#4 Footprints in the Sand砂上の足跡
ナマエの後ろを、ズオ・ラウは大人しくついて歩く。村の中の明かりはわずかだ。空を見上げれば細かな砂粒じみた星が見える。それでもナマエが尻尾に括り付けたランタンが足元を照らしてくれるので、ズオ・ラウは歩みに困ったり躓いて転ぶような事はなかった。
村に立ち入った時とは別の小さな勝手門から森へと足を踏み入れる。この先に道があるのか不安になったが、幸い砂利が敷き詰められている細い小道があった。道筋を頼りに進んでいく。
その道中、ナマエは両脇に生えている広葉樹の幹をランタンで照らし、何かを探している様子だった。
「ナマエさん、さっきから何をしているんですか?」
そう尋ねると、ナマエはズオ・ラウの方を振り返り、
「釣り餌を探してる」
「というと……虫ですか?」
「うん。見つけたら教えて」
そう言って、火ばさみをカチカチと鳴らす。それで挟んで採取するつもりなのだろう。
しばらく道なりに進むと、樹液に群がっている昆虫の群れをようやく見つけた。掴み放題と言わんばかりにうじゃうじゃといるので、流石にズオ・ラウも真顔にならざるを得なかった。単品では平気だが、何匹も密集していると不快感の方が強くなる。
そんな、同じ年頃の少女が悲鳴を上げて逃げ出しそうな光景を前に、ナマエは甲虫をつまんではかごの中へと放り込んでいく。その顔は無表情だ。
「ナマエさんは平気なんですか?」
「こういうのはね、深く考えると駄目」
ナマエが切実に言う。必要な数を採り終えると、ナマエは木から離れ、安堵のため息をついた。
「多分これで足りると思う。行こ」
「はい」
そう言って歩き出すので、ズオ・ラウもまた大人しく後ろをついて行く。
歩き続けている内に、頬に風を感じるようになってきた。木立の合間に風の通り道があるのだ。木々の密度が徐々に減っているから、風通しがよくなっているのだろう。
果たしてズオ・ラウの予想通り、一刻もしないうちに視界がひらけて、目前には広大な砂漠が広がっていた。地平線までずっと平らな砂地が広がっていて、引き波の形で時間が止まったかのような砂紋がいたるところに残っている。
炎国の砂地はどこか赤茶けて淀んだ空気が蔓延し、風が吹きすさんで遠くまで見通すことができないので、胸がすくような光景に見入ってしまう。空には薄い絹のような雲がたなびき、入れ物をひっくり返したかのように星が散らかって、ずいぶんと高いところに月が浮かんでいた。
その景色の中央。いつの間にか遠くまで進んだナマエがズオ・ラウの方を振り返り、手招きを繰り返していた。あまりにも反応がないズオ・ラウを怪訝そうに見つめながら尻尾でランタンを揺らし、意識が向くよう必死に身振り手振りを繰り返している。
「ズオくん、こっち!」
「は、はい! 今行きます」
ズオ・ラウは慌てて足を踏み出した。足元は硬い地盤だったが、進むにつれ徐々に砂を踏みしめる感覚が強くなり、ナマエの近くまでくると完全に砂地となった。
一歩進むたびに足裏が砂にめり込んで、蹴り上げる事でようやく進む。踏み固められた地面を歩くのとは訳が違う独特な感覚は、ズオ・ラウの懐かしさを刺激した。
「あそこで釣ろう」
ナマエが指差した先、すぐにたどり着ける距離に、ささやかな岩場が砂から顔を出していた。
岩場にたどり着くとナマエは手で大雑把に砂を払い、持っている荷物を置いた。それにならってズオ・ラウも荷物を置く。
「今は風も弱いから良かった。すぐ釣れると思う」
「風が強いと釣れないんですか?」
「うん。風が強い日は飛ばされちゃうから、砂の奥深くに潜っちゃう」
ナマエはそう言うと後方の砂漠を振り返ると、
「ズオくんはここに座って待ってて。今ちょっと準備してくる」
「準備? 何をするんですか?」
「すぐ終わるから」
なんの説明もして貰えない事に納得がいかないまま、それでもズオ・ラウが渋々と腰を下ろすと、ナマエは砂を軽く蹴って飛び出していった。
あっちにいったりこっちにいったり、いかにも忙しない。そのたびに外套の裾が広がって、しぼんでを繰り返す。遠慮も無縁に追いやった軽快さで飛んで、跳ねている。
誰も踏み込まない雪原を汚していくかのように、まっさらな砂漠にたちまちナマエの足跡が残りはじめる。砂紋は踏みにじられ、波の形をどんどん失っていく。
ナマエは一人で楽しそうだった。
ズオ・ラウは終始何をしているのか理解できずに、ナマエが跳ねるのをぼんやりと眺めた。ただ、見ていると胸の奥でどこか異質めいた風通しの良さが広がっていく感じがした。
しばらく観察していると、どうやら適当に動いている訳では無い事にズオ・ラウは気がついた。ナマエは何らかの意思を明確に持っていて、まだ足跡が残っていない空白を見つけてはそこに飛び込んでいく。
ひとしきり踏み荒らして満足したのか、ナマエはしたり顔で飛び跳ねて戻って来きた。
「ええと……何をしていたんですか?」
「サンドフィッシュは目が退化してるぶん耳がいいから、足音に寄ってくる習性がある」
「足音、ですか?」
「うん。ここらへんにいる野生の獣なんかは身体に虫をくっつけて移動してる。それがたまに砂地に落ちると、サンドフィッシュの餌になる。だから、こうやっておびき寄せると釣れやすい」
「なるほど、撒き餌のようなものですね」
「そう」
ナマエは頷くと、ランタンなどの荷物を挟んだズオ・ラウの隣に腰をおろした。
火ばさみを閉じ、タコ糸をくるくると巻き付けて固定して棒を作る。その先に長い糸を結ぶと、簡単な釣り竿が出来上がった。
ナマエは糸の先端に先程採ってきた虫を括り付けて結ぶと、踏み荒らしたばかりの砂地に放り投げた。
その一連の仕草に、なるほど確かにこれは釣りだとズオ・ラウは納得した。
「これでかかるのを待つだけ」
「大体どのくらいの時間がかかるんですか?」
「早い時は五分もかかんないよ」
「……遅い時は?」
ナマエは苦笑を浮かべ、首を横に降った。
「だめなときはだめ。一時間経ったら帰ろう」
「わかりました」
ズオ・ラウも苦笑を浮かべると、顔を正面に向けた。
何もすることがないので、しばらくぼんやりと空を見つめる。大荒城で見た夜空と比べてみるが、星の数が気持ち多いと感じるくらいで、違いはわからなかった。
もう少し感性が豊かであれば他に感じ入ることもあるだろうが、こういった事はズオ・ラウは苦手だった。景色が綺麗だとは思うものの、どこがどう綺麗なのか細分化して説明できない。
ならば何か瞑想などをしてこの時間をやり過ごせばいいが、する気にもならない。手持ち無沙汰のままナマエを見れば、竿の先に垂れた糸をまっすぐ見つめている。
なんの感触もないと判断したのか竿の糸を手繰り寄せ、今度は別の方へと放り投げた。真面目な顔つきで糸の先を眺めていたナマエだったが、視線に気づいたのか横目でズオ・ラウを見る。
目が合ってしまった。ズオ・ラウは何事も無かったように視線を移動させたが、
「ズオくんって小さい頃、こういう事やったことある?」
そう尋ねられてしまい、観念してナマエの方へ顔を向けた。
「砂地で釣りですか?」
「ううん、子供の遊びみたいなの」
「……人並み程度には」
「例えば?」
そう尋ねるナマエの表情には、ほんの少しの好奇心が見え隠れしていた。
「移動都市の壁を、天辺まで登りました」
「へえ。怪我しなかった?」
「しませんでしたが、酷く叱られました」
「それはそうだよ。他には?」
「都市の排砂溝をつたって、都市から出ようとしました」
ズオ・ラウの言葉を聞くなりナマエはぎょっとして目を丸くする。そしてどこか不安げな表情になり、
「……家出?」
「違いますよ。……ただ純粋に、外で遊びたかったんです」
子供の遊びに対する意気込みは空腹すらも凌駕する原動力となり、それは時としてとてつもなく無謀な挑戦につながる。あの頃のズオ・ラウにはいろんなものが輝いて見えて、自分はなんでもできると思っての行動だった。
そして都市からの脱走に失敗し捕まった後は、とんでもない量の説教が待っていた。親にも、見回りをする兵士にも、その区画一帯を管理している人、さまざまな人にとにかく怒られた。その時に初めて、考え無しの行動は周囲に迷惑をかける事につながるという自覚も芽生えた。
そんな遠い過去の話を語るのは、ズオ・ラウにとっては少し気恥ずかしさすら覚えるものだった。
数秒の間を置いて、
「ズオくん、変な事しかしてないね」
そう言って、ナマエが呆れ気味に優しく微笑んだのが、ランタンの明かりに如実に照らされた。そのたった一瞬の風景は、一度の瞬きをはさんで掻き消えてしまう。
「……こう見えて好奇心旺盛だったんですよ」
「そっか」
素っ気ない返事だった。これで会話は打ち切りになるかと思ったが、ナマエは相変わらずズオ・ラウの方に顔を向けたまま、不思議そうな眼差しを向ける。
顔に何かついているのかとズオ・ラウが不安になってきた頃、ナマエはようやく口を開いた。
「ズオくんって、割と普通に喋るんだね」
「あの……、それはどういう意味ですか?」
「私の事嫌いなのかと思ってた」
唐突にストレートの剛速球が投げ込まれ、ズオ・ラウは取りこぼしてしまった。
反応に遅れた挙げ句、拾ってからもどう応じればいいのか考え込み、結果として返答に窮するように黙り込んでしまう。
「図星?」
からかうように尋ねられ、ズオ・ラウはようやく言葉を返す体制に入った。
「嘘偽りなく言えば、嫌いではなくともあまり親しみは感じません。……ナマエさんの方こそ、私の事をよく思っていませんよね」
むっとして言い返すと、ナマエはうーんと小さく唸って、
「最初はぬるま湯生まれの温室育ちかなって思ったけど、今はよくわかんない」
のんびりと言う。
「ズオくんが若くして役人になれたのは、勉強を人一倍頑張ったからでしょ? 炎国が腐敗の限りを尽くしてるとかは聞かないし、親の七光りとかで登用されたようにも見えない」
思いも寄らないナマエの言葉に、ズオ・ラウは目を瞬かせた。
「武術も朝早く起きて打ち込むくらい自分に厳しい。でも、自分の力を誇示するわけでもない。鍛錬の積み重ねって地味だけど強い精神力も培うし、最後は実力が物を言う」
淡々とした語り口は、からかいも嘲笑も含まれていない。本当にそう思っているのだという事が伝わってきて、ズオ・ラウは戸惑い始めた。
「そういう、頑張った結果が伴ってる人をあれこれ腐したところで、自分に跳ね返ってくるだけだから。みじめになるだけだし……」
ナマエの言葉を聞き終えると、ズオ・ラウの胸中には無性に恥ずかしい思いだけが残った。
変な意地を張って勝手に壁を作ったりして身構えていたが、ナマエはそんな枠組みの外側の、ずっと違うところにいたのだ。
「……申し訳ありません」
「なんで謝るの?」
「売り言葉に買い言葉でした。……多少の親しみは感じています」
「多少って、どのくらい?」
「……砂ひとつまみほどでしょうか?」
「なんだその言い方。やるか?」
「やりません……」
ナマエは握った拳を見せびらかすようにして威嚇してきたかと思えば、次の瞬間にはふっと力を抜いて、
「ズオくんはすごく丁寧にしゃべるから、あんまり踏み込んだら駄目だと思ってた」
面食らって固まるズオ・ラウを気にも留めず、ナマエは言い終わると正面を向き、糸を手繰り寄せた。糸の先端についていた餌がなくなっているのを確認すると新しい餌をくくりつけ、今度は別の方向へ放り投げた。
「……別に、そういうわけではありません。炎国では、年が二回り以上も離れている大人と話すことが多かったんです。だから、意思疎通を図る上で最適なんですよ。言動で礼節を示す事は、互いの緩衝地帯を作る事にもつながりますから」
「なんか疲れそう」
顔をしかめてナマエが言う。
「物心ついた頃からそういう躾を受けて育ちました。私にとってはこれが当たり前なので、ほとんど慣れですよ」
「慣れかあ……」
釣り糸に人差し指をかけて何度か揺らしたのち、ちらりとズオ・ラウを横目で見て、
「私もズオくんには丁寧にしゃべったほうがいいんでしょうか?」
対するズオ・ラウは、やや反応に遅れた。
「……、普通にしていてください」
「はあい」
ナマエは正面に向き直って、間延びした返事をする。その調子は、どこか柔らかい印象を感じさせた。
明滅するランタンの明かりに照らされたその横顔を盗み見るが、ナマエはもう真剣な表情に変わっていた。ズオ・ラウは少し残念に思ったが、砂地とにらめっこして火ばさみを軽く振ったりと四苦八苦しているナマエを眺めるのは少し面白かった。
しばらくそうしていると、見られていることに気づいたのか、ナマエがズオ・ラウへ顔を向けた。面白がっていた事もあって、ズオ・ラウは一瞬戸惑う。
「やる?」
「……いいんですか?」
「いいも悪いもないよ、こんなの」
名ばかりの釣り竿を渡され、ズオ・ラウは困惑をあらわにしながら砂地を見つめた。どうしたらいいのかわからないが、たまに糸に触れて刺激を与えていたのは見ていたので、一度やってみる。
風が吹いて、ズオ・ラウは思わず目を閉じた。地面の上を小さな砂がさらさらと転がっていく音がする。凍えるような寒さを想定していたが、砂漠の端でもあり密林の端という中途半端な位置もあってか、少し冷たいくらいだ。
ようやく風がおさまって目を開けると、糸がたるんでしまっていたのでどうにか張り直した。四苦八苦していたナマエを思い返しながら、仕草を真似る。
「釣れないと暇ですね」
「私は別に暇じゃないよ」
横目で見ると、ナマエは目を閉じ、足を伸ばして両手を後ろにつき、見るからにだらけていた。
「どう見ても暇じゃないですか……」
「違うよ。うまい空気を堪能してる」
「……うまい空気? 砂塵舞うこの気候が?」
「故郷の空気を肺いっぱいにつめこんでから帰りたい。ズオくんだってこういうのあるでしょ」
確かに炎国で各地を転々としてから玉門の実家に帰ったときは、懐かしい匂いに目を細めたし、生家でしか得られない特別な安心感に浸った。
でも、ズオ・ラウにとって思い当たる節はそれくらいしかない。たとえば録武官のような広い視野を持てたらいいのにと思うが、なかなかうまく行かない。勉強ばかりにかまけていたせいなのか、頭の中での優先事項を尊重するあまり、鳥の巣はおろか木々の花の蕾にすら目がいかない。でも、隣にいる少女はそれができるのだ。
「……ナマエさんは、意外と感傷深いんですね」
「感傷深いかはわかんないけど、ロドスの水は合わないから無性に恋しくなる」
ナマエがゆっくり目を開けて、ズオ・ラウの方を見る。
「私も意外。ズオくんは何にでも理由を求めないと気がすまない人だ」
いたずらっぽく目を細めて、
「理屈っぽいっていうのかな、そんな感じする」
「……自分でもわかっているんです。そういった事に対してとにかく気を配れないのは……」
「頭でっかちー」
面白がるように揶揄されたが、もうむっとしたりはしなかった。
「これでも少しはマシになったほうなんですよ。……おそらくですけど」
「そっか」
ナマエは適当な相槌を打って、正面に顔を向ける。
「ましになったって自覚があるなら、それで十分じゃないかな」
「……え?」
「ドクターが言ってたよ。なにかが足りないって思う事は、そのぶん成長の余地があることだって。自覚できたらあとは行動に移すだけだし、そうしたらきっとよくなるよ」
「そ……、そうですか……」
なんだか元気づけられたような気になってしまい、しどろもどろに応じる。
「もう少しお喋りする? そろそろ黙ったほうがいい? 集中したいでしょ」
「ええと……」
ズオ・ラウは少しの間ためらって、
「……ナマエさんの話が聞きたいです」
そう言った。
「あんまりおもしろいこと言えないけど……そうだなぁ……」
ナマエは逡巡しながら、空を見上げる。
「ズオくん、ここらへんの伝承とか興味ある?」
「伝承……。はい、話してくださるのでしたら、伺いたいです」
「じゃあ、うろ覚えだけど」
何やら頼りない言葉の後に、
「その昔、この地には六人の長がいた」
わずかに目を伏せてそう切り出したナマエの語り口は、静寂によく響いた。
「六人の長は山の周囲を取り囲むようにそれぞれ六つの集落を形成し、互いに協力して暮らしていた」
この山とはおそらく、村のはるか向こうにそびえる山麓の事だろう。
「そこにとてつもなく大きな虫があらわれた。はるか南からやってきた虫は砂の中を泳ぐように移動し、森を食べ、雲を飲み込み日照りを起こし、田畑を荒れ地と変え、事あるごとに暴れては砂津波をおこし、ひとびとは砂紋に飲まれた」
竿の糸に触れようとしたが、話に意識が向いてしまい集中できないので、ズオ・ラウは結局手をおろした。
「このままでは滅んでしまうと悟った六人の長たちは結託し、虫に戦いを挑んだ。七夜の激闘の果てに、長たちは虫を打ち倒すことに成功した。だが皆が深手を負ってしまい、やがて一人また一人と息絶えていった」
相槌も打たず、話に耳を傾ける。
「六つの集落の人々は彼らの死を深く嘆き、山の地下深くに六つの玄室を構え、彼らを手厚く埋葬した」
言い終わると、ナマエはふうと大きく息を吐いた。とたんに、張り詰めた空気が弛緩する。そのおかげで、ズオ・ラウはいつの間にか固唾を飲んで聞き入っていた事に気付いた。
「ふむ……英雄伝承ですか?」
「うん。この地に古くから伝わる昔話。これが事実かどうかはわからないけど、明日向かう遺跡がこの玄室じゃないかと言われてる」
そう言って、ナマエはにやりと笑う。
「つまり、お宝があるかもしれないって事」
ズオ・ラウは目を瞬かせたあと、怪訝と不安が混ざり合った表情を浮かべた。
「それは……気軽に入っていい場所なんですか?」
「わかんない。でもお宝は欲しい」
「あまりにも罰当たりでは?」
「そんな事言ったら、考古学者はみんな罰当たりだよ」
「それはそうですが……」
調査に向かう遺跡が玄室となると、にわかに緊張が走る。墓を暴くという行為はいい気がしない。そのままにしておいたほうがいいと思う反面、考古学を持ち出されてしまうとぐうの音も出なくなってしまう。
「ちなみに、虫の死骸から出てきたのが、今釣ろうとしてるサンドフィッシュとも言われてる。英雄の力に恐れおののいて、ちりぢりばらばらになって砂の中に逃げたとか」
「……なるほど」
事実がどうであれ、現地の生物にあやかってもっともらしく関連付けるのは、伝承話に深みを持たせるための手法の一つだ。これはサルゴンに限ったことではなく炎国の伝承でもよく見るし、話のパターンはほとんどお決まりで変わらない。
「面白い話でした……大変興味深かったです、ありがとうございました」
「どういたしまして」
ナマエがそう言った直後、ズオ・ラウの右手に僅かな振動が伝わってきた。
風が吹いていないのになぜ揺れるのか、と芽生えた疑問はすぐに打ち消した。相変わらず弱い力で引っ張られていたからだ。何かが、見えない糸の先にかかっているとしか思えない。
どうしたらいいのか迷っていると、
「ズオくん、糸引いて」
真剣な表情でナマエが言う。
「わ、わかりました」
「慌てないで。逃げられるから、均一に引っ張って」
言われた通り、凧糸を手繰り寄せる。しかし、途中で感触が軽くなってしまった。困惑するあまり、ズオ・ラウの手が止まりかける。
「止めないで」
「は、はい」
言われるがまま、ズオ・ラウは無心で糸を手繰った。
ランタンの明かりが届く範囲に、糸の先端が見えてきた。ズオ・ラウは目を凝らして見つめる。
果たして餌がくくりつけられていた場所には、手のひらと同じくらいの大きさをした細長い爬虫類が食らいついていた。
流線型の体は砂の色とほぼ同じ薄い黄色で、目は小さくつぶらで、鼻先がシュッと尖っている。
ゆっくりと持ち上げられて宙吊り状態になっても、餌に喰らいついたまま離れない。
ズオ・ラウが手で軽く掴むとようやく口を離したが、逃げる素振りは見せなかった。手のひらにころんと転がって、微動だにしない。死んでいるのかと疑ったが、腹部がわずかに膨らんでは萎んでを繰り返している。生きているのは確かだ。
「……これが、例のアホですか?」
「うん。アホだよ」
傍から聞くとおかしな会話だが、二人して大真面目だった。
「あの……、まったく動きませんが……?」
「死んだふりしてる。まぬけでかわいい」
ズオ・ラウはもう一度手の上で転がしてみるが、大の字のままひっくり返ってもピクリともしない。確かにナマエの言う通り、可愛いと言えば可愛いのかもしれない。
そうやってまじまじと観察している間、ナマエは虫かごに砂をすくって敷き詰めると、ズオ・ラウの方へと差し出した。
「ここに入れてみて」
「はい」
そっと置く。やはり微動だにしない。
本当に死んでいるんじゃないかと不安になってきた頃になって、前足がピクリと震えた。次の瞬間、するりと砂の中に潜ってしまう。さっきまでそこにいたのがまるで嘘のように忽然と消え去り、ズオ・ラウは驚きに目を瞬かせた。
ナマエが余った餌の昆虫二匹をかごの中に放り込んだ。昆虫は砂の上でひっくり返ってじたばたと足を動かしている。するとサンドフィッシュが水面から顔を出すようにして一匹を丸呑みし、また砂の中に潜っていった。残りのもう一匹も、あっという間に食べられてしまう。
「さ、帰ろ」
ナマエはズオ・ラウにそう促すと、虫かごに蓋を取り付けた。中が見えなくなってしまい、かといって側面から見る気にはなれず、ズオ・ラウもにわかに芽生えた童心に蓋をしてナマエと一緒に後片付けをする。
ここに来たときと同じように、前をゆくナマエの尻尾にぶら下がったランタンの明かりを頼りに足元を確かめながら、来た道を引き返した。
先ほどとは打って変わって会話もない。あんなに話が弾んでいたのが夢のようだ。ズオ・ラウは声を掛けるタイミングも見失い、そんな事をいちいち気にしている自分に違和感を募らせる。
言葉にしにくいもどかしさを抱えたまま、振り返りもせず歩くナマエの後頭部を見つめる。そしてゆらゆらと揺れる楽しそうな尻尾の先のランタンにも視線を向けているうちに、いつしか村に戻って来ていた。
明かりもなく真っ暗で、ひときわ静まり返った村の中を進み、ナマエの家に戻る。家の中もほぼ暗闇に近いかと思えば、居間のほうで小さな明かりが灯されていた。誰かが起きているのは明白だ。
「ただいま。……ほらズオくんも」
「……た、ただいま戻りました……」
ナマエに促されるように肘でつつかれてしまい、ズオ・ラウは帰宅の挨拶を小声で呟いた。赤の他人の家でこういった挨拶をするのは、いささか抵抗感がある。
物音に気づいたのか族長が居間の奥から顔を出し、出迎えのために寄ってきた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「一匹取れたよ。ズオくんが持ってる」
そう言ってナマエはズオ・ラウの手元にある虫かごを指で示した。族長は身をかがめてかごの中を覗いたあと、二人に向けてにっこりと微笑む。
「よかった。それじゃあナマエはさっさとお風呂に入って」
「うん。ズオくんはもう寝るでしょ?」
「はい。……ええと、私はどこで寝ればいいんでしょうか?」
「今案内する。お姉ちゃん、寝具どこにしまってる? ズオくん自分でやるって」
「その、もう整えちゃいました……」
族長が困ったように言う。
数秒の空白をはさんだのち、ナマエがふふっと小さく笑ったのをきっかけに空気が弛緩した。
「す、すみません。ありがとうございます」
「いいえ。ゆっくり休んでね」
ナマエの案内のもと、ズオ・ラウは部屋へ案内された。
廊下の一番奥の部屋から一つ手前の扉を開けると、ナマエは部屋のランプの明かりを灯した。
部屋にはベッドとテーブルのみが置かれていた。家具は真新しいというより、使用された痕跡を感じない。寝具には香をたきしめてあるようで、鼻腔をくすぐるようないい香りがしたが、こちらも人が使った形跡が微塵も感じられない。床には傷一つもなく、殆ど使われていない部屋だとすぐに分かった。
「隣の部屋にお姉ちゃんいるから。私もそっちで寝るし、なにかあったらノックして」
「はい、わかりました。……ところでこの部屋、客室ですか?」
「ううん、私の部屋」
たっぷりの間を置いて、
「……はい?」
「ほとんど使ってないけどね。嫌なら居間の椅子で寝て。……それじゃおやすみ」
ズオ・ラウが困惑をあらわにするのも気にせず、ナマエは一方的に言葉をまくしたてると静かに扉を閉めて出ていった。忙しない足音が遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなると、ズオ・ラウは部屋の中を見渡したあと、足を踏み出した。どこかぎくしゃくとしながら部屋の隅に鞄を立てかけ、ベッドに腰を下ろす。マットレスは薄いが弾力があり、落ち着いて眠れそうだった。
このまま横になってしまいたい気持ちもあったが、ズオ・ラウはベッドから離れ、鞄の中から日誌と筆記用具を取り出した。それを片手にテーブルに向かい、音を立てないように椅子を引いて腰を下ろす。
昼間に取ったメモの下に、今日の出来事を箇条書きで書き記した。最初に立ち寄った街でザクロを頂いた事から、運び屋の車で移動中に賊に襲われかけ、キャラバンで昼飯を御馳走になり、不意のトラブルで頭に蝶がたかった事、そして夜にサンドフィッシュを釣りに行った事――おおまかに書いているつもりなのに、結構な量になってしまった。
思い返すと、目まぐるしい一日だった。いろんな物事が滝のように押し寄せてきて、発見が多い一日でもあった。
日誌を閉じて鞄にしまうと、テーブルの上のランプの明かりを消す。ベッドに向き直って数秒躊躇してから、意を決して潜り込んだ。
ナマエは傭兵時代がそこそこ長く、その後はロドスにいたのだから家具が真新しいのも頷ける。と、そんな事をつらつらと脳内に並べ立てながら、ズオ・ラウは枕に頭をあずけてタオルケットをかぶる。
明日は早く起きなければいけないし、さっさと寝なければいけない。だが、そんな焦燥感に駆られた状態で眠れるわけがなく、まんじりとしない状態が続いた。
鼻をくすぐる香りは庭先に植えられていたものだろうか、なんて考え始めた頃にはだんだんと満たされたような心地になり、ズオ・ラウは眠りに落ちていた。