#9 The End of the Beginning始まりの終わり
「恨みの対象が置き換わる……?」「はい」
チュー・バイはズオ・ラウの話を聞き終えたると、彼女にしては珍しく驚いた様子で目を見開き、やがて平時の済まし顔に戻っていった。
朝、宗師の鍛錬にて顔を合わせた際、もしよろしければ朝食をご一緒しませんか、とズオ・ラウが誘ったのである。その時のチューバイはまず眉をひそめ、可否を伝えるよりも先に「何か話でもあるのですか?」と尋ね返した。
もともとズオ・ラウからチューバイを誘うことは滅多にない。そのため、ズオ・ラウに何か目的があるのだとすぐに見抜かれてしまった。ズオ・ラウが真面目な様子で「相談があります」とチューバイに伝えると、彼女は少し悩むような素振りを見せ、「ならば食後に別の場所で落ち合うほうがいいでしょう」と言った。
そんな経緯を経て、人気のない休憩室で話し込んでいる。
「全く、面倒な事を聞きますね……あなたはいつもそんなくだらない事を考えているのですか?」
言葉の針でちくりと刺され、ズオ・ラウは一瞬反応に遅れた。
「……いいえ。つい先日サルゴンのとある村への輸送任務に同行しました。その時、個人の認識に手を加え事実と異なるよう置き換えてしまうアーツを目の当たりにしたもので……」
「なるほど、そうでしたか。あなたに大事はなかったんですか?」
「検査結果では、心身ともに異常はみられませんでした……」
「命あっての物種、無事なら良いでしょう。……それで、相手は仕留めたのですか?」
「交戦したわけではありません。現地の遺跡で、おそらく侵入者向けの罠を発動させてしまい……」
「……あなたが?」
「いいえ。班員がドクターに頼まれた遺跡内部の鍾乳石を採取しようと無理をしてしまい……不慮の事故としか言いようがありませんでした……」
「ならば、あなたにはどうにもできなかったでしょう。致し方ありません」
気遣うような物言いだが、ズオ・ラウは素直に受け止めきれなかった。やはりチューバイを相手にするのはどうにも慣れない。
「……考えてみましたが、私には皆目検討がつきませんでした。力にはなれそうにありません」
「いえ、貴重な時間を割いていただき、ありがとうございます。私も考えてみましたが、わからなかったので……」
「普通はわからないでしょう。個人の認識そのものを変えられるなんて、聞いたこともありませんから」
そう言ってから、チューバイはじっとズオ・ラウの顔を見つめる。ひたすらに居心地が悪いが、ズオ・ラウは顔を背けるのをなんとか堪えた。
「そのどうにも浮かない顔つきを見るに、あなたがその対象になってしまったという事ですか?」
「……、ドクターが言うにはそのようです……」
ズオ・ラウの返事を聞くなり、チューバイはささやかなため息をついた。
「ズオ・ラウ、難儀な事になってしまったのは心底同情します。幸い、このロドスには高い医療技術がありますから、あなたが気を揉む必要はないでしょう。気に掛ける事はもっと別にあるはずです」
チューバイの言葉はもっともだとズオ・ラウは思った。しかし、それは表向きの理性の話で、裏に隠れる本心はそうすべきではないと訴えかけている。そんな複雑な感情のせいでズオ・ラウは反論の手立てを考えてしまうが、いくら思案を巡らせても見つからない。
そもそも、どうして自分がこんなにも気にかけているのか、ズオ・ラウには判然としない。ただ何か行動を起こさなければという衝動に身を任せているだけに過ぎない。その行動原理が何なのかズオ・ラウ自身も上手く説明がつかなった。そして、ナマエが心配だからと衝動に身を任せて後先考えずに行動した結果、タイホーの時のような二の舞いを演じるのは御免被りたかった。
「……心得ています」
結局、ズオ・ラウは折れた。
事態が好転するようなヒントは何も得られなかった。得たのはチューバイと対峙する緊張という始末だ。せりあがる落胆を、なんとか飲み込んだ時だった。
「……ただ、どうしても心残りがあるならば、動くのは早ければ早いほどいいでしょう。後回しにすると何もかも後手後手になり、やがて動くのすら億劫になってしまいますから」
「……はい。ありがとうございます……」
遠回しに気遣われ、胸中で頭が上がらない思いでいっぱいになった。
チューバイはとにかく厳しいが、道徳を重んじているので間違ったことは何一つ言わない。おまけにズオ・ラウよりも強いので、手も足も出ない。この強者と弱者の間におけるような感覚は、今後一生つきまとうに違いない。
チューバイと別れ、ズオ・ラウは割り当てられた業務を黙々とこなした。軽いものを回すというドクターの言葉通り軽作業はすぐに終わってしまい、この日の業務は終了した。
いきなり暇が出来ると困りものだが、目下の事情を抱えるズオ・ラウにとっては、かえって都合が良かった。
かねてより気になっていた事を調べるため、小休憩もかねて資料室に足を向ける。室内に入ると、見知った顔が出迎えてズオ・ラウは面食らった。
「何しに来たんだ」
ジエユンだった。
以前ズオ・ラウがロドスに来たばかりの頃、資料室に足を運んだ時の事である。その日の当番だったジエユンにつまみだされた挙げ句、首根っこを捕まれ引きずられるようにして管理室に突き出されたのだ。あの記憶が、ズオ・ラウの脳裏にまざまざと蘇る。
「……調べ物です。少々気になる事がありまして……」
先の経験から同じような事態に発展するのではないかと身構えたが、ズオ・ラウが予想していた反応は返ってこなかった。
「生憎だけど、私はどこに何が保管されてるかはわからない。聞かれても力にはなれそうにない。自分で探して」
「大丈夫です。お気遣いなく」
ジエユンは終始穏やかに応じていた。
以前のようにいきなり取り押さえられるような事態に発展しなかった事にズオ・ラウはほっと胸を撫で下ろしながら、何をそんなに警戒していたのかと自分自身に呆れもした。
整然と書類棚が並ぶその間へ足を進める。ズオ・ラウの目的はロドスで治療を受ける患者の名簿リストだが、正直ほぼ期待はしていなかった。カルテの類であれば、医療部のほうに保管されているに違いないからだ。
連なる背表紙に視線を泳がせているうちに、分厚いクリアファイルが目に止まった。
「入職者名簿……」
ふらふらと誘われるようにしてクリアファイルを手に取り、最初の数ページをめくる。果たしてそれはズオ・ラウの予想通り職員の名簿録だった。
顔写真に名前、コードネーム、性別、生年月日、出身地区、備考欄の項目のみという簡潔なリストだったが、入職年別に分けられており、ズオ・ラウがまだ会ったことがないオペレーターの情報までもが載っていた。
ナマエの今までの発言を思い返し、それを元に頭の中で年代を計算し、藁にすがるような思いでページを手早くめくる。
「……あった」
今から三年前の1099年のリスト欄に、該当者を見つけた。
顔写真は今よりもどこか幼いが、ナマエだった。名前、生年月日、出身地区欄はきちんと埋まっているが、やはり家族構成などの記述はない。少し落胆しながらも目線を移動させた先の備考欄、見慣れない一文に目が留まる。
「……匿名オペレーターによる推薦……」
「なに見てるのぉ~?」
「うわっ!?」
いきなり声をかけられた驚きからズオ・ラウは素っ頓狂な声をあげ、慌ててファイルを閉じた。振り返ると、段ボール箱を抱えたクルースが後ろに立っていた。
「クルースお姉さん、驚かさないで下さい……」
「ごめんごめん。なんか熱心に見てたから気になってぇ……」
クルースは穏やかに言いながらも、ズオ・ラウの顔を見つめる視線には含みがある。責められているような気になってしまい、どうにも居心地が悪い。
「……クルースお姉さんはお一人ですか? ウユウお兄さんは?」
「ウユウくんとはそんないつも一緒にいるわけじゃないよぉ。今はこれの片付けぇ~」
これ、のところで抱えていた段ボールを示すように持ち上げた。中にはクリアファイルが乱雑に押し込まれている。どうやらクルースはこれを返却しにきたようだった。
「それで、誰のこと調べてたのぉ?」
「……少々気になっただけで、他意はありません……」
「それだけの理由でぇ、職員名簿の、それも特定のページを食い入るように見るかなぁ~?」
「……」
ズオ・ラウは平静をつらぬく。内心では、話を打ち切って一刻も早くこの場を去りたい気持ちでいっぱいだった。
「もう一度聞くねぇ。誰のこと調べてたのぉ~?」
有無を言わせない奇妙な圧を感じるのは、きっとズオ・ラウの気の所為ではないだろう。
「……オペレーター・ナマエの事を調べていました」
ズオ・ラウが観念して正直に答えると、
「ナマエちゃんの事?」
クルースは驚いた様子でそう尋ね返してきた。
「……ナマエさんの事、知っているんですか?」
「うん」
クルースは一度頷くと、手元の段ボールを軽く持ち上げて、
「とりあえず……片付け手伝ってくれたら、話くらいは聞くけどぉ」
「わかりました」
ズオ・ラウは二つ返事で応じた。
片付けを済ませると、ズオ・ラウはクルースと共に資料室を出た。このままどこかに向かうのかと思えば、資料室の扉のすぐ横にクルースが凭れかかった。ズオ・ラウは周囲を見渡して人の気配がないのを確認し、ジエユンに盗み聞きされたとて害はないだろうと、その場に留まりクルースとの話に身を投じる。
クルースからの問いかけに、ズオ・ラウは正直な回答を繰り返し、
「つまりぃ、ナマエちゃんの妹ちゃんに会いたいのぉ?」
「はい」
ズオ・ラウの目的を悟ったクルースは、あたかも正気を疑うような眼差しを向けた。
「どうしてぇ? そもそも、どこで知ったのぉ?」
「それは……」
「ナマエちゃんって、自分の事ぜんっぜん喋らないでしょ? 私がナマエちゃんの妹ちゃんの事を知ったのは半年くらい経ってからだったのにぃ~」
言い終わるなり、クルースはむくれたような表情を見せる。クルースが時間をかけて知り得た情報を、ロドスに来てから日も浅いズオ・ラウが知っているのが、いたく不満のようだった。
「話すと長くなるのですが……」
「いいから話す~」
「……はい……」
ズオ・ラウは己の身に降り掛かった出来事を簡潔に喋った。ただし、ナマエのプライベートな話には一切触れなかった。クルースの物言いから察するに、どうやらナマエは自分の話をする相手を選んでいるようなので、ならば込み入った話は避けたほうがいいと判断した。
クルースはズオ・ラウの話を聞き終えると、
「……不思議な事もあるもんだねぇ。でも会いに行く理由にはならないと思うよぉ」
ズオ・ラウを気遣いつつも、咎めるように言う。
「ズオくんが会いたい理由って、要はただの好奇心でしょ? 他人の家族は見世物じゃないんだからねぇ」
「私はそんなつもりで行動しているわけではありません……」
「例えズオくんがそんなつもりじゃないって言っても、ナマエちゃんはそうは受け取らないと思うけどなぁ~」
クルースは諭すように言うと、やけに真剣な眼差しをズオ・ラウに向ける。
「ズオくんは、ナマエちゃんの何を知ってるのぉ?」
「え……?」
「好きなもの、嫌いなもの、されたら嬉しいこと、嫌なこと……色々あるよねぇ~?」
言葉に詰まるズオ・ラウに、クルースはさらに追い打ちをかけてくる。
「逆に、ナマエちゃんはズオくんの何を知ってるのぉ?」
「……何も、知らないと思います……」
「だよねぇ~」
クルースはうんうんと力強く頷いてから、眉根を寄せ、
「お互いのことよく知らないのに、入りこまれるのって気分よくないと思うよぉ」
きっぱりと言い放つ。そんなクルースの顔をまっすぐに見ていられず、ズオ・ラウは自ずと視線を下げた。
ズオ・ラウは、ナマエのことを何も知らない。
任務で一週間顔を合わせた。その間、ナマエの行動を注意したり、経歴や現地の風習について大雑把な事は尋ねたが、ナマエ本人の事はほとんど聞かなかった。特に聞く理由も見当たらなかったし、理由を見つけようと思わなかった。司歳台の持燭人の立場から見て無縁のものだと切り捨てて、興味すらも向けなかった。
そして、ナマエからの干渉もなかった。
聞くタイミングは多々あった。でも、相手に必要とされていないから、行動を起こさなかった。
聞かれなかったら、聞かなかった。子供じみたシンプルな理由だが、今となっては、苦手意識を持つ相手に行動を起こさないようにするための言い訳に過ぎなかったと認めざるを得ない。苦手な相手と言葉を交わさなければ余計な心労を負わずに済むし、傷つくことだってない。
そうしてナマエとの間に構築されたのは、たった一度だけの任務で一緒になり、不思議なトラブルに見舞われただけの顔見知りという、ただそれだけの関係だった。
そんな人間が、家族に接触してきたらどう思うか――これがズオ・ラウの立場なら少なくとも相手に猜疑心を抱くし、不快に思うことは間違いない。おまけにその目的が暴くためであると知ったら、ナマエが激昂するのは想像に難くなかった。
「ズオくんがこのまましたい事を突き通したら、たぶん……二人で精神的に追い詰め合う事になっちゃうと思うよぉ」
「……」
クルースの言い方は優しげだ。ナマエを知っているからこそ尊重したいという意思と、ズオ・ラウを心の底から気遣っているのが伝わってくる。
「それでも知りたいのぉ?」
尋ねられ、ズオ・ラウは視線を上げた。クルースを真っ直ぐに見据える。
「はい」
返事を聞いたクルースは何も言わない。真剣な面持ちで見つめ返している。恐らくクルースの中でどうするか吟味しているのだろうと察して、ズオ・ラウはクルースの反応を待ち続けた。
どのくらいの時間が経ったのかわからない。数十秒かもしれないし、数分かもしれない。クルースはわずかに耳を震わせたかと思えば、まるで力が抜けていくような小さなため息をついた。それにつられてズオ・ラウも緊張がほどけ、安堵の吐息をこぼす。
「……しょうがないなぁ。ナマエちゃんに怒られたらズオくんのせいだからねぇ」
「なぜですか? ここは連帯責任でいきましょう」
「そんな難しい言葉、私の辞書にはないなぁ~」
クルースの先導のもと、ズオ・ラウはロドスの入院病棟がある区画へと向かった。ズオ・ラウはこの区画にはほとんど足を運んだことがない。初めての場所に高揚にも似た感情を抱いていたが、リノリウムの廊下に足を踏み入れた瞬間空気が変わったことに息を呑み、やがて漠然と自分がここにいるのは場違いだという認識を覚えるようになった。
廊下を進む途中、正面から歩いてきた医療部の職員にクルースは気さくに声を掛けた。二言三言会話を済ませると、クルースが歩き出すのでその後ろをついていく。途中で階段を上り、向かった先は医療部のスタッフが待機している受付のような場所だった。
クルースはカウンターから中に話しかけると、ほどなくして職員が出てくる。職員は一度ズオ・ラウを見るが、すぐにクルースと会話を始め、今度はその職員の先導に二人がついていく形になった。
掃除が行き届いていて清涼な空気が充満しているにも関わらず、空気はどこか重たいものが蔓延している。廊下の左右には集中治療室とでも言えばいいのか、寝台付きの医療装置などが並んでいるのが見えた。やがて大きな窓ガラスが取り付けられた個室ばかりになったが、病室内にいる患者のほとんどは体表に源石が目立ち、点滴などを受けている。
やがて先導する職員が立ち止まるので、クルースもズオ・ラウも足を止めた。
「ここだよぉ。……起きてるかなぁ?」
クルースが示した右隣の病室を覗く。
脇には点滴が吊るされているベッドで、少女が横たわっていた。ナマエと瓜二つの顔で、眠っているのか目を閉じて微動だにしない。
職員が個室の扉をノックすると、音に反応して少女の顔が窓ガラスの方を向いたが、目は閉じたままだ。職員が扉を開けると、少女はそちらへ顔を向けたが、依然として目を開ける様子はない。少女は右手を探るように動かし、ベッドのリクライニングを操作して、上体を起こした。
少女が職員と会話している様子を、ガラス越しに眺める。
「起きててよかったねぇ」
「……」
クルースに話しかけられたが、ズオ・ラウは反応が出来なかった。目はずっと閉じたままなのもそうだが、入院着の左袖が薄べったくヒラヒラとしている。左腕がないのは一目瞭然だった。
唖然としていると、
「妹ちゃん、聴覚もそうだけど気配とかにすごく敏感だから、態度は全部筒抜けになるよぉ。怖気づいてるのもすぐわかっちゃうんだからぁ」
「べ、別に怖気づいてるわけでは……。彼女、やはり目が見えないんですか?」
「うん。それと尻尾もないから、ズオくんびっくりしちゃ駄目だからねぇ」
クルースの言葉に目を見張り、あらためて少女に目を向ける。ナマエの妹であれば似通った尾が生えているはずだが、腰から何も生えていなかった。
尾がない同族を見るのは、生まれてこの方初めてだった。
「……鉱石病の影響ですか?」
「壊死が始まってたから、ロドスに来る前に切っちゃったんだってぇ」
眉間に皺を寄せながらクルースは言う。
「でも、尾てい骨から背骨に転移しちゃって……病名は難しくて覚えてないけど、今はすっごい貧血を発症してるとかなんとかって……」
「貧血……?」
「なんだったかなぁ……飯盒炊爨みたいな感じの響きで……」
「……汎骨髄ろう?」
「あっ、多分それだよぉ。よく知ってるねぇ」
「軍営にいた時、この病で退役を余儀なくされた方がいたんです……」
汎骨髄ろうは俗称であり、正式名称を再生不良性貧血という。骨髄の機能がなんらかの原因によって著しく低下し造血機能が損なわれるという難病である。鉱石病はさまざまな合併症を引き起こすが、これもその一つだ。
ズオ・ラウはあらためて窓ガラス越しに部屋の中を見る。そこでは職員が問診を行っている最中だった。少女の表情はひどく穏やかで、時たま職員と笑い合っているのが伺える。
人体の一部の切断を余儀なくされるほど体への影響が酷い。重症だということは馬鹿でもわかる。そして片腕もなく目も見えない。別にズオ・ラウが悪いことをしたわけではないが、どうしようもない引け目を感じてしまう。
今更になってひどい後悔に見舞われた。クルースがあれだけ渋っていたのもわかる気がした。ただの思いつきで、赤の他人が来る場所ではなかった。しかし後戻りはできない。
そうしている内に、職員が戻ってくる。
「体調は安定しています。面談もいいそうですよ」
「だってぇ。行こっかぁ」
「……は、はい……」
「ほらぁ。男の子なんだからしゃきっとしてよねぇ~」
「はい」
軽い叱責を浴び、ズオ・ラウは反射的に背筋を伸ばした。
まず病室にクルースが足を踏み入れ、ズオ・ラウはその後ろをぎこちない足取りでついていく。
部屋の中にはピ、ピ、と定期的な電子音が響いていた。廊下からでは見えなかったが、カーテンの裏に心音を測る機械が設置されていた。機械から伸びた電極が、少女の右手につながっている。
「やっぱりクルースちゃんだ、こんにちは」
ベッドの上の少女の口から発せられた声は随分と明るい調子だった。
「こんにちはぁ。ちょっと様子見に来たよぉ」
「わっ、ありがとう。……えーと、お姉ちゃんは?」
「いないよぉ。実は黙って来ちゃったぁ」
「そうなんだ……」
「へへぇ……やっぱり駄目だったかなぁ?」
「ううん、そんな事ないよ。すごく嬉しい」
「そっかぁ。ならお言葉に甘えてお邪魔するね~」
二人のやり取りを耳にしながら、ズオ・ラウは目を白黒とさせていた。顔の造形はもちろん、声も同じで脳が激しい混乱をきたしている。ただ、少女の声の調子は朗らかで、態度はナマエよりもずっと柔らかい。
「それで、そっちの人は誰? はじめましてだよね?」
唐突に矛先を向けられ、ズオ・ラウはあからさまにビクッと肩を震わせた。
「うん。話がしたいんだってぇ」
クルースはそう言うと、ズオ・ラウの腕を肘で軽く小突いた。その意図を察し、ズオ・ラウは軽い緊張を覚えながら口を開く。
「……は、はじめまして。私はズオ・ラウと申します」
ナマエとの初対面で散々な目にあったのを思い返し、細かい事は省いて簡潔に伝えた。
「わっ、本当にはじめましての人だ」
と、少女がはしゃぎだす。感情の発露の仕方がナマエとはずいぶん違う事に面食らってしまう。
「あなたの都合も考えずに押しかけてしまい、申し訳ありません……」
「ううん、別にいいよ。ズオさんはお姉ちゃんとは知り合い?」
「はい、あなたのお姉さんとは面識があります。先日も任務に同行いたしました。それで、あなたに少し聞きたい事がありまして、……少々お時間をいただけないでしょうか?」
「聞きたいこと? お姉ちゃんに言われてきたの?」
「個人的な話ですので、ナマエさんはまったくの無関係です」
すると少女は何らかの意図を察したのか微笑みを浮かべ、なるほど、と独りごちると、
「とりあえず、クルースちゃんもズオさんも座って。えっと、確か近くに椅子があるはず……」
「うん。借りるねぇ~」
壁際に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、腰掛ける。二人が落ち着いたのを物音で察すると少女は居住まいを正すように身動ぎして、ズオ・ラウに向き直った。
「それじゃあズオさん、あらためてはじめまして。ナマエです」
「……え?」
にこやかな挨拶に、ズオ・ラウは困惑するばかりだった。それを悟ったのか、少女はくすくすと笑い出す。困惑のあまり助けを求めるように隣のクルースを見れば、さもありなん、といった風に肩をすくめてみせる。姉妹そろって人をからかう癖でもあるのだろうかと疑い始めた頃になって、
「ズオくん、からかわれてるわけじゃないからねぇ。この子もナマエちゃんだよぉ」
「ええと?」
クルースの言葉に、わけがわからず目を瞬かせていると、
「私とお姉ちゃんは同じ名前なんです」
「名前が同じ……?」
「村の風習なの。生まれた時に仮名を与えて、十歳になると族長が名付けの儀式を行う。私達は双子だったから、同じ仮名になった」
「そ……、そうだったんですか……」
風習というたったその一言の説得力はあまりにも強く、ズオ・ラウはすぐ腑に落ちた。
「おね……族長に新しい名前をつけてもらおうか、って考えた時もあったけど、お父さんから貰った名前を大事にしたかったから、このままにしようって事になって……」
「なるほど……」
「ややこしいよね。ごめんなさい」
「いいえ、謝る必要はありません。父君から賜った名を大事にする、とても素敵だと思います」
ズオ・ラウがそう言うと、ナマエは僅かに頭を傾けた。不思議がるようなその仕草を怪訝に思っていると、
「……ズオさんって、いつもこうなんですか?」
と尋ねてくる。
「そうだよぉ。いっつもこんな感じぃ~」
返答に窮するズオ・ラウの横で、クルースが答えると、ナマエは納得したように頷いた。
「な……何ですか? もしや、何か失礼でも……」
「ううん、物腰がすごく柔らかいなって思って。ズオさんはどこの出身?」
「炎国の移動都市、玉門で生まれ育ちました」
そう返すと、ナマエは驚いた様子だった。
「炎国って、確かサルゴンの正反対にあるところだよね? クルースちゃんが前任務で行ったとこ……」
「そうだよぉ」
「そっか……ズオさんが生まれたとこって、いいところ?」
都市の構造だとか、人口の数だとか、建物の戸数や規模を尋ねられているわけではないと、ズオ・ラウはすぐ察した。
「はい。生まれ故郷ですから贔屓目もありますが、私から見ればとても良い所です」
「そうなんだ」
ズオ・ラウが即答してみせると、ナマエはそれで納得したようだった。
「話をする前に、お願いを聞いてもらっていい?」
「はい、何でしょうか?」
「ズオさんの顔に触ってもいい?」
「か……顔ですか?」
思わずたじろいでいると、
「ズオさんがどういう顔をしているのか、知りたいの」
真剣な面持ちでナマエが言うので、ズオ・ラウはすぐに平静を取り戻した。ナマエは目が見えないから、右手で触って確かめるしかないのだろう。
「わかりました。どうぞ」
ズオ・ラウは意を決し、了承した。
「ありがとう。ズオさん、ちょっとこっちに寄ってもらえるかな」
「はい」
パイプ椅子ごと持って立ち上がり、ベッドの近くへ移動する。ズオ・ラウが腰を曲げてやや前のめりの姿勢を取ると、電極が取り付けられたナマエの手が持ち上がった。空中でズオ・ラウの顔を探し求めるようにふらふらと彷徨う。
ズオ・ラウが誘導しようかと悩むうちに、ナマエの手がズオ・ラウの左耳に触れた。フィディア特有の長い耳をなぞるように指先が移動し、耳たぶに触れ、それから顎関節の骨から下顎へと下るように指でなぞっていく。
触れるか触れないかという力加減が、かえってこそばゆい。
むず痒さを必死に我慢するズオ・ラウの態度を察したのか、
「くすぐったかったり、辛くなったりしたら、右手を上げてね」
歯医者みたいな事を言い出した。
「あ、はい……いや、ええと……その、……見えませんよね?」
「ふふ。何もしないよりはいいかなって」
ほのかに笑いながら言う。ナマエなりのちょっとした冗談のつもりだったようだ。とりあえず、ズオ・ラウが手を上げた所で止めるつもりがない事だけはわかった。
ナマエの手が、さわさわと絶妙な力加減で、ズオ・ラウの顔の表面を余す所なく滑っていく。唇の長さを計り、鼻の下、鼻、と容赦なく触って確かめられるのは、くすぐったいというよりも恥ずかしさが勝った。
何よりクルースも興味津々といった感じで見てくるのがズオ・ラウにはたまらない。触れられている間は呼吸を忘れるほど緊張してしまうし、息苦しいやらで一種の拷問に近い。
「つらい?」
「いえ、大丈夫です……」
「でも、気分はよくないでしょ?」
「あなたのお姉さんに初めて会ったとき、じろじろと不躾に観察されたんです。その後手合わせも強要されましたし……それと比べたら天と地ほどの差がありますよ」
「ふふ。そっか」
指が目に近づき、ズオ・ラウは反射的に瞼を閉じた。それでもナマエは動じる事無く瞼に触れ、眉をなぞって右の顎関節へと移動する。そうして辿り着いた先の右耳のイヤーフックが気になるようで、ナマエは首を傾げつつも、今まで以上に慎重な手つきで触れ続ける。
「右側だけ? もう片方はなくしちゃったの?」
「いえ、もう片方は父がつけています」
そう言うと、ナマエは驚きに肩を震わせ、
「あっ……ごめんなさい。大事なものなのに……」
「いえ、ただ触れただけで、壊れないと思いますよ」
鍛錬はもちろんのこと、下手人と応戦する時でさえも外すことはなく、ズオ・ラウが日常的に身に着けているものだ。寝る前に外す時に確認しても目立った傷はついていないし、飾り房の糸が切れている様子もないので、控えめに触られた所で支障はないとズオ・ラウはわかっていた。
「なにかのお祝いでもらったの?」
「これは、炎国で今の仕事に就いた際、父から譲り受けたんです……」
そう言いながら、ズオ・ラウは当時を思い返す。
実の父であり移動都市を統べるズオ・シュアンリャオが手ずから差し出したのを受け取った時、神聖なものを賜ったような感覚が濁流のように押し寄せ、無意識の内に身震いしたのだ。
「なんかいいね、そういうの。ズオさん、お父さんと仲良しなんだ」
「な、仲良しというかその……父はとにかく厳格で……ですが、私が最も尊敬している人でもあります……」
「そういうのをね、仲が良いって言うんだよ、きっと。仲が良くなかったら、怒ったり気にかけたりしないもの」
ズオ・ラウは無性に照れくさくなってしまう。
ナマエは上へ上へと手をすべらせ、髪に埋もれる小さな角もつまんだりする。そうして最後は額に触って前髪を撫でて、ようやく手をおろした。
ズオ・ラウは開放感から、ゆっくりと細い息を吐き出した。
「ありがとう。ズオさんの顔立ち、なんとなくわかった」
「それは何よりです……」
そう言って、椅子ごと元いた場所に戻る。
「それで、ズオさんは私に何が聞きたいの? お姉ちゃんの事ならなんでも答えられるよ」
「なんでもだってぇ。知り放題だねぇ」
「ちゃ、茶化さないでください、真面目な話なんですから……」
悪戯っぽく微笑んでいたクルースも、ズオ・ラウの言葉から真剣な雰囲気を感じ取ったようで、すぐに真面目な顔つきへと変わった。
「その、不躾に詮索するようで申し訳ないのですが……十年前の事についてお聞きしたい」
ズオ・ラウが言った途端、ナマエの身体が強張った。強い警戒を滲ませたが、ズオ・ラウは構わず言葉を続ける。
「もちろん無理強いをするつもりはありません。話したくないのであればそう仰ってください」
「まさか……お姉ちゃんが喋ったの? あなたに?」
「いいえ。先ほども言いましたが、先日の任務であなたの出身地の村に足を運びました。その際、奥にある遺跡で奇怪な現象に見舞われまして……掻い摘んで言うと、ナマエさんの記憶を垣間見てしまったようなんです。もちろん、ナマエさんは私には何も喋っていません。恐らく、私が尋ねたところで彼女は何も話してくれないでしょう。……情けない話ですが、彼女に聞いても話してくれるとは思えなかったんです……」
「……そんなに落ち込まなくてもいいと思う。お姉ちゃん、誰にでもそうだから」
徐々にナマエの警戒が解けていくのを感じた。
「遺跡って、あの洞窟の奥に行ったの?」
「はい」
「ズオさん勇気あるね、怖くなかった?」
「なにぶんどういった場所なのかわからなかったもので……ひどい目にはあいましたが」
「大変だったね。……私はもう絶対あそこには行きたくないよ」
いたわるような言葉のあと、数秒の沈黙を挟み、
「ズオさんって、剣に触った事ある?」
そう尋ねた。
「触るも何も、剣に関しては引け目を取らない自負があります」
「そうなんだ。……申し訳ないけれど、利き手を貸してもらってもいい?」
「……ええと、はい。どうぞ」
ズオ・ラウは怪訝に思いながらも右手を差し出すと、ナマエの右手が触れた。さっきと同じように確かめるように触れ始める。
指先で余す所なく確認すると、
「……ズオさんって、剣の扱いが上手なんだね」
感嘆のため息とともにナマエが言うので、ズオ・ラウは目を瞬かせた。
「どうしてわかるんですか?」
「中指と小指のところに剣ダコがあるけど、皮膚がやわらかい。剣を持つ力加減をきちんと理解してる証拠」
「……手に触れただけでそう言われたのは初めてです」
「剣の扱いが下手だとね、無駄に力んじゃって色んなところに豆ができて、それの繰り返しで皮膚が固くなる。昔の私がそうだった」
ナマエはそう言って口元を緩める。
「さっき、お姉ちゃんと初めて会った時じろじろ見られたって言ってたよね。多分お姉ちゃんはそれをわかって、あなたに手合わせをお願いしたんだと思うよ」
「……」
「お姉ちゃん、そういうの目ざといから」
まさか、とズオ・ラウは胸中で疑ったが、実の妹の言葉には奇妙な説得力があった。
「私もお姉ちゃんみたいに剣が好きだったら、こんなにしつこく触らなくても、ズオさんの気配でわかったかもしれないね」
言葉尻に「ありがとう」と付け足して、ナマエはズオ・ラウの手を離した。
「ナマエさんは、剣が嫌いなんですか?」
「うん、怖くて苦手。振った時の風切り音も、刃がぶつかった時の金属音も嫌い。腕も疲れるし、手に汗をかくと潰れた豆が染みて痛いし……。私はどっちかというと家で本を読んだり、タバコの葉っぱの蜂蜜漬けを作るのを手伝ったり、刺繍をしたりとか、こまごました事をするほうが好きだった」
穏やかに語るのを聞きながら、ズオ・ラウは伸ばした手を膝の上へと戻した。
「ばあやの稽古はすごく厳しかった。お姉ちゃんは楽しんでたけど、私はよく逃げてた」
そう言ったナマエは、苦いものが混じった微笑を浮かべていた。双子なのに姉とは真逆の性質なのだろう。
「そうして逃げ続けてるうちに、ばあやに捕まってね。今までサボってたぶん泊まり込みで稽古しろと言われたの。家に帰って泣きベソをかいてたら、お姉ちゃんに『かわってあげる』って言われた。どうしても嫌な事は無理しなくていい、そのかわり別の事をもっと頑張ればいいんだって」
大事な思い出を語るような、穏やかな口調だった。
「あの日は互いに着てる服を交換した。お姉ちゃんが私として振る舞って、私はお姉ちゃんとして振る舞った。初めての事ですごくドキドキした。上のお姉ちゃんにはすぐバレちゃったけど、お父さんとお母さんには全然バレなかった。でも、もしかすると、お父さんもお母さんも気付いてたかもしれない。今となっては確かめようがないけど……」
ナマエが言葉を区切ると、表情に暗いものが差した。
「その日の夜、家に誰かが押しかけてきて、襲われたのは覚えてる。気付いたらどこか知らない場所にいて、目も見えなくなってた。子供心に、そのうち殺されるんだろうと思ってたけど、親切な人がお世話をしてくれて……そうして過ごしてるうちにお姉ちゃんが助けに来てくれて、あの盗賊団も壊滅して、今こうしてここにいる」
そう言ってベッドのシーツを握りしめ、
「私は後悔してない。でも多分、お姉ちゃんはずっと後悔してる。きっとばあやも……」
話を聞き終えたズオ・ラウは何も言えなかった。胸に蓄積した重たいものを流すことも出来ず、かといって真正面から受け止めることも出来ず、押し黙るしかなかった。
と、横のクルースが息を吸い込み、はーっと大きなため息をついた。
「それって……どうしようもなくないかなぁ? よかれと思ってやったことが裏目にでちゃって引きずっちゃうのはわかるよぉ」
言い終えると、僅かに耳を傾けて、
「でも、誰も悪くないよぉ」
沈痛な表情になって言う。
もしあのとき交換していなければ、余計な気を回していなければ――こういった境遇に陥った人間であれば、誰しも考えるだろう事は想像に難くない。本当なら、このベッドに横たわっていたのは姉のナマエの方だったかもしれないのだ。そして、妹への無邪気な善意から身代わりにしてしまった事をずっと引きずっているに違いないと、実の妹は察している。
「そもそも、なんで狙われたのぉ?」
クルースが尋ねるので、ズオ・ラウはようやく口を開くことが出来た。
「にわかには信じがたい話ですが、多胎児や色素欠乏症など珍しい子供の肉が、鉱石病の薬になるという迷信があるそうです。遺骨ですら高値で取引されるとか……」
「うん。昔は鳥葬のための聖地にも、死体さらいがいたくらいだったから」
「な……なんかやな話ぃ……」
クルースは一度大きくぶるりと身震いし、
「というか私、この話聞いて良かったのぉ……?」
恐る恐るといった様子でナマエに尋ねると、ナマエはしっかりと頷いた。
「うん。本当は、私も誰かに聞いてもらいたかったから、ちょっと楽になったかな……」
「それならいいんだけどぉ……」
どこか言い淀む態度のクルースにナマエはくすっと微笑むと、ズオ・ラウの方へと顔を向けた。
「ズオさん、私が話せるのはこれで全部。納得できた?」
「はい、充分です。……つまびらかに話してくださって、ありがとうございます……」
「それで、こんな事を知ってどうするの?」
「……どうする、ですか?」
ズオ・ラウが尋ねると、ナマエは頷いて、
「知りたいっていうたったそれだけの理由で、普通は赤の他人の事情に首は突っ込まないと思う。ズオさんって分別がある人だと思うし、これはしなくてもいい苦労だってわかるはず……」
真剣そのものといった様子で、言葉を続ける。
「ズオさんには、何か目的があるんだよね? 意地悪な事を言うけれど、事情を喋った私には事情を知ったあなたに尋ねる権利があると思う。正直に喋って。ズオさんが何を言っても怒らないから……」
どう答えるべきなのかズオ・ラウが返答に窮していると、ナマエは先程とは打って変わって不安げな面持ちになり、
「……でもね、……もし、お姉ちゃんに危害を加えるつもりなら……」
震える声で言う。
それを聞いた途端、ズオ・ラウは喉の奥がつまるような感覚を覚えた。体の内側から何かが急速にこみ上げてきて、突き動かされるように身を乗り出す。
「そ、そんなつもりは毛頭ありません!」
衝動に任せて発した言葉はうまく声量が調整できず、声を発したズオ・ラウ本人ですら驚くほど大きかった。部屋に反響する声にベッドの上のナマエは身をすくめ、クルースはビクッと耳を震わせる。
「ズオくん、しーっ! 声大きい!」
「……し、……失礼いたしました……」
無礼を働いたことを詫びながら、すごすごと椅子の背もたれに背中を預ける。
「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど……」
曖昧に微笑んで、ナマエもやわやわと緊張を解いた。
とは言え、すぐに言葉が出てこない。ズオ・ラウは僅かに俯いて、膝の上の両手に視線を落とした。指を絡ませ、握ったり伸ばしたりを繰り返しながら、頭の中で自分の考えを整理する。胸中を吐露しなければならないという緊張から、口の中が乾いて仕方がない。
数秒の沈黙の果てに、ズオ・ラウは顔を上げた。
「最たる理由は、事実の確認を含めた私個人の知的好奇心を満たすためです。……しかし、それは表向きの話です」
緊張からわずかに汗ばんだ両手をほどき、膝へと戻す。
「あれから、ナマエさんとろくに話せていません。私が見たもの全てを無かった事と扱えば楽だとは思いますが、忘れるのは到底無理な話でした。ドクターに引きずられないようにと忠告は受けましたが、心残りは膨らむ一方で……自分の中でくすぶっているわだかまりを解消したいんです」
言いながら、相手の事を置き去りにしたまま、我が身可愛さしか考えていないと自覚し、ズオ・ラウの胸中に苦い罪悪感が広がった。それでもナマエが静かに相槌を打って聞き入ってくれるので、話を続けることが出来た。
「ただ、会ったとして、何をきっかけにどう話せばいいのか皆目見当がつかず……。それに、浅瀬を生きた私が何を言ったところで、彼女の深い所には響かないでしょう……」
一度言葉を区切ると、ベッドの上のナマエに顔を向ける。
「こんな八方塞がりの状態では、あなたを頼るほかないと……」
「……、そっか……」
ズオ・ラウ自身も拙い説明だと思ったが、ナマエは納得してくれたらしい。ナマエは穏やかに微笑んで、うんうんと頷いた。
「つまり、外堀から埋めようとしたんだ?」
数秒の間をおいて、
「……そ、そういったつもりもありません……」
「でも、お姉ちゃんに会いに行けなかったんだよね?」
「うっ……」
小さく唸るズオ・ラウの横で、
「ズオくんにはぁ、本陣を叩く勇気が足りなかったからねぇ~」
クルースが楽しげに言う。
「……クルースお姉さん、後生ですから茶化さないで下さい……」
「えへへ、ごめんねぇ」
それを皮切りに、室内に蔓延していた重い空気が、不思議と軽くなったように感じられた。あんなにからからだった口の中もいつしか潤いを取り戻し、汗ばんだ手もさらさらとしている。
実際のとこと、部屋の空気が重いと感じていたのはズオ・ラウだけなのだろう。そんな錯覚を覚えるほどの緊張がほどけてしまうと、自然と言葉が降りてきて、口から次いて出てしまう。
「ナマエさんから見て私は、保身ばかり優先する、意気地が足りない小心者に見えるでしょうね……」
「ううん。話し合っても平行線のまま、お互いに納得がいく落とし所も見つからなくて、理解し合えなくて傷つくのが怖いのは誰だってそう。ごく普通のことだと思うよ」
首を振りながらナマエはそう言うと、自嘲気味な笑みを浮かべ、
「実はね、私もここに来る前、お姉ちゃんとすごい喧嘩したんだ」
「……喧嘩ですか? 一体なぜ?」
「さっき、盗賊団でお世話してくれてた人がいたって言ったでしょ? たぶん年配の女の人。その人は純粋な善意から、私の事をずっと気にかけて、最終的には家に住まわせてくれた」
まるで昔の思い出を語るような口調で言う。
「お姉ちゃんに助けてもらった時にね、その人だけはどうしても助けてほしいって言ったの。そうしたらお姉ちゃんはすごく怒って、悪人は気にかける必要はないって……。でも、私からすればあの人は善人だった。血を分けた家族よりも付き合いは長くなっていたからどうしても助けたくて、正直に話したら大喧嘩になった。ロドスの人とばあやが間に入ってくれて、なんとか折り合いがついたの」
その人はどうなったのか――無邪気に尋ねることはズオ・ラウには到底出来なかった。黙りこくったまま横目で隣のクルースを見れば、彼女もまた耳を垂れ下げて、困ったような表情になっている。
そんな二人の気配を察したのか、ナマエはふっと笑みを作った。
「ズオさんはお姉ちゃんとそうなりたくないからここに来たんだよね? 堅実だと思う。でもね、傷つかないのは無理かもしれない。私だって傷ついたし、お姉ちゃんの事を傷つけた。その覚悟はしてたほうがいいと思う」
「……助言、ありがとうございます」
「あんまり力になれなくてごめんね」
「いいえ、充分に余り有ります。とても気が楽になりました」
「そうならいいんだけれど……」
言いかけた途中、ナマエが何かに反応するように体を震わせ、跳ねるような勢いで廊下の方へ顔を向けた。その仕草に釣られて、ズオ・ラウもそちらに視線を向ける。
ガラス窓の向こう、廊下にナマエがいた。むろん、姉の方である。
ジト目と形容するに相応しい眼差しで、部屋の中を見つめている。その隣には苦笑を浮かべる医療部の職員が立っていた。
「ふふ、噂をすればだね」
嬉しそうにしているナマエとは対象的に、ズオ・ラウとクルースは自然と身体を縮こませた。
互いに目配せをし、
「……クルースお姉さん、こういう時はどうしたらいいんでしょう」
ひそひそ声で尋ねると、クルースも同じように声のトーンを落として言う。
「虚数を数えればいいと思うよぉ……」
「……すぐ終わってしまいますが?」
「何をしても無駄って事だよぉ……」
ズオ・ラウの胸中に、やるせなさが押し寄せてくる。
「ズオくん、この後お願いできるかなぁ?」
「いえ、なにぶん若輩者ですので、ここはクルースお姉さんにお願いしたく……」
話の途中で部屋の扉が開くと、二人は情けないほど大きく身体を震わせた。ベッドにいるナマエは右手で口元を隠しながらくすくすと笑い、部屋に入ってきたナマエは不審がるような表情を浮かべる。
「……二人ともこんにちは。今日は休みなの?」
扉を締めながらナマエが言う。数日ぶりに聞く声にズオ・ラウはどこか安堵を覚えたが、しかし今はそれどころではなかった。
「そういうわけじゃないけどぉ、ちょっと気になってぇ。えっとぉ、ズオくんはたまたま一緒になって連れてきちゃったぁ」
「その……ご迷惑でしたか?」
「私は迷惑じゃなかったよ。面白い話たくさん聞けたから」
にこにこと満面の笑みを浮かべて話す妹の姿を、姉は無言のままじっと見つめ、やがて観念したように首を振った。
「ううん、迷惑だなんてそんな事無い。二人共、来てくれてありがとう」
相変わらず視線が合わないのが気になったが、ナマエの言葉には謙遜や世辞は含まれていないのを感じ取り、ズオ・ラウはほっと胸を撫で下ろした。
「ナマエちゃん、体調よさそうで良かったよぉ」
「うん。朝から熱もないみたいだし……ナマエ、お昼は食べたの?」
「半分だけ食べたよ」
「そっか。……夕飯は食べられそう?」
「まだお腹はすいてないかな。時間にならないとわからないかも……」
「わかった」
そんなやり取りを聞きながらも、ズオ・ラウはナマエが小脇に抱える一冊の本をしげしげと眺めた。やや厚みがある本で、栞が挟まっている。読書でもしていたのかと考え込んでいると、ふいに腕をつつかれた。
「それじゃあ私、まだ仕事残ってるからもう行くねぇ~。ズオくんはどうするぅ?」
「ええと……」
言いあぐねながらベッドの上のナマエに視線を向け、
「まだここに残ってもいいんでしょうか?」
と尋ねると、ナマエは嬉しそうに頷いた。
「うん。私もね、もう少しズオさんとお話したいかな。知り合ったばっかりだし、ね?」
「……は、はい」
含みのある物言いからなにかを察し、ズオ・ラウは二度も頷いた。おそらく場を整えてくれるつもりなのだろう、内心感謝したい気持ちでいっぱいになる。
しかし、やり取りの深い意味を全く知らない姉の方は、不思議そうな表情で妹を見つめ、
「……私も席外そうか?」
「もう、変な方に勘違いしないで! それに今日、本の続き読んでくれるって約束したよね?」
「ご、ごめん……」
妹が目に見えて憤慨を見せた途端、姉は弱々しく応じている。
そんな態度の弱いナマエを見て、不意にズオ・ラウの脳裏にサルゴンでの記憶が蘇った。ナマエは自分を咎める族長に対してしどろもどろに返事をしていた。どうやら妹にも頭が上がらないようだ。
ともすればその光景はなんだか微笑ましく感じられて、自ずと笑みがこぼれる。それはクルースも同じだったようで、軽く耳を揺らしてくすくすと笑ってから、おもむろに席を立ち上がった。
「それじゃあ行くねぇ。ナマエちゃんたち、また来るからぁ」
「うん。クルースちゃんも、またね」
「今日はありがとう」
姉妹が返事をすると、クルースはズオ・ラウに意味深な視線を向け、
「ズオくんも、ほどほどにねぇ~」
「……はい」
何を程々にするのかわからないまま、ズオ・ラウは形だけの返事をした。
クルースが退室すると、ナマエは何らかの意志を持って動き始めた。
まずベッドのふちに本を置き、次はベッド脇に設置された入院患者用の戸棚を開け、中から紙袋を引っ張り出した。その紙袋は、ズオ・ラウにとって既視感があるものだった。
「また溜め込んでる。……もしかしてほとんど食べてない?」
「うん」
「……それならきちんと、いらないって言うべきだよ」
「でも、お姉ちゃんが食べるかもしれないから」
「お菓子はそんなにいらないよ。太っちゃうし……」
小さなため息をついて、
「ズオくん、お腹すいてない? もしよければ、いくつか貰って欲しい」
「あ……はい。いただきます」
ナマエはズオ・ラウに視線を向ける事無く、個包装の菓子を一つ二つと放り投げてきた。まさか投げてよこすとは思わずズオ・ラウは焦ったが、難なく掴んで受け取ると、菓子を膝の上に置いた。
既視感の原因――ナマエと初めて出会った日の夜を思い返す。廊下で遭遇した時、ナマエは小脇に同じような紙袋を抱えていた。あの中には菓子が入っていて、食べきれないからとシャオマンに押し付けていた。そうしてズオ・ラウは姉妹の顔を交互に見やり、膝上の菓子に視線を落として、すべてを察した。
その間もナマエはせせこましく動いていた。引き出しから真新しい紙袋を取り出すとそれを広げ、菓子が入っている紙袋と入れ替えた。取り出した紙袋の口を軽く折りたたんで、棚の上に置く。
立ち上がると一度伸びをしてから、ベッドのふちに置いた本を手に取ると、入れ違うように無遠慮に腰掛けた。妹に寄りかかるようにして座っている。その勝手知ったる振る舞いを見るに、どうやらそこが定位置らしい。
「ズオくん、まず本読むから……おしゃべりはその後でもいい?」
「かまいません。押しかけたのはこちらのほうですから」
「うん、ごめんね」
栞を挟んだ本を開くナマエの隣で、妹がにこにこと嬉しそうにしている。
「なんだかすごく久しぶりな気がする」
「最近ちょっと立て込んでたから……それじゃ、読むからね?」
「うん」
規則正しい電子音が鳴り響くのに重ねるようにして、ナマエは本の朗読を始めた。
声量はさして大きい訳では無い。しかし柔らかさを孕んだ声は狭い部屋の中ではよく反響し、ズオ・ラウの耳にすんなりと入り込んできた。話の前後はわからないが、たまに抑揚をつけて演技っぽくしゃべるナマエの声に驚きつつ、無為にして静かに聞き入った。
朗読の最中、妹に向けて気まぐれに目配せをするナマエの視線はひどく優しく、ズオ・ラウに対して絶対に向けられない類のものだった。そんな姉の気配を察して妹も顔をそちらに向け、どちらともなく微笑み合っている。
姉妹のやり取りの一面がどうしてか貴ぶべきもののように思えて、ズオ・ラウは憧憬にも似た念を抱いた。それをごまかすように、膝上の菓子に手を付ける。とはいえ音を立てて邪魔をしてはいけないと気遣うあまり、慎重さを優先して緩慢な動作になってしまう。
ズオ・ラウが菓子を食べ終わると、ちょうど区切りの良い節まで読み終えたらしく、ナマエはページの間に栞を挟んで本を閉じた。
「このあとどうなるのかな……」
「さあ? 続きはまた明日ね」
「うん」
期待を噛みしめるように頷いている。
会話が途切れたタイミングを見計らい、ズオ・ラウは口を開いた。
「朗読はいつからしているんですか?」
そう尋ねた途端、ナマエはびくっと肩を震わせた。戸惑うように視線を彷徨わせ、ズオ・ラウに目を向けずに口を開く。
「……ここに来たばっかりの頃、ドクターに勧められてからずっとしてる。私は公用語にも慣れる事ができるし、本が読めないナマエも聞き取りの訓練ができるし、物語も楽しめるから一石二鳥だって」
「なるほど」
ドクターらしい提案だなとズオ・ラウは納得した。
それから、ささやかな雑談をいくつも交わした。話題の中央にいるのは妹ばかりで、姉のほうは変に気を使っているせいもあってか、あまり会話に混ざってこない。相変わらず目も合わないが、それでもズオ・ラウは久しぶりに言葉を交わした事で、自分でも驚くほどの充足感に包まれた。
そうこうしているうちに、妹の頭がふらふらと傾くようになった。まるでうとうとして船を漕ぐような動作に似ている。ナマエが気遣うように肩を叩くと、妹は力なく微笑んで、
「ちょっと眠くなってきちゃった……夕飯、また食べれないかも」
「いいよ。無理しないで」
ナマエはそう言うと、ベッドのリモコンを操作してリクライニングを倒した。
「ズオさん、ごめんなさい。もう少しお喋りしたかった」
「いいえ。きっと疲れたんでしょう……休んで下さい」
「また来てくれると嬉しいな」
「はい。必ず来ます」
「ありがとう……」
そう言うなり、気絶するように眠ってしまった。呆気にとられていると、ナマエは妹の首まですっぽりと布団をかけて、ベッドの上を軽く整え始める。
「最近は、起きてる時間より寝てる時間のほうが多くなっちゃった」
妹の前髪を撫でながらナマエは言う。
「……容体はあまり芳しく無いという事ですか?」
「わかんない。貧血による食欲不振からくる栄養不足が原因だって。ナマエも悪循環なのはわかってるみたいだけど、食べられないからどうしようもない。輸血と点滴でやり過ごしてるけど、いつか治るのかな……」
ナマエは言い終わると身をかがめて、妹の方に顔を近づけた。左頬どうしを触れ合わせ、右頬、そして額とくっつけて、体を離す。
そして棚の上の菓子が入っている袋と持ってきた本を小脇に抱える。
「いこ。ここにいても仕方ないから」
「はい」
二人で静かに退室した。先を行くナマエの後ろを、ズオ・ラウは無言でついていく。
廊下に出てしばらく歩き、人気のない簡易休憩スペースに差し掛かると、ナマエはおもむろに立ち止まった。ズオ・ラウの方を振り返るが、少し俯きがちになっている。
「それでズオくん、どうしてここに来たの?」
「あなたと話がしたかったんです」
「……話?」
「はい。先日のことについてです。ドクターの説明は本当ですか?」
ナマエが息を呑む気配を、ズオ・ラウは感じ取った。
「……どう説明を受けたか知らないけど、ドクターの話が全てだよ。報告書も提出してる。もし納得がいかないなら、ドクターに言って見せてもらって」
本題を避けるような曖昧な回答だったが、ズオ・ラウの質問も似たようなものなので致し方ない。深く追求せず、ズオ・ラウは次の質問を投げかけるべく口を開いた。
「回収したビーコンのスイッチが入ったままになっていたのがあったと聞きました」
そう言うなり、ナマエの肩が小さく震えた。ナマエが抱えている紙袋が小さな音を立てる。
「わざとですよね?」
「……」
ナマエは何も言わずに黙りこくっている。その姿を見て、ズオ・ラウは落胆にも似た失望を抱いた。こういった負の感情は往々にして余計な不安を招いてしまう。
「ナマエさんは、ああいった事態になるという確信を持っていたんですか?」
そう問いかけると、ズオ・ラウの予想に反して、ナマエは首を横に振った。
「確信は無かった。ただ、何かあるんじゃないかって思った」
そうして一度、小さな呼吸を挟み、
「……巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
俯いたまま、ナマエは言う。そのつむじを数秒見つめ、ズオ・ラウはため息をついた。苦い失望はいつしか、安堵めいたものへと変わっていた。
「もう過ぎたことです。それに謝罪は何度もしてもらいましたから、これ以上は要りません」
言い終わっても、ナマエは顔を上げない。その仕草を眺め、前々から疑問に思っていた質問を投げかけた。
「それより、ナマエさん。私の方を見てもらう事はできますか?」
「無理」
瞬時に首を降る。あまりにも素早い即答に、ズオ・ラウは面食らった。
「……どうしても駄目ですか?」
「うん」
小さく頷いて、
「ズオくんには本当に申し訳ないと思ってるし、今日の事だってすごく感謝してる。でも、ズオくんが目の前に来るとね……」
ナマエは言葉を区切ると、のろのろとした動作で右手を持ち上げた。小刻みに小さくプルプルと震えている。
「なんか、薬物中毒の禁断症状起こした人みたいになる。おかしいよね」
「……、冗談のつもりですか? はっきり言って、まったく面白くありませんよ」
「ごめん……」
ナマエは気まずそうに右手をおろすと、本と紙袋を抱えている左手へと重ねた。それでも未だに止まらない震えを抑え込むように握りしめている。
「……どうしてそうなるのか、ナマエさんに心当たりはあるんですか?」
「うん。無性に武器が欲しくなる」
「武器……?」
不穏な気配に、ズオ・ラウはこめかみのあたりがジリジリとしてくるのを感じた。
「はっきり言うね。……ズオくんの事、ただただ怖い」
息を呑む。
「盗賊団はもうないし、最後はあいつだけ……。でも、目の前にあいつがいないってちゃんとわかってるのに、手を伸ばしたら届くところにいるって思い込んじゃう自分がいる。それが一番怖い……」
ズオ・ラウは呆然のあまり、ろくな反応も出来ずにいると、
「ドクターが、脳に異常は見られないから、この症状は時間経過で和らぐんじゃないかって言ってた。今は、それを信じるしかない」
先程までの弱々しい口調とは打って変わって、明確な意思を感じさせる物言いだった。
どうやらドクターの差し当たっての医学的説明をナマエは健気に信じ、それを心の支えにしているようだった。ならば、ズオ・ラウもそれを信じるしかない。
「……そうですか。ナマエさんが快復に向かうよう祈っています……」
「うん」
ナマエはしっかりと頷いてから、少し顔を上げた。ズオ・ラウの首元のあたりを見つめながら、
「こんな状態で、ズオくんに頼み事するのは図々しいってわかってる。でも、できたらあの子……ナマエにまた会いに来てほしい」
震えが混じった声で、ささやかな懇願を口にした。
「治療のためとはいえ、あの狭い部屋にずっと一人でいるから、すごく退屈させてると思う。私がもっと愛想よく振る舞えたら、きっと寂しい思いをさせずに済んだんだろうけど……」
鉱石病感染者に対して普遍的となりつつある差別意識は、サルゴンには浸透しておらず隔たりは存在しない。だが、一歩国境を超えてしまえば、心無い反応をする人はたちまち浮き彫りとなって表れる。
ナマエは妹を大事に思っているからこそ、妹に会わせていい人柄なのか、対話を重ねて慎重に吟味しているのだとズオ・ラウは今この時に悟った。
任務に出ている間、ロドスにいて仕事をしている間、あの病室に足を運んでも構わないと思えるほどの信頼を寄せられるかどうかを、己の愛想を差し引いた物差しで推し量っている。
誰に対しても忌避感を募らせ気が置けるなか、ズオ・ラウに対してこの申し出をしてくるというその意味は到底計り知れない。
それが、ズオ・ラウにとっては何よりも代え難いもののように思えた。
「もとよりそのつもりです。約束を違えるような真似はしません」
ナマエはさらに俯いて、
「……ありがとう」
か細い声でそう言った。
丸っこい瞳から向けられる視線に、ベッドの上のナマエは少したじろいだ様子だった。盲目だと言うのに、じーっと音がしそうなほど見つめる視線の圧力は如実に感じ取れるらしい。
「あたしね、昔、意思疎通がすごいっていう双子の話を本で読んだことがあるんだけど、やっぱりそういうのってあるの?」
「……んーと、そういうのはないかな……?」
ナマエが穏やかに答えると、シャオマンはぱちぱちと目をしばたたかせて、
「なんだ、つまんないの……」
と言った。するとシャオマンの隣に座っていたホーシェンが驚愕に目を見開き、
「こら! すみません、あとできつく言っておきます」
「大丈夫。気にしてないよ」
ナマエはホーシェンを気遣うようにゆるく首を振る。それでも楽しそうな笑みは絶やさない。
「そういうシャオマンちゃんはホーシェンさんと小さい頃からの幼なじみなんでしょ? 逆に聞くけど、二人にはそういうのはないの? ついこの間、読み聞かせてもらったお話にそういうのがあったけど……」
シャオマンとホーシェンは顔を見合わせ、
「ないよ」
「ないです」
声がぴったりと重なると、すぐに両者とも顔を見合わせ、それから不快そうに眉を寄せる。
病室の壁際にピンと背筋を伸ばして立ちながら、二人の一挙一動のすべてを余すこと無く見ていたズオ・ラウといえば、数秒ほど歯の根を合わせて堪えていたが、
「……ふっ」
我慢できず、小さく吹き出してしまった。
しかし狭い部屋のせいで、吐息混じりの小さな笑い声はどうしても響いてしまう。途端に二人の不満そうな視線がズオ・ラウを射抜いた。その反応がまたおかしいので、逃げるように顔を背ける。
「ズオさん、今笑いましたよね」
「そんなことはありませんよ、でか角くん」
からかい混じりにあだ名で呼ばれたホーシェンは、冷めきった表情になる。
「絶対笑った、あたし見たもん。人のこと笑ってると、いつか誰かに笑われるんだからね」
「心得ています」
二人の不満を、ズオ・ラウは穏やかに受け流す。それっきり二人は突っ込んでくることはなく、両者ともナマエとの会話に戻っていった。
そもそもの始まりは、昼食時、偶然一緒になった二人に「午後は所用がある」と告げた事によるものだった。
シャオマンに「なんか怪しい」と突っ込まれてしまったため、「ナマエさんの妹さんに会いに行くんです」と正直に言えば、シャオマンがぱあっと表情を明るくして興味を示したのである。こうなるとついてくるのは確定したようなものだった。
そんなシャオマンに不安そうな眼差しを向けるホーシェンをズオ・ラウは見つめ、
「一緒に来ますか?」
と尋ねると、ホーシェンは首を横に振り、
「僕はいいですから」
そうはっきりと答えたホーシェンだったが、ズオ・ラウが待ち合わせ場所で待っていると、シャオマンがホーシェンを引っ張るようにして連れて来たのも、ズオ・ラウの想定の範囲内だった。
それでも事前の言伝も無く面識のない同伴者を連れて行く不安は拭いきれず、僅かな緊張を伴いながら、ズオ・ラウはナマエの病室を訪れた。
シャオマンもホーシェンも窓ガラス越しにナマエの状態を見てひどく驚いた様子だったが、室内に入る許可が降りた頃には動揺していなかった。
片腕もなく目も見えない人を目の当たりにすれば、気の毒に思うあまり同情や憐憫など負の感情を大きく揺さぶられるはずだ。ましてや近寄りがたい雰囲気が漂っているのに、それを一切おくびに出さずにいる。そんな二人にズオ・ラウは感心と尊敬の念を抱くほか無かった。
対するナマエは、まさかズオ・ラウが友人を連れてくるとは思いもよらず、最初こそひどく驚きはしたものの、すぐに全身で喜びをあらわにした。その態度を見て、ズオ・ラウが内心胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
会話は当たり障りのないものばかりだったが、賑やかだった。ホーシェンのインターンの話や、シャオマンが動物の世話が得意なことと笛が得意なことをつらつらと話す。ズオ・ラウも笛の扱いを心得ているので話に混ざったりしているうちに、やがてナマエも自分のことを話しだした。意外にもアーツが得意だという事で、手のひらの上で輝く発光体を生み出し見せてくれた。
姉はアーツはからっきしなのに、妹は扱いに長けているという。それがズオ・ラウにとっては不思議だったが、
「たぶん、双子だからかな?」
と、何の根拠もなく冗談めかしたナマエの言葉は、何故か染み込むように腑に落ちた。
「ねえ、今度一緒に遊ぼうよ!」
シャオマンの無遠慮で無邪気な発言にズオ・ラウはぎょっとしたが、それでも姿勢は崩さなかった。ホーシェンもどこか内心気をもんでいる様子でシャオマンを見ている。何かあったら止めに入るつもりなのだろうが、しかしズオ・ラウと同じように様子を伺っていた。
「……そうだね。いつか遊ぼっか」
「今、適当に返事したでしょ? そういういらないとこまで尾長ちゃんに似なくていいの。あたし、本気なんだからね!」
シャオマンに気圧され、ナマエは一度だけ肩を震わせた。
「まず、どっからどう見ても体力なさそうだから、規則正しい生活して、艦内を歩く訓練して、今より体力つけるの!」
あまりにも強引な物言いに、ズオ・ラウは内心ハラハラとしながらもじっと様子を伺う。ナマエは心持ち驚いた様子でありながら、シャオマンの提案に興味津々と聞き入っている。
「そして、それなりに元気になったら、今度は町に行くんだからね!」
「町?」
「そう! いろんなお店入って、おいしいものたべるの!」
「シャオマンちゃんと二人で?」
「尾長ちゃんも連れてこ! 目が見えなくても、あたしがちゃんと言葉でわかるまで教える。尾長ちゃんだってきっとそうするでしょ」
ナマエは小さく息を吸い、
「うん」
嬉しそうに頷いた。ホーシェンもどこか表情を和らげ、それに釣られてズオ・ラウはほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあまずは規則正しい生活ね。あたし、今の事、尾長ちゃんに話してみる。それで、ドクターに外出許可取れるか聞いてみるから!」
「うん」
「そうしたら、まずは艦内の購買まで行ってみよ! そしたら甲板に出てひなたぼっこするんだからね」
「うん」
シャオマンは笑顔で明るい希望を語り、それを聞くナマエは嬉しそうに頷いている。
しかし、それは叶わなかった。
三日後の昼過ぎに、ナマエの容態が急変した。
心拍数と体温が低下している事に気付いた職員が様子を見に行った所、弱々しい呼吸をしており声をかけても応答はなかった。わずかな手足の痙攣から発作が起きたのだと職員は判断し、すぐに別の治療室へと運ばれた。
意識が戻らないままただ一刻と時間が過ぎ去っていく。姉が見守る中つきっきりで処置が行われたが、日が登り始めた頃、静かに息を引き取った。