#2 Way in the end of the Salgonサルゴンの端っこで
ズオ・ラウはドクターに頼まれた書類の整理に没頭できず、ちらりと応接用スペースを見やった。ソファにナマエ、そしてその対面にドクターが座り、何事かを話している。二人のやり取りがとにかく大真面目なものだから、ズオ・ラウは自然と呼吸を潜めた。挙動の一つ一つすらも物音を立てないようにと気遣いつつ、行儀が悪いという自覚を覚えながら、耳をそばだてて二人のやり取りを聞き続けている。
まずドクターがナマエを部屋に呼び出したようだ。その事をズオ・ラウは知らなかったので、はじめは面食らった。次いで、ドクターがズオ・ラウに業務の代理を頼んで、今の状況に収まった。
業務をこなしながらズオ・ラウは何の用事だろうかと話を盗み聞いていると、なかなか深刻な事態に直面していると察し、今やほとんど見守る気持ちになっている。
彼らの話をまとめると、ナマエの任務に同行する予定だったオペレーターが感染症にかかり、病床に伏せっているとの事だった。空気感染の確率は低いようだが、しばらく隔離して安静にするほかないという。今回の任務のため車の運転手を手配した都合もあり、予定は変更できず、こうして代わりの者を話し合っているという事だ。
条件は最大重量およそ五十キロほどの荷物を背負って長距離の移動ができ、サルゴンの砂漠や熱帯雨林の気候に耐え、そして一週間という任務期間になんら支障のない人物。その条件に見合う人物は荷物の持ち運びが不利だとか、他に任務の予定が入っていたり、過酷な環境での任務遂行経験が少なかったりと、行き詰まってしまった。
そうしてついには、
「仕方がない、誰かの予定を変更して……」
「ううん。もう一人で行ったほうが早いよ」
こうなってしまった。現地で人を雇えばいいというナマエの主張に対し、ドクターはいくつかの反論を唱えるが、ナマエは首を振る。そして議論は平行線の一途をたどり続けている。
雇われの身でありながら、遥か上の立場にいるドクターに平気で逆らうナマエもどうかと思うが、そんなナマエに対して強硬姿勢を見せないドクターもドクターだ。
とはいえ、こんな人柄だからこそ尊敬されているのは、ズオ・ラウには理解できる。ただ、こんな迂遠なやり方では時間がかかるのも当然だ。もしズオ・ラウであれば上の命令には従うほかないと二つ返事で了承していただろうに、ドクターは終始ナマエの態度を尊重し続け、どうにか納得ができる落とし所を見出そうとしている。
そうこうしているうちに、ズオ・ラウが頼まれた仕事も終わってしまった。時計を確認すればもう二十分近く経過している。すぐに終わると思ったのだが、にっちもさっちもいかないやり取りを聞くにまだまだ時間がかかりそうだと思いながら、ズオ・ラウは机の上を布巾で拭いて綺麗にした。
いよいよやることもなくなったズオ・ラウは近くの書棚へと向かった。どうせなら、見える所を片っ端から拭いて掃除しようと思ったのだ。
「ズオ・ラウ。君が司歳台に提出する予定の報告書の進捗は?」
いきなり声をかけられ、ズオ・ラウは内心驚いたが、それをおくびに出さずドクターへ向き直った。
「草案は終わりました。新たに特筆する事項がないならば、訂正箇所の確認に入ります」
「ならば、ロドスの協力要請に応じる余裕はあるかい?」
「……はい?」
「どうせ君のことだ、今の話を聞いていたんだろう? 一週間、任務の同行を頼みたい」
申し出の内容はもちろんのこと、こっそり盗み聞きしていたのを見抜かれていたのにズオ・ラウは驚いたが、それ以上にナマエのほうが驚いていた。
「彼には無理だよ」
「どうしてそう思うんだい?」
「粗食に不衛生、昼夜の気候の寒暖差も激しい。慣れていなければ体調を崩す。あと、彼は炎国の偉い人の子息だって聞いた。なにかあったら移動都市間の外交問題に発展する可能性もある」
「そうならないために君がいるんだろう?」
ドクターの言葉に絶句するあまり、ナマエは石像のように固まってしまった。
しかし、黙って聞いていたズオ・ラウも面白くない。どうにも甘く見られているような気がしてならなかったからだ。
「お言葉ですがドクター、そこまで過保護に扱ってもらう必要はありませんよ」
そう切り出してから、ズオ・ラウは言葉を続ける。
「私は軍にいた経験があります。人家を離れ山野で生活する訓練も受けましたし、持燭人の任についてからは野宿も当たり前でしたので、食事や衛生面に関しては心配いりません。それと私の出生地である玉門は移動都市ですが、主に東部の砂漠を行き来していましたから朝晩の気温差も理解しています。最後に、自分の身を守るすべは心得ています。見くびらないでいただきたい」
語気を強めにしてズオ・ラウは言い切ると、ドクターは満足げに頷いた。石のように固まっていたナマエも、驚いた様子で目を見張っている。
「ナマエ、何か言うことはないかい?」
ドクターにそう尋ねられ、ナマエは表情に不満を貼り付けたが、何の反論もせず黙り込んだ。
「決まりだね」
満足げなドクターの言葉を合図に、ズオ・ラウも話に参加する事となった。
ドクターは手短な任務内容の説明――さっき二人が話していた内容だ――をすると、ズオ・ラウに数枚の書類を渡した。現地の地図や輸送する荷物の一覧表だった。薬やバッテリー、あまり馴染みのない型番表記はなにかのパーツだろう。結構な量だった。
「これらをある集落に届ける。そして近くの遺跡で半年前に設置したビーコンを回収し、本艦に持ち帰って欲しい」
「わかりました。……ところで、その集落はロドスにとって懇意にする必要があるのですか?」
「人道支援の一環だよ。もっとも、ここはナマエの出生地でもあるから、贔屓目もあるのは否定できないけどね」
「ナマエさんの……?」
呟きながらナマエに視線を向けると、
「なに?」
不満そうな視線が返ってくる。まるで威嚇しているかのようだ。
「……いえ、なんでもありません」
面倒事は避けたいので、ズオ・ラウはすぐに首を振った。
それからも説明は続く。サルゴンまではロドスの車両で移動し、国境を超えた町まで送り届けたら現地の輸送業者の車に乗り換えるとの事だ。念の為現地の言葉も必要最低限は学んでおいた方が良いという無理難題もつきつけられたが、ズオ・ラウは二つ返事で了承した。
「ではズオ・ラウ。よろしく頼むよ」
「はい」
ドクターに返事をすると、ナマエがおそるおそる右手を差し出してきた。
「ズオくん、同行よろしくお願いします」
どこか納得のいかなさそうな顔で、ぎこちなく言葉を紡ぐ。まるで用意された文章をそのまま音読しているかのようだ。不本意な結果からこの態度なのだろうとズオ・ラウは察したが、右手を差し出してその手を取った。利き手で握手を求める意味はわかっている。
「ええ。こちらこそよろしくお願いします」
そう言って、一回り小さな手を握り返した。
車に乗ってロドスを出発し、街道を南へ半日ほど移動する。その間、ナマエとズオ・ラウの間に会話らしい会話はほとんど無かった。運転手がたまに気を回して雑談を持ちかけてくれるのが、ズオ・ラウにとっては有り難かった。
そして整備されたらしい難所を抜けるのに一日を費やしてようやく、現地の輸送業者と落ち合う予定の町に到着した。
気温はズオ・ラウが予想していたほどの猛暑ではないが、それでも暑いことには変わりない。空気は乾燥しているが生ぬるいし、じっと立っていると直射日光で頭部をじりじりと焼かれているのを感じる。腰に備えてある鉄面も日光に照らされるとすぐに熱くなってしまう。
この状況下で、大きな背嚢を背負っている。どのくらい歩くかはわからないが、体力の消耗は相当だろうという予感はあった。
町の大通りは商店が櫛比しており、キャラバンの天幕がところ狭しと並んで人で賑わっている。田舎だというのに人が多く活気に溢れ、ズオ・ラウはしばしば圧倒された。
その片隅に、二輪台車にザクロを山盛りにつんだ老夫がいる。ナマエはその姿を認めるなり、真っ先にそちらに向かった。
老夫はナマエの姿に気付くと、軽く手を上げた。
「―――!」
ナマエが何を喋っているのかズオ・ラウにはわからないが、現地の言葉だという事はすぐにわかった。
ナマエはハンドジェスチャーをまじえ、にこやかに話しかけている。いつもロドスで見る仕草とはまったく正反対の外連味を感じさせるわざとらしい態度に、ズオ・ラウは演技だと奇妙な確信を持った。
老夫はナマエの話に、うんうん、と何度か頷いた。やがておもむろにザクロを手に取ると、ナマエに二つ手渡した。そしてもう一つ手に取り、後方に佇むズオ・ラウに向けて放り投げる。
「……おっと」
いきなりの事に少し慌てたが、ズオ・ラウは落とさずに両手で受け止めた。
もらえるものは嬉しいが、どうにも対価を払ったようには見えない。ズオ・ラウは釈然としない様子で、二人の行動を観察し続ける。
やがてナマエは老夫との会話を切り上げ、ズオ・ラウの方へと戻ってきた。
「行こう」
ナマエ腕を叩かれ、ズオ・ラウは促されるまま斜め後ろをついて歩く。
「今の方は?」
ズオ・ラウが尋ねると、ナマエは振り返りもせずに、
「果物売りの爺さん。多分ぼけてる」
「……ぼけ?」
不穏なものを感じ取り、ズオ・ラウは眉間に皺を寄せた。
「前にね、風邪薬を物々交換した事があるんだ」
「……それで?」
「あの時の対価はきちんともらった。でも、あの爺さんは私に対価を払ったことをすっかり忘れてるみたい」
「……」
「だから、会うたび果物をくれる」
ナマエの物言いはとにかく淡々としており、悪気の一切を感じさせない。それが当たり前でしかるべきというような態度だった。
「……感心しません。人の弱みにつけこむだなんて、極悪非道も甚だしいですよ」
「あの爺さんは利用されていることもわからない。それってすごく幸せなことだと思う」
さらりと最悪な事を言ってのける。ナマエのピンと伸びた背中を見つめているうちに、ズオ・ラウの中で徐々に怒りのようなものがこみ上げてきた。
「……これ、返してきます」
ズオ・ラウは衝動に身を任せ踵を返すと、ずかずかとした足取りであの老夫の屋台へと戻った。
しかし、言葉がわからないという事実に直面した。なんとか老夫にザクロを返そうとしたが、老夫はズオ・ラウの挙動を不審がるかのように首を傾げるばかりだ。やがて老夫は合点がいったようにひとつ頷いて、ザクロをもう一つ渡してきた。
途端に、ズオ・ラウは萎れた。
ザクロを受け取って引き返す。自分の思慮の浅さ、至らなさに押しつぶされそうになりながら、とぼとぼとした足取りで、往来の片隅で立ち止まるナマエの元へ戻る。
自分勝手な行動を取ったズオ・ラウをの一挙一動を見守っていたナマエは、終始呆れ眼だった。
「もう一個もらえてよかったね」
「よくないですよ……」
待ち合わせ場所に指定されている広場に向かう。中央に噴水があり、通りに面してそこかしこに街路樹が立ち並び、日陰を作り上げている。その恩恵を享受できるベンチに向かい、二人して腰を下ろした。
ナマエは荷物の中から折りたたみナイフを取り出すと、慣れた手つきでザクロを半分に割った。
「ズオくんのもよこして。迎えが来るまで時間があるからここで待とう」
ナマエは何事も無かったように言う。ズオ・ラウは納得がいかないままザクロを渡した。ナマエは受け取ったザクロを器用に半分個にすると、残りの二つは一緒くたにして荷物の中につめこむ。
そうして差し出されたザクロを、ズオ・ラウは不承不承とした様子で受け取った。見るからにみずみずしくて食べごたえがありそうだが、心の底から美味しいと感じられそうにない。
「私の事を軽蔑するのは構わないけど、それは食べなよ」
ナマエにそう促され、ズオ・ラウはナマエの顔を横目で見やる。
物言いから察するに、ナマエはさっきの行動が軽蔑されて然るべきという自覚があるようで、それがズオ・ラウには意外だった。だからこそ、何故こんな非行を働くのかという疑問が湧き上がってくる。
「……軽蔑は一人だけでも成り立つ一方的なものですから、あまりそういった感情は抱きたくはないものです」
ズオ・ラウは手元のザクロに視線を落とす。粒の一つ一つにはりがあり、見るからに新鮮だ。傷んでいるとか、腐敗が進んで駄目になっているわけではない。売り物としてきちんとしたものだ。
「……私には、あなたがよくわかりません」
「一生わかんなくていいよ。私もズオくんのこと一生わかる気しないから」
ナマエは素っ気なく言い放つと、指でザクロの粒を剥がして口に運ぶ。ゆっくり咀嚼して飲み込んでから、ようやく喋る体制に入った。
「ズオくんが育ったとこって、多分、すごくいいところなんだろうね」
ナマエは顔を上げて、透き通った青空のはるか向こう、ずっと遠くを見つめながら言う。
「私がした事で不快になるってことは、きっと町の基盤が整ってて、法律もしっかり定められてて。こういうのも犯罪になるんだろうし」
「……確かに、私が生まれた町は移動都市ですからここよりは人口も多く都会的です。ですが、あなたのした事はおそらく犯罪にはなりませんよ」
「そうなの?」
と、ナマエは意外そうに目を丸くしている。
「まず、法律には犯罪を犯したら駄目とは書いていません。犯罪に手を染めたらどういう処罰が下されるか書いてあるだけです。もしあなたを然るべき機関に突き出しても、厳重注意で終わるでしょうね」
「そうなんだ……」
「むろん、法に触れずとも迷惑行為を繰り返した場合は別ですよ」
ズオ・ラウは言い終わると、ザクロにかじりついた。口の周りを汚すのは嫌なので、歯列を使い果肉をこそぎ取るようにして食べる。ぬるかったが、甘酸っぱくて美味しかった。ナマエも果実を口に運んでは、頬を上下させている。
「あなたは法も常識も社会規範も十全に理解できるはずです。ならば、こういった事は次からはするべきではありません」
大して親しくもない相手に対し、正論を突きつけて咎めるという心無さはもちろん、相手にどう思われるかくらいもわかっている。信賞必罰の強要をするつもりはないし、真善美を追求しろというつもりもない。しかしズオ・ラウは言わずにはいられなかった。
隣人には仁愛の心を――ホーシェンの受け売りだ。これから一緒に行動する相手をいないものとして扱うことはできないし、意固地になっても仕方がない。困っていたら手を貸す、そして倫理に背くことをしたら注意する。仲間として、重んじる。それが人としての在り方だ。
ナマエは驚いたのか咀嚼をやめ、ズオ・ラウを見つめ返し、やがて正面に顔を向けた。
「……考えとく」
ひどく居心地の悪そうな返答だった。
多くを求めても仕方がない。返事をくれただけマシだろう。ズオ・ラウはそう自分に言い聞かせ、果実を食べる。
「ズオくん、なんか先生みたい」
小さな呟き声に、ズオ・ラウはたまらずナマエを見た。
「はい?」
「馬鹿にしてるとかじゃないよ。難しい事をすらすら喋るから、すごいなって」
ナマエの顔を伺うが、確かに馬鹿にしているような雰囲気は一切ない。
「……幼少から勉学に励みました。その結果です」
「そっか。私と大違い」
そう言って、ナマエは自嘲する。
「失礼ですが……ナマエさんは、学校とかは?」
恐る恐る聞いてみると、ナマエはゆるゆると首を振り、
「無かったから行ってない。勉強とかはばあやが教えてくれたけど、多分基礎だけ」
ある単語がひっかかり、ズオ・ラウは目を瞬かせた。
「……ばあや? ナマエさんのお祖母さんですか?」
「ううん、小さい頃からの世話役。あと剣の師匠」
世話役という単語にも引っかかった。ずっと田舎の辺鄙な村だと聞いていたのに、どうにも釣り合いが取れていない。
「……ナマエさんには、お世話役がいるんですか?」
「うん。お父さんの代からずっといる人だよ」
「ええと……不躾ですが、家族構成を伺っても?」
ズオ・ラウが尋ねると、ナマエは少しの間考え込んでから、
「両親は私が小さい頃に死んだ。村にいるのはお姉ちゃんとばあやだけ」
聞き終えた直後、ズオ・ラウの脳内が空白で埋め尽くされた。ナマエに対しての見識に、寒々しいようなほの暗さが広がっていく。
「し……失礼しました。話しづらい事を……」
気まずいなりに言葉を紡ぐと、ナマエは別段興味なさそうに首を振った。
「別にいいよ。そうやって気遣われるほうがやりにくい」
「わかりました。……では、お姉さんは今何をなさってるんですか?」
「族長」
サルゴンで言う族長は首長よりも下の位だが、一帯を支配する有力者でもある。炎国の族長とは似て非なる者である――と、ロドスに保管されていたサルゴンの解説書に記してあったのをズオ・ラウは思い返した。
族長制度はおもに支配する地域より上に立つものを一人選抜し、その地域一帯に専制社会を成立させる。おおむねは投票制によって決まるが家父長制を取り入れているところもあり、個体同士の闘争でより力が強い者が上に立つケースがアカフラの密林地域だ。
残念ながらナマエが住んでいる地域について触れた書物はほとんどなかったが、そういった価値観が普遍的に浸透しているのは確かだ。そしてナマエはその族長の親族となると――ズオ・ラウは考えるだけで目眩を催した。
「……どうして教えてくれなかったんですか?」
「聞かれなかったから」
ズオ・ラウが絶句するのも構わずに、ナマエはザクロを食べ始めた。
やはり咀嚼が遅い。話の続きも期待できないと判断し、ズオ・ラウも果実を口に含む。
「変な気を回さなくていいよ、普通にしてて欲しい。ちゃんとした使いでもないし、お姉ちゃんはかしこまったの嫌がるから」
と思っていたら唐突に続きを話し出すものだから、ズオ・ラウは慌てて口の中のものを飲み込んだ。ナマエがマイペースすぎるのもあって、折を見極めるのが難しい。
「ドクターからは隔絶されている地域と聞きました。外部の人間を疎ましがっているわけではないんですか?」
「得体の知れない人を警戒するのは当然の話。あと、運送業者以外がわざわざ足を運ぶ価値もない辺鄙な場所を、勝手に陸の孤島呼ばわりしてるだけだよ」
ナマエはそう言って、またザクロを食べ始める。
外側からの見え方と内側の見え方が違うのはよくある話だ。ズオ・ラウも納得がいくものだったので、それ以上の追求はしなかった。
町の景色を眺めながらズオ・ラウが食べ終わってしばらくして、ナマエも食べ終わったようだった。気をつけて食べていたつもりだったが結局汚れてしまう。ズオ・ラウは手荷物のウエットティッシュで口周りを拭き、ナマエにも渡した。
ナマエはきょとんと目を丸くして、
「ありがとう」
受け取って丁寧に口と手を拭くと、それをザクロの皮の中に詰め込んだ。それから勢いよく立ち上がってズオ・ラウに手を伸ばす。
「ズオくんのもよこして。今捨ててくる」
「あっ、はい。……ありがとうございます」
ズオ・ラウが差し出したものを受け取るや否や「荷物見ててね」と言葉を残してどこかへ行ってしまった。ズオ・ラウが手持ち無沙汰に噴水の近くで遊んでいる子どもを観察していると、ようやくナマエが駆け足で戻ってきた。
隣りに座ってそれっきり、一言も会話が続かなくなってしまった。
ひたすらに無言だったが、不思議な事に気まずいわけではない。肩の荷が下りたような気さえする。ぼんやりと道行く人の流れを眺めて、いろんな背格好や荷物の大小の多様さに感心しているときだった。
ふと正面を見ていたナマエがあらぬ方向に身体を向け、頭上に手を伸ばして左右に振った。ズオ・ラウは釣られてそちらに目を向けると、一人の男が気だるそうにこちらに歩いてくるのが見えた。
痩せぎすと表現するにふさわしい男だ。顔には無精髭が目立ち、灰褐色のうねった髪を後ろでひとつに纏めている。一見不潔なようでいながら身なりは整っているものの、直射日光よけのサングラスが胡散臭さに拍車をかけ、その奇妙な風貌から異様な雰囲気を醸し出していた。
うねった髪の中に耳羽が混じっている事から、ズオ・ラウはこの男の種族がリーベリであると推測した。
男はナマエの前まで来ると、ズオ・ラウに視線を移動させ、露骨に嫌そうな顔をした。
「おい、聞いてねえぞ」
出会い頭、不満そうな声が飛んでくる。真っ先に反応したのはナマエだった。
「何が?」
「俺の仕事は荷物運びだ。どこぞの役人のお守りは願い下げだ」
「違う違う、彼はこの前ロドスに来たばっかりの新人だよ」
両者の口ぶりには一切の気遣いがない。この二人は昔からの知り合いである事が伺えた。
ズオ・ラウの直感としては二十代後半との見立てだが、歳の割に言動はこなれていない感じもした。ナマエとのやり取りから察するに年代はそれなりに近いかもしれない。
「新人? ……これが?」
それよりも、この運び屋がズオ・ラウに対して嫌そうにしているのが引っかかった。サングラス越しにまるで睨むような不躾な眼差しが、ズオ・ラウの頭のてっぺんから靴の先まで一往復する。
ズオ・ラウは思わず嘆息した。運び屋に軽く見られているのが納得いかなかった。
「……こちらのお兄さんは、私に対して何か不信感があるような口ぶりですね。私はロドスからの命を受け、ナマエさんと共に参じています。それに、今は役人という身分ではありませんよ」
「今は、って事はほぼ役人じゃねえか。目立つ格好しやがって」
「……目立ちますか?」
「自覚がないのかよ。周りを見てみろ。お前みたいな格好のやつがどこにいるってんだ」
そう促され、ズオ・ラウはぐるりと周囲を見回した。
通行人の服装は様々だが、ほとんどは風通しのよい綿素材で膝まである白い上着にズボンといった装いである。ズオ・ラウのような大仰な漢服は皆無だ。
「確かに、白い服の方が多いですね」
「色の問題じゃねえよ」
すぐに不満そうな声が返ってきた。
「そうでしたか。これは失礼」
「なめてんのか」
「……ふふ」
小さな笑い声の発生源に、ズオ・ラウと運び屋の視線が集中する。
「おい、何笑ってんだ」
「んーん、別に」
運び屋はため息を付いて、ズオとナマエの顔を交互に見やり、
「なんか観光案内の集まりみたいだな」
「してくれるの?」
「するかよ……」
吐き捨てたかと思えば二歩、歩み寄ってきた。身をかがめる。ほのかなサンダルウッドの香りに混ざって、奇妙な脂臭さとアンモニアやタールのようなものが混ざった臭いもする。喫煙臭だ。
「ここ一週間で同業者が二人、立て続けに死んでる。こちとら目立つ行為は避けたい」
そう小声で呟いて、するりと身を引いた。そして何事もなかったかのような表情をしている。
ズオ・ラウが緊張から眉を寄せる一方で、ナマエは深く思案するような面持ちになった。
「最近は、治安がよかったはずだけど……」
「南西から来た奴らがどうにもおかしいって話だ。あちこちで略奪を繰り返してる」
「……物騒だね。自警団とかは動いてないの?」
「動いてないわけないだろ。それでもこんな事になってんだよ」
ナマエはしばらく考え込み、おもむろに荷物を漁り始める。それとほぼ同時に運び屋が移動し、さながら通行人の視界にナマエが入らないような立ち位置になった。ズオ・ラウは内心驚いたが、おくびにも出さなかった。
やがてナマエが手のひらに収まる大きさの袋を取り出した。口を紐で縛ったそれは、何か重量のあるものが入っているようで、ずっしりと膨らんでいた。
「念の為聞くけどズオくん、ここで宿を取って待つって選択肢もあるよ」
「……はい?」
「ここじゃ龍門幣が使えない店がほとんどだから、物々交換でやり取りすることになる。ボラれるかもしれないけど、これで一週間は遊んで暮らせる」
そう言って、ナマエは袋の口を開けて見せてきた。ズオ・ラウが覗き込むと、つるりと光沢を放つ乳白色の天然石がいくつも入っていた。目立った傷もないし、手触りが良さそうだ。おそらく炎国にも持ち寄れば高く売れるだろう。こんなものを持ち歩いていることすら知らなかったとズオ・ラウは驚く一方で、怒りにも似たような感情が沸々とこみあげてきた。
「私を馬鹿にしているんですか? 無法者が怖いからと任務を放棄することは絶対にしません」
「そういうわけじゃないけど……」
「ナマエさん。あなたにとって私は、そうせざるを得ないほど頼りなく見えますか?」
ズオ・ラウはナマエの顔をまっすぐに見つめながら言うと、ナマエは小さく肩を震わせた。気まずそうに視線を彷徨わせ、
「……ごめん。前情報と違って治安が悪化してて、気が動転してた。それに荷物も多いし武器も短剣しか持って来なくて、これは完全にナメてた……」
そう吐き捨てるナマエは、表情に強い後悔をにじませている。
「不用心ですね」
「……話の通りの状況だけど我慢してくれる?」
「そのつもりです。私がここにいるのは協力し合うためですよ」
ズオ・ラウにとっては当たり前の事を言ったつもりだ。しかしナマエは目を見張って固まっている。一瞬おちょくっているのかと思ったが、どうにも違うようだとズオ・ラウは察し、小さく嘆息した。
「なんでも一人でやろうとしないでください。多少は頼りにしてもらわないと、こちらの立つ瀬がありません」
きっぱり言い切ると、ナマエは動揺を隠すように何度も瞬きを繰り返し、
「うん」
小さく頷いて、宝石の入った袋を手荷物にしまい込んだ。
「やれやれ。互いにお守りしあって、涙が出てくる光景だな」
運び屋が揶揄してくるのを聞きながら、この男も性格に難がありそうだなとズオ・ラウは思った。
「茶化すな。行こ、案内して」
「へーへー」
ぞんざいな返事とともに運び屋が歩き出すので、二人で荷物を背負った。忘れ物がないのを確認し、彼の後ろをついていく。
広場から出て街の中を通り抜け、そのまま町の検問所まで足を進める。町と外を明確に区切るための外壁の近くに、一台の車が停車しているのが見えた。がっしりとした車でタイヤは大きく、それに伴い車高は高い。そんな車の運転席のドアにもたれるように青年が一人立っていて、煙草をふかしている。
運び屋がそちらに足を進めたので、後ろの二人も黙ってついていく。ドアにいた青年は近寄ってきた運び屋に気付くと、軽く手を上げた。
そのまま現地の言葉で何か会話をし始めたが、ズオ・ラウにはさっぱりわからなかった。運び屋は苦笑を浮かべると、胸ポケットから煙草の箱を取り出し、青年に差し出した。青年は笑顔でそれを受け取ると、手を降って離れていく。
「どなたでしょう?」
「同じ組合の人じゃないかな」
「……組合があるんですか?」
「うん。運送業ってトラブルに合うことが多いから。所属してたほうが色々あったとき安全だし」
運び屋は車のロックを解除し、荷台のドアを開け放った。
「荷物積め」
そう言ったが、荷台には所狭しと物資が積み込まれている。
「入る?」
ナマエが困惑気味に尋ねると、
「入る? じゃねえ。無理やり入れんだよ」
「じゃあ任せた」
そう言うなり手荷物以外の物資を置いて、さっさと助手席に乗り込んでしまう。
「……こき使いやがって」
運び屋が悪態をつく。こうなると、ズオ・ラウは何もしないという訳にはいかなかった。
「あの、何か手伝うことはありますか?」
そう声をかけると、運び屋はじろりとズオ・ラウを一瞥し、
「荷物、こっちによこしてくれ」
「わかりました」
会話もなく黙々と、流れ作業のようにして積み終えた。
「助かった。んじゃ、後ろに乗れ」
「はい」
助手席側の後部座席にズオ・ラウは乗り込んだ。腰に携えた鞄を外し、手荷物とともに反対側の席に置かせてもらう。背もたれに背中を預けて、ようやく気分が落ち着いた。
運転席のドアが開き、運び屋が乗り込んでくる。ドアが閉まる振動で身体が揺れた。
「お坊ちゃんは車酔いするタイプか?」
バックミラー越しにズオ・ラウを見ながら、運び屋が尋ねる。
お坊ちゃんと呼ばれたのにズオ・ラウは少々引っかかったが、それを指摘して不穏な空気になるのは避けたかったので気にしないことにした。
「ここに来るまでの道中は大丈夫でした」
「……その言い方だと乗り慣れてねえな?」
「はい。炎国はその地形上、高低差も激しいため、移動は自分の足が頼みでした。車両はめったに乗りません」
「まあ、文官ならそうだろうよ」
「ズオくんは多分、文官じゃないよ」
ナマエが訂正すると、運び屋が目を丸くする。
「そうなのか?」
「ええ、まあ……」
司歳台の話は、他国の人間に詳細に語る必要はない。ズオ・ラウは曖昧に言葉を濁すと、ナマエは小さく唸って、
「なんだっけ……ナントカ台のナントカっていう、政府直属の巡察使みたいな人?」
とんでもなくあやふやな説明を付け足した。とはいえ、巡察使とは言い得て妙である。
「前半の説明いらねえだろ……まあ巡察使か。その若さで大したもんだ」
運び屋は深々と頷いて、車のキーを差し込んだ。駆動音とともに軽い振動が発生すると、運び屋は顔を正面に向ける。
「街道は平地だし整備されてるが、揺れる場所もある。酔い止めがあるから、気持ち悪くなったら構わずに言え」
「はい」
「それと、途中、キャラバンに寄って積荷を下ろす。いいな?」
「うん」
「……おい、何寝ようとしてんだ。ちゃんとシートベルトしろ」
「忘れてた」
ナマエはそう言って、のろのろとシートベルトを装着している。ズオ・ラウもならって装着すると、ようやく車が動き出した。景色が後ろへと流れていく。
少しの間走ってから、ナマエが妙に静かな事に気づいた。ズオ・ラウは身体を傾けてサイドミラーごしに助手席を覗き見ると、ナマエはアイマスクをして眠りについていた。呆気にとられるズオ・ラウに気付いたのか、運転席の方から「またかよ」と小さな笑い声が聞こえる。
「寝るのは人一倍早いんだよな」
「そ、そのようですね……」
「お坊ちゃんも寝ていいぞ」
「……もう少ししたらお言葉に甘えようと思います」
そう言って、ズオ・ラウは窓の外に目を向けた。砂に覆われた荒れ地が、水平線の彼方まで広がっている。木々は無く、枯れた草がまばらに点在し、ぽつりぽつりと岩肌が露出している。
「砂漠は初めてか?」
「いえ。私が生まれた移動都市の外は、ほぼ砂地で形成されていました」
「へえ。似たような景色でつまらんだろ」
「いえ、砂地でもこうも違いがあるのかと気付かされました。似ても似つかないので、望郷にかられることもありません」
太陽の照り返しと、それに伴う熱でぼやけた水平線を見つめる。
随分と遠くまで来たような、そんな感慨にさせられた。
青空の中を猛禽類が翼を広げ、我が物顔で闊歩するように飛んでいる。きっと餌を探しているのだろう。ズオ・ラウはその行く末を見守っていると、ふいに運び屋がハンドルを人差し指で軽く叩きながら、鼻歌を歌い始めた。
しばらく窓の外を見つめていたズオ・ラウは、小さなため息とともに運転席に顔を向けた。
「あの、失礼ですが、音程を外しているのはわざとでしょうか」
「黙ってろ」
荒野を走り、殺風景な景色を眺めてかれこれどのくらい時間が経ったのか。運び屋の調子外れの鼻歌を聞きながら、ズオ・ラウがうとうとし始めた頃だった。
ふいに落雷の音が聞こえ、ズオ・ラウははっとして顔を上げた。窓の外に目を向けるが、雲一つない快晴だ。
「……雷?」
「いや、違う」
運び屋が返答するのとほぼ同じくしてナマエが飛び起きるものだから、ズオ・ラウはぎょっとして肩を震わせた。
ナマエは乱暴にアイマスクを剥ぎ取り、ダッシュボードを開けて双眼鏡を取り出した。
それを皮切りに、運び屋が視線を彷徨わせるのがバックミラー越しに見える。二人の切り替えの速さにズオ・ラウは圧倒されたが、すぐに馴染んだ。車内が緊張感で塗りつぶされる。
「ズオくん、後方確認」
ナマエはそう言うなり、後部座席のズオ・ラウに向かって腕だけを後ろに回すようにし、双眼鏡を差し出した。ズオ・ラウがそれを受け取ると、ナマエはもう一つの双眼鏡で左側の索敵を始める。
ズオ・ラウは言われたとおり、後方の索敵を行う。しかし人影のようなものは見当たらない。
「右だ。四時の方角」
運び屋の声に驚き、ズオ・ラウは右手を見る。視界をふらつかせてようやく、砂地の上に一人を中心に集結する人影の群れを見つけた。
人数は五人、距離はもちろんのこと逆光もあり顔の判別は不可能だ。全員が乗馬しており、近くに駄馬もいる。中心にいる一人から白煙がたなびいているのに気付き、ズオ・ラウは眉をひそめる。あれは銃弾を発射した際にでる煙だ。ともすれば、さっきの雷のような音は銃声に違いないだろう。
望遠鏡を外して肉眼で見ると、その姿はたちまち砂の色にぼやけて認識できなくなった。
「よく見えましたね。あんな距離、肉眼ではとてもわかりませんよ」
「こいつ、視力だけはいいから」
「んな話はどうでもいい。例の奴らだったらまずいな……」
エンジンが唸る音が響き、車体は徐々に加速した。何キロ出しているのかはわからない。
ズオ・ラウは再度望遠鏡を構えて、例の人影を確認する。もはや遥か後方にいて人とは判別できないほどの距離だが、先頭の一人が腕を動かしたように見えた。すると、後ろにいる人影が何かを細い棒のようなものを水平に構え、頭部をわずかに傾ける。
その奇妙な動作にズオ・ラウは思い当たる節――狙撃銃を構え狙いを定める――を見つけ、あっ、と思った瞬間だった。
「やべっ」
運び屋がいきなりハンドルを切るものだから、身体が傾いた。
直後、チュン、と跳弾の風切り音が聞こえる。
地面に砂煙が上がったのが見え、それが後方へと遠ざかっていく。牽制射撃だろうか? とズオ・ラウは考えるも、今の状況で断定はできなかった。
運び屋の視力の良さに救われたが、それよりも懸念事項が増える。
「あの……ついてきています」
五頭の騎馬と二頭の駄馬が、すべるように砂を移動する。一発だけなら誤射で終わっただろうが、追いかけてくる時点で明確な敵意を持っている。
となると、さきほどの銃撃は牽制射撃ではなく、明らかにこの車両を狙っている。
「面倒だな」
「射程圏外まで逃げるしかないんじゃない?」
「お前、ここらで流通するライフルの射程が何メートルかわかって言ってんのか?」
「知らない。銃は専門外だし」
「5000メートルだ。相手がそれより高性能なのを持っていて、俺より目が効く奴がいたら無理だ。ましてやアーツに卓越した技能を持ってたらどうする? 射撃補正する銃だって出回ってるんだぞ」
「でしたら、初手で使っているはずでしょうね」
「……それもそうか。ならその心配は不要って事だな」
そう独りごちると、運び屋は黙りこくってしまった。
こちらは車に対し相手は馬なので馬力にかなりの差はあるが、十分な距離を取れるまでに数分はかかるだろう。その間にタイヤに銃弾がかすりでもしたら一巻の終わりだ。現にまた跳弾の音が聞こえ、車内に緊張が走る。
やがて運び屋は顔を上げ、バックミラー越しにズオ・ラウに視線を向けると、
「お坊ちゃん、おまえが座ってるシートの下に狙撃銃がある。使えるか?」
「……扱えません」
「なら、車の運転は? 代わりにやってくれたら、俺が銃を持てるんだが」
「……したことは一度もありません」
ズオ・ラウの返事を聞き、運び屋はため息をついた。
「じゃあ私がやろうか?」
ナマエが身を乗り出して話に混ざってくると、運び屋は露骨に顔をしかめた。
「おまえには聞いてねえよ」
「ハンドル握って、アクセル踏めばいいんだよね」
「運転したことないだろ。論外だ」
苦々しく吐き捨てると、正面を向き、
「さてどうする。このまま速度出し切って逃げるか、話が通じる相手と願って交渉に持ち込むか」
切羽詰まった状況の割に、運び屋の声は随分と落ち着いていた。
「逃げよう。もし例の奴らだったら、話なんか通じるわけない」
「お坊ちゃんは?」
「私も逃げるべきだと思います。他に妙案がありませんし、幸い、相手の位置は把握できていますから、逃げられるものならそうしたほうがいいと思います」
「わかった」
運び屋が頷いた瞬間、エンジンの駆動音が大きくなる。体全体が後ろに引っ張られる力を感じつつ、ズオ・ラウは運転席に目を向ける。計器盤の速度計の針がみるみるうちに動いていき、ものの数秒で完全に振り切ってしまった。
「こんなに出したの初めてだ」
「そ、いい経験になったじゃん」
震え声で言う運び屋とは対象的に、ナマエは飄々としている。
「パンクしたら横転待ったなしだ、恨むなよ」
「そうなったらその時だよ」
こうなるとほとんど操縦者頼みになって、ズオ・ラウには何もできることはない。再び後方確認に戻る。索敵はもはや意味を成していないが、それでも続けた。ナマエも同じ心境なのか後方確認に勤しんでいる。
そうしているうちにまた跳弾の音が響いた。運び屋が舌打ちをする。運び屋のハンドル操作は上手いが、彼の集中力と胆力がいつまでもつのかはわからない。繰り返される跳弾の音は、じわじわと精神を蝕んでいく。
しかし、銃撃は徐々に後方の路上に砂煙を上げて着弾を繰り返すようになった。命中の制度がだんだん落ちていくのがわかる。距離が離れすぎて弾道予測も取れなくなっているのだろう。
やがて静かになったが、それでも運び屋は速度を落とさない。丘の上に蠢いていた人影も、いつしか位置を把握できなくなった。
時間にしてどのくらい経ったのか。最高速度で走り抜けた車は、徐々に速度を落とし始めた。
「あいつらは?」
「見えない」
ナマエがゆるゆると頭を振る。
「私も見失いました。あなたからも見えないのであれば、もう近くにはいないでしょう」
「……大丈夫そうか?」
「ええ」
ズオ・ラウの返答を合図に、三人同時に安堵のため息をついた。車内に蔓延していた緊張感が、一気にだらけていく。
運び屋は小さく笑って、上着の胸ポケットからおもむろに煙草を取り出した。
「はー……安心したら腹立ってきた。煙草吸ってやる」
「臭いからやめろ」
「うるせえ、吸わせろ。嫌なら車から降りろ、これは俺の車だ」
そう言われてしまうともう何も言えないので、ズオ・ラウは不快感を内側に留めるように押し黙っていた。ナマエが顔をしかめるのをよそに、運び屋は窓を開けると煙草を一本咥えて火を付ける。
「ズオくん、窓開けて」
「はい」
窓の開放はハンドル式なのでやや面倒だ。しばらくして煙の臭いがほのかに漂うが、煙は風に乗って車外に放り出されていく。
冷房の効いていた車内に生ぬるい風が入ってくるが、それが何よりも心地よかった。
運転手は気を使っているのか、窓の外を向いている。
「このままキャラバンに直行する。そこで荷下ろしと、今の話を伝える。予定より少し遅れるけどいいか?」
「大丈夫」
ナマエが返事をすると、運び屋は外に向かって煙を吐いた。