴びせられた罵詈雑言と比べればナマエの暴言は戯言だ。それに初対面の相手にここまで強気に出られるのは大したものだと半ば感心してしまい、ズオ・ラウは溜飲を下げた。
「一応補足しておくけれど、バカは一番星、アホはサンドフィッシュを指すんだ。そうだよなナマエ」
「うん」
ナマエはいまだ縮こまったまま、手に取ったビスケットをほんの一口かじった。
「サンドフィッシュ? 砂漠に魚がいるんですか?」
「ううん」
ズオ・ラウの問いかけにナマエは首を振る。喉を鳴らして口の中のものを飲み込むと、
「見たことないなら、スナトカゲって言ったほうが想像しやすいかも。日中は砂の中にもぐって泳ぐように移動する。夜になるとエサを探しに地上に出てくる。捕まえると死んだふりをする。白くて、小さくて、ちょっとかわいい」
「な、なるほど……」
馴染みがない地域の雑学に、ズオ・ラウは感嘆した。それを皮切りにナマエはもくもくとビスケットを食べ始めるので、ズオ・ラウもビスケットに手を伸ばす。
しばらくの間無言が続いたが、ふとナマエがまばたきを繰り返して、ズオ・ラウの剣を指さした。
「あなたは剣が得意なの?」
「え? まあ……」
「ふうん。強い?」
ストレートに強いかと尋ねられ、「はい強いです」と言い切る自信はズオ・ラウには無かった。
「いえ、まだ修行中の身ですので……」
慎ましく謙遜するズオ・ラウを、ナマエはじっと音がしそうなほど見つめ返す。居心地の悪さに耐えかねて、ズオ・ラウが俯いたときだった。
「手合わせしたい。ドクター、ズオくんを借りていい?」
「えっ!?」
「本当に突拍子もないなあ……まあいいけど」
「やった」
静かな声ではしゃぐナマエは年相応の笑顔を浮かべている。ズオ・ラウは一瞬気を取られるも、すぐにはっと我に返り、
「ちょ、ちょっと待ってください。正気ですかドクター?」
「うん。ナマエの報告書は訂正の必要なし。ケルシーの書類は当事者のサインも入ってるし、こちらも目立った不備がない。ナマエはもう戻っていいよ。ズオ・ラウは三十分くらいで戻ってくればいい。その間、自分ははゆっくり休むから」
「そうだって。早く行こ」
「あっ、ちょっ、ちょっと……!」
手首を掴んで半ば強引に引っ張り上げられ、ズオ・ラウは混乱と戸惑いが混ざった声を上げた。ナマエはズオ・ラウを強制的に立たせると、有無を言わさぬ勢いで引きずるように部屋の外へと連れ出した。
手首を掴まれ、引っ張られるようにして廊下を突き進む。ナマエはその間、後ろを振り返りることもしない。あまりにも強引なやり方に、ズオ・ラウは怒りを通り越して呆れてしまった。
「ひ、一人で歩けますから……!」
ズオ・ラウが抗議の声を上げると、ようやくナマエは振り返った。
「……逃げない?」
「逃げませんよ……」
ようやく手を解放され、ズオ・ラウはほっと胸を撫で下ろした。前を進むナマエの後ろを大人しくついて歩きながら、目の前の少女について思案を巡らせる。
随分と威勢のいい少女だ。この強引さはどこで身に付けたものなのか。素直に感心するほかない。
一番近場の訓練室に入ると先客が一人いたが、長柄の箒を持っていた。どうやら鍛錬ではなく室内の掃除をしていたようだった。
ナマエはそちらに近づいて手短に言葉をかわすと奥の倉庫へ向かい、訓練用の剣を二つ携えて戻って来た。
「あの人に合図を出してもらうよう頼んだから」
「……わかりました」
ズオ・ラウは差し出された模造剣を渋々と受け取った。形は西洋剣で材質は樹脂製というお馴染みのものだ。ズオ・ラウがいつも使っている柳葉刀より短く軽いので、いまいちしっくり来ない。
ズオ・ラウは鍛錬の一環としての手合わせは好むほうだ。初対面であろうと、ロドスのオペレーターにとりあえず申し込んでみるほどである。だが、得体も知れず、礼儀作法のれの字も知らないような相手と剣を交わすのは、はっきり言って気が乗らなかった。
それでもズオ・ラウは左側を前にして構えを取ると、数メートルの距離を開けて向かいに立つナマエも左側を前に構えを取った。構えを取る際、左右どちらを前に向けるかで攻防の得手不得手が決まる。ナマエはズオ・ラウと同じく防御が得意のようだ。
どうしたものか、とズオ・ラウが考えているうちに、
「始め!」
開始の宣言が響いた。
途端にナマエが床を蹴って飛び込んできて、ズオ・ラウはぎょっとした。ナマエが剣を振り下ろすので、ズオ・ラウは剣を構えて受け止める。
バインドという力比べの体制に持ち込まれたが、ズオ・ラウも黙って受けているわけではない。力を込めて押し返した。
弾かれたナマエの腕が開く格好になる。不用意で隙だらけだったが、ズオ・ラウはあえて追撃はしなかった。ナマエはすぐ後方に退いて距離を置き、もう一度ズオ・ラウへと襲いかかる。
ズオ・ラウはその一撃を剣で弾き飛ばすと、ナマエに向かって剣を横に振るった。ナマエは攻撃を剣で受け止め、そのまま手首を捻ってズオ・ラウの剣を捻じ伏せようとしてくる。たまらずズオ・ラウの体制が崩れたところを狙ってナマエが鋭い突きを放ってくるので、ズオ・ラウは後方に飛び退った。すかさずナマエが追いかけるように飛び込んで来るので、ズオ・ラウは剣で受け止める。
ズオ・ラウはすぐに手合わせが終わると思っていたが、ナマエは意外にもズオ・ラウの動作についてくる。これは思っていた以上に時間がかかりそうだった。
剣が幾度もぶつかって小競り合いが発生した時、訓練室の扉が勢いよく開け放たれた。
「オペレーター・ナマエはいらっしゃいますか?」
肩で呼吸をしながら飛び込んできたのは、見るからに医療部の職員だ。彼女はナマエの姿を認めると、再度大きな声で「ナマエさん!」と名前を呼ぶ。
どうやら急ぎの用事でナマエを探しているらしい事は明白だった。手合わせは中断だろうと判断し、ズオ・ラウは一息ついて力を抜く。その瞬間だった。
ナマエは剣の角度を変え、ズオ・ラウの籠手めがけて突きを放った。痛みを伴う強打にズオ・ラウが怯んだ隙に、ナマエはズオ・ラウの剣をすくい取るようにして弾き飛ばした挙げ句、足払いまでもを繰り出した。
油断しきっていたズオ・ラウは抵抗する間もなく、床に転がされてしまった。
「なっ……、卑怯ですよ!」
「終わってないのに油断するのが悪い。負けは負け」
ナマエはそう言うと、ズオ・ラウに向かって剣を放り投げた。ズオ・ラウは寝転がった状態のまま腹で剣を受け取め、軽い衝撃に顔を顰める。そんなズオ・ラウを見下すように一瞥し、ナマエはくるりと身体を反転させて足を踏み出した。ズオ・ラウがのろのろと上体を起こすのに、振り返りもしない。
ナマエは駆け足で職員のもとに向かった。その場で手短なやり取りを交えると、二人は一緒になって訓練室を退出していった。
一人取り残される形になったズオ・ラウは、呆然と固まるしかなかった。開始の宣言をした人物が「どんまい」と声をかけてきて、ズオ・ラウはようやく我に返る。気遣うように差し伸べられた手を見つめ、ズオ・ラウはなんともいえない気持ちのまま曖昧な苦笑を浮かべると、その手を取って立ち上がった。
この一連の出来事を、夕食時にたまたま同席になったシャオマンとホーシェンにこぼすと、
「プッ」
シャオマンは小さく吹き出し、ホーシェンは意味深に目を細めた。無論、否定的な表情である。今にも小言が飛んできそうだったので、ズオ・ラウは自然と身構えた。
「その人はズオさんから見て強かったんですか?」
「……わかりません」
「なら、相手のことを格下だと甘く見ていたから負けたのでは? どうせズオさんの事です、余計な気を回したんでしょう」
「そういうわけでは……」
ズオ・ラウは言葉で否定しつつ、何も言い返せなかった。ホーシェンの指摘が図星だったからだ。手を抜いた節があるのは認めざるを得ない。
「でも、燭台くんがムカつくのはわかるよ。ほとんどイカサマみたいなものでしょ。今度その人に会ったらあたし、燭台くんの代わりに怒ってあげる!」
「い、いえ。お気持ちだけで充分ですので……」
それ以降の会話はとにかく穏やかなもので、自然とズオ・ラウの溜飲も下がり、晴れ晴れとした気持ちになった。今日の出来事はこのまま詮無き事として忘れるだろうという予感すら芽生えた。
そうして食堂からの帰りを、三人で雑談しながら歩いているときだった。
廊下の向こう側から、件の少女がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
ナマエはどこかぼんやりとした様子で壁を眺めながら、左手に紙袋を抱え、右手に食べかけの丸パンを持ち、頬をもごもごと上下させている。
のんびりとした足取りのままにパンをかじり、気の向くままついと視線をそらした先にズオ・ラウを見つけ、ナマエは瞳をパチパチと瞬かせた。もごもごしていた口が動かなくなり、その場に立ち止まるので、ズオ・ラウも釣られて足を止める。
廊下で歩きながらの飲食行為はあまりにも行儀が悪すぎる。ズオ・ラウが眉をひそめると、対するナマエは不審がるようにズオ・ラウを見つめ返してきた。なんでそんな顔をされなければいけないんだと強い眼差しで訴えかけてくる。
両者の視線の間に架空の火花が弾けた。そんな二人の態度を怪訝そうに眺めるホーシェンの傍らで、シャオマンが「あっ」と声を上げた。みるみるうちに表情を変えるとパッと飛び出し、ナマエの方へ駆け寄っていく。
「あなたね、燭台くんをいじめたのは!」
「こらっ!」
ホーシェンが慌てて止めに入ったが、シャオマンは構わずまくしたてる。
「燭台くんの何が気に入らなかったのか知らないけれど、新人いびりはよくないと思うの!」
「お前が言えた立場じゃないだろ……」
ホーシェンの発言は、シャオマンがロドスでは新参者のおのぼりさんであり、かつて大荒城では新人の燭台くんをほんの少しだけいびっていたのを知っていた事からくるものだった。
ナマエはシャオマンの文句を驚いた様子で受け止めると、頬を上下させ始めた。ごくんと喉を鳴らして口の中のものを飲み込んで、ようやく口を開く。
「もう夜なのに元気だね。お名前はなんていうの?」
「話をそらさないで!」
「はなしをそらさないでちゃん。長いし変な名前だね」
と、シャオマンはたちまち狼狽し、
「ち、違うよっ! あたしにはちゃんとシャオマンって名前があるんだから」
「そっか。人の話はちゃんと聞こうね、シャオマンちゃん」
「なんなのこの人! あなたがまず話を聞いてよ!」
かしましくも不穏な口論が始まり、ズオ・ラウは唖然とするばかりで身動きの一つも取れない。ホーシェンもどこか判然としない表情で二人の様子を伺っている。シャオマンに何かがあったら割って入るつもりだろうが、雰囲気に気圧されたのかズオ・ラウと同じように固まっている。
口論の果てに、根負けしたのはシャオマンのほうだった。ふてくされたような表情になり、ナマエからぷいっと顔を背ける。
「もうっ! この人、性格悪い!」
「シャオマンちゃんにはかなわないよ」
「へんなところで謙遜しないでよ!」
黙っていられない性分も手伝ってしまい、シャオマンは反論のためにナマエの方に向き直ってしまった。そんなシャオマンに対しナマエは目を細めると、
「そんな事よりもシャオマンちゃん、手を出して」
ナマエは右手の丸パンを口に咥え、紙袋に手を突っ込んでがさごそと漁りだした。袋の中から何かを取り出すと、シャオマンの手にそれを押し付ける。
「え? ちょっと何……わっ!?」
一つ、また一つと押し付けて、シャオマンの両手に収まりきらない量になると、ナマエはようやく手を引っ込めた。
「なにこれ……お菓子?」
「うん」
ナマエは頷いて、口に咥えたままの丸パンを右手に持ち直し、
「あげる」
「な、何で……?」
「一人じゃ食べ切れないから」
得体の知れないものを前にして戸惑いと恐怖を表情に貼り付けながら、それでもお菓子をもらった興奮でわなわなと体を震わせるシャオマンに、ナマエはふっと笑みを浮かべる。
そしてズオ・ラウの方へ顔を向け、
「いいお友達だね」
そう言って、ズオ・ラウの横を素通りして去って行った。振り返ると、長い尻尾を床に引きずらないように持ち上げながら、ゆらゆらと左右に揺らしてのんびりと歩いている。
しばらく固まっていた三人だったが、真っ先に動き出したのはシャオマンだった。
「みてみてシャオホー、よくわかんないけどお菓子もらっちゃった!」
「……お前の手首は回転式なのか?」
「こういうのはね、臨機応変って言うの!」
「ものは言い様だな……」
全身で喜びをあらわにするシャオマンとは対象的に、ホーシェンはひどく呆れた表情を浮かべている。
ズオ・ラウもようやく硬直から解き放たれ、シャオマンの方へ近寄ると、両手の中を覗き込んだ。山盛りの菓子は同じ種類がひとつもなく、多種多様なものが取り揃えられていた。
「……いろいろありますね」
「小さい子に毎日おやつ配ってるから、そのあまりものかな。あの人、いらない子から貰ってこっそり溜め込んでたのかも」
「それ、衛生的に大丈夫なのか?」
ホーシェンが言うと、シャオマンはんー、と手元を覗き込み、
「期限は大丈夫みたい。それに捨てたらもったいないよ。シャオホーも燭台くんも、あとで一緒に食べよ。シュウ姉にもあげたいな」
さっきの不満と困惑はどこへやら、シャオマンは上機嫌に喋っている。持ち前の明るさに由来する心移りの早さにホーシェンはひどく呆れた様子だったが、ズオ・ラウは感心するばかりだ。見習わなければいけないと、心の中で自分を叱責した。
――というのが、数日前の出来事である。
「尾長ちゃん、明日は何するの?」
「仕事」
「もー、そういう事を聞いてるんじゃないの!」
隣で交わされる軽いやり取りを聞き流しつつ、ズオ・ラウは夕食を口に運んだ。咀嚼しながら、いつの間に『尾長ちゃん』なんてあだ名をつけたんだろう、という疑問にぼんやり浸る。確かにナマエの尾は長いので特徴は捉えているし、シャオマンらしいあだ名の付け方だ。
最初、ズオ・ラウは夕食を一人で静かに食べていた。そうしたらホーシェンがやって来て、相席を申し込まれたので快く応じた。そのすぐ後に「シャオマンも来るから、少しやかましくなるかもしれません」という補足され、ズオ・ラウは口元を緩めて頷いた。
そうして満を持して現れたシャオマンは、何故かナマエを連れてきたのである。
「そういうシャオマンちゃんは、明日は何をするのかな」
「えーとね、午前は子どもたちのお世話を手伝って、午後はでか角くんと植物のお世話をするの」
「そう」
「反応がしょっぱいよ! あたしはきちんと喋ったんだからね、次は尾長ちゃんの番!」
いつの間に仲良くなったんだろうか。そして何故ナマエが隣に座っているのだろうか。向かいにホーシェン、はす向かいにシャオマンが座ったので自然とそうなったのだが、ズオ・ラウにはいまいち納得がいかない。
「来週、任務で遠征に行く。その前準備を整える事と、最下層にある物置整理のお手伝い」
「へー……思ってたよりちゃんと労働してるね。てっきり甲板で昼寝してたから、毎日してるのかと思ってた」
「あの日はたまたまだよ」
ナマエがそう言えば、ホーシェンはそちらに顔を向けると、
「遠征って、どこに行くんですか?」
そう尋ねた。滞りも物怖じも一切感じさせない物言いに、ズオ・ラウは少々引っかかった。
ズオ・ラウが大荒城に左遷されたばかりの頃は、ホーシェンは少々壁のあるような接し方をしていたと記憶している。しかし今のホーシェンはナマエに対して普通に打ち解けているように見えた。本当に、いつの間に仲良くなったのか。ズオ・ラウの疑問は絶えない。
ナマエはちょうど口に含んだ食事をもぐもぐと咀嚼し始めていた。どうやら自分のペースは絶対に崩すつもりはないらしく、応答のために早く済ませるという気遣いは微塵も感じられない。しかしホーシェンもナマエを急かすだなんて真似はせず、じっと大人しく待っている。
ナマエがごくんと喉を鳴らして、ようやく口を開いた。
「サルゴンだよ」
「へえ! 陸路だと大変じゃないですか?」
ホーシェンは驚いた顔で言う。
「車の乗り継ぎが大変なくらい。難所も今は整備されてるし、割と楽なほうだよ」
「そうなんですか」
感心して頷くホーシェンの隣で、
「車かあ……あたし、今まで住んでたとこからほとんど出たことないから、乗ってみたいな」
大きな瞳を輝かせて、焦がれるようにシャオマンが言う。
「乗らないほうがいいよ。ろくでもないとこに連れてかれるだけだから」
ナマエは表情一つ変えずに、素っ気なく言い放った。
ろくでもないの意図を察してズオ・ラウもホーシェンも曖昧な表情を浮かべたが、シャオマンはわかっていないようだった。怪訝そうに眉を寄せ、首を傾げている。
「えっ、尾長ちゃんが行く所はろくでもないとこなの?」
「今回は普通」
「普通ならいいじゃない!」
シャオマンの表情がぱっと明るくなるのとは対象的に、ナマエは少し呆れた様子だった。
「……遠征とはどういった事をするんですか?」
話に一区切りついたタイミングでズオ・ラウが尋ねると、ナマエは隣のズオ・ラウをちらっと見上げ、
「半年前に設置したビーコンの回収。それと近くの村に滞在するから、物資の運搬もかねてる」
「それはお一人で?」
「ううん、私含めて二人」
「そちらには長く滞在するんですか?」
「回収して荷物置いたらすぐに戻るよ。滞在予定は三日」
ナマエの回答は素っ気ないが簡潔でわかりやすかった。ズオ・ラウはこの前みたいにあからさまな挑発でもされやしないかと懸念していたが、不要な心配に終わった。
「……ありがとうございます。私も外勤としてそういった任務に呼ばれるかもしれませんので、参考になります……」
「お礼なんかいいよ。……でも、ズオくんは遠方には呼ばれないと思う。出身地に近いところに割り当てられる事が多いから」
「そうなんですね」
ズオ・ラウが頷くと、シャオマンが目を丸くして、
「えっ? あたし、いつか外国に行けると思ってたのに行けないの?」
呑気な声で言うものだから、三者の視線がシャオマンに集中した。
「無理かもな」
とホーシェンが素っ気なく言い放つと、
「内勤が妥当だと思う」
ナマエがそう諭すように言い、
「可能性はゼロではありませんよ」
ズオ・ラウが気遣うように締めくくった。
「何よみんなして! ふんっ、絶対行ってやるんだから!」
そうして他愛もない雑談が続き、やがて食事を終えた者が出始めた。
最後まで残ったのは案の定ナマエだった。皆が食後のお茶を飲んでいても一人でゆっくりもくもくと食べ続けており、シャオマンにやかましく急かされても涼しい顔のまま、食事のペースは安定していて変わることがない。
結局、ナマエが食べ終わるまで皆で待つ事になった。
食器を片付けると、四人で食堂を出る。そのまま宿舎がある区画を目指して廊下を進む。
前方を歩くナマエの横にシャオマンが並んで歩き、せわしなく話しかけている。対するナマエはひどく適当に応答するものだから、シャオマンが憤慨する様子を見せる。
一見仲が悪そうに見えるが、存外相性はいいようで二人の会話は途切れることがない。意識が互いを向いている。
今がちょうどいい頃合いだ、とズオ・ラウは思った。
「シャオホー」
先をゆくホーシェンに、ズオ・ラウは小声で呼びかける。ホーシェンはすぐに振り返ると、名前でもあだ名でもなく炎国特有の愛称で呼ばれた事を察し、一度前方の二人を見やってから歩く速度を緩めた。
そしてズオ・ラウの隣に並び、怪訝そうな表情になる。
「なんですか?」
「いつの間に打ち解けたんですか?」
主語のない質問だったが、ホーシェンはズオ・ラウの言わんとする事がすぐにわかったようだった。
「先日、シャオマンに甲板で休憩しようって連れ出されたんです。どうせなら一番高いところに行こうって言い出して、そうしたらナマエさんが横になっているのを見つけたんです」
「……さっき、そんな事を話していましたね……」
「それがきっかけです。今はご覧のとおりですよ」
ホーシェンはそう言うと右手を軽く持ち上げ、前をゆく二人を示した。
「ナマエさんは医療部と接する機会が多いみたいで、シャオマンも療養の手伝いをしてますから、結構顔を合わせていたようです」
その言葉を聞いて、ズオ・ラウはハッとした。
「……ナマエさんは感染者の方なんでしょうか?」
「いいえ、違うみたいですよ。僕も最初はそうかなと思ったんですけど、職員と書類のやり取りをしてるだけのようでした。なら、医学に関して詳しいのかなとも思ったんですが、特にそういうわけでもないみたいです」
ホーシェンの言葉を聞き終え、ズオ・ラウは少し先を歩くシャオマンとナマエを見た。相変わらず騒がしいやり取りを交わしている。シャオマンが語気を強めると、ナマエはふっと目を細めて微笑んで唇を動かし、シャオマンはさらに何かをまくし立てている。良いようにあしらわれているのだろうなと感じさせたが、そこに剣呑とした空気は無かった。
「ズオさんもわかると思うんですが、あいつ……シャオマンは不思議と懐に飛び込むのが上手いんですよ。恐れ知らずというかなんというか……」
確かに大荒城でも斧を持った不審な男性にシャオマンは積極的に話しかけていた。それに他の住人にも物怖じせず接し、可愛がられていたとズオ・ラウは記憶している。あれはもはや才能の部類だろう。見習いたくても見習えない。
「……そういうあなたも、普通に接しているように見えますが」
「ズオさんの話を聞いて最初こそ少し身構えてしまったんですが、実際、話してみたら悪い人ではなかったので。確かに少し物言いがきつい時もあれば、ざっくばらんで無遠慮な印象はあります。でも、手が空いてるからと僕の仕事も嫌がる素振りを見せず手伝ってくれましたし、天師儀を組み立てている時なんかはとても楽しそうでした」
「……楽しそう?」
「ええ、三人で組み直しの速さを競ったんです。シャオマンより遅くて悔しがっていましたよ」
農業用機械に分類される情報端末の天師儀もとい六相儀だが、細い棒状のものを組み立てて使うことと、頑丈な特性もあってか小さい子供の玩具として遊ばれていたりもする。実際、ズオ・ラウも子供に混ざって組み立てて遊んだのは言うまでもない。
「あのときは間食が出ても、組み立てのコツを見つけるのに夢中になっていました。先生ですら『まるで小さな子供みたい』って揶揄して笑うくらいでしたよ」
まるで思い出し笑いでもするかのように目を細めてホーシェンは言う。そうして、ちらっとズオ・ラウの方へ視線を向け、
「それで、ちょっと思った事があるんです。ズオさんには言いにくいんですが……」
「かまいませんよ」
「ええと……本当に怒らないでくださいよ?」
ホーシェンは言いにくそうに視線を彷徨わせると、
「単に、ズオさんとの手合わせが、遊びとして全く面白くなかったのでは?」
ズオ・ラウの頭のてっぺんに、ピシャンと雷が直撃した――と錯覚するほどの衝撃が走った。
硬直するズオ・ラウを尻目にホーシェンは歩みを進める。数秒もしないうちにズオ・ラウが慌てた様子で追いついてきた。
「怒ってないですか?」
恐る恐るホーシェンが尋ねると、ズオ・ラウは力なく首を横に振った。
「……怒っていません。あなたの言うことは一理あるかもしれません……」
「あるかもじゃなくて、あるんだと思いますよ。ズオさんだって手合わせの際に手を抜かれたら気分は良くないでしょう。そんな相手に時間を浪費するほどナンセンスな事はありません。はっきり言って無駄ですからね」
言葉の刃物で滅多刺しされているとズオ・ラウは感じた。もはや喀血ものである。
「……これは、何かの意趣返しでしょうか?」
わなわなとしながらズオ・ラウが尋ねると、
「どうしてそうなるんですか? そんなつもりは毛頭ありませんよ。僕はもうあなたに説教するような間柄ではありませんし、これはただの助言にすぎません」
「そ、そうですか……」
ささやかな疑念は残るものの、ズオ・ラウの震えは徐々におさまった。
「そもそも、僕の発言を意趣返しと捉えるということは、何か自覚があるという事ですか? まあ、僕としてはそういった事は一切ありませんから、ただの取り越し苦労ですよ」
「……」
言われるうちが花とはよく言ったものだが、言葉でグサグサと内側の柔らかいところを刺されるのは、ズオ・ラウにとっては結構切ないものがあった。
そうこうしているうちに、いつの間にか前方の二人に追いついてしまった。
「二人でこそこそ何喋ってたの?」
シャオマンが陽気な調子で話しかけてくるので、ホーシェンは肩をすくめて応じた。
「別に何も」
「あやしい」
「お互い様だろ」
「あたしたちは別に内緒話なんかしてないよ。どうしてここに来たのか喋ってただけ。ねっ」
にこにこしているシャオマンとは対象的に、ナマエは表情に乏しく冷静だった。
「私はシャオマンちゃんのお話に、相槌を打ってただけだよ」
「なんでそうやってハシゴ外すの? よくないんだからね、そういうの」
途端に唇を尖らせる。見かねたホーシェンが小さなため息をついて、
「こいつ、何か変な事でも言ってましたか?」
と言うと、ナマエはホーシェンに向けてゆっくりと首を振った。
「ううん。シャオマンちゃんはお客さまとしてロドスに来たってのと、ワンチィンくんが研究交流生として滞在してるってくらい」
「働かざるもの食うべからずでしょ。穀潰しはいつか罰が当たるんだから」
「本当にえらいね。おいで、首もげるまでいいこいいこしてあげる」
「こわいよ!」
シャオマンが慌てて距離を取るので、ナマエはその後ろを追いかけていく。シャオマンに興味がなさそうに振る舞っているくせに、こういった状況ではノリは良いほうらしい。やがてシャオマンの甲高い悲鳴が聞こえてきた。
取り残された二人はその場で顔を見合わせ、どちらともなく苦笑を浮かべて歩き出す。
「それで、尾長ちゃんはどうしてここに来たの? 教えてよ」
「機会があったから」
「またそうやってはぐらかすんだから」
シャオマンがわかりやすく文句を訴えても、ナマエは気に留める様子がない。
「治療のためですか?」
むくれたシャオマンを見かねてズオ・ラウが率直に聞くと、隣のホーシェンがぎょっとした。ナマエもわずかに目を見張ってズオ・ラウを振り返り、それから逡巡するように視線を彷徨わせ、少しのためらいを見せたあとに、
「……人を探してる」
と言った。
「人探し、ですか?」
「うん。小さい頃に命を助けてもらった。ここにいたら見つかると思ったから……」
ナマエの話を聞き終わると、ズオ・ラウはやおら目を細める。
「……今、話すのをためらいましたよね。なぜですか?」
「みんなと比べると真っ当な理由ではないから。治療でも、労働の対価を求めてるわけでもない」
ナマエの表情はいたって普通だ。嘘かどうかの判別は、ズオ・ラウには難しい。咎めるようにじっと見つめていると、ナマエが顔をそらすのとほぼ同時に、隣にいるホーシェンからささやかなため息が聞こえた。
「ズオさん、あなたのその言い方では、まるで詰問しているようですよ」
たしなめるような口調に、ズオ・ラウは思わず狼狽えてしまった。
「そ、そういうつもりでは……」
「あたしからもそう聞こえた。燭台くん、取り調べじゃないんだからね」
「うっ。……大変失礼しました」
ズオ・ラウは肩身が狭い思いになる。ホーシェンはそんな彼を一瞥してから、ナマエに顔を向けた。
「ナマエさんの目的って、要は恩人探しですよね。観光気分のシャオマンと比べたら真っ当では?」
「こら、でか角くん。そういう事言うとあとでこわいんだからね」
「はいはい。……ナマエさん、その人の特徴は覚えていますか? 人探しに協力できるかもしれません」
ホーシェンの申し出にナマエはひどく驚いた様子を見せたが、しばらく考え込む素振りを見せると、やがて口を開いた。過去の記憶を思い返し、探り探りの訥々とした口調で、探し人の特徴を語りだす。
黒衣の外套。成人男性。当時は見たことのない服装だったため、おそらく旅の人。異国剣術の使い手で、とにかく強かった。幼心にもひどい恐怖を感じるほどだった。
ナマエが語り終わると、
「ふーん。じゃああたしもその人探し手伝うよ! それっぽい人を見たら、尾長ちゃんに教えるね!」
「シャオマンちゃんはお馬鹿だね」
「しみじみと言わないでよ」
シャオマンの抗議にナマエは微笑み返し、
「正直、顔をよく覚えてないんだ。どういう種族だったすらもわからない。もう見つけられないと思ってるし、見つからなくてもいいと思ってる」
するとシャオマンは丸い目をさらに真ん丸に見開いた。
「恩人なのに? そんなのすっごくモヤモヤしない?」
「するよ。でも、探し始めてもう十年以上たつけど、なんの手がかりも得られてないから」
ナマエはそう言って自嘲する。
十年という長い期間にわたって探し求めてなお、何一つ進展がない状態というのは、もはや諦めの境地に差し掛かっていると言っても過言ではない。ズオ・ラウはナマエの顔を見つめ、あまりの不憫さにやり切れないと悟った。
「……とすれば、すでに亡くなっている可能性も視野に入れたほうがよさそうですね」
「ちょっと、ズオさん」
ホーシェンが焦ったような声をあげるが、ズオ・ラウは構わず言葉を続ける。
「はっきり言いますが、ナマエさんの人探しは絶望的です。名前も顔もわからない、種族も絞り込めない。その状況で世界のどこにいるかもわからないたった一人の人間を探すのは、あまりにも無謀ですよ」
その言葉を黙って聞いていたナマエの表情は、何一つ変わらない。
「ズオさん、そんな言い方……」
「ううん、ズオくんの言う通りだよ」
ホーシェンの言葉を遮るようにナマエは言い、
「サルゴンは郊外に行けば行くほど危ないから、紛争に巻き込まれて死んでるかもしれない。いくら剣術が強くたって、どうにもならない時はあるからね」
シャオマンは不安げな眼差しをナマエに向け、ホーシェンは何も言わずにひとつため息をつく。なんだか気まずい空気が漂い始めると、
「そういうわけでこの話はおしまい。シャオマンちゃんは満足した?」
「うん」
「ならよかった」
そう言って、ナマエは微笑んだ。
それから少し歩いて階段の踊り場に面したところまで来ると、ナマエは夜警の仕事があるからと言い、別れの挨拶を告げて上の階へと登って行った。
ナマエの姿が見えなくなり、やがて足音も聞こえなくなった直後、シャオマンがズオ・ラウの脇腹を軽くどついた。痛くはなかったが、何故殴られたのかという驚きにたじろぎながら、ズオ・ラウはシャオマンを見下ろした。
「ばかばか! 燭台くんの大ばか! なんでストレートに言っちゃうの!」
「ええと……」
どうやらシャオマンは、さっきのやり取りについて不満があるようだった。
「せめて希望を持たせられるように言えなかったんですか?」
そんなシャオマンに追従するかのように、ホーシェンもどこかたしなめるような口調になる。その表情はひどく複雑そうにしていた。
「……人の時間は有限です。先行きが見通せない事に、時間を費やすべきではないと思ったんです」
あの助言は、ズオ・ラウなりに考えての事だった。
「その現実的な考えは理解できなくもないですが、いつか見つかるかもしれませんよ?」
「探し物というのはたいてい、必死になって探している時ほど見つけられないものです」
「なら、それをあの時言えばよかったのに。言葉足らずだよ、もう!」
シャオマンが一人で勝手に怒り出すので、ズオ・ラウは戸惑いがちに目をしばたたかせた。ホーシェンはそんな二人を交互に見やってから、
「意固地になってたりはしませんか?」
「何がです?」
ズオ・ラウが顔を上げて尋ね返すと、ホーシェンはズオ・ラウから視線をそらした。少し考え込むような素振りを見せて、再度ズオ・ラウに視線を向ける。
「僕から見て、ズオさんの、ナマエさんに対する物言いに少し棘というか……わだかまりを感じました」
ホーシェンの言葉を聞いた途端、あれほど怒っていたシャオマンは打って変わって静かになる。
「……燭台くん、嫌いなの?」
不安そうな眼差しに射抜かれ、ズオ・ラウはなんとも言えない気まずさに襲われた。
「……そんな事はありませんよ」
「でも、苦手ですよね?」
「……」
「なんでそこで黙るの!」
幼いながらも鋭い切り口に、ズオ・ラウはたまらず目をそらす。それを見ていたホーシェンが、やるせなさそうに肩をすくめた。
シャオマンはむっと口を尖らせると、
「燭台くんは国の神使なんだよね? あたしたちよりよっぽどすごい人なのに、好きか嫌いかで態度を変えてたらお話にならないよ。そんなんじゃ、国がよくなることなんてこれっぽっちもないんだからね!」
言葉の刃物でズオ・ラウを突き刺し、ピューッと走り去ってしまう。
「ズオさん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫ですよ」
ズオ・ラウにとっては二度目の喀血ものだった。しかし鉄心石腸の心構えで耐え切った。
ホーシェンは遠ざかるシャオマンの後ろ姿を見送りながら、
「まあ……ズオさんが守るべき民草に、ナマエさんは含まれていませんからね」
そう独り言ちた。廊下はシンと静まり返っているので、当然ズオ・ラウの耳にも届く。
「物言いに棘を感じます」
不満を押し殺しながらズオ・ラウは言う。とうとうシャオマンの後ろ姿が見えなくなると、ホーシェンはあらためてズオ・ラウに向き直った。
「自尊心が高すぎるのも難点ですね」
「……私がですか?」
「ナマエさんもですよ」
咎められているような気がして、ズオ・ラウには居心地が悪い。それを察したのかホーシェンはゆるくかぶりを振った。
「別に責めているわけじゃありませんよ。揺るぎない自尊心を持つのは、自分を見失わないという事でしょうから」
呆れ半分といった様子だが、彼の性分もあって嫌味のない物言いだった。
ホーシェンは印象の割にあけすけに言うが、根が温厚だからなのか言葉を荒げて調子を外したりすることなんかはしない。だからズオ・ラウもずけずけとものを言われても、すぐに受け止めて飲み込める。
「僕にはよくわからないんですが、やりにくい理由に心当たりとかはあるんですか?」
「正直なところ自分でもわからないんです。なんなんでしょう?」
「なぜ僕に聞き返すんですか。……だとすると、本当に相性が悪いんでしょうね……」
ホーシェンは呆れた様子でため息をついた。
別に、ズオ・ラウはナマエが怖いというわけではない。
いささか高圧的なものを感じる時はあるが、それは誰に対しても同じだという事は先程の二人のやり取りでもわかったことだ。対応にしても氷のように冷たいというわけでもない。
しかし、体の内側に刃物を添えられているような奇妙な感覚がある。ナマエに対して明文化できない得体の知れなさを感じているのは確かだ。
これを苦手意識と言わずしてなんと言うのか。ホーシェンが言う『相性が悪い』という言葉が、乾いた土に染み込む水のようにしっくりと馴染んでくる。
ズオ・ラウが考え込んでいると、ホーシェンはひどく難儀なものを見る目つきになった。
「あいつ……シャオマンの言うことも少しは念頭に置いてみては?」
その言葉に反応し、ズオ・ラウは視線をホーシェンに向ける。彼の顔には、ささやかながらも気遣うような色が浮かんでいた。
「ここでは国も、優劣も関係ない、民草はすべて隣人です。隣人には仁愛の心を失わず、重んじるべきかと思います。でなければ自分が軽んじられるだけですよ」
まるで、聞き分けの悪い者を優しく諭すような言い方だった。
ホーシェンは夜間も農業研究の実験データを取らなければならないようで、「それではおやすみなさい」と礼儀正しく挨拶すると、研究棟の方へと足を伸ばしてしまった。
その場に一人残されたズオ・ラウは、しばらくの間ぼんやりと佇んでいたが、
「民草ではなく、隣人」
噛み締めるように呟くと、足を踏み出した。