#8 The Watchers見守る人たち
翌朝になっても、ナマエの熱は下がらなかった。族長が起こしに行った時は目を開け、二言三言の会話に応じたとの事だった。熱が下がるまでこのまま休み、ロドスに帰るのは日を改めたほうがいいんじゃないかと提案したところ、ナマエは強く首を振ってまた眠ってしまったという。
その話を聞き、ズオ・ラウはナマエをこの村に置いていくか少し悩んだが、連れて戻ることにした。ここに来た時のような荷物はないため、肩を貸して歩けばなんとかなるだろう。最悪、抱きかかえて連れて行くことだってできる。
むろん、ナマエの意思を尊重するのを前提として、体調が芳しくない事から早めにロドスの医療部に掛からせたほうがいいという考えもあった。
ズオ・ラウは出立のための身支度を整えてから、族長とともにナマエの部屋に立ち入った。
ナマエが穏やかな寝息を立てていることに安堵し、今からの行動に躊躇いが生じたが、心を鬼にしてナマエの肩を軽く叩いた。名前を呼びながら何度か叩くと、ナマエの瞼がのろのろと持ち上がる。
「……誰? ……ズオくん……?」
「はい。ナマエさん、起きられそうですか?」
ズオ・ラウの姿を認めた途端、ナマエの焦点がぶれた。あからさまに視線をそらされ、ズオ・ラウは眉間に皺を寄せる。
ナマエと目が合わないというささやかな違和感は、目を合わせようとしないという確信に変わった。ただ、今は他に優先事項がある。ズオ・ラウは些末な事だと思考の隅に追いやった。
「一時間後、私はあなたの様態に関わらずここを発ちます。ですが、もし歩けるようなら手伝います」
ズオ・ラウの話を聞きくと、ナマエは両手で顔を覆った。歯を食いしばって目をこすり、小さな唸り声をあげながら身動ぎする。
そうして、のろのろと身体を起こした。その緩慢な動作を見てズオ・ラウは胸中に不安をつのらせたが、
「……着替える。出てって」
「わかりました」
ナマエの言葉から強い意志を感じ取り、ズオ・ラウは頷いて部屋を出た。
扉越しに族長とナマエのささやかな口論が聞こえ始め、ズオ・ラウは微かなため息をついた。互いに血を分けた唯一の家族なのだ、体調不良に陥っている肉親を心配しない人間なんていないだろう。
居間に戻って長椅子に腰掛けると、族長の娘が隣に座った。特に会話もなくじっと待っていると、族長に支えられるようにしてナマエがやってきた。歩調は頼りないが、それでも歩いている。
途端に族長の娘が椅子からパッと飛び降りて、ナマエに対して心配そうに話しかけ始める。ナマエはそれを鬱陶しがる様子を見せず、微笑んで応じていた。
ナマエは食卓に腰を下ろすと、族長の用意した病人向けの食事に口をつけた。用意された量を平らげ、解熱剤を口に含んでちびちびと水を飲む。その最中、族長に促されナマエが体温計で熱を測ると、絶対安静が必要になる三八度をゆうに超えていた。
食事を摂れたのは幸いだが、不安はまとわりついて離れない。ズオ・ラウはナマエのそばに近寄り、簡単な問診を始めた。
「頭痛、目眩、吐き気などは?」
「……だいじょぶ」
「本当に歩けますか?」
「……だいじょぶ」
うつむきながらのナマエの返答はほとんど同じだった。それがズオ・ラウの不安をことさらに煽る。
「ナマエさん……」
「……だいじょぶだから」
やはりズオ・ラウと目を合わせようとしない。ズオ・ラウはちょっとした思いつきで身体を屈め、ナマエの視界に入ろうとしたが、
「……っ!」
ナマエは息を呑み、体ごと視線をそらした。明確な拒否反応にズオ・ラウが思わずため息をこぼすと、ナマエは小さく肩を震わせる。まるで何かに怯えているかのようだ。
「その態度、遺跡に行ってからですよね。一体何があったんですか?」
「……ごめん」
「私は謝ってほしいわけではありません。納得がいく説明をして欲しいんです」
「……本当にごめん……」
ズオ・ラウはナマエとそこまで親しいわけではないが、しおらしい態度はらしくないように見えた。胸中に複雑な思いを抱きつつ、埒が明かないと判断し、ズオ・ラウはそれ以上は追求しなかった。
ナマエの体調を鑑みて、早めに村を発つことをズオ・ラウが提案すると、ナマエは素直に応じた。すると族長が待ち合わせ場所まで見送ると申し出たので、ズオ・ラウは感謝を述べながらすぐに了承したが、ナマエは村の入口まででいいと頑なに強がる。結局、ナマエの意思を尊重した。
ズオ・ラウはナマエの荷物と自分の荷物を一緒くたに背に抱え、サンドフィッシュの入った虫かごを手に家を出る。その後ろを族長と娘、そしてナマエが並んでついてきた。自分で歩くと言って誰の助けも借りずにふらふらと足を進めるナマエに、族長は終始気を揉んでいる様子だった。
「本当に、ここまでで大丈夫なの?」
「うん。薬も効いてきたし、平気」
不安そうにじっと見つめる族長に対し、ナマエは力なく微笑み返す。やがて族長はため息を吐いて、苦笑を浮かべた。どうにか納得がいったようだった。
「元気でね」
「うん、お姉ちゃんも。半年くらい経ったらまた来る」
「ええ。楽しみにしてる」
「ちゃんと手紙書くから」
「うん、待ってる」
族長はそう言ってナマエに顔を近づけ、左頬、右頬、そして額同士を軽く押し当てた。それは村に来た時も見た挨拶だった。最後に長めの抱擁を交わすと、名残惜しむようにしながら距離を置く。そしてナマエはその場にしゃがみこむと、族長の娘とも同じような挨拶を交わした。
その時、村の方から誰かが駆け寄ってきた。あの老婦だった。老婦はこちらに来ると驚きに目を見開く族長と手短に話を済ませ、ズオ・ラウへ視線を移す。
「運び屋と落ち合う予定なんだろう?」
「……はい、そうです」
「送ろう、一人では大変なはずだ」
そう言って、今度は仕方のないものを見るかのような眼差しをナマエに向ける。
「だ、大丈夫だよ……」
「そういう事は熱が下がってから言え。君、ナマエの荷物は?」
「こ、こちらです」
ズオ・ラウが差し出したナマエの荷物を、老婦は肩に担いだ。
「……では行こうか」
「はい。ありがとうございます……」
再度族長に別れの挨拶を告げ、三人は村の門をくぐって街道へ出た。
ナマエを気遣って足取り緩やかに先導するズオ・ラウの後ろを、老婦がナマエに寄り添うようにして進む。少しもたつく場面はあったが、解熱剤が効いてきたのか足取りはズオ・ラウが思っていたより悪くはなかった。
やがてあの蝶が集まる木に差し掛かり、ズオ・ラウは視線だけで見上げた。案の定、繁殖のために高所の枝葉に密集していて、見れば見るほど鳥肌が立ったので視線を正面に戻した。
そうして橋までたどり着くと、ズオ・ラウの口から自然と安堵のため息がこぼれた。
運び屋の車はまだ到着していなかった。現在時刻がわからないので約束の時間より早くたどり着いている事を願いながら、橋を渡る。
橋を渡り切るとナマエも限界を迎えたようで、辛そうにしていた。老婦の手伝いを借りながらナマエを地面に横たわらせ、荷物を枕代わりにする。
なんとか落ち着いてから、ズオ・ラウはあらためて老婦に向き直った。
「ここまで送ってくださり、ありがとうございます」
「いいや、迷惑をかけたな。ナマエ、お前も後で礼を言うんだぞ」
「うん。……ズオくんありがと」
「後でと言っただろう」
目を閉じて頷くナマエに老婦は肩をすくめると、ナマエの側にしゃがみこんで左頬に触れた。次に右頬、そして額を撫でて立ち上がる。
「では」
「は、はい。お元気で……」
あっさりと別れの挨拶を告げ、ズオ・ラウの声に振り返りもせず橋を渡る。街道を歩く後ろ姿が徐々に遠ざかっていき、やがて見えなくなった。
ナマエは瞼を閉じて、緩やかな呼吸を繰り返す。どうやら眠ってしまったようだ。ズオ・ラウはナマエを起こさないよう地面に腰を下ろし、ぼんやりと風景を眺めた。たまに虫かごを覗いたりと暇を持て余しているうちに、運び屋の車が到着した。
車から降りてきた運び屋は、まず二人の様子にぎょっとした。ズオ・ラウが事のあらましを簡単に説明をすると、すぐに察したようだった。
「人にうつる系のやつか?」
「違うと思います」
「ならいいけど……馬鹿は熱出ないってのも信用ならねえな」
「それは風邪ですよ」
「どっちでもいいだろ。そいつ、後ろに乗せてくれ」
「はい」
ズオ・ラウが控えめにナマエの肩を叩くと、すぐに目を覚ました。立ち上がるのを手伝い、後部座席へ誘導してナマエを横たわらせると、運び屋が毛布を持ってきた。ナマエの上にかけると、ナマエはすぐに穏やかな寝息を立て始める。ズオ・ラウは一息ついてから、二人分の荷物を後部座席の足元へ乗せた。
サンドフィッシュが入っている虫かごはひっくり返ると色々と大変なので、助手席の足元に置いた。ズオ・ラウは助手席に座るとかごを両足で挟んで固定し、シートベルトをする。
「んじゃ行くか」
「はい」
すぐに車が動き出した。バックミラー越しに森を見つめ、少しの名残惜しさを感じながらも窓の外へ視線を移す。病人が乗っているせいか、来るときより速度はゆるやかに感じた。
車内での会話はほとんど経緯の説明だった。ズオ・ラウの説明に相槌を打つ運び屋は話を理解しているのか、聞き流しているのか、どちらとも取れる態度だったが、たまにズオ・ラウに向かって質問を挟んでくるので、きちんと聞いているようだった。
やがて話に区切りがつくと、運び屋が口を開いた。
「災難だったな。お坊ちゃんの方は特になんともないのか?」
「今のところは……」
「でも、頭打ったんだろ? 後できちんと診てもらえよ」
「そのつもりです」
ズオ・ラウが頷くと、
「こいつ、昔からこうなんだよ」
心底むしゃくしゃした様子で運び屋は言う。
「なんつーか上手く言えないけど……常に説明不足なんだよ。何でもかんでも一人で勝手に決めて、誰かと一緒に行動する感覚が抜け落ちてて……わかるか、そういうの?」
「お兄さんが言いたいことは何となくわかります……」
「……まあ、そんな感じだ。反省してるかわかんねえし、文句あるならちゃんと言ったほうがいいぞ」
「肝に銘じておきます……」
そう応じた後、
「昔というと、お兄さんはナマエさんといつ頃からのお知り合いなんですか?」
ズオ・ラウはこの運び屋に対して抱えていた疑問をぶつけてみる事にした。
「んー、四年くらい前だな」
「そうですか」
ズオ・ラウはゆっくりと頷いて、わずかな緊張を覚えながら次の質問をぶつける。
「では、お兄さんはナマエさんに双子の妹さんがいたのは知っていますか?」
ズオ・ラウの言葉を聞いた運び屋は、正面を向いたままだった。話を聞いているのか不安に思ったが、左手の人差し指が一度だけハンドルを叩くように動いたので、ズオ・ラウはじっと返答を待った。
「……いや、知らねえ。……初耳だ」
嘘をついているようには見えなかった。反応も乏しいことから、驚きのあまり言葉を失いかけている風だった。
「ロドスで治療中だそうです」
しばらく無言の後に、運び屋はため息をついた。
「……なるほどな。だからロドスから離れないわけだ」
運転手がバックミラーごしにナマエを見るので、ズオ・ラウもつられてそちらを伺う。毛布を首まですっぽりかぶって、寝息を立てている。顔は相変わらず熱で紅潮しているが、呼吸は穏やかなのが幸いだった。
どことなく車内の空気に陰りが立ち込めたような気がして、ズオ・ラウは別の話題を提供しようと口を開いた。
「そういえば、お兄さんは今おいくつなんですか?」
「ん? 今年で十九だよ」
「……」
ズオ・ラウは閉口した。
自分の見立てがまったく見当外れだったことに恥を覚えながらも、同い年で奇妙な貫禄を出していることに対して、ズオ・ラウの内側にあるなにかを刺激する。これは明らかに経験の差だろう。
「そういうお前はいくつなんだよ。十七くらいか?」
「……十九です」
「……」
しばらくの間を置いて、
「ブッ!」
運び屋が盛大に吹き出した。
「……わはっ、わはははっ!」」
挙げ句の果てに大声で笑い出すものだから、ズオ・ラウは眉をひそめた。
「……なぜ笑うんですか?」
「おっ、同い年とは思わねえだろ、普通!」
バシバシとハンドルを叩きながら笑っている。物静かだと思っていた人間がこうも大声で笑い出すのに面食らって呆然としていたが、『普通』という言い回しが引っかかり、徐々に怒りのようなものが込み上げてきて、ズオ・ラウは表情に滲ませた。
しかし運び屋はそんなズオ・ラウを見てさらに笑うので、たまらない。
「……何がおかしいんですか?」
「わはっ、あははっ、……っぐっ、げほっげほっげほっ……!」
「……、笑いながら咽ないで下さい……」
苦しそうな咳が響き始めると、怒る気力も失せてくる。
運び屋はひとしきり咳き込むと、
「いやー、悪い悪い……」
笑いすぎてこぼれた涙を指で拭いながら、おざなりな謝罪を述べた。それでも体を震わせて笑い続ける。ほどなくして運び屋は落ち着きを取り戻し、呼吸を整えるために小さなため息をついた。
「育ちの良し悪しってのはこうも表れるんだな。やっぱ良いとこの出は格が違うわ」
「……あなたは良いところの出ではないと?」
「見りゃあわかるだろ。……お前、親は何やってんだ?」
「私の父は軍人です。そういうあなたは?」
「知らねえ。そもそも、親が誰なのかわからない」
運び屋は自嘲の笑みを浮かべながら言う。
「俺の育った村はとにかくごちゃごちゃしててな、建物も少なかった。村のガキは一緒くたに同じ部屋にぎゅうぎゅうに突っ込まれて寝泊まりしてた。酷いとこだったけど、食うには困らなかった。そんで毎日毎日、ひたすら花の面倒をみてたよ」
「花……、綿花とかですか?」
「そんな上品なもんじゃねえよ。ケシだ」
ズオ・ラウはまたもや閉口した。
治療の手立てもない鉱石病の辛さを緩和するため、中毒症状と依存性が強い薬に手を出す人間も少なくはない。ケシの実から穫れる樹脂を化学精製した薬物は服用するとたちまち強い幻覚症状を引き起こすため、健常者ですら手を出す始末だ。そしてこの劇薬はひどい後遺症を残し、人格の荒廃すらも引き起こす。
なので上品ではない種類のケシの花の栽培はどこの国でも禁じられているし、医療用としての流通も慎重に行われているはずだ。だが非社会的な組織に属する人間が、私利私欲のために栽培しているという話は、ズオ・ラウも承知していた。
この運び屋はそんな劣悪な環境で生まれ育ち、働いていたという事だ。
「実入りはすこぶる良かったみたいだが、俺みたいなガキに食事以外の恩恵はなかった。廃人を増やすだけの生産性しかないから、首長軍率いる傭兵団に壊滅させられたよ」
運び屋は正面を見ているようでいて、どこか遠くを見つめている。
「ナマエと会ったのはそん時だ。口に銃を突っ込まれて泣きながら命乞いしてたときに助けられた。そのまま傭兵団に保護されて、食い扶持を得るための訓練を受けて、こうして生き伸びてる」
「……その集落は今どうなってるんですか?」
「一面の麦畑だよ。どっかの会社が買い取って、きちんと管理してるってさ」
しばらく走り続けると、街道の先に何かが転がっているのを見つけた。近づくにつれ死骸だとわかったが、原型をとどめていない。四つ足の蹄が見えるので、駄馬かなとズオ・ラウが予想を立てていると、あっという間に通り過ぎてしまった。
「今のは……」
驚くズオ・ラウに対し、
「駄馬の死骸だろ。気にすんな」
運び屋は気にする様子がない。これが普通の光景だと言わんばかりの態度だったので、ズオ・ラウはそれ以上は何も言わなかった。
しかしその直後、また街道に死体が転がっているのが見えた。
人間だった。砂漠の日光で焼け焦げ、水分が蒸発し干からびてしまっている。その周囲に千切れた衣類が散らばっている。
遺体が残っているという事は感染者ではない証明だが、鳥獣に食い散らかされたのか骨がむき出しになっていて、泣き別れになった胴体はほぼ伽藍洞になっていた。
運び屋は車の速度を緩めることはなく、それすらも素通りしていく。
一瞬視界に収めただけだったが、その酷い有様にズオ・ラウは思わず顔をしかめた。
「今の、人ですよね?」
「ああ。この前襲ってきた賊じゃねえか? あの後しくじったんだろうな」
「……賊かどうかはわかりません。もしかすると被害者かもしれませんよ?」
「どうだかな……」
「通報は? 遺体の身元の判別などはなさらないんですか?」
「町についたら報告はする。けど、あのまま放置だろうな」
「しかし、民間人だった場合、遺された家族の事を考えると……」
「綺麗事だな」
運び屋が鼻で笑う。
ズオ・ラウは馬鹿にされたと思って運び屋を見た。しかし彼は日差しの照り返しに目を細めながら道路の先をまっすぐに見つめ、落ち着いた表情をしている。
「他人に親切にするのは美徳だ。でもな、あれを回収して、身元を特定して、わざわざ家に届ける手間暇を考えろ」
諭すように運び屋が言うので、ズオ・ラウは反論も出来ず口を閉ざした。
運び屋の言い分は無理からぬことだった。誰があれを回収し身元を特定し故郷まで運ぶのか。そして手間賃を遺族に請求することもできるだろうが、ほぼ見込みはない。誰もやらないだろう。それは、言い出したズオ・ラウだって例外ではない。
「こいつが誰であれ、どっかの誰かに命を奪われた。それで終わりだよ」
「……ですが、やりきれません」
「お坊ちゃんは、包み隠したりしねえのな……」
運び屋はふう、と細い息を吐く。
「どれだけ高尚な理想を抱いたところで、現実は違う。綺麗事だけじゃ生きていけないってのは本心じゃわかってんだろ? 全部を救うだなんて無理な話だ」
悔し紛れに言い返すことも出来ず、ズオ・ラウは黙るしか無かった。
運び屋はそんなズオ・ラウを横目で見やり、
「あんま気に病むなよ」
そう気遣うように言った。
見覚えのある町につくと、車は以前止めていた所と同じ場所に停車した。どうやらここに停めるような契約を結んでいるようだ。
相変わらずナマエは眠っている。病人を起こすのは忍びなかったが、ズオ・ラウが名前を呼びながら軽く肩を揺さぶると、ナマエは目を開けた。ぼやけた焦点で、空中を見つめている。
「町につきましたよ。立てますか?」
「……」
ナマエは返事もせず、のろのろと身体を起こした。車から降りる手伝いをして地面に立たせたが、ふらふらと安定性に欠けていてどうにも危なっかしい。荷物の殆どはズオ・ラウが持つことにした。
忘れ物がないか再三確認した後、運び屋は車に鍵をかけた。見るからにおぼつかないナマエの足取りに気をもみながら、ロドスの迎えが来るという待ち合わせ場所に向かう。
到着した途端にナマエはその場にのろのろとへたりこんでしまい、地面に置いた荷物にもたれかかるようにしてまた眠り込んでしまった。
「大丈夫かよこいつ……」
「……わかりません」
「とりあえず俺、事務所に戻るわ」
「はい。今日は有難うございました」
「ああ」
おざなりな返事をして、運び屋はズオ・ラウをまっすぐに見る。
「お坊ちゃんはそのままでいろよ」
「……どういう意味でしょうか?」
「綺麗事を平然とのたまうような人間でいろって事だ」
ズオ・ラウは思わず目を瞬かせる。
「俺やこいつみたいな擦れた人間ばっかだと、世の中つまんねえだろ」
こいつ、のところで、ぐったりとしているナマエを顎で示し、
「それに、お坊ちゃんみたいな真人間を見るとな、陸続きの果てに安住の地があるって安心できるんだよ」
そう言うので、ズオ・ラウは面食らってしまった。
「じゃあな。ナマエによろしく伝えといてくれ」
「は、……はい」
運び屋は背を向けながら一度だけ手を降った。ズオ・ラウはその背中を無言で見送り、いよいよ目視で確認できなくなると、ナマエの方へ視線を移した。
穏やかな呼吸を繰り返しながら、自分の尻尾を抱き枕のように抱えて眠っている。ナマエの尾の鱗は平面でつるりと滑らかだが、ズオ・ラウの尾は鱗が触れると痛みを伴うほど鋭く刺立っているため、ズオ・ラウは自分の尾を抱えて眠るという行為をしたことがなかった。
ズオ・ラウにとっては奇妙な発見だった。これは滑らかな尻尾のフィディアにとっては普遍的な行為なのかと内心唸っていると、いつしかナマエの目が開いていることに気付いた。緩慢な動作で周囲を見渡し、何かを探るように手を動かしている。
「どうかしましたか?」
「……喉かわいた……」
「鞄でしたら、あなたの枕になっていますよ」
ズオ・ラウはそう言うと、失礼と思いながらナマエの鞄を漁って水筒を取り出した。水を蓋に注いで手渡すと、ナマエはそれを受け取ってちびちびと飲み始める。全部飲み干して満足したのか、ナマエはさっきと同じような姿勢で横たわった。
ズオ・ラウは鞄に水筒をしまいながら、
「もしかして、寒いんですか?」
と尋ねると、
「……ううん」
ナマエはゆるく首を振って、また寝息を立て始めてしまう。ズオ・ラウはしばらくナマエの様子を伺っていたが、ふとした拍子に脱力し、ため息をついた。
不躾とは思ったが、あらためてナマエの顔を伺う。ずっと眠っているわりに、目の下に隈のようなものが薄っすらと浮き上がっていた。疲労が抜けきっていない。
迎えが来るまであとどれくらいかかるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、ズオ・ラウも水筒を取り出し水を飲み始める。
と、人波の中からこちらにまっすぐに近づいてくる人影が見える。目を凝らすとロドスの上着を羽織っているので、ズオ・ラウはたまらず安堵の息を吐いた。
ナマエの肩を叩いたが、ピクリとも動かない。ズオ・ラウが不審がっていると、近寄ってきた職員はナマエの様子を見ただけで何かを察し、手だけを使って簡単にナマエの生命兆候を測り始めた。瞼を無理やり指で開いてペンライトで眼球を照らすと、ややあって、切羽詰まった様子で車に移動するよう伝えるので、ズオ・ラウはナマエを抱えて移動せざるをえなかった。
それからナマエはロドスに至るまでの道中、ほとんど眠り続けた。
ロドスに戻り、ズオ・ラウはまず医療部で検査を行った。目立った異常がない事を確認すると、今回の任務の報告書をまとめた。
ここに来てから初めての報告書の作成である。何事も最初が肝心なので腰を入れようとしたのだが、ズオ・ラウが体験した事象はあまりにも現実味を欠いている、眉唾物のような話だ。それをありのまま文書に記載したため、推敲を重ねるたびに内心頭を抱えた。
悩みに悩み抜いた末に完成した報告書を提出すべく、ズオ・ラウは執務室に足を運んだ。担当の秘書はドクターの頼み事で不在らしく、部屋にはドクターとズオ・ラウの二人しかいない。そんな中、ドクターに報告書を手渡すのは一抹の不安と緊張を伴った。
受け取ったドクターからは不備の指摘などは一切無く、
「よく書けている。流石だ」
お世辞なのか褒め言葉なのか判別がつかない言葉とともに、ズオ・ラウの報告書はそのまま受理された。ドクターは書類を一通りペラペラとめくると、ズオ・ラウへと顔を向ける。
「旅の疲れがたまっているんじゃないか? しばらくは軽い仕事を回そう」
「そこまで気遣われなくとも大丈夫ですよ。こう見えて頑丈にできていますから」
「そうかい? とはいっても、しっかり休むんだよ」
「心得ています」
報告書に目を通すドクターを見つめ、ズオ・ラウはかねてより抱いていた疑問を尋ねるべく、話を切り出した。
「その、ナマエさんは元気でしょうか? 発熱を伴っていましたが……」
「君が不安に思うような病気や感冒でもなんでもないよ。有り体に言えば、ただの知恵熱さ」
書類に目を通しながら、疎ましがる様子を見せずにドクターはさらりと言う。その言葉を聞いたズオ・ラウは驚きに目を丸くし、次の瞬間には眉をひそめた。
知恵熱とは、幼少期の子供が原因不明の発熱を伴うこと、もしくは頭の使いすぎで発症するものだ。ズオ・ラウはナマエが発熱に至るまでの経緯を知っている。それを知恵熱のたった一言で済ませるには、あまりにも軽率な気がしてならなかった。
するとドクターはまるでズオ・ラウの不満を察したかのように顔を上げ、
「心因性の発熱ということだ。感染症でもなんでもない」
そう付け足した。
「ならば、様子を見に行ったりはできますか?」
「それはやめて欲しい」
ドクターがきっぱりと拒否するので、ズオ・ラウは再度、驚きに目を丸くした。
「メンタルケアもあって今はだいぶ落ち着いたが、まだ意識の混濁が見られる。経過観察中だし、下手に刺激をするのは避けたい」
ズオ・ラウがナマエと顔を合わせるのは、刺激を与えることに繋がる。頭の中で何度も復唱したが、ズオ・ラウにはまるで意味がわからなかった。何故、という疑問が頭の中を埋め尽くす。しかも咄嗟の事でズオ・ラウは何も言い返せなかった。
ドクターはそんなズオ・ラウを真っ直ぐに見つめ、話を続ける。
「見た所、君は平気そうだね。なにか幻聴が聞こえたりとかはないかな?」
「今のところ、全く……」
「なら、メンタルケアは不要かな。でも、一応あとでカウンセリングは受けてもらうよ。身構えなくていい、簡単なものだからすぐに終わる」
「……わかりました」
このやり取りを経て、ズオ・ラウは漠然と、自分の預かり知らぬ所で、なにかが起きたのではないかと察した。
「ドクター、いくつかお聞きしたいことがあります。今、お時間よろしいでしょうか?」
「構わないよ。話してごらん」
緊張から顔を強張らせるズオ・ラウに対し、ドクターはとても楽な姿勢を保ち、ズオ・ラウからの報告書をテーブルの上に置いた。
「あの遺跡はなんなんですか? なんのために調査をしているんですか?」
「うん、君の疑問はもっともだろう」
ドクターはズオ・ラウの疑問に寄り添うように頷くと、
「あの遺跡は周囲の集落の規模に反して、大規模な遺跡のようだ。最初にX線装置で構造を分析したところ、地下三階まで確認できた。地下の空洞は大きく、その先にも階層が広がっているようだがデータの取得は叶わなかった。活性源石の反応は皆無、感染のリスクは少なく遺跡の壁画や細部も凝っていて探索班は興味を示したし、奥の奥まで暴いたら面白そうではあったんだけれどね。ただ、こうなってしまうとしばしの中断もやむを得ない」
ドクターは姿勢を崩すこと無く、話を続ける。
「そして今回の調査でわかったが、あの遺跡は侵入者に対して何かしらのトラップが発動するようだ。率直に言えば、精神に摩耗をきたし、ひいては人格の荒廃につながるようなアーツだ」
ドクターの言葉を聞いてようやく、ズオ・ラウは自分の身に何が起こったのかを知ることとなった。もしかすると、命に関わる危険が降り掛かったのではないかとズオ・ラウは思ったが、ドクターの鷹揚な態度がそういった判断を鈍らせる。
「私は実際に体験したわけではないからわからないけれど、ケルシーが予想を立ててくれた。末梢神経の支配にはじまり、大脳皮質からシナプスに至る全てを掌握。そして海馬にある記憶領域を読み取って感覚室を刺激し、意識の表層に幻覚を植え付ける……ざっとこんな感じのメカニズムだろうとね」
医療に関しては素人同然なので、ズオ・ラウは黙って聞くほかなかった。
「まあ、こうなってしまった以上、今後の調査はしばらく見送りかな……」
「……回収したビーコンは無意味という事ですか?」
「そんな事はない。むしろよく持ち帰ってきてくれたと思っている。半年分の膨大なデータは貴重だ。それに不幸中の幸いというべきか、一つだけ電源を切り忘れていたものがあってね。詳細な解析はまだ終わっていないが、このおかげで君達に何が置きたのか我々も把握することが出来た」
「切り忘れ……? 電源が入ったままになっていたんですか?」
「うん。ナマエが回収したときに切り忘れたんだろうね」
「……」
少し引っかかったが、ドクターが話を続ける気配を感じ取り、ズオ・ラウは記憶にとどめておくだけにした。
「君も図書室でサルゴンの本を漁ったときに、あの地域に関する記述が少ない事に気付いただろう? あそこはほとんど未踏なんだ。おまけに一帯の集落群は交流のほとんどを近辺の村だけにとどめて、外部との親交がろくになく閉ざされている。だからこそ繋ぎ止めておくために、懇意にしておきたい」
ドクターは言い終わると前のめりになって机に両肘をつき、顔の前で両手を組んだ。
「ナマエはああ見えても、あの一帯を支配する族長の血縁者なのだからね。縁が切れればあの村との交流はなくなるだろう。それはなんとしても避けたいところだ」
その物言いは、ひどく唯物的だった。
「なんだか……利用しているように聞こえますが」
「利用ではなく共存だよ。むろんナマエの意思も尊重しているつもりだ。大昔の虐殺で先人が大事にしていた知識や伝統、そして因習が強制的に過渡期を迎えてしまったからこそ、調査をしたいとの申し出があったからね。我々もこういった歴史的価値のある遺構の保全活動は、率先して取り組むべきだと思っているんだよ」
ズオ・ラウの職業柄、ドクターがあまりにも鷹揚に話すので何か裏があるのではないかと疑ってしまうが、彼の言い分は真っ当で隙の一つも見つけられない。ズオ・ラウには釈然としないものがあったが、この状況では納得する以外の選択肢が見つからず、不承不承に受け入れるほか無かった。
気持ちを切り替えたズオ・ラウは、別の疑問を口にした。
「ドクターは先程、ナマエさんに記憶の混濁が見られると仰っていましたよね? そういった様子は、サルゴンにいた時には見受けられませんでしたが……」
「そんなに深刻なものではないよ。ただ、なんと説明したらいいものかな……。ズオ・ラウ、君は生家でなにか悪戯をしたことはないかい? 壁に落書きをしたりだとか、床に傷をつけたりだとか……」
尋ねられ、ズオ・ラウは少し考え込み、
「……悪戯というわけではありませんが、遊んでいる時に花瓶を落として割り、廊下の床に傷をつけました。あの時は、母にひどく叱られたのも覚えています……」
そう言うと、ドクターが肩を震わせて笑ったように見えた。
「そうか。でも今となってはその床に刻まれた傷を見て、あんな事があったなぁ、と感傷に浸ったりもするだろう?」
「はい」
「ではその傷の上に、墨をぶちまけられたらどう思う? しかも絶対に取れることのない」
「……」
「今のナマエの脳内では、それが起きている」
ドクターの表情はフェイスガードに遮られているので、ズオ・ラウにはどうあがいても彼が何を思っているのか知るすべはない。
「記憶を枝葉に見立ててみるとわかりやすいかもしれないね。ナマエの幼少期の記憶に、君が接ぎ木したようなものだ。接ぎ木が馴染んでいないから、こうなっている」
返事も出来ずにズオ・ラウが固まっていると、
「ナマエが探している人が異国から来た黒衣の剣士だろう? 君だって異国の、黒衣をまとった剣士だ。だからこそ像が重なって、ナマエの記憶に混濁が生じているんだよ」
ドクターは相変わらずの様子で言う。
「私はてっきり、彼女の過去を見せられたのだと思っていました。まさか、ナマエさんに影響が出るとは……」
「そんなに思い悩む必要はないよ。君もまたあり得ない記憶を植え付けられたに過ぎないのだからね」
ドクターは気遣うように言い、
「現実味のない記憶というものはね、本来なら捨象されて然るべきものだ。昨夜見た夢を忘れてしまうように、人間が当たり前に持つ防衛反応が自動的に処理してくれるんだ。ただ、この幻覚はそうもいかないみたいだ。防衛反応が幻覚だと気付けず、現実に起きた出来事として捉えてしまう」
何かとてつもない大事を喋っているとズオ・ラウは思ったが、ドクターは終始鷹揚な態度を徹底しているので、やはりそういった認識が曖昧になる。
「しかしまあ、面倒な事になってしまった。ナマエの事はこちらでも注視はしておくけれど、もし君の身に危険が迫った場合は、早急に助けを呼ぶこと。いいかい?」
いきなり不穏な確認を取り始めるものだから、ズオ・ラウは戸惑った。
「……すみませんドクター、仰っている意図がわかりかねます……」
「ナマエが君だと誤認している剣士を探している動機が不純なものだからね」
「……不純?」
「報復したいと言っていた。それが終わったら、ロドスとは縁を切るとも言われてね」
報復という不穏な言葉に衝撃を受け、ズオ・ラウは身動ぎの一つもできなくなってしまった。以前ナマエが語った言葉を思い返し、どうにか口を開く。
「……私には、命の恩人だと仰っていましたが……」
「命の恩人としてはあっているだろうね。ただ、ナマエを抱えた状態で、生存者を殺しまわったそうだ。ナマエはそれ以上詳しく話してくれなかったし、自分も預かり知らぬ事ではあるけれど――」
目の前の現実を押し流すように、過去の記憶が濁流として押し寄せてくる。
視野の覚束ない森で、向けられる脅威をかいくぐるようにして、小さな子供を抱き抱えて必死に走り回った、あの――。
ズオ・ラウの頭の中によぎった様々な映像が、あの時の緊張までもを蘇らせ、一瞬で意識のすべてを埋め尽くす。
しばらくして、音が戻って来た。激しい鼓動の音が、耳の奥で響いている。
「――……ラウ、ズオ・ラウ! 大丈夫かい?」
気がつくと、ドクターがしきりに何度もズオ・ラウの名前を読んでいた。
呆然と立ちすくんでいだらしい。いつの間にかズオ・ラウの手には汗が滲み、心臓はいまだ早鐘を打っていて、喉もからからに乾いている。
ズオ・ラウは緊張から喉を鳴らすが、唾液がないのでうまく飲み込めなかった。
「……ええ、はい。大丈夫です……」
なんとか絞り出すような返事をすると、
「どう見ても大丈夫じゃないだろう……」
呆れ気味にドクターは言い、大きなため息をついた。
「やはり君もすぐにカウンセリングを受けたほうがいいね。連絡は入れておくから、すぐに医療部に向かってくれ」
「……わかりました」
「ともかく、引きずられないように」
引きずられる――誰が何に対して?
そう問いかけようとしたが、頭の中で瞬時に答えが導き出され、ズオ・ラウは芽生えた疑問を飲み込んだ。
「最後に一つお聞きしたいのですが……」
「何だい?」
「ナマエさんの妹がこちらにいるというのは、本当でしょうか?」
「うん、もう三年になるかな。時間が経つのは早いね」
ドクターはズオ・ラウが退室するその最後の瞬間まで、鷹揚を崩さなかった。